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音の轍 - 23 …………


 窓の外を、光が流れていく。その流線を何気なく目で追いながら、奏はあれこれと思考を漂わせていた。もともと、あまり考えすぎるのが好きではない性質だから、結局は、どれもが中途半端なまま、置き去りにされていく。
 隣でハンドルを握り、車を運転していた衛が、クスリと笑った音がして、奏はようやく考え事を止めにした。
「どうした。らしくもなく、躊躇してるのか?」
「そういうわけじゃないけど……本当に来るのかなあと思って」
 誰が、かは言わずに奏は衛に答えた。今日は、梓の店に行って、演奏をする日だった。
「来るだろ。あれだけ派手に周知徹底したしな」
 衛の言うとおりだった。奏が店で演奏するときは、普段なら一切、告知などしない。ゲリラ的に訪れて、気ままに演奏して去っていく。だが、今回は敢えて告知をした。店にも張り紙を出したし、ラジオの番組で宣伝もした。だから、きっと、店は混雑しているだろう。そんな中に紛れて、『彼ら』は来るのだろうか。
「賽は投げられた」
と、衛がふざけるように、歌うように言う。例のテレビ番組の収録も、今日、無事に終わった。懸念していた演奏も、なんら問題が無かった。インタービューアの女子アナウンサーなど、番組を忘れて、本気で奏の演奏に感動して涙を流しているほどだった。その後で、奏がにっこり笑って彼女を演奏会に誘い、
「貴女のような綺麗な方に来ていただけたら、いつもよりすばらしい演奏が出来ると思います」
と言ったのは、やりすぎだと衛に小突かれたが。
「例の書類は、明日届くように手配してある。もう、後戻りは出来ないぞ」
「後戻りする気なんて無いよ。そんなこと不安に思ってない……それより、良いの?」
「何がだ?」
「ビジネスに、私情挟みまくって、迷惑掛けまくってる。俺、何も、宇野辺さんに返せないのに」
 殊勝な態度で奏が言うと、衛は小馬鹿にするように鼻で笑った。
「返してもらってるだろう? お前の時間を、五年間ももらえばおつりが来る。俺は、損をすることはしない主義だ」
 軽い口調で返してくる衛に、奏は少しだけ甘えて、
「うん」
と頷き、口を噤んだ。
 衛とは、もう、あの冬の日以来、一切、セックスをしていない。衛が求めないのなら、それを差し出す意味が無い。代わりに、奏は衛に自分のこれからの五年間という時間を差し出した。五年間、奏はピアニストとして衛のビジネスに尽力する。そういう『契約』だった。もっとも、それが、どれだけ法的な効力を持っているのか分からない。何の書類も書かされなかったし、そこには契約書も、念書さえ存在しない。ただ、奏と衛の間だけの口約束だ。それさえ、奏は、衛の優しさなのではないかと疑っている。一方的に頼るばかりの奏の心を、少しでも軽くするために無理に提案された『取引』なのではないかと。
 もっとも、そう問えば、衛は呆れたように笑い、やはり、俺は損をすることはしない主義だと言い張るだろうが。
 いずれにしても、衛との関係は酷く不思議なものだった。『信頼』という意味では奏は、恐らく、一番に衛を置いている。衛もまた、奏を信頼しているから、ある程度の勝手を許しているのだろう。友人とも違う、もちろん、恋人でもない。ビジネスライクに徹しているかといえば、そうとも言えない。
「……なんだろう……戦友とか、そんな感じ?」
「唐突になんだ?」
「俺と、宇野辺さんの関係。何なのかなって」
「ああ」
 衛は相槌の後、少しだけ黙り込み、それから、
「そうかもな。ピアノを介してという意味なら、理解できる」
と続けた。奏にその意識は薄いけれど、衛は企業人だ。ある意味、毎日が戦場なのだろう。だから、余計に、その表現がしっくりくるのかもしれない。
「ま、俺のために、せいぜい、ピアノを弾いて儲けてくれよ」
と、茶化すように衛が言ったから、奏も少しだけ笑って、敬礼の真似をしながら
「イエス、ボス」
と返した。そのやりとりで、少しだけ、緊張がほぐれる。そして、今更のように、自分が緊張していたことに気がついた。緊張、していたのだ。久しぶりの再会に。
 正直、こんな直前になっても、奏は自分がどうなってしまうのか分からなかった。
(……ただ、俺は、ピアノを弾けばいいだけだ)
