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scientific essence - 9 …………
 夢を見た。
 遠い、子供の頃の記憶だ。夢を見てるのだと頭のどこか片隅で自覚しているのに、その鮮明な記憶は奇妙なリアリティで、僕に恐怖と不安を与える。

 何の躊躇も無く振りかざされる暴力の数々。罵声を浴びせられるなど、ずっと生ぬるい方だ。犬猫のように容赦なく、体中を蹴られ、殴られる。別に何をしなくとも、大人たちの機嫌が悪ければ、その気晴らしの為にそうされる。
 酔っ払い、ゲラゲラと品無く笑いながら目の前の器に小便を垂れ流される。食べ物が欲しければ、暖が欲しければそれを飲めと言われて、仕方なく飲んだ。泥だらけの靴を舐めろと言われれば選択の余地も無く、その通りに従った。それを見て、嘲笑う大人たち。何が楽しいのか僕にはさっぱりだった。
 退屈しのぎの余興。
 とても口では言えない様な畜生以下の行為でさえ、僕も、ウラジミルも抵抗無く行った。それが、惨めな事だとか、辛いことだとか感じるようなまっとうな感覚は僕達にはかなり前から無くなっていた。大事な事は、辛くて仕方の無い飢えと寒さ。それを凌ぐ為なら何でもしただろう。
 何でも言われた通りにする事は大して辛いことではなかった。殴られないためなら、床に額をこすりつけて許しを乞うた。痛い思いをするよりも、その方がずっと簡単だからだ。
 自尊心だとか、尊厳だとか。そんなものは、誰も教えてくれなかった。人間らしく生きる方法。そんなものがあることさえ。
 泥酔しすぎた大人の一人が力加減をせずにウラジミルを蹴りつけたせいで、ウラジミルは、とうとう冷たくなり、二度と目を覚まさなくなった。初めて、人が死んだのをすぐ近くで見ていたのに、僕には何の感慨も無かった。ウラジミルの分のパンとミルク。それに僕が手をつけても叱られないだろうか。そんなことしか考えられなかった。
 朝になり、酔いのさめた大人たちは乱暴な言葉で喧嘩をしていた。せっかくの金蔓を不意にしやがって! と、ウラジミルを蹴り付けた大人が今度は皆に蹴られていた。もうコレしかいないのだからコレは死なすなよ、と僕を指差して誰かが言った。
 その後は、少しだけ暴力が止んだ。

 ウラジミルが死んでから、二ヶ月ほどした頃だろうか。とうとう、大人たちの悪行が公になってしまったらしい。物々しい数の人間が、僕達のいる場所に押しかけてきて、あっという間に全員が捕まってしまった。僕も例外ではない。
 よく分からない場所に連れて行かれて、良く分からない事を聞かれた。
 僕は殴られるのが怖かったので、自分の分かる事は何でも正直に話した。けれども、僕が答えられないことがあっても、その場所にいた大人たちは絶対に僕を殴ったりしなかった。しかも、何も『仕事』をしていないのに、暖かい部屋に入れてくれて、体を綺麗に洗ってくれて、美味しいパンとミルクと、スープを食べさせてくれた。
 僕は、一体いつ殴られるのだろうかと思って待っていたけれど、結局最後まで僕が殴られることは無かった。そのうちに厳しい顔をした男が何人かと、見たことも無い綺麗な格好をした女の人がやって来て、僕に向かって
「君には懲役284年の実刑判決が出た」
と言った。僕は、刑務所に入らなくてはならないのだろうか、と思ったけれど、更に、
「君は、刑務所の中で死んだんだよ」
と言われた。僕は意味が分からなくて、最初、本当に僕は既に死んでしまっているのかと思った。死んでしまったのに、自分で気が付いていないのだろうか、とぼんやり考えていたら、一枚の紙切れを差し出された。それには「死亡診断書」と書かれていて、その下には『ミハエル』と確かに僕の名前が書いてあった。
 やっぱり、僕は死んでしまったのだろうか、それに自分では気が付いていないのだろうかと思っていたら、綺麗な格好をした女の人が、
「アナタは今日から『ミチヤ』という名前になるのよ」
と、不思議な表情と声で言った。それは、何度か話したことのある教会のシスターに少しだけ似た表情と声だ。シスターは絶対に僕を殴らない。僕を蹴らない。時々、少しばかりだけれどパンをくれたりもする。
 そして、この女の人も、絶対に僕を殴ったりしないだろうな、と何故だか思った。理由なんて無い。ただ、そう思ったのだ。
 女の人は僕に手を差し出し、優しく頭を撫でてくれた。そして、こう言った。
「『ミチヤ』は今日から、私と一緒にニッポンに来るのよ」
 ニッポン。
 聞いたことはあったけれど、行ったことなどもちろん無い国だった。小さな、南東にある島国。その女の人のように、黒い髪と、黒い目をした人がいる国。
 女の人は、僕の手を引いて立ち上がる。そして自分の名前を教えてくれた。
 『片桐サツキ』
 それが彼女の名前だった。









