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音の轍 - 20 …………


 スッと顔を上げると、その表情がいつもと違うものになる。その瞬間を見るのが、都築は好きだった。いつから好きだったのだろうかと思い出そうとして、もしかしたら、一番最初に響がピアノを弾くのを聞いたときからなのかもしれないと、少しばかり感傷的な気分になった。そして、そんな自分がらしくないと苦笑いをこぼす。
 ピアノを弾くときの響は、決して自分を偽らない。そこには、ピアノを弾くことが好きで仕方が無いという愛情が溢れている。ピアノを弾いているときの、自分の目の輝きを果たして彼は知っているのだろうかと思いながら、都築は、その音色に耳を傾けていた。
 技術的にはなんら問題はない。テクニックだけならば、恐らく、玄人にもそう簡単にブーイングなど出せないだろうと確信していた。だからこそ、この場所でピアノを弾きなさいと命令したのだ。知りたかったのは、それよりも、もっと先の事だ。
 響は、ただひたすらに指を鍵盤の上で遊ばせている。いつもより自由な演奏は、けれども、どこか物足りなさを感じさせた。まるで、何かに後ろ髪を引かれているかのような、そんな感じだった。多分、弾いている響自身は気がついていないのだろう。けれども、ずっと響のピアノを聞き続けてきた都築には手に取るように分かった。どこかに、大事な忘れ物をしてきてしまった、そんな印象の音。
 椅子に深くもたれ、目を閉じて都築は音に集中する。あと少しで開花しそうな花は、けれども、花開く寸前でしり込みする様に、結局は最後まで演奏を終えてしまった。けれども、失望は無い。これは、予想の範疇だった。むしろ、期待通りだったといって良いだろう。
 ブーイングは最後まで起こらなかった。演奏を終えた響に与えられた拍手は、そこにいた人間の大体半分ほどからだろう。恐らく、響の技術にだけ着眼した人間が拍手をして、そうでない部分を重視した人間はしなかった。ほぼ、正当な評価だと都築は思い、そっと目を開けた。先ほどまで傍らに立ち、一緒に演奏を聞いていたはずのレスタはもういない。どちらかというと、彼は技術偏重の演奏家だから、それも、予想していたことだった。
 とりたてて、何の感慨も持っていないようなつまらなそうな表情で、響はテーブルまで戻ってくる。ふと視線が合った一瞬だけ、何か物言いたげな不安な瞳を見せたが都築は敢えて何も言わなかった。
 響が都築にこんな表情を見せるのは、ピアノの評価を聞くときだけだ。もし、彼が、プライベートでもこんな表情を見せてくれたとしたら、都築はきっと、何もかもを投げ捨てて彼を自分のものにしただろう。けれども、実際は、恐らく、響がプライベートでこんな表情を見せる相手は、高校のときからの親友だというあの男だけなのだ。
 相手の評価や気持ちを不安に思うのは好意の裏返しだ。つまり、響はピアノの教師としては都築を慕っているけれども、それ以上でも以下でもない。ずっとずっと、長いこと思い知らされてきたことのはずなのに、それでも、今更のように落胆を感じる自分が馬鹿馬鹿しかった。
 そろそろ、茶番は終わりだと思っていた矢先の手紙。思ったよりも、早かったなというのが都築の正直な感想だった。思い浮かぶのは、いつでも訝しげな眼差しで自分を威嚇していた、響の小さな騎士(ナイト)だ。彼は、いつでも都築に疑いの目を向けながら、兄に滅多なことをするなよと訴えていた。けれども、響はそのことを知らないだろう。
(親の心、子知らず、の逆だな)
と、思いながら都築は食事を終え、そして、そのまま響と連れ立って店を出ようとした。会計を済ましていると、カウンターの中にいたマスターが、神妙な顔で声をかけてくる。
「面白いものを育てているな」
 都築でさえ一目置いている、その初老の紳士は、ちらりと響に視線を移し、それから再び、都築の方を向いた。
「私が、彼の演奏を止めなかったのは、羽化の瞬間をいつ見られるのかと期待したからだ。だが、羽化しそうで、結局、蛹のままだったな」
 言いえて妙だと思いながら、都築は苦笑を漏らした。都築は開花しそうでしない蕾だと思った。聞く耳を持っている人間には、分かってしまうものなのだ。
「承知しています」
と、丁寧な口調で答えて、財布を懐にしまう。マスターは、フンと馬鹿にしたように鼻を鳴らして、
「蛹のまま腐らせなければ良いがな」
と忠告してきた。何か、惹かれるものが無ければ厳しいことなど言わない人だから、そういう意味では、都築は少しだけ安堵した。
「それも承知しています。どうも、空気が合わないようですから、ちゃんと羽化できる場所に返します」
 それだけを答えると、都築は踵を返し店のドアを開けた。視界の片隅に、いったい何の会話なのか分からないと、不思議そうな顔をしている響が映ったけれど、もちろん、説明などしてやらなかった。
 店を出れば、運良く雨は上がっていた。けれども、湿った冷たい空気が頬を刺す。白い息を吐きながら、少しだけ通りを歩き、無言のままタクシーを拾った。響も何も言わない。基本的に、彼は口数が少ないので、自分から何か話しかけてくるということは余りしない。それでも、以前は、それなりに会話を楽しんでいたなと都築は過去に思いを馳せた。

