音の轍 - 18 ………… |
「今後、一切、ピアノを弾かない番組には出演させない」 と、衛が、他の三人を集めて言ったのは、それからすぐの事だった。 あの田舎の小学校での一件以来、とにかく、奏は衛に何でも話した。衛はそれを、否定も肯定もしない。ただ、奏が願うことには、 「分かった」 と簡単に頷いた。その代わりに、ピアノを弾けと衛は言った。 「でも、俺は、やっぱり自分のピアノは弾きません」 と、頑なに言い張る奏に苦笑いを浮かべただけで、それにも否とは言わなかった。 「構わないさ。そこまでは干渉しない。それに……確かに、あれは、お前のピアノじゃないだろうが、でも、お前のピアノの一部だと俺は思うがな」 衛はそんな風に、奏の『コピー演奏』を肯定した。その意味が分からずに不思議そうな顔をした奏に衛は言う。 「初めて、お前の演奏を聞いたとき、お前等兄弟は、父親の才能を見事に真っ二つに分けたんだと思っていた」 「父の、才能、をですか?」 「ああ、二宮克征は本当に天才だった。どう表現しても語弊が出そうだが、あえて言うなら、緻密な繊細さと、伸び伸びとした自由な大胆さの両方を持ち合わせていたピアニストだった。お前の兄のピアノは繊細だが、どこか神経質すぎて線の細さを感じさせるし、お前のピアノは自由で伸び伸びとして大らかだが、緻密さには欠ける大雑把なところがあると思っていた。だが、それは俺の思い違いだった。お前は、今まで、本当の『本気』を出していなかっただけだ」 「でも……俺は、いつだって真剣にピアノを弾いていました」 「まあな。でも、お前の真剣さってのは、どこかに逃げ込める場所がある、プロになるつもりは無いという甘えがどこかにあっただろう? 今みたいに、極限状態に追い詰められたワケじゃない。皮肉な話だな。父親のコピーをするつもりが、お前は、自分の本当の才能を引き出しただけだった」 「……それは、つまり、俺のほうが響よりも上だって事ですか?」 説明しがたい不快感を感じつつ、奏が顔を顰めて尋ねると衛はおどけたように肩を竦めて見せた。 「どうだかな。例えば、の話だ。お前の兄貴がお前の言うところの『解放』をされて、一皮向けたらどうなるかは分からない。第一、無粋でナンセンスだろう。どっちが上とか下とか。百合と桜を比べて、どっちが綺麗かと尋ねるようなもんだ」 らしからぬ、どこか少女じみた表現をする衛に、思わず奏が笑ってしまうと、衛は酷く機嫌を損ねていたけれど。それでも、衛の言っている意味が分かるような気がした。もともと、奏は演奏に優劣をつけること自体、無意味だと思っていたのだから。衛に全てを打ち明けてから、そんなことも思い出すようになった。 どう表現して良いのか分からないけれど、衛の隣にいると奏は楽に呼吸ができるような気がするのだ。弱くても、醜くても、愚かでも、衛はそれを責めたりしない。ただ、静観してくれる。だから、奏は何も偽らなくても良いし、演技しなくても良かった。 あの日以来、衛は極力、奏にはピアノを弾く以外のことをさせないように尽力してくれている。もちろん、どこぞの人間とセックスを強要されるようなことも無い。 「それなら、最初からそうしてれば良かったのに」 と、柴原などは呆れ果てていたようだが。山田や門真も、突然の方針の変更に最初はブツブツと文句を言っていたようだったが、結局は衛の指示したとおりに動いてくれている。門真などは、むしろ、衛の方針変更に肯定的だった。 「もともと、二宮君の本質的なイメージと、今までの売り方じゃ違和感がありすぎて無理があったからね。むしろ、俺は、こういう風に、地味でも実力重視のプロモーションの仕方のほうがやりやすいよ」 と、割合にあっけらかんとした口調で言われた。 馬鹿馬鹿しい、ピアノと何の関係もないような番組に出ることも無い。どちらかというと、露出の度合いは減らす方向で動いていた。その代わりに、演奏会の予定が、急に増えた。最初は、小さなホールでのコンサートを幾つかした。そのどれもが満席で、最近は、中規模のコンサートを幾つかこなし始めている。専門的な音楽雑誌にも取り上げられるようになって来た頃に、奏は大学を休学した。