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音の轍 - 19 …………


 夢を見ていた。夢を見ていると、自覚していながら見ている夢だ。なぜだか響は食卓に座っている。けれども、目の前にあるテーブルも座っている椅子も見覚えが無い。半年前まで慣れ親しんでいた二人掛けのそれとも違うし、今現在使用している不必要に大きくて高価な家具のそれとも違う。そして、周りには何もないという奇妙な光景だった。
 真っ白な部屋に真っ白なテーブル。椅子も真っ白で、ただ、ポツンと卓上に桃が置かれていた。けれども、それはあまり見目の良いものではなかった。茶色に変色して、腐りかけているのが分かるそれ。けれども、腐る寸前なのか、すでに腐るかしている桃は酷く甘い匂いを発していた。甘い、甘い、酩酊してしまいそうな匂い。
 なぜだか、響はそれを無視できずに、恐る恐る手を伸ばした。腐っているか腐っていないか。それを知りたくて微かに力を入れた途端、桃は無残にぐしゃりと形を崩した。酷く柔らかい、熟れた果肉。何の手ごたえも無い、むしろ液状化する寸前のような。けれども、潰れたことによって、その匂いは何倍にも増したようだった。
 甘い、甘い、噎せ返る匂い。ドロリと手に付着した茶色い果肉を響はベロリと舐めた。口の中で何の抵抗も無く溶けていくそれは、匂いと同じく、とても甘かった。
 甘いから腐っていくのか、腐っていくから甘いのか。
 分からずに、響は自分の体もぐずりと溶け出していくような錯覚に襲われた。溶けていく。ただ、甘ったるく腐っていくように。
 ふと、
「お兄ちゃん、ダメだよ」
と幼い声がした。聞き覚えのある声に、響はなぜだか酷く怯えて、ゆっくりと振り返る。そこには、よく知った十歳位の少年が立っていた。

 知っている。これは自分の『弟』だ。

「お兄ちゃん、ダメだよ。それは甘くても腐ってるもの」
と弟は言った。響の目を真っ直ぐに見つめながら。弟は生来、感情豊かでそれを表に出す性質だ。だが、実のところ、どこかでそれを『制御している』のではないかと響は薄々と気がついていた。それが証拠に、弟は幾ら怒っていても、響が本格的に困る一歩手前で必ず納得した振りをして自分から引く。それでも、本当に怒る時もあって、そういう時は、むしろ癇癪を起こしたり声を荒げたりするのでは無く、こんな風に静かに真っ直ぐ人を見つめて断罪する。
 一度、響が高校生のころ酷く風邪を拗らせて、肺炎を起こしかけたことがあった。それでも、自分以外に家の事を管理する人間がいないから、無理に立ち働いていたら、弟は本気で怒ったのだ。その時も、こんな目で響を見つめていたはずだ。ただ、ひたすら真っ直ぐにその澱みの無いまなざしを向けてくる。そして、ともすれば酷く悲しんでいるようにさえ見える表情で告げるのだ。
「お兄ちゃん、ダメだよ」
と。もしかしたら、弟にとって本当の怒りと悲しみは同質のものだったのかもしれないと、響はぼんやり思う。目の前の小さな弟は、くしゃりと顔を歪める。そのまま泣き出してしまうのではないかと思ったら、響の胸は酷く痛んだ。
「ダメだって、言ったのに」
 最後だけそれを言って、弟はぐにゃりと歪む。ぐずりと崩れる体。まるで、熟れて腐って溶けていく桃のように。
「かなっ……!」
 手を伸ばしても届かず、名前を呼ぶのも半ばで、響は、はっと目を開けた。