 響がどこまで、それを意識していたかは分からない。それでも、彼は都築に父親の役を求めていた。それはそれで嬉しいことだったし、幸福なことだった。もし、何かが間違いだったとするならば、都築が父親のような愛情だけを響に向け続けられなかった事だろう。そこに、醜く、エゴな恋情が混じり合ってしまったから、今のこの状況がある。
 決定的に道を間違え、響との関係を歪めてしまったあの雨の夜、あの時に、都築が響に親としての愛情だけを抱いていたのなら、きっと違う対応をして、違う言葉を返しただろう。それを思い出して、響に懺悔したい気持ちになったことは何度もあるけれど、それでも、都築はそのことを後悔したことは一度も無かった。
 何度繰り返しても、恐らく、自分は同じ事をしただろう。それを知っているからだ。
 響を前にすると、いつでも都築はせめぎ合う。だた、衝動の赴くまま彼を捕らえて繋ぎ止め、独占して飼い殺しにしてしまいたいという恋情と、ただ純粋に無心に彼の幸福を祈る愛情と。
 少しずつ、少しずつ、それこそ十年近い時間を掛けてそんな自分に折り合いをつけ、ようやく、穏やかな愛情だけを向けるすべを覚えつつあった時に、余りに愚かなことを響は申し出たのだ。無神経にもほどがあると憤ったし、響をこんな風にしてしまった一端は自分が担っているのだという自責の念もあった。けれども、彼をここまで連れて来た、一番の理由は贖罪のためだ。否。贖罪などというたいそうなものでも綺麗なものでもない。言ってしまえば、自己満足のためなのだろう。それでも、都築は、やり直したかった。『最後に』響に伝えたかったのだ。ただ、それだけ。