 言い聞かせるように、ギュッと手を握り締める。それでも、手のひらに爪が刺さることは無い。ピアノを弾くために、奏の爪は、いつだって綺麗に切りそろえられている。その指が好きだと、やたらに触れたがったのは誰だったか。意識を取られかけたと同時に、
「着くぞ」
と、衛の声がして、奏は、はっとした。
 いつの間にか、車は店の前に到着していた。



 予想にたがわず、店内は、酷い混雑ぶりだった。店内の椅子は当然、全て埋まっている。待合のスペースも人で埋まっていて、外にも列が出来ているほどだった。その中を、ガードマンに守られながら入っていく。関係者以外を一切、奏には近づけない。最初から、そういう約束だった。
 店内を、ピアノに向かって真っ直ぐに進みながら、奏はチラリとカウンターのほうに目線を動かした。一番最初に目に入ったのは栗色の髪だ。それが黒でなかったことに奇妙な安堵を感じ、けれども、鳶色の瞳と目を合わせる勇気が無くて、奏は不自然に視線を動かす。すると、運が良かったのか悪かったのか、件の兄と真正面から目が合った。真っ直ぐな瞳で自分を見つめてくる兄は、最後に会ったときに比べて若干痩せていたようだったが、あまり変わりは無かった。何か言いたげな表情をしている。少しばかり表情は険しかったけれど、そこに浮かんでいるのは怒りというよりも、むしろ、不安のようだった。こんな兄の顔を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない、と奏は思った。
 七つ年上の兄。殆ど、父代わりのように頼り、甘えてきたときには、決して見せなかった表情だった。自分には決して弱みを見せず、頼ろうともしなかった兄をもどかしく思い、自分の幼さを情けなく思ったこともあった。だからこそ、奏は必死に背伸びをして、大人になろうとしたのかもしれない。
 しばらく見詰め合っていたけれど、意を決したように響はカウンターの椅子から立ち上がろうとした。そのタイミングで、奏は視線を逸らす。まるで、興味がなさそうに、冷たい態度でそっぽを向いた。恐らく、奏に拒絶されたと思ったのだろう。視界の端に酷く傷ついた表情をした響が見えて、奏は、兄の下に駆け寄りたい衝動を必死で堪えた。
 幼い子供のように、お兄ちゃんが嫌いだなんて嘘だよと、抱きついてしまいたい。そんな子供じみた気持ちを抑えるように奏はギュッと下唇をかみ締めた。
 響の弟として生まれて十九年間、それこそ、数え切れないほど兄弟喧嘩をした。小さな頃は、喧嘩というよりは、兄に叱られて奏が拗ねる、といった方が正確だったが。拗ねて、正直に『ごめんなさい』が言えない奏に、響は必ず、次の日、いつも同じ言葉で声を掛けてきた。
 普段は、幾ら頼んでも、
『奏は、まだヘタクソだから嫌だ』
と、奏の願いをきいてくれないのに、その時だけは、幾らか、優しい声と表情で、いつも兄は言ったのだ。
『奏。一緒にピアノ、弾くか?』
と。だから、小さな頃から、奏は兄と喧嘩をするのがそれほど嫌いではなかった。それを、今でも、響は覚えているだろうか。
 響は、奏が許せないほど怒っているのだと勘違いしているのかもしれない。そうではなく、これはただの『兄弟喧嘩』なのだと、きっと、明日にでも彼は知るだろう。そして、奏が響に望んでいることは、唯の一つしかないということも。それまでは、奏は頑なに口を噤んでいるしかできない。少しばかりの良心の呵責を感じつつも、響の傍らに透が座っていることに気がついて、
(別に、大丈夫だよね)
と、響を無視し続けた。
 そのままピアノだけを見つめながら店の奥まで進んでいく。ピアノに座った途端、周りをカメラマンや、ライターに囲まれて、もはや条件反射のように奏は笑顔を浮かべて見せた。
 演奏の前に、簡単なインタビューなら構わないと引き受けていたから仕方が無い。尋ねられた質問に、当たり障り無く、それでも、次の演奏会のアピールだけはしっかりしつつ答えた。十分ほどしてから、衛が頃合を計って、周りの人間を下がらせる。去り際、
「好きなように弾けよ」
と肩を叩かれて、奏は肩に乗せていた緊張を全て降ろした。スッと顔を上げると、騒がしかった店内が急に静まり返る。誰も彼もが、奏のピアノの音を待ち望んでいるのだ。唐突に、奏は、それが酷く幸福なことだと思えた。