それは、衛と話し合って決めたことだった。 今年一年。 それを衛に預けた。その代わり、衛は本気で動いてくれている。一ヶ月ほどで『奏の店』の営業が開始できるように手配を整えてくれた。梓の所在を見つけ出してくれたのも、その頃だ。梓は、それまで住んでいたマンションを引き払い、住み込みで水商売をしていた。とても、もともとの店を営業できるような状況ではなかったし、梓自身も辟易するようなマスコミに付きまとわれていて住んでいたマンションにもいられなかったからだ。 奏が、それ、を知ったのは年明けの雪が降った日だった。その日は何も仕事が入っていなかったから、衛のマンションでゆっくりとした朝を過ごしていた。適当につけていたテレビ番組で流れたニュース。現役の大臣の汚職事件。時々あるような、さして驚くことでもないニュースのそれに、奏の目と耳が釘付けになったのは、それが『敷島』という名の政治家だったからだ。そして、それを内部告発したのが、その息子だった。辛うじて未成年だったので、その息子の名前がメディアに流出することは無かったけれど、奏にはそれが誰なのか簡単に分かった。そして、ああ、そうか、彼がしたかったのはこれだったのかと全てが腑に落ちた。腑に落ちたというよりも、どこかで分かっていたことを肯定された、そんな気持ちだった。だからと言って、何をどうすることもできない。奏が、もう決して許せないと思うほど失望したことも、自分から二度とは戻れないところに足を踏み入れたことも消せない事実なのだから。 衛と、セックスしたのはそのニュースを聞いた日だ。 あの、全てを告白した日以来、奏は、他の人間とはもちろん、衛ともセックスすることは無かった。衛の方からそれを要求することが一切無くなったからだ。ただ、衛の前で仮面を被れなくなってしまったことの副作用なのか、奏自身、制御ができずに、どうしようもなく不安定になってしまう夜があって、そういう時、衛は何も言わず、同じベッドに寝てくれる。それでも、ただ、一緒に寝るだけで何もしない。逆に、何も求められないのが不安で、一度、奏が自分からそれを差し出そうとした時に、酷く不機嫌に拒絶された。余計な事をしないで良い、と、心底苛ついたように断られたから、それ以来、奏は馬鹿な事を言い出すのは止めていた。 けれども、その日だけはどうにもならなくて、ただ馬鹿みたいに泣きじゃくって衛に縋りついた。抱いてくれないのなら、外に行って誰でも良いから相手を探すと喚いたら衛は呆れたのか、諦めたのか奏の好きにさせた。 正直、奏はその夜の事をあまり良く覚えていない。子供の癇癪のように泣いて、相手が誰かも分からないような状態で自分から上に乗って腰を振っていた。泣きながら、誰かの名前を呼んでいたような気がするけれど、気のせいかもしれない。ただ、次の日の朝、酷く疲れてどこか痛むような表情をしていた衛の顔だけをはっきりと覚えている。奏と衛がセックスしたのは、それ一度きりだ。 それから暫くは、自分でも分かるほど矛盾していた。視界に入れたくない、知りたくないと思っているのに、気がつけば『敷島』の文字が書いてある週刊誌や雑誌、新聞を全て買い漁っては読みふけっていた。だから、その後の酷い経過も奏は全て知っている。 芋ずる式に暴きだされるスキャンダラスな敷島のお家事情。告発した息子は妾腹だということ。本妻の息子は事故で半身不随だから代わりにその息子が後継者として担ぎ出されたこと。果ては、その愛人自身が私生児だということや、告発した息子の過去の非行行為まで暴き立てられていた。所詮は他人事なのだろう。そこにプライバシーなど存在しない。ただ、ひたすら面白おかしくマスコミは暴露していた。当然、敷島の愛人だった梓も強引なマスコミに追い回され、逃げるように失踪した。本妻と二人の息子の所在も、今は不明らしい。その所在を奏も掴みきれず、結局、衛の力を借りる羽目になった。 所在が分かって、どうするかと尋ねられ、奏は散々悩んだ果てに、自分で梓に会いに行った。そして、その店の店長をして欲しい旨を伝えた。 久しぶりに会った梓は、少し痩せていて、どこか疲れていたようだったけれど、決して荒んではいなかった。