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scientific essence - 10 …………
 普通の感性を持った人間ならば、他人に暴力を加えるときに躊躇する。なぜなら、人間は痛みを『想像する』能力が備わっているからだ。もちろん、格闘技の最中や殴り合いの喧嘩をして興奮中の人間は例外ではあるけれど。
 だが、それ以外で、他人に暴力を振るう事に何の躊躇も抱かない人種は確かに存在する。それは、痛みを受けたことがないからなのか、痛みに対して鈍感だからなのか、それともどこかが壊れてしまっているからなのか、その思考回路は僕には分からない。ただ、確実にそういう残酷な人種が存在するという事を知っているだけだ。
 そういう人間は相手を殴ろうが蹴ろうが、相手が怪我をしようが苦しんでいようが全く気にしない。何の躊躇もなくとにかく無慈悲に力を振りかざす。恐らく、感覚としては空き缶を蹴り飛ばすのと大して代わりがないのだろう。
 今、目の前に立っている人間は明らかにそういう種類の人間だった。なぜ、それが分かるのか僕にも理解できない。もしかしたら、長い間そういう人種に囲まれ、あまりに馴染んでしまったせいで、簡単にそういう人たちを見分けられるようになってしまっているのかもしれなかった。
 『そいつ』は表面上は穏やかな笑顔を浮かべて、シイナに『提案』をしていた。シイナは僕ほど危機感を抱いていないのか、少しの躊躇と多大な反発を感じながらそれを聞いているようだった。
「別に難しい話では無いんですよ。目黒シイナさん。あなたが以前になさっていた素晴らしい研究の成果を、私達に教えて頂きたいだけなのです」
 シイナは俯き、唇を噛み締めながらそれを聞いている。
「本来は学術機関に問い合わせれば、全ての論文は参照できるはずなんですがね。残念ながら、あなたの論文は無期限の閲覧禁止がかかっていましてね」
 その男は穏やかな表情、穏やかな口調でそう説明する。だが、僕は自分が話しかけられているわけではないのに手の平に冷や汗をびっしょりとかいていた。本能が僕に告げる。この男は危険だと。
 酷薄で、陰惨な何かを感じる。そう。例えば必死で許しを乞う人間に、笑いながら銃口を向け、何の躊躇もなく引き金を引く男だと容易に予想できるような。
 本能的な恐怖を感じながら、それとは反対側の冷静な僕の半分が男の言葉に疑問符も投げかけた。
 論文の無期限閲覧禁止。
 これ自体、かなり珍しい事だ。人道的・道徳的に許されない研究であるとか、軍事的に悪用できる壊滅的な研究であるとか。そうでなければ基本的に閲覧禁止にされることなどありえないからだ。
 そもそも、僕がサツキから聞いたシイナの研究内容は植物の光合成についてのものであって、別段、閲覧禁止になるような危険なものだとは思えなかった。なのに、なぜ、閲覧禁止?
 僕が心許無い気持ちでシイナの方を見ると、シイナはきゅっと拳を握り締め、おもむろに顔を上げた。
「すみませんが、僕は学術の世界からは身を引いた人間です。その要求はのめません」
と、はっきりとした口調で答える。その瞬間、男は眉を微かに動かして、馬鹿にするかのように薄く笑った。
「ええ、そうおっしゃるだろうとは思っていたんですよ。けれども、こちらもビジネスでしてね。シイナさんに言うことを聞いていただけないと困るんですよ」
「別に、アンタが困ったって僕の知ったことじゃない。とにかく、僕は、二度と、あの世界には戻らないと決めているんだ」
 珍しく、冷静さを失い荒げた口調でシイナは反論する。だが、それ位の事では男は決して怯むことはなかった。
「そう言われましてもねえ。困りましたね」
 少しも困った表情など見せずに男は呟く。それから余裕のある笑みを浮かべたまま、僕の方にチラリと一瞬だけ視線を向けた。その瞬間に、僕の背筋がぞっとして全身に鳥肌が立った。