 意識が混濁している。薄っすらと目を開いて、辺りの状況を確認しようとしたが、まるで霧が掛かったように頭がはっきりとしなかった。
 眠ってはいけない、と頭のどこかが警告を出しているのに抗えない。
 甘い香り。有機系の。
 匂いをかいではいけない、と思ったけれど、逆らえるはずも無く、僕の瞼は落ちていく。
 すぐ隣に体温を感じる。本能的に体を寄せ、庇うように抱き覆えば懐かしい匂いがした。
 そう、この匂いはシイナの匂い。草花や木々の香に少し似た。
 靄のかかる意識。
 深く深く沈みこんだその場所は、サツキが僕に暗示をかけた禁忌の記憶だった。









 日本に来てからも一向に症状が改善しない僕に、サツキはとうとう音を上げて暗示をかけることにしたと言った。
「でも、本格的な記憶の封印はしないわ。それは本当の治療ではないから。ミチヤは乗り越える強さを育てて行ける子だと私は信じている。だから、ゆるく暗示をかけるだけ。無意識に、それを思い出すことを避けるように。けれども、何か強い刺激があれば暗示は解ける。万が一、そうなった時に混乱したならば」
 サツキはそこまで言うと僕の体を優しく抱きしめて、額と頬に柔らかなキスを落とした。
「思い出して? 貴方が『ミチヤ』に生まれ変わってから学び、得てきたことを」
 そうして、サツキは僕に上手に暗示をかけてくれた。
 それから数ヶ月に一度、カウンセリングという名の治療を受けた。僕の自我や精神の成長に合わせて、サツキは辛抱強く、少しずつ暗示を緩くしていった。暗示が緩くなった分、時折悪夢が僕を苛んだりしたけれど、その度にサツキや周防さんや研究所の人たちが、それを乗り越える手伝いをしてくれた。
 だからだろう。比較的大量の記憶が鮮明に蘇ってきても、僕は思ったよりも取り乱したりはしなかった。自分に対する嫌悪感や、何に対してか分からない激しい憎悪。それが頭の中で荒れ狂って少しばかり手に余るとは感じたが、だからと言って錯乱するほどでもなかった。