久しぶりに会った奏に嬉しそうな笑顔さえ浮かべてくれたのだ。その瞳は、郁人にとても似ている。今更のように、彼等が母子なのだと思ったら、奏の胸は酷く痛んだ。押し寄せる罪悪感に耐え切れず、 「梓さん、ごめんなさい」 と謝った奏に、梓は不思議そうな顔をして、 「何で、奏が謝るのか分からない」 と問うた。それは嘘だ。梓に分からないはずがない。今、こんな状況に彼女が追い込まれた一因は奏にあるのだ。だから、もう一度、謝罪しようとしたら、その口を人差し指で止められた。 「謝るのはこっちよ。一度、私は失敗してるから。同じ過ちは繰り返したくないの。奏。アンタには、何の罪も無い。親なのに、ちゃんと守りきれなかった私が悪い。郁人だけじゃないよ。アンタ達はどう思ってたか分からないけど、深雪が死んでからは奏も響も私は、自分の子供だと思ってた。でも、結局、誰一人、まともに守ってなんてやれなかった。奏、本当にごめんなさい」 そう言って、梓は深々と頭を下げた。奏は慌ててそれを止めたけれど、梓は、何度も何度も謝るから、奏は、しまいには泣き出してしまった。そんな奏を自分の胸に抱きしめて、梓は小さな頃のように、優しく何度も頭を撫でてくれた。 「本当は、響にも謝らなくちゃなんだけど……会えないんだよね?」 「うん……でも、きっと、しばらくしたら戻ってくるはずだから」 「……奏、無茶してない?」 「……してる。かなり」 小さな頃から母親と同等に、ともすればそれ以上に、自分を見守ってきてくれた人だった。偽ることも、誤魔化すこともできずに奏が正直に答えると梓は呆れたように溜息を漏らした。 「昔っから、こうだと決めると一番、無茶するの、奏だったよね。そういうトコ、変わってないね。どうせ言ったって止めないんだろうから、体だけは大事にしなさいよ?」 労わるように梓は、そう言って、結局、奏の店に店長として雇われることに頷いてくれた。別れ際、どうしても気になって、奏は梓に一つだけ尋ねた事がある。 「……梓さん。郁人の事、怒ってる?」 恐る恐るそれを尋ねた奏に、梓はあっけらかんと笑って、 「怒ってないわよ。私がやらなくちゃならなかったこと、代わりにやっただけだもん。今頃、どっかでほとぼりが冷めるの待ってるんじゃない? 怒ってるのは、どっちかっていうと奏でしょ?」 と逆に尋ね返された。奏は言葉に詰まる。何と答えれば良いのか分からずに、口ごもる奏の背中をトンと叩いて、梓は、 「ま、十年くらい経ったら許してやってよ」 と、やはりあっけらかんと笑った。 「……そんなに待たせないよ。五年くらいしたら多分、許してあげると思う」 バツが悪そうに子供のような口調で奏が言えば、 「ま、五年だろうが、十年だろうが、一生だろうが、あの子は待つだろうけどね」 と、梓は独り言のように呟くから、奏は、また、少しだけ泣いた。 梓が店に入ることになって、営業を開始して一ヶ月ほどであっさりと店は軌道に乗った。プロのピアニストの生演奏が聞けるレストランとして、雑誌やらテレビで紹介されたからだ。それでなくても、衛があちこちから腕の良い料理人やスタッフを集めてきていたので、上手くいかない方がおかしかった。 奏は、時間が空けば店に行ってピアノを弾いた。過密スケジュールの合間を縫ってのことだったから、そう回数的にも、時間的にも多いわけではなかったけれど。 それでも、以前のように同じ店の同じピアノの前で演奏をした。ただ、カウンターには誰もいない。それだけが違う。定位置に座る人がいないことを、今は嘆かない。 唯一、その場所でだけ奏は自分に『自由にピアノを弾くこと』を許した。ただの思い込みだと、他人は言うかもしれない。それでも、奏にとってその場所が特別な場所であることは真実だった。 そんな風にして、冬も終わりに近づいた頃。衛が全ての仕掛けを終わらせてくれた。 「チェックメイト。『脅迫状』はお前が書けよ?」 と、不敵に笑って差し出された数々の書類と、一つの住所。そして、用意された航空券。 奏は、一通の手紙を書いた。短い文面のそれ。 けれども、それで全て伝わるだろう。 |