 結局、一言も会話をしないまま自宅にたどり着き、リビングに入ると都築は無造作にコートをソファーに投げかけ、鍵をテーブルの上に放り、その勢いのまま響に向かい合うと、
「悪いが、一週間後に出て行ってくれ」
と告げた。予想だにしていなかったのだろう。響は、何を言われたのか分からないといった表情で、
「え?」
と目を見開く。さて、どこから告げたものかと思案しつつ、取りあえず、都築はその封筒を響に差し出した。日本から送られてきた幾つかの書類の入ったその封筒の裏に書かれている名前、それを見たとたん、響は目に見えてうろたえる。
「あの……」
と言い掛けたきり、その封筒の中身を出すことも出来ずに立ち尽くしていた。努めて厳しい表情を浮かべながら、けれども、都築は内心、苦笑を漏らしていた。これから自分が言おうとしていることが、どんなにか自分らしくなく、そして、今更言えた義理ではないことを十分承知していたからだ。それでも、言わなくてはならない。今、目の前に立っている青年に、それを言うのが自分の役割なのだから。
「君が出て行かないと、私は職を失う」
 淡々とした口調で都築が告げると、響は、ますます困惑した表情で都築を見上げてきた。その顔はどこか幼い。響自身は気がついているのだろうか。都築と向き合うとき、彼はいつもよりも、ずっとずっと幼稚になってしまうことを。
「今日、会社からも忠告されたし、実際に脅迫状も届いた。中を見れば分かるだろう」
 言われて、響はようやく動くことを思い出したのか、恐る恐る封筒の中から一枚の手紙を取り出した。そこには、こう書いてある。
『二宮響を日本に送り返されたし。返さなかった場合は、貴殿の契約会社から解雇して頂きます』
 同封されているのは期日が指定された日本行きの航空券と、振込みの明細だった。
「それに、私は君を拘束する権利を失った。八千五百三十二万。あの店を奏名義にするために掛かった費用、きっちりの金額を返されてしまったからね。しかしまあ、良く調べたよ。君の弟は実に律儀だ」
 皮肉げな笑みを浮かべながら都築がそれを伝えると、響はますます目を大きくして、言葉を失う。
「響は知っていたかい? 奏がUミュージックという会社と契約して、プロのピアニストになっていたことを」
「え?」
「知っているはずが無いか。こちらに来てから、ひたすら外界からの情報を遮断して閉じこもっていたからね。私は親切だから、代わりに教えてやろう。奏は君がいなくなってから、プロのピアニストになって……まあ、実質は安っぽいアイドルタレントのしくじりみたいな真似をしていたようだったが、とにかく、随分と荒っぽく金を稼いでいたらしい。……それこそ、誰彼かまわず体を売って仕事を取ってくるようなやり方でね。その金で、大事な兄を取り戻そうとしているなんて、実に麗しい兄弟愛だ」
 にっこりと朗らかな笑みを浮かべてわざと言ってやれば、響は先ほどとは比べ物にならないほど混乱した様子で、その顔を青くした。
「……都築先生。何の冗談ですか。俺は、そういう冗談は嫌いです」
「冗談なんて言ってないさ。なんなら、君が聞いてみるかい? Uミュージックにも何人か知り合いがいるから、電話してやっても良い」
「……先生、だから、冗談は嫌いだと……」
 顔を青くしたまま、必死に否定しようとしている響は哀れだった。けれども、都築はそれを解らせなくてはならない。全てとは言わない。けれども、最愛の弟をそこまで追い詰めた原因の大部分は、自分なのだと。
「冗談ではないよ。何よりも、この書類が全てを物語っている。これだけの大金を私の口座に振り込んだのは奏だ。はっきりと、ここに印字されている。これだけの金を、奏がどうやって工面したのか君は説明できるのか?」
 それまでの演技じみた笑いをすべて引っ込め、都築は淡々と告げた。響の目の前に、その明細をすっと差し出しながら。今度こそ、響は言葉を失い、ただ、その紙切れを見続けた。唇が微かに震えている。信じたくない気持ちがありありとその顔には表れていたけれど、でも、きっと、本当はうっすらと理解しつつあるのだろう。自分のいなくなった後に、たった一人の弟が何をしていたのか。

 目を、耳を塞いで甘やかすことなど簡単だ。それで、響が幸福になるのなら、それが偽りだと知っていても都築はきっと響を真実から遠ざけて甘やかし続けるだろう。だが、そうではないことを、この半年で思い知らされた。
 もとより、それが響に幸福をもたらすだなどとは思っていなかった。響を暖かく柔らかい真綿で包み込み、ひたすら慈しんで甘やかしたのは、ただ、都築自身がそうしたかったからに他ならない。自己満足の贖罪だ。解っている。それでも、限られた、与えられた時間の中でそうしたかったのだ。
 第一、あの真っ直ぐで潔癖症で、そして何よりも兄を愛している弟が、兄を奪われて、はいそうですかと納得するはずが無い事は、誰にでも簡単に分かることだった。分からないのは、自己嫌悪と後悔のあまり盲目になっている兄自身くらいだろう。きっと、何らかの形で奏が響を取り返しに来ると都築は知っていて、敢えて、響の時間をもらったのだ。

 初めて会ったとき、綺麗な、愛すべき子供だと思った。この笑顔を、ずっと守ってやりたいと、真実、都築は願ったのだ。けれども、何の皮肉か、それをさせなかったのは、当の響本人だった。
 傷つけて、罵って、汚して欲しいと響が望んだから都築はそうしたに過ぎない。本当は、いつだって、都築はこの半年してきたように響を大事に扱って守ってやりたかった。けれど、それも、もう終わりだ。
 突き詰めれば、結局、自分の浅ましい恋情が発端だった。本当に、響の事を親として愛し、幸福を願うなら、響が十七歳のあの雨の日に、都築は響を突き放すべきだった。自分を大切にしなさいと。例え、もし、それで響がピアノを諦めたとしても、自分との繋がりが切れたとしても。
 どんな歪んだ形でもいい、響の手を離したくなかった。その執着が間違いの始まりだった。響のせいにするつもりなど無い。だから、今度は間違えない。都築がすべきことは、崖の上に立っている雛鳥の背中を押すことだ。もっとも、この頑迷な雛鳥は、自分に翼があるとは全く気がついていないようだが。

