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音の轍 - 22 …………


「申し訳ありませんが」
と、普段とは違うビジネスライクな口調で受話器に向かって話す衛を、奏は、敢えて無視する。向かいのソファに座っていた門真と柴原、山田の三人は、それを見て、一様に呆れたような苦笑いをもらした。
「いい加減、出てやったら?」
と柴原に言われても、奏は無視する。何を言われても、絶対に話すつもりは無い。それは、最初から決めていた。
「お兄さん、もう、かれこれ一週間近くだろ?」
 門真が指摘したように、響が衛のマンションの電話番号を突き止め、毎日のように電話を掛けてくる様になって一週間近くが経っていた。一番最初の電話が掛かってきたのは、帰国してから二日後だ。こんなことに労力を使うのなら、久しぶりに再会した恋人と、親交やら、理解を深めることに時間を使えばいいのに、と奏は我が兄ながら呆れる。
「本人も話すつもりは無いようですし、このような電話は、今後一切、されないようお願いします」
 衛は慇懃無礼に断ると、受話器を置く。だが、その表情には、明らかに、面白がるような人の悪い笑みが浮かんでいた。ソファのほうに歩いてきながら、
「お前の兄の中じゃ、俺は、すごい極悪人になってるらしい。お前の身柄を引き渡さなけりゃ、警察に訴えるとまで言われたぞ」
 言葉の割には全く切実さの無いような様子で、衛は奏の隣に腰を下ろす。
「……迷惑かけてごめん。あんまりしつこいようだったら、俺から一度、言うから」
 申し訳ない気持ちで奏が謝罪すると、衛は何も言わず、ただ、無造作にグシャグシャと奏の髪をかき回した。そして、そのまま門真に視線を移す。
「で? 大方、進んでるって?」
「今のところは問題ないよ。協賛企業にも趣旨は話して承諾を取ったし、宣伝広告のほうも、手配は殆ど済んでる。あとは、二宮君が例の番組に出演して、宣伝したところで、一斉に告知するだけ。チケットのほうも、問い合わせは順調だよ。まだ、ステージの内容はぼかしてるけど」
「じゃ、問題ないな。後は、奏次第か。店の方はどうする?」
「今週末だろ? 行くよ。行って、ちゃんと演奏する」
「多分、お前の兄が来るぞ?」
「だから、その辺は、ちゃんとガードマンでもなんでもつけてよ。俺、本当に、響とは一切、口きくつもりないし。俺には近づけさせないで」
「了解。不自然じゃないように、カメラと、雑誌入れるぞ?」
「いいよ。もう、派手に宣伝して」
 やけくそのように奏が言うと、衛は面白そうに喉の奥でくつくつと笑った。



 響が帰国したとたん、奏に会いたがったのは当然の事だった。だが、最初は、奏がどこに住んでいるのかも分からなかったはずだ。それなのに、帰国二日目には衛のマンションに電話が掛かってきた。いったい、どうやって調べたのか、感心したくらいだ。
 奏は、まだ、一度も響と話をしていないけれど、衛が上手く話を誘導して聞きだしたところによると、今は、透が以前住んでいたマンションに身を寄せているらしい。それを聞いただけでも奏は少し安心した。どういう話し合いをしたのかは分からないが、それでも、響と透が今は一緒にいることに。あの場所には、処分していなければ響専用のピアノもあるはずだから、その点に関しても問題は少ないだろう。
 響はとにかく、奏に会いたい、奏と話をさせろ、いったい、どうしてこういう状況なんだと衛を責め立てているらしい。衛は、ある意味、響よりも事情に詳しいから、とりたてて腹を立てるでもなく、のらりくらりと上手にかわしてくれている。でも、それも、そろそろ限界だろう。兄が痺れを切らして、ここに乗り込んでくるのもそう遠くないだろうと思った。

 梓からも、数日前に連絡があった。既に、響は何度か店に来て、梓とも多少話をしたらしい。
「週末には店に行ってピアノ弾く予定だって話していいから」
と奏は梓に伝えたから、週末の事を響も知っているだろう。きっと、店に来て、自分を捕まえようとするに違いない。けれども、奏は、一切、兄と口をきくつもりは無かった。それだけ、奏は腹を立てているのだと、兄には分からせなくてはならない。
