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音の轍 - 21 …………

 ふ、とスコアから顔を上げて時計を確認する。自分では無意識の行動だった。無意識だった、と気がついたのは、少し離れた場所でノートパソコンを開いて仕事をしているはずの衛が、揶揄するように笑ったからだ。
「そんなに気になるなら、お前も、空港に行けば良かったんだ」
 口調は明らかにからかいのそれだ。少しばかりバツの悪い気持ちで奏は手元のスコアに再び視線を落とす。
「……別に。それに、しばらくは会ってやらないって決めてるし」
 ぶっきらぼうな口調で奏が答えると、それが子供じみていておかしかったのだろう。やはり、衛は喉の奥で抑えたような笑いを漏らした。
「まあな。演出は効果的なほうが俺としても面白いが。でも、『迎え』の方は大丈夫なのか?」
「うん。一昨日、電話があったし」
 奏が苦笑いをこぼしながら答えると、衛は少しだけ目を見開いて意外そうな表情をしたが、とりたてて何かを言うこともなく、ただ、
「へえ」
と感心したように相槌を打っただけだった。

 佐原透から奏の携帯に電話があったのは、確かに一昨日の夜の事だった。久しぶりに聞いたその声は、少しだけ硬かったけれど、それでも、奏が恐れていたような冷たさや突き放すような拒絶の空気は無かった。ただ、透のほうも何を言っていいのか分からなかったのだろう。今更、取り繕うような言い訳や謝罪をするような、いい加減な人でないことは奏も良く知っているから、それは別段、意外なことでもなんでもなかった。
 電話で聞いた言葉は、たったの二つだけ。
「ごめん」と「ありがとう」。
 それだけだった。
 都築に『脅迫状』を送ったのと時を同じくして、奏は透にも短い手紙を送った。用件だけの事務的なそれには、都築から響を取り戻すことにした旨と、響が日本に帰ってくる日にちと飛行機の到着時刻を書いておいた。それだけで、恐らく、透には全て伝わると思ったし、奏もまた、それ以上に伝える言葉を持っていなかった。

 もともと、奏自身が響を迎えに行くことは考えていなかった。迎えにいったところで、前に住んでいたアパートは引き払っていたから、響を連れて帰る場所が無いという物理的な理由もあった。けれども、もっと大きな一番の理由は、奏が怒っているから、だ。
 それまで自分の内側に閉じ込めていた気持ちを、一つずつ、奏は衛に話した。そうすると、自分の気持ちが整理できてきて、最終的に残った気持ちは『怒り』だった。
 兄への負い目はある。感謝の気持ちもある。けれども、やはり、兄のしたことを肯定は出来ないし、感謝する気にも、もちろんならなかった。兄のしたことは、ある意味、奏に対する侮辱だ。
「響が俺を大事だと思ってくれるのと同じだけ、俺だって響を大事に思って、幸せになって欲しいと思っていたことを響は知らなかった」
 もう『兄貴』と呼ぶことを止めた兄への怒りを語ったときに、衛はそれを否定しなかった。
「お前には怒る権利がある」
と頷いて、そして、この『仕返し』に同意してくれたのだ。子供じみた兄弟喧嘩だと自分でも分かっていたし、自分の事ながら呆れてもいたけれど、衛はそれさえ否定しなかった。
「お互いに遠慮して、本当に言いたいことを抑えてきた結果だろ? どうせなら、お前が納得するまで喧嘩をすりゃいいさ」
と、磊落に笑った衛を見たときに、奏は完全に、衛に対する第一印象を覆した。口が悪いし、嫌味な態度も取る。けれども、この人は、決してつめたい人ではないのだ。むしろ優しい。優しくて不器用なのだと思った。だから、奏は、最終的に透に手紙を書く決心をする前に尋ねたのだ。
「……俺の、勘違いかもしれないんだけど。もしかして、宇野辺さんって、響のこと、本気で好きだった?」
 奏の質問に、衛は珍しく、本気で驚いたように目を見開き、それから呆れたように笑った。
「さあな。あんまり昔過ぎて忘れた」
「ホントに、今は? 今は、好きじゃない?」
と重ねて奏が問えば、衛は更に呆れて、
「響と会わなくなって、何年経ったと思ってるんだ。俺は、そんなに純情でもなければ一途でもない」
と、答えたから、奏は透に手紙を書いたのだ。
 それでも、どこか、まだ釈然としなかったから、一度、こっそり柴原にも聞いたことがある。正直、今でも奏は柴原が苦手だが、一番、宇野辺と仲がよさそうなのが柴原だったから仕方が無かった。
 柴原は、最近は、大分当たりが穏やかで、以前ほど、酷い嫌味を言ってきたりしない。その時も、衛に対するのと同じ質問をした奏に、さして気にした風もなく答えてくれた。
「どうだろう? まあ、当時は、結構、本気だったみたいだけどね。でも、君の兄さんって、あれだったからねえ。暖簾に腕押し、みたいな雰囲気っていうの? そもそも、二宮響はどう考えてたか知らないけど、宇野辺は、セックスの代償で金を渡してたつもりは無かったと思うよ。なんていうのかな。パトロンていうか、二宮の才能を金でバックアップしてやりたい、みたいな、そんな感じだった。なのに、二宮はあっさりプロ志望をやめて高校教師になんてなったからさ。あの当時は、かなりあいつ荒れたんだ」
「……すみませんでした」
 なんと答えてみようもなく、身内の愚行を奏が謝罪すると、柴原は苦笑いをこぼした。
「いや、君に謝ってもらってもね。それに、代わりに君がプロになったから良いんじゃないの? さっきの話だけど、むしろ、宇野辺が今、惚れてんのって二宮より君だと思うよ」
「……宇野辺さんが? まさか」
「ははは、結構、他人の好意に無頓着で鈍いところは兄弟で似てるね。ま、宇野辺が何も言わないんだから、気にしなくても良いと思うけどな。それに、俺は、宇野辺には君みたいなタイプはお勧めしないし。純粋な恋愛感情とも違うしね」
「……どういう意味ですか?」
「なんていうの? 宇野辺って自分がピアニストになるのを諦めたからなのか、いっつも、惚れる相手が、何かしら音楽の才能とかある奴なんだよね。恋愛感情の好きと、才能に惹かれる部分を分けて恋愛できないんだよ。俺は、宇野辺がいつも恋愛で上手くいかなくなるのってその辺が原因じゃないかと思ってる。だから、ホントは、アイツの相手には音楽とか才能とかと関係ない奴の方が良いんだよ。あ、これは、俺の勝手な解釈だから宇野辺には内緒な」
 俺らしくないおせっかいだなと苦笑を漏らしながら柴原は言ったけれど、奏には何となく分かるような気がした。いずれにしても、柴原の言うように、宇野辺が何も言わないのなら奏からは何も言うことも、出来ることもない。気がつかないふりをしていなければ、衛との関係のバランスが取れないのも分かっているから、あえて、そこには蓋をした。
 仕事の相手としてなら、奏は衛を一番信頼しているし、認めている。今は、それ以上の事を考えることは許容範囲外なのだ。そのずるさを奏は見てみないふりで、自分に許した。