「響。今何を感じている?」
 ゆったりとした口調で都築は尋ねたが、響は何も言葉が浮かばないようだった。ただ、ただ、縋るように都築の顔を見つめている。都築はその目を真っ直ぐに見つめ返した。
「どうして……どうして、奏は、そんな、馬鹿なことを……」
 ようやく響が発した言葉を都築は鼻で笑った。
「馬鹿なこと? なぜ? 奏は、君と全く同じ事をしただけだろう。良く似た兄弟だ」
 その言葉がどれだけ響に痛いか十分に承知しながら、都築は告げる。もう、彼は、いい加減に目を覚ますべきなのだ。
 今度こそ言葉を失い、顔面蒼白で目を見開いている響から決して目を逸らさず、都築は尋ねた。
「響。今、何を感じて、どう思っている?」
 響は答えない。答えられない。しばしの沈黙の後、都築は穏やかな、静かな声で、
「今、君が感じていることは、奏が君のしてきたことを知ったときに感じたことと全く同じなんだと気がついているか」
と、断罪した。
 いつの間にか再び降り出したのだろう。雨が窓を打つ柔らかな音が聞こえる。やはり、雨の夜なのだと奇妙な奇遇を都築は感じた。
「響。君はいつでも奏にコンプレックスと負い目を抱いていたようだけれど、私は、それほど、君と奏に差があったとは思えない。けれども、ただ一つ、決定的なことが君には欠けていた。
 奏は素直で真っ直ぐで、幸せに対して前向きな少年だった。けれども、私は、彼が利己的だとか、自分の幸福に貪欲だと感じたことなど一度も無い。奏はね、君が知らなかったことを知っていたから、幸福であろうと努力していただけだ。奏は知っていたんだよ。『自分が幸福であることが、愛する兄の幸福だ』と」
 責めるではない、ただ、諭すために都築は穏やかな声で話し続けた。響は、もう、端から見ても分かるほど、体を小刻みに震わせている。いま、この時間でどれだけのことが理解できているのか都築には分からない。それでも、先を続けた。
「響。君は、最初から大きな間違いを犯していた。君が、本当に奏の幸福を願うなら、君が一番最初にしなくてはならなかったことは、自分を犠牲にして奏に糧を与えることなんかじゃない。ただ、単純に、自分自身が幸せであろうとまず努力することだった。けれども、君はそれを一番おろそかにして、自己満足でしかない自己犠牲を続けた。それが、どれだけ奏を傷つけてきたか、君はいい加減に悟るべきだ」
 響は、とうとう耐え切れなくなったのだろう。都築の顔を見つめることはやめ、逃げるように目を閉じている。それでも顔を俯けることだけはしなかった。
 都築は奏が送ってきた航空券を取り出すと、
「響。目を開けなさい。そして、今、ここで、これを受け取るかどうか決めなさい」
と、告げた。響は、どこか怯えたような表情で目を開く。それから、都築の手にあるそれをしばらくじっと見つめていたが、ゆっくりと手を動かした。その手も、微かに震えている。それでも、響はそれをきちんと受け取った。それを見届け、都築は無意識に安堵のため息をこぼす。
「響。今度こそ、本当に言わせてくれるね」
 都築はそこで、いったん言葉を切り、響の目をまっすぐに見つめた。もし、祈りだとか、思いだけで誰かを守れたり、幸福に出来るなら、そうなれば良いと思いながら。


「遠くにいても、君の幸せを祈っている」


 響は、不意に顔をくしゃりと歪め、最初は堪えていたようだったが、結局はとめどなく涙を流し始めた。こんな風に、きちんと都築の顔を見ながら響が泣くのは、二度目だ。一度目は、父親が死んだ時。その時と同じ、子供の顔のまま響は泣き続けた。都築も、また、同じようにそっと腕を伸ばして響を抱きしめる。ただ、慰め、労わり、愛しむためだけに。
「先生、今までありがとうございました」
 濡れた声で、けれどもはっきりと響が言ったのを聞いたとき、都築の胸に押し寄せたのは、愛情が報われたことに対する大きな安堵と、それと同じだけの寂寥感だった。たった今、自分が愛した子供は、腕の中から飛び立った。ここから先、もう、都築に出来ることは何も無い。ただ、無心に、幸福を祈るほかには。




 飛び始めた未熟な雛鳥に、光多かれと願いながら都築はその腕を、そっと離した。




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