 取り合えず、住む場所もあるし、どうやら職にもありつけそうだから、奏はさほど、響の事を心配はしていなかった。
『それとは別に、雇われ店長からオーナーに採用のお願いなんだけど? 』
と、先に梓に言われたのは、奏としてはありがたかった。自分から言い出すのは少しだけバツが悪かったからだ。
「何?」
『一人、ウェイター雇って良い? 』
 どこか、悪戯な口調で言われたときに、奏は何となく、梓の言い出すことが分かっていた。響と奏の事を、もちろん心配しているのだろうけれど、少しだけ、この『兄弟喧嘩』を面白がっている気もする。だから、それが誰かを聞かずに、奏は、
「良いけど。でも、店内では煙草吸うなって、ちゃんと言っておいて。あと、暇なときにはピアノでも弾かせておけば?」
と、ぶっきらぼうに答えた。梓はケラケラと楽しそうに笑って、
『オッケー。あの子、見た目いいし、客寄せにはもってこいだと思うわよ』
と茶化す。
「でも、無愛想だろ? 大丈夫なの? つーか、あの性格、接客に向いてないと思うけど」
『そこは、ちゃんと教育するから任せてよー。何年、この商売やってると思ってンの? 』
「そうだけど……響が客に愛想笑い振りまいてる姿って、想像できない……」
 奏が眉間にしわを寄せてそう言えば、電話の向こう側で梓は楽しげに笑った。つられて奏も思わず表情が緩む。少しだけ、気分が軽くなって、そのまま電話を切ろうと思ったときだった。
『それとね』
と、なんでもないような気軽な口調で梓は話しかけてきたから、奏は、全く予測していなかったのだ。
『奏は聞きたくないかもしれないけど。郁人、向こうが落ち着いたから、戻ってくるって。また、私と一緒に暮らすことにしたから』
 酷く、落ち着いた穏やかな口調で梓は告げたけれど、奏の胸中は対照的に酷く揺れ始める。
『多分、店に顔を出すこともあると思うから。それだけ、伝えておこうと思って。それじゃあね』
 梓は手短に告げると、あっさりとそのまま電話を切ってしまう。奏は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしたまま、受話器を置くことも出来なかった。
 帰ってくる。郁人が。
 もし、店に来た郁人と会ってしまったら、自分がどうなってしまうのか奏には全く想像できなかった。だから、怖い。怖いと思っている自分に気がついて、どうしようもなく泣きたくなってしまった。
 あの夏の日、全てが壊れて終わってしまったのだと思っていた。けれども、こうして、何度も思い知らされる。奏の中では、何も終わってなどいないことに。もがいて苦しんで、忘れたい、消してしまいたいと何度も思った。けれども、それは、色褪せることなく、気がつけばこうして奏の中に舞い戻ってくる。
「……いつだって、勝手に俺の事おいていって、振り回して、傷つけて……」
 立ち尽くしたまま零してしまった言葉は、本心だったからこそ、無意識だった。郁人は、覚えているのだろうか。あの時に、した約束を。
 奏は、軽く頭を振ると、何かを思い切るように、そっと受話器を置いた。




 奏のに訪問者があったのは、それから二日後、店に行ってピアノを弾く予定の前日の事だった。最初、衛に
「客だ」
と言われたときには、衛が裏切って兄の訪問に応じたのかと奏は思った。自分を訪ねてくるような人間は、兄くらいしか、心当たりが無かったからだ。
 だが、そうではなかった。どこか戸惑いがちに衛が告げたのは、奏が予想もしていなかった人物の名前だった。
「……敷島泰人って、知ってるか? 車椅子に乗ってる男だ」
 どうする、と目で問うてくる衛に、奏は目に見えて動揺した。敷島泰人。忘れるはずの無い名前だ。だが、もう、二度と会うことも無いだろうとも思っていた。その彼が、なぜ。
 何の用件で来たのかわからずに、不安げな表情で奏は衛を見上げた。衛は微かに眉間に皺を寄せ、
「お前が嫌なら追い返す」
と言ってくれた。けれども、
「ただ……変に切羽詰ったような顔していたのが気になってな。お前に会わせてくれって土下座でもしかねない様子だったが……」
と衛に伝えられて、放ってもおけなかった。