 瞬間、見えたのは、思わず伸ばしてしまっていた自分の手だった。その向こう側に見えたのは既に見慣れた天井だ。半年以上見続けた天井。ただ、飼い猫のように主人を待ちながら一人きりで見上げたり、その主人に上から押さえつけられ抱かれながら見上げたり、それはその時々で違ったけれど、とにかく、どこに染みがあるかまで知ってしまっている天井だった。
 少し休もうとベッドに横たわったつもりだったのに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。伸ばしていた手をゆっくりと下ろし、ふと時計を確認すれば、すでに午後四時近い時刻を指し示していた。ポツポツと雨が窓を打つ音がする。寝ている間に降り出したらしい。この時期の曇天は別段珍しくも無く、辺りは既に薄暗かった。不意に、パチンと音がして部屋の灯りが灯る。
「響?」
と、自分を呼ぶ声は、酷く優しげな甘ったるい男の声だった。
「寝てるのか?」
と、部屋を覗き込んでくる都築はまだコート姿だ。帰宅して、すぐに寝室を覗きに来たのだろう。この家は二人で住むには部屋数が多いが、大抵、響はこの部屋に入り浸っている。ベッドとピアノだけが置いてある寝室。言い得て妙で響は自嘲的な笑みを漏らしてしまった。
 今の自分に必要なものはこれだけで事足りる。ベッドとピアノ。
「すみません。うたた寝をしていました」
「そうか。悪いが、お茶を入れてくれないか」
 都築は穏やかな口調でそう告げると、そのまま寝室を出て行く。その後姿をぼんやりと眺めながら響は小さな溜息を一つついた。都築は、響が一緒にこちらに来てからずっとこんな風に穏やかな態度を崩さない。慈愛に満ちた、とでも言うべき穏やかさと優しさで響に接する。そのあまりの穏やかさに、響は、最初、それが何かの嫌がらせかと疑ったくらいだ。
 もともと、都築は少々嗜虐的なところがある。普段は実に品行方正な紳士然とした態度を崩さないが、時折、酷く冷淡な顔を覗かせる。セックスのときが特に顕著だ。自分の何がそうさせるのかは分からないが、以前は、その嗜虐性が響に向けられていた。でも、今は違う。響は進んで都築の『飼い猫』になったから、当然、夜の相手もさせられる。最初、どれほど酷い扱いをされるのかと思っていた響だったが、一緒に暮らし始めてこの方、響にその嗜虐性が向けられることは殆ど無かった。むしろ逆なのだ。都築の響に対する扱いは、まるで貴婦人を相手にしているときのそれに近い。細心の注意を払って、大切に扱われる。セックスも、まるで、恋人同士のそれとなんら変わらないようで、響は慣れるまで困惑してばかりだった。
 耳元で囁かれる甘ったるい睦言、ただ響の快感を引き出すためだけに与えられる愛撫、絶対に傷をつけることの無いもどかしさを感じさせるような温い接合だとか。そのどれもが響を困惑させ、そして、それに慣れるにつれて次第にグズグズと響を腐らせ始める。もしかして、それが目的なのかと疑いたくなるくらい。
 だが、響は、知っている。気がついているのだ。こんな都築を。
 遠い記憶の中に、同じ都築が存在している。父が亡くなる前、ただ、純粋にピアノの師として都築を慕っていた頃に、都築は確かに、こんな風に響に接してくれていたのだ。
 そうすることの意図を、ずっと響は考え続けてきたけれど半年経った今でも答えは見つけられない。
 窓を打つ雨音を聞きながら、響は億劫そうな仕草で立ち上がり、都築の待つリビングへと向かった。



 ソファに座り、郵便物を確認している都築を横目に響はお茶の準備を始めた。こちらに来て、上達したのはこの、紅茶の入れ方だけだ。何とはなしにやっているうちに上達した。近所の紅茶を扱っている店の店主と自然に馴染みになって教えてもらったせいもある。だが、それだけだ。それ以外は、ひたすら退化していく毎日だった。
 都築は、響に、何をしろとは絶対に言わない。ただ家にいて、命令されたわけでもない家の事を暇つぶしにしながらピアノを弾く。夜は都築のセックスの相手をする。それだけの毎日。人が聞いたら何と贅沢な、というかもしれない。けれども、響にはとてもこれが幸福だとは思えなかった。だが、これが自分の選んだ道なのだ。
 ティーポットを蒸らしながら、ふと視線を上げた先に、都築が見える。都築は何か一つの郵便物を真剣な表情で読んでいたようだったが、不意に、その表情を崩し、さも楽しそうに笑った。おかしくて仕方が無い、というような楽しそうな表情で、響はハッとする。こんな表情の都築を見るのは実に久しぶりだと思った。
「響。お茶を飲んだら出かけよう。今日は外で夕飯を食べる」
 唐突に言われて、響は、
「はあ」
とぼやけた返事を返した。別段、珍しいことではない。気まぐれに都築に連れ出されることは今に始まったことではなかった。言われるまま、あちこちに出かけ、都築の知人友人にも紹介されたこともある。

 どこまで本気で言っているのか分からないが、都築はその時々で、響の紹介の仕方を変えた。恋人に始まり、ピアノの弟子、弟、親戚の子供、隠し子、恩師の息子、時には飼い猫だと紹介されたこともある。その大半が言葉遊びだと都築も相手も分かっているようで、響は内心呆れつつも、そのジョークに付き合ってきた。

