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scientific essence - 8 …………
 本当のことを伝えるには、いろいろな準備やケアが必要だから、と、サツキにはあと一週間dollの振りを続けるように言われた。シイナに本当の事を告げることに一抹の不安を抱えていた僕は、もちろん、それには素直に頷く。
 僕を引き取りに来たシイナは少しだけ顔色が悪かったけれど、前日サツキと不穏な言い争いをしたことなど忘れてしまったかのようなあっさりとした態度だった。メンテの礼を述べて、簡単な説明をサツキから聞く。もっともらしい嘘八百な説明を、シイナは素直に真剣に聞いていた。
 最後にもう一度、頭を下げて礼を言い、シイナは僕の手を取って立ち上がる。ひんやりとしたシイナの手が何だか小さく思えてしまい、僕は無意識にそれを握り締めたのだけれど。
 シイナは、それに気がつくとふっと僕の方に顔を向け、穏やかな優しい笑顔を僕に向けてくれた。

 いつもの、僕の大好きな、温かい笑顔。

 真実を知ったときに、シイナがもう一度同じ笑顔を向けてくれるのか、僕は酷く不安になってしまう。俯いてしまう僕に気が付かず、シイナは僕の手を引いて研究所を後にした。
 家にたどり着くまでの間、シイナは終始無言で窓の外をじっと眺め続けていた。その大きくて真っ黒な瞳に、流れる景色だけが映し出される。一人の世界に入り込んでしまったかのようなシイナの横顔に僕は、なぜだかとても寂しい気持ちになってしまった。
 普通の友人だったのなら。
 そう。こんな特殊な出会い方をしたのでなければ、シイナの横顔に話しかけ、一人の世界からシイナを引っ張り出すことも出来ただろう。けれども、今の僕にはシイナに話しかけることが許されないのだ。
 今、シイナが何を考えているのか僕には窺い知ることが出来ない。
 隣にいるのに、その存在が遠いという奇妙な寂しさを、僕は実感していた。






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 それからの数日は、何ということもなく、平穏に過ぎて行った。ただ、少しばかりぎこちない空気は漂っていたけれど。
 シイナは、サツキと言い争いをした日以来、ぼんやりと何かを考え込む事が増えた。窓から遠くを眺め、小さな溜息を幾つもこぼす。そんなシイナを見詰めている僕に気が付くと、儚い笑顔を浮かべて、やっぱり小さな息を落とすのだった。
 そんな風に一週間が過ぎ、次のメンテナンスの前日に、その人はやって来た。