「……とりあえず、会ってみる。何の用なのか分からないけど」
 不安に思いながらも了承して、部屋に入ってきた泰人は一人だった。こんな場所まで車椅子で一人で来たことに奏は少しだけ驚いた。それほどにしてまで泰人が自分に言いたかったことが何なのか、奏には想像も出来ない。ただ、泰人が通されたリビングで向かい合って座り、改めてその顔を見て奏は更に驚いた。
 泰人に会ったことがあるのは僅か二度のことだ。だが、あまりに、鮮烈な印象を与えられたから、忘れようと思っても忘れられなかった。少しだけ自分に外見が似ていて、そして、得体の知れない恐怖感を与えてくる青年だったはずだ。しかし、
「……突然、こんなところまで来てゴメンナサイ。でも、どうしても、奏に言わなくちゃならないと思って」
と、どこかおどおどとした様子で話しかけてくる青年は、以前に見た彼とは、まるで別人だった。なぜ、あんなにも恐ろしいと思ったのか分からないほど、今の彼は小さく、そして、頼りない風情だった。まるで、迷子になった子供のような顔をしている。そして、その口調までもが幼い。殆ど初対面に近い奏を『奏』と呼び捨てで呼ぶのが、特に幼さを際立たせているように思えた。
 思えば、最初から、泰人は奏を『奏』と呼び捨てていた。それは、奏を下に見ているからなのではないかと、正直、奏は穿った見方をしていたのだけれど。
「……あの……」
 ふと思い浮かんだ自分の考えを確認したくて、奏は戸惑いがちに声をかけた。すると、泰人ははっとしたように顔を上げる。奏を見つめる瞳は、やはり、どこか不安げで、叱られることに怯えている子供のようにしか見えない。
「前から気になってたんですけど。俺と、敷島さんはほとんど面識が無いから、いきなり呼び捨てるのは失礼じゃないですか?」
 装って、少しばかり冷たい口調で告げると、泰人はとたんに顔を真っ赤にして恥じ入るように俯いた。細い細い腿の上でギュッと握ったこぶしが震えている。
「ご、ごめんなさい。僕は、あまり家族以外の人間と接したことが無いから……そうだね、失礼だったよね。あの……二宮君? で良い?」
 上目遣いで尋ねてくるその顔を見ていると、まるで、弱いもの虐めをしているような気持ちになってしまい、奏は深く息を吐き出した。奏は、正直に認める。少しばかりの八つ当たりがあったことを。けれども、目の前の青年は、そんなことには全く気がつかず、痛々しいほどに恥じ入っていた。
「……いえ。俺のほうこそすみません。良いです、敷島さんの方が年上だし、奏、で構いません。それより、話したいことって何ですか?」
 少しばかり、表情と口調を和らげて奏が問えば、ようやく、少しだけ安堵した様子で、泰人はじっと奏の眼を見つめてきた。
「僕、奏に、謝らなくちゃいけないと思って」
「謝る?」
「うん。僕が余計なことを言ったせいで、ユキと奏が別れてしまったから。でも、違うんだよ。違うから、ユキを許してやって」
 拙い言葉で、一生懸命訴えてくる泰人に奏は戸惑う。そう言えば、郁人の父に、自分たちの関係をばらしたのは目の前の青年だったなとぼんやりと思い出した。けれども、それは、きっかけに過ぎない。本質的な原因はもっと別の場所にあったと奏は考えているから、何とも答えようが無かった。
「ユキが、奏と別れたのは、父親がユキじゃなくて、奏の方に害を加えようとしたからなんだよ」
「え?」
「ユキは、自分がどうされたってきっと気にしなかった。でも、僕たちの父親が、『身寄りの少ない音大生を潰すのなんて簡単だ』って。そうユキを脅したから。ユキは、本気で怒ったんだ。だから、だから、ユキを許してやって」
 動かない下半身を省みず、一生懸命身を前に乗り出して訴えている泰人に奏はますます戸惑う。正直、泰人には嫌われていると思っていた。悪意をぶつけられても、きっと、驚かない程度には。
 だが、今、泰人の目には何の悪意も見つからない。
「……ちょっと……ちょっと待ってください。どうして、急に……今頃、そんなこと……」
 最初に泰人に対して抱いた印象と、余りに違う。その豹変ぶりが理解できずに、奏は混乱した。