 この男は知っている。
 何を?
 分からない。けれども、知っているんだ。

「シイナさん。人間には二種類ありましてね」
 唐突に別の話を始めた男に、シイナは訝しげな表情を向ける。だが、その笑顔の裏側に潜んでいる危険な空気を感じ取ることは出来ていないようだった。
「私は長いこと、この仕事をしているんですが、一度として失敗したことはないんです。どんな人間でも頷かせることが出来る」
 それがどうしたのだ、といった表情でシイナは男を睨み続けていたが、僕は男のその言葉が真実だと感じ取っていた。確かにどんな事をしても全ての人間を頷かせてきたのだろう。だが、頷いた人間がその後生きていられたのかどうかは甚だ疑問だ。そして、やはりこの男は知っているのだ。何が、その人間の一番弱い場所なのかを。それを見抜く才能を持っている。
「大きく分けて、効率的な方法は二つあります。一つは本人に当たる方法」
 そう言うと、男はゆっくりと部屋の奥まで足を進め、シイナの隣に呆然と立ち尽くしていた僕の目の前に来た。恐怖のあまり僕の体は震え出し、背中は冷や汗でびっしょりだった。僕は、これから自分に何がなされるのか本能的に知っていた。
 そう。僕に『暴力』の矛先が向くのだと。
「そしてもう一つは、周囲の人間に当たる方法です」
 そういい終わるや否や、僕の体はフワリと宙に浮き、気が付けば床に押し付けられていた。ピンピンピンと立て続けに、左手の指の先に奇妙な衝撃が走る。次の瞬間に襲ってきたのは激痛だった。
「…っ!! ウワアッ!」
 男は簡単に僕の体を解放し、僕は途端に左手を押さえて床を転がりまわった。
「ミチヤ!?」
 急に苦しみだした僕を見て、シイナが驚いたように僕の体を庇う。
 なんとか堪えて痛みを訴える箇所を見れば。左手の親指から中指までの三本の指。その爪が無くなっていた。そして、そのむき出しになった場所に針で刺したような傷が幾つか付いていて、ダラダラと血が流れている。
「ミチヤに何を!?」
 シイナが聞くのも無理がないほどの素晴らしい手際だった。男の手には太目の針が一本握られているだけ。その針一本で、瞬時に僕の爪を剥がしそこに傷をつけたのだ。
「何。大した怪我じゃありませんよ。ほんのデモンストレーションですからね。前菜にもならない程度です。知ってますか? 爪の裏。ここには神経が集中してましてね。僅かな刺激でも痛みを感じる」
 男はニコニコと笑いながら天気の話をしているかのような暢気な口調で言った。僕に傷をつけたことなど何とも思っていないことがありありと分かる態度だった。きっとこの男は、たった今したことを、道端に落ちていた石を蹴り付けた程度のこととしか感じていないだろう。
「まあ、他にもそういった箇所が幾つかあるんですが、今回は時間が短くて。あまり楽しんでいる訳にもいかないんですよ」
 そう言うと男は悠々とした仕草で取り出した針をジャケットの内ポケットにしまいこんだ。それから一瞬だけ僕に視線を向けて、それからすぐにシイナに視線を移す。
「今回はシイナさん自身に傷をつけるわけにはいかないのでね。彼も一緒に連れてきて頂いたんですよ。随分と仲の良いご友人のようですね? 一緒に暮らしているとか」
 そう言われて、革靴の踵で顎を無理矢理上げさせられる。屈辱的な格好だったが、それを悔しいと思うより僕は「怖い」という感情の方があまりに大きくて、ただひたすら冷や汗を流して男から視線を逸らすのが精一杯だった。
「ミチヤに何をするつもりだ!」
 シイナが、僕の体を庇うようにその足を跳ね除ける。だが、男は相変わらず飄々とした笑顔を浮かべたまま、
「そうですか。ミチヤさんとおっしゃるんですか」
と悠長に答えた。
「なに、大したことをする訳ではないですよ。人間というのは意外に頑丈に出来てましてね。耳を削ぎ落としても、目を抉り出されてもすぐに死んだりはしないんです。切り口さえ綺麗なら、手や足を切り落としても案外長く生きていられますし」
 暗に、僕にそういった仕打ちを施すと男は言っているのだった。それを聞いて、僕よりもシイナのほうが真っ青になる。
「…ミチヤに…ミチヤにそんな事をすると言ってるんですか?」
 震えた声で尋ねたが、男は明確には頷かなかった。ただ、とぼけた顔で、
「私は、本来そういった派手なデモンストレーションよりもジワジワと精神的に相手を追い込むやり方のほうが好きなんですがね。先ほども言ったように、今回は時間が足りないので早急にシイナさんに納得していただかなくてはならないんですよ。それには、派手な方法の方が手っ取り早いですから」
と言う。それから、殊更優しげな笑顔を浮かべて再びにシイナに質問をした。
「目黒シイナさん。以前アナタが研究していた成果を、再現していただけませんかね?」
 それは、まるで、死刑宣告を言い渡された罪人のような顔だった。シイナは不意に表情を失った虚ろな瞳で男を見上げる。それから、ギュッと僕の体を抱きしめて、力なく頷いた。