 辛いことも苦しいことも確かにあった。けれども、奏は、こうして、今、この瞬間はピアノが弾けるのだ。それだけは、どう自分を悲観してみても否定出来ない。慈しむように、ふと、鍵盤の表面を指でなぞる。この幸福が、自分の演奏を聞いた誰かに届けばいいと、ただ、無心にそれだけを考えて、奏はピアノを弾き始めた。ほんの少しの悪戯心で、選んだ曲目は、その全てが、兄と一緒に弾いたことのある曲だと、響は気がつくだろうか。
(すごく、楽しい)
 ただ、純粋に、ピアノを弾くことを楽しみながら奏は演奏を続けた。父の演奏を再現するだとかは一切、考えない。ただ、好きなように好きなピアノを解放された心で奏でるだけ。三曲ほど立て続けに弾いて、一度、呼吸を整えるように顔を上げた。その瞬間に、ほんの一瞬だけ、カウンターの隅の席に座っている男の鳶色の瞳と目が合った。

 真っ直ぐな、真摯な瞳。

 途端に、奏は逃げるように目を逸らした。なぜ、自分の方が目を逸らさなければならないのかという理不尽な怒りを感じながらも、もう一度、同じ方向を見ることが出来ない。それまで、緊張から解き放たれて、リラックスしていたはずの状態は、簡単に崩れた。
 兄と目が合ったときは、こんな風にはならなかった。結局、無視したり、怒ったふりをしていても、響はどこまでいっても血のつながった兄だし、どこかで甘えているのだ。喧嘩の真っ最中だとしても、不変の揺らぎの無い安心感がある。
 けれども、郁人と対峙するときは、正反対だった。自分でも笑ってしまうくらい奏は揺さぶられる。まるで、剥き出しの神経をグリグリと抉られるような、鋭い痛みを与えられる。今も、それは同じだった。高い高いビルの上に張った糸の上を歩かされているような不安な気持ち。無視したいのに無視できず、忘れたいのに忘れられない。
 不意に、奏は郁人の元に駆け寄りたい衝動に駆られた。駆け寄って、郁人を殴りつけたいのか、それとも抱きしめてその唇にむしゃぶりつきたいのか分からずに、混乱する。
 もう、別れて一年近い時間が経過したはずだ。それなのに、この鮮明さは一体何なのだろうと奏は自分自身に呆れた。次に湧き上がってきたのは途方も無い怒りだ。
 なぜ、自分ばかり。
 こんな風に囚われて振り回されて、未だに褪せる事の無い気持ちを突きつけられる。そんなのは不公平だと思った。同じ思いを味あわせなければ気が済まない。郁人も囚われて振り回されて同じ気持ちを突きつけられればいいのだ。だから、スッと鍵盤の上に指を置いたのは、半ば確信的な『復讐』だった。
 すっと一度深呼吸して奏は気持ちを落ち着かせる。整理できない色んな気持ちを全て詰め込んで弾き始めた曲は、サティのジムノペディだ。忘れているはずが無い。この曲は、二年前、五年ぶりに郁人と再会したときに、初めて請われて弾いた曲だった。
 弾きながら思い浮かぶのは、様々な郁人のことだ。笑ったり、怒ったり、優しかったり、甘やかしたり、時には少し意地悪だったり。そのどれもが、今も尚、奏の中で鮮やかに息づいている。カナ、と自分を呼ぶ郁人が好きだった。今でも好きなのかもしれない。でも、許せない。奏の中の頑なな何かが、まだ、郁人を許してはいなかった。だから、郁人に駆け寄ることは出来ない。それを溶かすのは自分の役目ではなく、郁人の仕事のはずだ。だから、奏は、これ以上は、なにもするつもりはなかった。ただ、自分の全身全霊で郁人を惹きつけ、捕らえておくこと以外は。
 曲を最後まで弾き終えて、奏はゆっくりと顔を上げた。今度は逃げずに真っ直ぐに見つめた郁人の顔は、どこか魅入られて惚けているようだった。それで良い、と奏は満足そうに笑う。一番綺麗に見えればいいと思いながら笑った。
 それを見て、郁人の顔が、更に、輪をかけて間抜けな顔になる。それがおかしくて、奏は唇だけで、
『ザマアミロ』
と言って見せた。
 郁人なんて、ずっと、それこそ、一生、自分に囚われ続け、いつまでも自分を追いかけていればいいと思いながら。まるで呪いみたいだなと、自嘲の笑みがこぼれる。
 顔を上げると、器用に片方の眉だけを上げた、おどけたような表情をした衛と目が合って、合図のように頷かれた。奏も頷いて立ち上がる。今日の演奏はこれで終わりだ。それに気がついた響が、早足で近づいてきたけれど、数メートル手前で、ガードマンに止められてしまった。心の中でだけ、
(お兄ちゃん、ごめんね)
と奏は謝り、後ろ髪を引かれながらも視線を逸らす。不意に、横から衛の腕が伸びてきて、肩を抱かれて、歩くのを促された。その仕草が、らしくもなく馴れ馴れしいことに奏は疑問を抱き、微かに眉を顰めて衛の顔を見上げると、耳元に顔を寄せられた。