「本当は、もっと早く言いにきたかったけど、勇気が出なかったから。でも、もう、ユキは梓さんのところに帰るって言うし。だから、いい加減に、きちんと言わなくちゃいけないと思ったんだ。あの、奏……は、敷島の事、知ってる?」
 問われて、奏は混乱の残ったまま、
「詳しくは知りません……なんとなくなら……」
と答えた。そこで、横からコーヒーが差し出される。気がつけば、ごくごく、さりげない仕草で、衛が傍らに立っていた。泰人はちらりと衛に視線をやったが、それでも、席を外すようには頼まず、そのまま、ぽつりぽつりと話を続けた。
「あの家は、もともと、狂ってたんだよ。利権とか名声とかが第一で、それ以外のものは何でも平気で踏みつけにしてきた。僕は、小さな頃から、とにかく家の跡を継ぐことだけを叩き込まれて、それ以外の事なんて想像したことも無かった。それなのに、13歳のときにね、事故にあって……こんな風になった途端、捨てられた」
 自嘲の笑みを零しながら、泰人はあっけらかんと告げたけれど、その表情はどうしたって痛ましい。それを無視できずに、奏が微かに眉を顰めると泰人は、少しだけ口元を緩ませた。
「信じられないかもしれないけど。外聞が悪いからって、僕は、それ以来、殆ど外に出ることが許されなかった。だから、学校も行けなかったし、同じ年頃の人と接する機会が無くて……それで、あの、どういうのが普通か分からなくて奏に嫌な思いをさせたならごめんなさい」
「別に……それは無いですけど……」
 奏がポツリと答えると、泰人は大袈裟なほど、ほっとしたような表情になる。それで、ようやく、奏は自分の泰人に対する認識が大きく間違っていたのではないかと思い始めた。
「それで、奏も知ってると思うけど、僕の代わりにユキが連れてこられた。でも、最初から、ユキに対する父親の横暴さは酷かったんだよ。跡を継ぐための、外聞を取り繕うための『道具』としか思ってないような扱いだった。でも、その頃は、まだ、僕は父親を尊敬していたし、妄信もしていたから、ユキが嫌いだった。ユキが来てから、父は、僕の存在なんて忘れてしまったみたいに無視して、ユキの方ばかり見ていると思ってた。だから、僕は余計にユキに執着してしまった。その頃から、もう、僕は、少しおかしかったのかもしれない。ユキがいないと、だれも、僕の存在を認めてくれないように錯覚して、もう、いっそ、ユキになってしまえば良いのにって思ってた。
 ユキはユキで、父親の横暴さに耐え切れなくて、反抗するみたいに、それこそ、色々、悪いこともしたりとかしてたんだけど……結局、父親の圧力の前には子供の悪戯みたいなもんだった。そのうち、死んだみたいな目をして、すごく無気力になっていった。でも、でもね。ユキは奏の話をしてる時だけ、すごく嬉しそうで、正常な状態に戻るみたいだったんだよ? あんまり、楽しそうに、奏の事を話すから、まるで、僕まで奏の事が好きになったような気持ちになった。郁人が、少しだけ僕の顔は奏に似てるって言うから……奏はどんな話し方をするの、とか、どんな風に笑うの、とか、僕が知りたがって、冗談みたいに、奏の真似とかし始めて。その頃から、その、少し、二人ともおかしくなってきて。二人とも、頭が湧いてたんだと思う」
 それは、恐らく、二人が血が繋がった兄弟でありながら、関係していたことを言っているのだろうと奏には分かった。泰人は、かなりぼかしているから、隣で聞いていた衛にはどこまで理解できていたかは分からないが。
 いずれにしても、こみ上げる不快感を抑えるのは、酷く、難儀なことだった。色々な感情が渦巻いている。けれども、結局、突き詰めれば、一番多くを占めているのは『嫉妬』と呼ばれるそれに他ならない。それを泰人にぶつけるのは、どこか違うような気がして、結局、奏は黙り込むしか出来なかった。
「でも、ユキが好きだったのは、間違いなく、ずっとずっと奏だった。僕が……ユキがいなくなると、自分の存在があの家で無意味になるみたいで、消えてしまうみたいで怖くて、ユキを無理やり引きずり続けたんだ。奏を傷つけるつもりなんて無かった。でも、ユキが家を捨てて、奏の所に行ってしまったら、僕はどうして良いか分からなかった。ユキを家に連れ戻すために、父に、奏の事を告げたんだ。だから、悪いのは僕だから。だから、ユキのことを許してやって欲しい」