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「…シイナ。何故、君はそんなにまで頑なに科学の道に戻ることを拒絶するの?」
 どれくらいの時間が、それから経ったのだろうか。薄暗い部屋で僕らは二人きり、何の言葉も発することなくただ抱き合ったままじっとしていたけれど。
 僕には分からないことが沢山ありすぎて、それを聞かずにはいられなかった。自分がもしかしたら酷い目に合わされるかもしれない、それを回避したいという本能的な逃げもあったかもしれない。それよりも、僕はシイナが男の要求を呑んだときの絶望的な表情の方が気にかかって仕方がなかった。
 言ってしまえば、たかが植物の研究だ。それをなぜシイナはそこまで拒否したがるのか。そもそも「たかが植物の研究」なのになぜその論文が閲覧禁止になったりするのだろうか。
 シイナは、僕の質問を聞くと虚ろな瞳のままクスリと力無く笑った。
「言えない」
「なぜ?」
「それを聞いたら、ミチヤは僕を軽蔑するだろう。最低の人間だと、いや、人間以下だと蔑む。もしかしたら憎悪すらするかもしれない」
「…そんな事ありえない」
 物騒なシイナの言葉を僕は否定したが、シイナは気だるそうに首を横に振っただけだった。
「…どうしても、シイナが研究を手がけるのが嫌だと言うのなら、僕は耳や目くらい失っても構わない」
 静かな声で僕がそう告げると、シイナははっとしたように顔を上げ、僕の顔をじっと見詰めた。それから不意に爆発したかのようにボロボロと涙を零し始める。
「そんなことは出来ない。出来るわけがない。たとえ、そのせいで何人もの人が死ぬことになっても」
 すすり泣きながら悲痛な声でシイナが告げた言葉に僕は顔を顰める。

 そのせいで、何人もの人が死ぬことになっても?

 シイナは確かにそう言った。泣き腫らした顔でシイナは僕の顔をじっと見詰め続ける。その真っ黒な瞳は潤んでいたが、決して曇りなど見当たらなかった。そう、ほんの微かな曇りさえ。なのに、シイナは自分を追い詰めて責め続けるのだ。
「238人」
 唐突に、シイナは僕に告げた。え? と僕が眉を寄せれば、シイナはやはり絶望的な虚ろな瞳に戻り、
「僕が殺してしまった人の数だよ」
と答えた。


 それは、シイナの心の奥底に深く残り、未だ癒えることのない傷に僕が初めて触れた瞬間だった。









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