「それなら、着替えてきます」
 部屋着のラフな格好で過ごしていたから響はそう言ったのだけれど、都築は首を横に振る。
「その必要は無いよ。新しい服を買おう」
と、都築は楽しげに言った。これも、別段、珍しいことではない。都築は響を着せ替え人形か何かだと思っているらしく、気が向くと、あちこちの店に連れて行っては自分の気に入った服を買い与えていた。お陰で、来た時は数着の着替えしか無かった響のクローゼットは今や服で溢れかえっている。
「……先日、買って頂いたばかりですが」
「私の道楽だよ。だまって付き合いなさい」
 無駄と思いつつ、遠慮しようとした言葉は案の定、無下に却下された。都築が一度こうだと決めて、それを覆すことは殆ど無い。響は小さな溜息を一つ吐くと、
「分かりました」
と了承した。


 まるで、近所のスパーでりんごやオレンジを買うように都築は高価な服を簡単に響に買い与える。もともと母子家庭で育ち、贅沢に慣れていない響には、それは気後れを感じさせ、むしろ苦痛に近い。だが、もちろん都築はそれについても反論は一切させない。だから、響は、ただ、与えられたものを黙って着てみせる。都築は何が楽しいのか、いつもそれを見て満足そうに微笑むのだ。
 その日も同じで、別段、変わったことがあったとは思えなかった。もう、値段を見るのも面倒で確認しなかったけれど、恐らく安くは無いであろう服を買い揃えられ、それに着替えさせられた。そして、そのままとあるレストランバーに連れて行かれた。それで、響は、やはり都築の機嫌が良いことを確信した。彼は、機嫌がいいときにだけ、その店を選ぶからだ。

 その店は、大通りから少し外れた小路の片隅にひっそりと佇んでいるこじんまりとした店だった。看板は上げていない。一見もお断りのその店は、専属のオーケストラも抱えている大きな劇場の裏手にある店で、音楽関係者ばかりが集まる場所だった。小さなステージもあり、ピアノも置いてある。時々、飛び入りで演奏をする人間もいるような音楽漬けの店だった。だが、集まる人間は、ほぼ全員玄人だ。だから、下手な演奏などできないし、しようものなら容赦ないブーイングがあちこちから上がる。酷いときには、マスターに店を叩き出されることもある。
 響は、都築がこの店で気まぐれに演奏をするのを三度ほど聞いたことがあるが、当然、一度も、ブーイングなど起こったことがない。響も、今更ながら唸るほどの演奏だった。そういえば、都築の演奏をこうしてきちんと聞くのは何年ぶりだろうと思いながら聞いたピアノは、少しだけ、記憶の中の父の音と似ている気がした。
 その店での響の役割は『都築の愛弟子』だ。その店で会う人間には、誰にでも都築は響を、そう紹介した。都築流のジョークか、あるいは嫌味なのだろうかとも思ったが、響はあえて、それにも反論しなかった。ただ、時折、店のマスターだとか客に、お前も演奏してみろと言われるのは少々バツが悪かった。
 確かにピアノはずっと弾きつづけていた。だが、人前での演奏は一切止めたから、それを聞いていた人間は一人しかいない。その一人とも、半年前に別れてしまった。もしかしたら、永遠に会えないかもしれないその男を思い出すと、響は何か冷たいものが胸の中に降り積もっていくような気がする。いずれにしても、まともにピアノの練習をしてきたわけではない自分が、どれほどの実力なのかは押して知るべしだ。プロ、セミプロが集まっているその店で弾く勇気など、響には到底無かった。