 ただ、真っ直ぐに奏の瞳を見つめ続けたまま泰人は訴える。膝の上の拳は、やっぱり、小刻みに震え続けていた。それが、どれほど勇気の要る告白なのか、奏には分からない。分からないけれど。少なくとも、泰人に怒りや憎悪を向ける気には、到底ならなかった。
 重たい澱のような感情と一緒に、奏は一つ、息を深く吐き出し、それからゆっくりと口を開く。
「……聞きたいことがあるんですが」
「何?」
「……貴方は、郁人に『特別な感情』を抱いているんですか?」
 奏が言いづらそうに尋ねた質問に、泰人はしばらく考え込み、それから、ふっと顔を上げた。何ともいえない、不思議な表情で奏を見つめながら、口を開く。
「……ユキは『弟』だよ。『弟』でしかない。その……もう一度、ユキが戻ってきてからは、一度だって、そういうことは無かったし。それに、僕は、正直、誰かを特別に好きになったりとかしたことがないから良く分からないけど……でも、多分、それなら、よっぽど、奏の方がそういう意味では好きだったんだと思う」
 他意無く、あっけらかんと真っ直ぐに吐き出された言葉に奏は絶句する。そこで、ようやく奏は悟った。目の前のこの青年は、何もかもを諦めた老成したような部分もどこかあるくせに、基本的にはとても幼いのだということに。それは、多分に、その生い立ちが影響しているのだろう。そうと分かってしまえば、余計に、奏は泰人を嫌うことなど出来なくなってしまった。酷く複雑な気持ちで、無理やりに笑顔を作る。
「……俺と郁人が別れたのは、泰人さんのせいじゃありません」
「でも……」
 言い募ろうとする泰人の言葉を奏は遮り、言葉を続ける。
「過去の事は……仕方が無いし、それを責めるつもりも無い。郁人が一番辛かったときに、俺はその辛さを知らなかったし何もしてやれなかった。そうじゃなくて、俺が怒ってるのは、郁人が約束を破ったから」
「約束?」
「うん。二人の関係を変えようとしたときに、郁人は約束したんだ。『もう、いなくならない』って。でも、郁人はそれを破った」
「でも! それは、奏のために……」
「そんなの嘘だよ。じゃあ、どうして、俺は今、こんなに苦しいんですか? きっと、貴方たちの父親に、どんな酷い妨害をされたとしても、きっと、俺は、郁人が隣にいれば、こんなに苦しくはならなかった。そのことを、郁人はちっとも分かっていない。だったら……だったら、いつかは、やっぱり、ダメになってしまう関係だったんだと思う」
 何かを諦めたように力の無い笑みを漏らして、奏は呟くように言う。泰人は何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局、それ以上は何を言うことも無く、膝の上で拳を握り締めていた。
 泰人の顔を見ながら、泣き出しそうな顔をしている、と奏は思った。まるで奏の痛みを、自分の事のように感じているようだった。決して悪い人ではない。それを言うのなら、奏の周りには誰も悪い人間などいないのだろう。ただ、色々な優しさが空回りしているだけ。それが、酷く、悲しいことのように思えて、奏はふっと目を伏せた。
「……僕は、所詮は部外者だから。これ以上は、ユキと奏の事に関しては何も言わないけど。でも。あの」
 最後に、泰人は心持ち、声音を変えて奏に話しかけてきた。目を開いて見てみれば、その表情に、少しだけ、作った明るさが浮かんでいるようだった。
「僕は、音楽の事は良く分からないけど。でも、奏の弾くピアノは、すごく好きだと思う」
 一生懸命に笑いながら泰人はそう言った。
「……ありがとう。今度、大きなホールを借りて演奏会をするから。良かったら、チケット、送ります」
 それに報いるように、奏も出来得る限りの明るい表情で答える。それを最後に、衛に促されて車椅子に戻り、部屋を出て行くその後姿を見送ってから、奏は窓の外に視線を移した。もし、郁人に会ったら、自分はどうなってしまうのだろうか。


 今の奏には、想像さえ出来なかった。





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