 今度は、意識して時計を見上げる。針が指し示しているのは、飛行機の到着時間より数分ほど経過した時間だった。
 今頃、兄はどうしているだろうか。透と感動的な再会でもしているのだろうかと考えて、それはないかと思い直した。衛の事だけではなく、透の側の事情にも色々と問題があって、本当に、奏は迷ったのだ。
 最初は、衛に透の存在を説明してはいなかった。それが、知られてしまったのは、都築の事を調べたり、金を振り込む準備をしている時点で、透とかち合ってしまったからだ。奏は、せめてもの誠実さとして、衛には嘘はつかないことに決めている。聞かれたことにも、極力、答えるようにしている。だから、透と兄の関係の事も、透が奏にぶつけた言葉も全て伝えた。
「そりゃ、ただの八つ当たりだろう」
と、衛は呆れたように言ったけれど。
 あの日、透にぶつけられた言葉の幾らかは、確かに、八つ当たりだったのかもしれないけれど、それでも、やはり、奏は透を嫌いに思ったり、憎く思ったりは出来なかった。そもそも、透が自分を疎ましく思っている事は、以前にも、遠まわしに伝えられたことがあるのだ。だから、それ自体は意外ではなかったし、何より、透の言葉は一から十まで響の事を思っての言葉だと、痛いほど、奏には分かっていた。
 二人の関係がどういうものだったのか、核心の部分では奏には理解できていないけれど、それでも、兄の事を一番理解しているのが透だというのだけは分かった。兄がどう思っているのか分からない。分からないけれど、奏には、透は響に必要な人だと思えた。だから、迷いに迷って透に連絡した。