 僕がいる間に一度だけ訪れたことがあった、唯一の客人。シイナの招かれざる門客。

「こんにちは。用事があるんだが入れてもらえないかな」
 インターフォン越しに聞こえた声で、相手がその男だと気が付いた途端、シイナは前回と同様にあからさまに嫌そうな顔をして見せた。
「何の御用ですか。神林さんも大概、しつこいですね」
 ドアを開け、一応部屋の中に誘いながらもシイナはらしくもなくキツイ嫌味を言ってのける。そしてシイナが呼んだ『神林』という名前に僕は聞き覚えがあった。確かサツキがシイナの保護者代理人だと言っていた人物だ。
「客人に、そんな顔を見せるもんじゃないよ。私も忙しい身なんだがね。これを書いてもらわないと君の父上に文句を言われてしまうものでね」
 つっけんどんなシイナの態度を大して意にも介さず、神林という男は分厚い書類をドサリとテーブルの上に差し出した。シイナはその書類にざっと目を通し、少し離れた僕にも聞こえるくらい大きな溜息を盛大に吐いて見せた。
「いつまでに記入すれば良いんですか?」
「今日中に。というか、今ここで書いてもらって持って行かなければならないんだがね」
 ニヤニヤと笑いながらそう言った神林に、シイナはムッとしたような表情を見せた。
「こういう事は、もっと早くに言ってください」
「いや、君は私の顔なんて見たくないと思ったからね。なるべくここを尋ねる回数は少なくしようという思いやりだったんだが」
 からかうように神林が言い、シイナは憮然とした表情で言葉を飲み込んだ。何か言い返してやりたいが、言われた言葉が図星だった、そんな風だった。
 シイナは筆記用具やら印鑑やらを戸棚から引っ張り出してくると、大人しく、そのまま書類に何かを書き込もうとしたが。
「シイナ君。君は客人にお茶の一杯も出してくれないのかな?」
と、神林に横から茶々を入れられて、呆れたような表情で顔を上げた。
「・・・何が良いんですか?」
 それでも、文句を言う方が面倒くさいのか大人しく神林の意向を伺う。神林はいけしゃあしゃあと、
「コーヒーが良いね。エスプレッソで頼むよ。どうせ、器具は全て揃っているんだろう? ああ、きちんと豆から挽いてもらいたいね。もともと挽いてある豆はどうも古臭くて酸味が強くていけない」
と注文をつけた。シイナはその図々しさに言葉も出ないようで、絶句していたけれど、何を言っても無駄だと諦めたらしく、
「・・・分かりました」
と小さな声で返事をすると、そのままキッチンに引っ込んでしまった。
 シイナが客間のドアを外から閉める。
 その途端だった。
 神林は素早い動作で立ち上がると、僕の前で膝を折った。そして、真正面からじっと僕の顔を見詰める。先ほどの飄々としてふざけていた態度からは想像も出来ないほど真剣な、どこか切羽詰ったような表情だった。
「偽者のお人形君。君の飲み込みのよさと、頭の良さを信じて頼むよ。いいか、一度しか言わない。シイナ君は今、非常に危険な状況に置かれている。二年前、彼を拉致した企業絡みの組織が最近、妙な動きをしている。こっちが先に尻尾を掴めればいいんだが、どうも動きが巧妙すぎて、未だに抑えきれていない。彼は、私の言う事など素直に聞かないだろうから、君にこれを渡すよ」
 早口でそう捲くし立てると、神林はライターほどの大きさの金属の塊を僕の洋服のポケットに押し込んだ。
「いいか? 絶対に、シイナ君から離れてはいけない。そして、これを肌身離さず持っているんだ」
「・・・これ何?」
 神林のあまりの剣幕に僕は呑みこまれてしまい、思わず口を開いてしまった。dollの振りをしているのだから決して話してはならなかったのに。
「探知機だ。今、市場に出回っているものの中では最も高価で高性能で最新のヤツだな。衛星からも探知できる。ま、首相級の人間に持たせるような代物だが、今回は職権乱用だよ」
 神林は僕が話したことに何の違和感も感じなかったらしく、ふざけたように笑うと、再び素早い動きで、それまで座っていた場所に戻って見せた。そのすぐ後にシイナがトレーを片手に戻ってくる。相変わらずの仏頂面で神林にコーヒーを差し出したが、神林の方は今あったやりとりなど微塵も感じさせない自然さで、シイナにお礼を言って、コーヒーの味について薀蓄を垂れ始めた。