「あれが、ユキトか?」
と囁くように尋ねられる。奏は促されるまま歩きつつ、ポカンとした顔で衛を見つめた。
「え? 何で、その名前、知ってるの? 俺、言ったことあったっけ?」
 知らず、子供のような不思議そうな顔で奏が尋ねると、衛は何とも言えない、複雑そうな苦笑いを零しただけで、それには答えてくれなかった。
 そのまま、奏は再び、衛の車に乗って店を後にした。






 奏の携帯に、透から電話があったのは、その夜遅くだ。
「響が『奏に嫌われた』って、すっごくへこんでるからさ」
と響の様子を伝えてくる声は、さして冷たくも無く、責める風でもない。むしろ、優しい口調は、透との間にわだかまりができる以前のそれと、同じように聞こえた。
「それは苦情ですか?」
 問う、奏の声が少しばかり尖ってしまうのは、多少なりともトラウマから来る条件反射なのかもしれない。けれども、それを一切咎めることなく、透は、
「違う違う。君が、響のしたことを許せないって言うなら、それは兄弟の問題だし、俺は口を出すつもりなんて無いよ。でも、そうじゃないような気がしたから。響は『奏は俺を軽蔑して絶縁したんだ』とか言ってるけど。俺にはそうは思えなくてね。もしかして、何か、意図があるのかな?」
と穏やかな声で答えた。それが意外で、奏は少しだけ考え込む。しばらく躊躇した後、それでも、疑問を口にした。
「……透さん、もう、俺とは口も利きたくないのかと思ってた」
「俺が? まさか。正直、俺は、もう、一生、君に頭が上がらないと思ってるし。君こそ、俺とは話なんてしたくないんじゃないの?」
 苦笑いを混じらせて言われた言葉に、奏は見えるはずも無いのに思わず首を横に振ってしまった。そんな風に思ってはいない。伝え方こそ、奏を酷く傷つけるものだったけれど、透に響の真実を教えられたこと、それ自体にはむしろ感謝をしているのだ。そして、また、透も本当の事を伝えたことに関しては、後悔していないように思えた。
「……そんな風に、思ってません」
「君には、俺を罵る権利があるけど?」
 茶化すように透は言ったけれど、もちろん、奏はそんなつもりも無かった。
 きっと、奏が罵ったなら、透は黙ってそれを聞くだろう。そして、それに関して、謝罪の言葉を言ったりはしない。一度口に出してしまったことを、自分の罪悪感を薄めるためだけに取り繕ったりしない人なのだと、奏は知っていた。
 あの日に、酷い言葉を投げつけられたことを忘れたりは出来ないけれど、それでも、それだけが真実だとは奏は思わない。それ以前に、奏に接してくれた透の優しさが嘘だとも思えなかった。ただ、人間の感情は複雑で、時として、好意と憎悪が同居することも出来るのだ。それを理解できる程度には、奏は大人になっていた。
「……そんなこと出来ません。今後、愚兄の面倒を見てもらわなくちゃならないので」
 だから、奏も茶化すようにそう答えた。受話器の向こう側で、透が小さなため息をつく音が聞こえる。その後に聞こえてきた
「……やっぱり、『カナちゃん』はイイコすぎるんだよなあ」
という言葉は、以前、一度、どこかで聞いたことのあるものだった。きっと、同じように困ったような苦笑いを浮かべているのだろう。
「もし、透さんが、あのときの事、悪いと思ってるなら、響の事、ちゃんと面倒見てください。それだけで良いです」
 サバサバとした口調で奏が言うと、透は少しだけ声を立てて笑い、
「了解しました」
と答えた。
「……それと、響の事だけど……明日の夜九時からのテレビ番組を見てくれって伝えてください」
「うん?」
「それを見れば、多分、全部分かるから」
「それだけで良いの?」
「うん。お願いします」
「……分かった。ああ、そうそう。今日の演奏、すごく良かった。感動したよ」
 きっと聞きたいことは沢山あっただろうに、あっさりと納得して、透は電話を切った。
 明日、響があの番組を見たら。
 小さな子供の頃、他愛の無い悪戯を仕掛けた時と同じ気持ちで、奏は思わずクスリと笑った。響は怒るかもしれない。いずれにしても。
「へこんでなんていられなくなるから大丈夫」
 小さな声で独り言をもらすと、奏はそっと受話器を置いた。




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