 透が実家に戻り、稼業を継いで、地元の名士の娘と婚約したという噂を聞いたのは、都築が所属しているレコード会社に圧力をかけ、都築の口座に金を振り込もうとしていたときだった。それを聞いたとき、奏は、いい加減、愛想が尽きて、兄を見捨てたのかと最初思った。それならば、透に連絡するわけには行かない。けれども、自分と同じようなことをしようとしている人間がいて、それが、どうも佐原透と繋がっているらしいと衛に調べてもらって、奏は真実がそうではないことを知ったのだ。
 見捨てていたのなら、都築に圧力を掛けようとしたり、金を用意したりするはずがない。だから、奏はとにかく先を急ぎ、衛に頼んで先手を打った。透よりも、先に、先にと、全てを終わらせて、ただ、手紙だけを透に送った。
「地元じゃ結構な騒ぎだったらしいぞ」
と、衛が呆れたように笑いながら奏に渡してくれた調査書には、手紙を受け取った後の透の行動が記されていて、それを読んで奏は少しだけ安心した。
「突然、婚約破棄して、一族で揉めに揉めて、結局、次男が跡取りになったんだと。で、件の長男は、勘当同然で放り出されて、家とは断絶状態。将来有望なエリートに、ここまで道踏み外させるなんて、お前の兄は恐ろしいな」
 他人事のように衛は面白がって言っていたけれど。奏は、自分のしたことが正しいのかどうなのか分からなかった。ただ、兄のためだけを考えて、透を巻き込んだことに謝罪するべきかどうか迷って、けれども、先に、透が『ごめん』と言ったから、奏は、ただ、
「いいえ」
と答えて電話を切った。

 ここまでお膳立てしてしまえば、もう、奏に出来ることはない。後の事は響と透の問題なのだから。それよりも、今の自分には大切なことがあると、奏は再びスコアに目を落とした。同時に、傍らに放り投げてあったヘッドフォンを手に取る。プレーヤーの再生ボタンを押そうとしたら、
「ヘッドフォン、外していいぞ」
と衛に許可された。
「うるさくない? 仕事の邪魔になるんじゃないの?」
「いや、俺も聞きたい……二宮克征のピアノだからな」
「そう」
 促されるまま、奏はヘッドフォンのプラグを抜く。そのまま、もう一度、再生ボタンを押そうとしたら、後ろから軽い調子の声が掛かった。
「次のステージも『コピー』か?」
 責めるでもない、咎めるでもない。ただ、単純に尋ねているだけの声音に、奏は肩をすくめて見せた。
「どうすると思う?」
 逆に尋ねて、奏が悪戯な笑みを浮かべて見せれば、衛はおどけたように片方の目だけを眇めた。
「俺次第か?」
「腕の見せ所なんじゃないの?」
「まあな。根回しに抜かりは無いが」
「まあ、でも、ステージより、問題は、目の前のこれなんだけどね」
と、奏はスコアを指で弾いて見せた。バチンと紙がなる。
「久しぶりのテレビは良いんだけど。なんで、こんなに難易度高くて派手な曲ばっかり持ってくるかな」
「宣伝するには一番、効果的だから仕方が無いだろう。文句なら門真に言え」
 ノートパソコンの画面を見たまま、面白がるように衛が答えたので、奏は諦めたように再生ボタンを押した。
 それまでは、中小規模のホールで地道にリサイタルを開いていたが、固定の客もつき、そろそろ収容人数のキャパシティを超えつつあるから、と大きなホールでのコンサートの話を持ってきたのは門真だった。聞けば、もう既に、ホールを押さえて、協賛企業まで見つけてきたというのだから、さすがの衛も呆れていたようだった。
「顔に出さないから分かりづらいけど、門真はお前の事、かなり買ってるんだろう」
 衛はそんな風に言ったけれど、正直、奏は戸惑いを隠せなかった。それでも、絶対にホールは埋めるし、失敗もさせないと衛が言い切ったからそれを信じた。今度ばかりは多少なりとも宣伝が必要だということで、久しぶりの、テレビ出演も決まった。そこで弾けと言われた曲が、難易度の高い派手な曲ばかりだったのだ。正直、奏の得意な曲ではなかったけれど、失敗は許されないのだから、真剣に取り組むしかない。
 テレビ出演は一週間後だ。ピアノ演奏はもちろんのこと、もう一つの仕掛けも、奏は成功させなくてはならない。それでも、不安より、期待の方が大きい。
「……こういう感じ、久しぶりだ」
 まるで、遠足の前の日の子供のような顔で奏は小さな独り言を、ぽつりともらした。


 それが上手くいったら、自分はどうするのだろうと想像してみたけれど、ちっとも未来の映像は頭に浮かばなかった。あまりに、当てはめるピースが少なすぎるからだ。梓の事、兄と透のこと、そして郁人。
 敷島の事件以来、全く、音信の掴めなくなってしまった彼の事を考える。もしかしたら、梓には連絡を入れているのかもしれないけれど、敢えて、奏からは尋ねたりしない。いつの間にか、季節は冬から春に移り変わろうとしている。次の夏が来れば、郁人と別れてから一年が経ってしまうのだ。
 時の流れの早さを思い、不意に訪れた詮無さを押し殺し、奏はそっと父の音に耳を傾けた。




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