 一体、コイツは何者なんだろう?
 身のこなしが、とても常人とは思えない。それに、さっき告げられた言葉も、探知機だとか、衛星だとか、職権乱用だとか、どれも不穏なものばかりで、僕は訝しげな視線を神林に向けてしまった。けれども、神林は完全の僕の存在など無視してコーヒーを啜っている。
 シイナは一生懸命テーブルに齧りついて、神林が持ってきた書類に何かを書きこんでいるので、そんな僕らの様子には全く気がつかない。ちらりとその書類に目を落とせば『保護観察報告書』と書かれており僕は思わずドキリとしてしまった。保護観察、という言葉がシイナの普通でない状態を如実に表しているようで。
 僕のそんな疑問が伝わったのかどうなのか。
 神林が、視界の端でクスリと笑うのが分かった。
「すまないね。これも仕事の一環でね。この書類を渡さないと君の父親が、仕事を放り投げて日本に飛んできかねない」
「・・・分かっています。これ以上、父さんに迷惑を掛けたくないのは僕も同じですから」
 先程よりは剣の取れた口調でシイナは答える。それから、珍しく口の端を上げただけのシニカルな笑みを浮かべた。
「もっとも、神林さんは父さんに会える口実が欲しいだけなんでしょうけど」
 シイナが書類に目を落としたままそう言うと、神林は苦笑を漏らす。理由なんて無かったけれど、その時の神林の表情が、初めて見せた『素の顔』なのではないだろうかと、僕は直感的に思った。
「・・・息子の君にも分かる位なのにねえ。どうしてああも鈍感なんだか聞かせてもらいたいがね」
「父さんは今でも母さんだけを愛しているんです。誰も入り込む隙なんて無い」
 シイナは不意に表情を硬くして頭を上げる。神林を睨みつけているその顔はどこか青ざめているようにも見えた。シイナが表情を硬くした途端、神林もそれまで浮かべていた苦笑をスッと消す。そして、射るような強い視線でシイナを見据えた。
「だけ、ということは無いだろう。息子の君も同じくらい愛しているように見えるよ。ま、君は認めないだろうが。憎まれている、恨まれていると思うことで逃げるのはいい加減やめたらどうだ? 被害者ぶってこんな場所に閉じこもり、自分の世界に浸っていれば誰だって楽だろうがね」
「僕は自分が被害者だなんて思っていません!」
「では何だと思っているんだい? 加害者だと? 殺人者だと思っているとでも? なのに、誰にも断罪されない。それが気に入らなくて引きこもりか? 立派な科学者様だな」
 神林の言っている意味が僕には全く分からなかった。分からなかったけれど、シイナの表情を見ていれば、彼の言葉が確実にシイナに大きなダメージを与えたという事は分かった。シイナの顔は、もう、誰が見てもはっきりと分かるくらい青ざめている。小刻みに体が震えているのさえ見て取れた。
「あ・・・あなたに、何が分かるんですか・・・」
 シイナが必死の態で吐き出した言葉も完全に震えている。今にもシイナが泣き出してしまうのではないかと思って、僕はハラハラとしながらシイナを見詰めていたけれど。
「ああ、分からないね。分かりたくも無い。私は自分の判断ミスで部下を五人死なせた事もある。だが、この仕事は辞めなかった。逃げる事よりも償う方が何倍も大変だと知っているからね」
 神林は言葉の内容とは裏腹な穏やかな口調で最後にそう言うと、テーブルにおいてあった書類を手に取り立ち上がった。
「邪魔して悪かったね。そろそろ行くよ」
 静かな口調でそれだけを告げて部屋を後にする。シイナは唇を噛み締めて俯いたまま、神林を見送ろうとはしなかった。だが、神林は気にも留めずあっさりとそのまま帰ってしまった。

 シイナは暫く俯いて何か思い悩んでいたが、不意に顔を上げると僕の方に近づいてきて、それから、トスンと僕の胸の辺りに頭を預けた。それから静かに目を閉じる。
「ごめんね、ミチヤ。少しの間だけこうさせて」
 そう言いながらキュッと僕の手を握る。まるで、小さな子猫にしがみつかれているような気分だった。
「心臓の音だって、普通の人間と変わらないのにね。どうして、ミチヤは『本物の』人間じゃないんだろう?」
 誰に言うではない、独り言のような言葉が静かな部屋の中に虚しく響く。僕は本物の人間だよと、喉まで出掛かって何とか堪えた。シイナは僕に体を預けたまま、静かに目を開く。けれども、その漆黒の瞳は何も見つめていなかった。ただ、虚ろに空を眺めているだけで。
「僕はただ知りたかった。人が遺伝子情報に深く踏み込むことの功罪を。そして、その最たる象徴であるdollを人と等価に愛せるかどうか」
 虚ろな瞳のままシイナは呟く。


 dollを人と等価に愛せるかどうか。


 すなわち、僕を人と等価に愛せるのかどうかは、結局シイナの口から語られることは無かった。






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