 ゆっくりと目を開ける。辺りは少し薄暗く、目の前には泣き腫らしたシイナの顔がそこにあった。頭の中で荒れ狂っていた負の感情が、面白いくらいにスッと引いて行く。シイナの顔を見ているだけで、僕は穏やかで暖かな気持ちになれた。
「ミチヤ? ミチヤ? 大丈夫? どこも痛くない?」
 まるで、自分の方がよっぽど痛いような顔をしてシイナは一生懸命僕の名前を呼び続けている。シイナの泣き顔を見ているのが辛くて、僕は思わずシイナの頬を自分の手のひらで拭った。そのせいで、体を少し捩る事になり、腹の辺りに鈍痛が走る。嗚呼、気を失う前、蹴り付けられた場所かと僕は案外冷静に自分を診断した。封印されていた記憶が解放されたきっかけになった『強い刺激』もこれなのだろう。
 暴力。
 僕はそれには非常に弱く、耐性が無い。
 シイナに抱きしめられて横たわったまま、僕はぐるりと辺りを見回した。
 窓は無い。6畳ほどの狭い部屋で、裸の蛍光灯と、簡易ベッドが置いてあるだけの殺風景な場所だった。扉はご丁寧に頑丈な鉄製で、容易に、外から錠が掛けてあるのだと想像できた。
 監禁されているのだろう。窓が無いということは地下かもしれない。僕は無意識に自分のポケットを探り、そこに例の『神林』に押し付けられたモノがあるかどうか確認した。手に当たった金属の感触に少しだけほっとしたが、ふと、地下だったらあまり役に立たないかもしれないと思い当たった。
 いずれにしても、自力で何とかしなくてはならないらしい。
 僕は、シイナの顔をじっと見つめながら頭の中で様々なシミュレーションを繰り広げる。どう考えても、本当のことを言わずに、事態を進展させるのは不可能だと思った。
 僕は、静かに目を閉じて深く息を吐き出す。それから再びゆっくりと目を開き、シイナの顔を見詰めたまま、はっきりとした口調で、ゆっくりと
「シイナ」
と彼の名を呼んだ。
 シイナは一瞬、驚いたように目を見開く。それから、すぐに訝しげに顔を顰めた。
「ミチヤ?」
「もしかして、僕達監禁されてる?」
 僕はシイナの戸惑いには一切構わずに言葉を続ける。空耳でも、聞き間違いでもなく『声を発した』僕に、シイナは心底驚いたような表情を見せ絶句した。
「シイナ? おーい。聞こえてる?」
 僕は苦笑いしながらヒラヒラとシイナの目の前で手の平を振って見せた。シイナは状況が掴めていない困惑した表情のまま、コクコクと頷いて見せた。
「ど・・・どうして? 片桐先生が話せるようにしてくれたの?」
「いや。元々しゃべれるよ」
「な・・・なんで? だって、dollは話が出来ないはずじゃ・・・」
「今まで騙しててゴメン。僕は本当はdollなんかじゃない。れっきとした人間なんだ」
 僕はシイナに真実を告げながら、勝手にカミングアウトした事を後でサツキにこってり絞られるんだろうな、と少しだけ辟易した。まあ、もっとも、無事にサツキの元に帰る事が出来れば、の話だけど。
 シイナは、僕の言葉を聞いて一瞬ポカンと呆けた表情を見せ、それから急に顔を青くした。そして、
「ど・・・どうしよう。蹴られたショックで壊れたのかな? あのね、ミチヤ。君はどんなに精巧に作られていても、人間じゃないんだよ?」
と、トンチンカンな事を言い出した。僕は一瞬、シイナの言葉の意味を理解できずに思考が停止したが、次の瞬間に激しい頭痛に襲われた。シイナの天然ぶりは多少認識していたつもりだったが、ここまでだとは予測できなかった。
「・・・いや、だから、あの。最初から僕がdollの振りをしていただけで、本当に僕は人間なんだけど」
 僕が何とか言い募ると、シイナは僕の両腕をガシッと掴んで僕の体を揺さぶる。
「あのね、ミチヤ。君はdollで本当の人間じゃないんだ。どこかが故障して、そう思い込んでいるのかもしれないけど。嗚呼、もう! なんでこんな時に故障するんだ!」
 シイナが本気で吐き出した言葉に僕は軽い眩暈を覚えつつ、仕方無しに、最初から全てを説明した。

 それはもう、懇切丁寧に。



 説明の最初のうちは、シイナは疑いの眼差しで僕を見続けていたが、やがて神妙な面持ちになり、それから、どこか沈んだようなしょんぼりとした表情になり、最後には複雑そうな表情で黙り込んでしまった。
「・・・それじゃ、僕は『本当の人間』を事件に巻き込んでしまったんだね」
 沈み込んだ表情のまま、シイナはポツリと零す。僕は、全く巻き込まれただなんて思っていないし、それを迷惑だとも思っていなかった。だから、キュッとシイナの手を握る。
「シイナのせいじゃない。それより・・・シイナを騙したこと、怒らないの?」
 僕が恐る恐る尋ねると、シイナはキョトンとした表情を見せ、それから苦笑いを漏らした。
「怒ってなんていない。片桐先生だって、僕の事を考えてくれたからこそ、こんな計画を立てたんだろうし」
 シイナはそう答えながら、僕の手をギュッと握り返してくれた。
 正確な状況が把握できているわけじゃないけれど、どう考えても危険な状態だ。もしかしたら、生命の危険すらあるのかもしれない。けれども、こんな時なのに僕はとても嬉しくて、暖かい気持ちに包まれていた。
 シイナが僕の存在を受け入れてくれている。それだけで、僕は様々なことから救われて、穏やかな凪いだ気持ちになれた。






 だが、そんな悠長な事を思っていられたのは、僅かな短い時間だけの事だった。









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