 店に入ると、席は八割がた埋まっていた。何とか二人掛けのテーブルを確保して、適当に料理を注文する。食前酒に口をつけていると、ふ、と影が差して響は顔を上げた。そして、テーブルの傍らに立っている人物に気がつくとうんざりとした表情を見せた。
 響よりは少しばかり背の高い、金髪の青年だった。白人特有の白い肌に、整った顔立ち。ただ、その青い瞳は少々つりあがっていてきつい印象を受ける。それでも、綺麗な青年には間違いなかった。
「久しぶりだね、ツヅキ」
と、青年は敢えて響を無視して都築にだけ話しかけた。またか、と思う。このまま青年に席を譲って帰りたい衝動に、響は駆られた。初めて会ったときから彼は、あからさまに都築に色目を使って、響を目の敵にしているのだ。お門違いもいいところだと、響はいつでも鬱陶しい思いをさせられていた。
「ずっと会えなくて寂しかった」
としなだれかかってくる青年に、都築は何ともいえない笑みを浮かべた。
「レスタ、悪いが私の子猫が機嫌を悪くするから離れてくれないか」
 悪びれず、そんな風に言う都築に響は心底呆れる。そうすれば、レスタと呼ばれた青年の悪意が全てこちらに向くのが分かっていての言葉なのだから。案の定、レスタは、
「ヒビキより、僕の方がずっと魅力的だと思うけど?」
と響を睨みつけながら言った。
 そもそも、自分は都築の恋人ではないのだし、都築がどこで誰と付き合おうと文句など言える立場ではないのだ。それに、例え、言える立場だったとしても響は文句など言わないだろう。都築が誰と付き合おうと、セックスしようと、響は嫉妬など感じないのだから。
「そうですね、僕もそう思います。都築先生、僕は席を外しますから彼と食事を楽しんでください」
と、トラブルを避けたい一心で響は言ったが、むしろ、それはますますレスタを怒らせたようだった。
「君、僕の事、馬鹿にしてるの!?」
「そういう訳ではありません」
 至極落ち着いた、静かな声で響は答えたが、それがますます気に障ったらしい。レスタは、その白い頬を紅潮させて響を睨みつけた。
「ツヅキの愛弟子だからって、いい気になっているんだろ!? 大体、ピアノの腕だってどうだか分からないじゃないか! 僕の方が絶対に上に決まってる!」
 そこまで言われても、響は腹など立たなかったし、反論する気も起きなかった。彼は、裏の劇場のオーケストラのバイオリニストで、れっきとしたプロなのだから、その言い分は当然だ。もっとも、ピアノとバイオリンを比べること自体がナンセンスだとは微かに思ったが。
 けれども、響が素直にそれを肯定したところで、彼は、ますます侮辱されたと怒るだろう。どう反応してよいのか分からずに、チラリと都築に視線を移すと、真正面から視線が合って、ハッとした。
 都築は、真っ直ぐに響を見つめて、さもおかしそうに、人の悪い笑みを浮かべていた。この表情をしているとき、都築はろくな事を考えていない。案の定、
「それは、私の弟子に対する侮辱だね。レスタ、君の認識が間違っていることを証明しよう」
と、都築はゆったりとした口調でレスタに告げ、それから、響に向かって、
「響。ピアノの所に行って演奏してきなさい」
と命令した。それを聞いた途端に、響は顔色を変える。
「……ここで、ですか」
 何かの冗談であることを祈りながら響は尋ねたが、都築は、実にあっさりと
「そうだ」
と答えた。
「へえ、それは良いね。是非、僕にも拝聴させてくれよ」
 レスタは、響を小馬鹿にするように成り行きを見守っている。今一度、響は都築に確認するようにその目をじっと見返したが、更に与えられた言葉は、
「響。私に、恥をかかせるなよ」
という一言だった。
 どういうつもりなのだろうかと訝しく思いながらも、響は立ち上がる。テーブルの横を通り過ぎるときにレスタが酷く面白そうな顔をしていたのが見えたが、別段、どうとも思わなかった。
 カウンターの前まで一度行き、その中にいるマスターに声をかける。
「ピアノをお借りします」
となるべく丁寧な態度と口調で告げると、気難しさがその容貌やら立ち振る舞いやらに滲み出ている老紳士は、フンと鼻を鳴らして見せた。
「勝手にしろ」
とは許可の返事だ。だが、それは同時に演奏者が審査されることをも意味する。音楽をこよなく愛する彼の逆鱗に触れれば、即刻店を追い出され、下手をすれば出入り禁止を言い渡されるだろう。もちろん、響もそれを知っていたが、あまり緊張感は無かった。不安も無い。自分でも驚くくらい、どこかが麻痺していて、まるで人事のようにしか感じられなかった。
 ゆっくりとピアノの前に座ると、幾つかの視線が集まる。そのどれもが好奇心に満ち溢れていた。色々な意味で、自分が値踏みされていると響は思った。
 この世界では、新参者に対しては決して優しい評価は下されない。むしろ点数が辛いのが常だ。厳しく評価され叩かれることによって、本物と偽者の選別が行われ、それに耐えられないものは淘汰される。だが、自分には関係の無い話だと響は鍵盤を見つめながら考えた。そもそも、自分はプロの音楽家ではないし、また、それを目指しているわけでもない。だからこそ、あまり、不安も恐怖もなかったのかもしれない。
 あるのは、奇妙な既視感だけだ。どことなく、過去に覚えがある状況のような気がして、すぐにその理由に気がついた。この店は、ピアノと客席の配置が、酷く梓の店と似ているのだ。高校から大学の七年間、ずっとピアノを弾き続けた空間。それとよく似通っているような気がした。
 懐かしい、と場違いな感情を抱きながら響は鍵盤に指を乗せた。人前で演奏するのは、ずいぶん久しぶりだ。緊張するのが当然の場所で、けれども響が感じていたのは奇妙な開放感だった。
 自分の事を知っている人間が、ここには都築しかいないからかもしれない。その都築も、おそらく、自分の弱い部分、醜い部分を一番良く見せてきた相手だから、今更、取り繕おうだなどという矜持は存在しない。

 ただ、ピアノを弾くことの喜びだけを考えて、響は指を走らせ始めた。




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