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scientific essence - 11 …………
 それは、悲しく凄惨な過去だった。
 訥々と過去の出来事を僕に語ってくれるシイナの顔は、まるで神父に罪を告解する罪人のようだ。いつもニコニコと屈託のない笑顔を向けてくれていたシイナ。けれども、その胸の奥には深い傷が鮮明に残っているようだった。

 シイナの取り組んでいた研究は、あくまでも植物の研究だった。様々な環境問題、オゾン層の破壊。森林の伐採。空気や水の汚染。それらの問題の解決の糸口として、シイナが通常の植物よりもより激しく光合成を行う品種を作り出そうと思ったのは自然な流れだっただろう。もともと、シイナは植物に関心があったから専攻は植物学寄りのバイオテクノロジーだったらしい。シイナの母親が花が好きで、観葉植物やガーデニングに熱心だったのも一因だったとシイナは寂しそうに笑いながら言った。

 何の挫折も知らず、トントン拍子で大学課程の単位までをシイナは取った。そして修士課程に進み、その研究を進めた。光合成に深く関わる葉緑素、その遺伝に関わる遺伝子を研究して組み換えを行う、そういうアプローチで研究を行っていた。そして、シイナは葉緑素に関する遺伝情報を発見し(この発見自体が素晴らしいもので、当時はその分野では相当にもてはやされたらしい)、それを組み替える実験を何度も行った。その結果、シイナは『それ』を生み出してしまったのだ。『悪魔の産物』だ、とシイナは自嘲的に笑っていたけれど。
 それは何の変哲もない植物のはずだった。オオバコだとか蓬だとか、ごくありふれたものをサンプルとしてシイナはその研究を進めた。雑草だけではなんだからと、農作物としてはトウモロコシを取り上げたらしい。
 そして、シイナは順調に、通常よりも10倍の二酸化炭素を吸収し酸素を放出する植物を作り上げた。そこまでは、僕がサツキに聞いていた話と同じだった。何ら、問題など無いかのようなバイオテクノロジーの話だ。
 だが、その先が問題だった。

 シイナの生み出した遺伝子組み換えの植物達が、生態系に悪影響を与えたりしないかを調べる為に、シイナはそれらの植物を擬似的な簡易生態系を想定した小さなハウスの中で育てた。始め、おかしいなとシイナが感じたのは一週間後。ほんの僅かに植えただけの、その『悪魔の産物』は異常な繁殖力でその勢力を強めていた。そして、日を追うごとにそれは顕著になる。そして一ヵ月後。その小さなハウスの中にはそれらの植物以外は全く見当たらなくなった。完全に、通常の植物を駆逐してしまったのだ。
「でも、ある程度はその結果は予測できたんだ。光合成の能力を上げればそれだけ植物の競争力が向上する。通常の植物を駆逐することもありえる話だった。それよりも、僕が何よりも恐ろしかったのはそこに何の生命も生息していなかった事なんだ。ミミズ一匹、蟻の子一匹もその場所には見当たらなかったんだよ。何度、どの場所を掘り探しても何の生き物も見つけられなかった」
 シイナはそれに気がつき、慌てて今まで自分が発表してきた論文を学会に差し止めてもらった。その時に知り合ったのが神林だという。神林は、学術関連の犯罪を取り締まる機関に所属していたらしく、倫理的、軍事的に問題のある研究を外部からシャットアウトする仕事を主に取り扱っているという話だった。
 様々な臨床実験を繰り返し、シイナはその原因を突き止めようとした。確実な因子は見つからなかったが、結局、遺伝子を組み替えたことによりそれらの植物は、生物の免疫力と抵抗力を低下させる毒素をその体内に保持するようになってしまったらしい。
 シイナはそこまで突き止めて、全ての自分の研究の成果を封印した。学会からも登録を抹消して、学術の世界から身を引くことを決めた。もちろん、あちこちから引き止める声があったらしいがシイナは自分が生み出してしまった『悪魔の産物』に酷く怯えていた。神林の処置は完璧だと、何度言われても不安で仕方なかったと、シイナは震えながら語った。なぜなら、それを悪用すればとんでもないことができると容易に予測できたからだ。
 そんな風に、精神的に参ってしまったシイナを、気分転換にと旅行に誘ったのがシイナの母親だった。
 『地中海でゆっくりしましょう、その後でお父さんに会いにフランスに行くってのはどうかしら? 』
 優しく笑ってシイナの母親は、シイナを慰めてくれた。そして、旅先でその悲劇が起きてしまったのだ。

 アテネ国際空港でのテロ事件。

 五人のテロリスト達が無差別にライフル銃を乱射し、32人の人間が死亡した。そして、その32人の中にはシイナの母親が含まれていたのだ。すぐ目の前で、母親が頭を銃弾に貫かれるのをシイナは見てしまった。そして、その後の惨状も。
 血の海。のたうち苦しみまわる人々。まるでゴミくずのように散乱する人の体の破片。
 地獄絵図のようだったと、シイナは虚ろな瞳で言う。今でも、それを思い出すと精神状態がおかしくなってしまうのだと。
 だが、シイナの本当の地獄はその後に襲ってきたのだ。
 半ば錯乱した状態で、毛布に包まり、ただ震えているしかできなかったシイナを『そいつら』は連れ去ったのだ。日本の政府関係者だ、邦人の被害者に話を聞きたい、ともっともらしく身分を偽って。
 茫然自失の状態で、もはや正常な意識など保っていなかったシイナが連れて来られたのは小さな村だった。その頃のシイナの記憶はかなり曖昧で、精神状態も普通ではなかったので、そこがどこかは定かではないらしいが。
 その素朴な農村には不似合いな、設備の整った研究所にシイナは連れ込まれ、半ば軟禁状態にされた。そして、シイナが行っていた研究を強制的に再現させられたのだ。それは、今の状況ととても似ている。なぜに、そこまでしてシイナの研究を自分のものにしようとする人間が出てくるのか。
「そんなこと、簡単だよ」
と、シイナは自嘲的な笑みを浮かべて説明してくれた。
 シイナの生み出してしまったあの植物があれば、簡単に不作を起こすことが出来る。夜中にこっそりと一株、その苗を畑に植え込んでくれば良いだけなのだから。見つかりにくい上に、証拠も残らない。実に巧妙な手口だ。そうやって農作物の不出来を操作すれば、農産物の流通を操作するのは容易いだろう。
 しかも、それらの方法をありとあらゆる農作物に適応すれば人口の操作すら出来かねないのだ。生命力の強い農作物だと偽って、それを流通させてしまえば人々の抵抗力や免疫力は知らずのうちに低下する。そこに軽度の伝染病でも流行らせれば、バタバタと人は死んでいくだろう。極端な話、死の土地を作り上げることだって可能なのだ。
 実際に、それが可能なのかどうか、シイナはその小さな農村で目の当たりにすることになった。あろうことか、シイナを誘拐、拉致軟禁した連中はその小さな農村を実験対象にしたのだ。
 他の農村からは離れている、いわば隔離されている村。仮に、伝染病が流行ったとしても医者は皆無で、隣町まで呼びにいくには時間が掛かる。そして、何より、自分達の行いが露見しても、そう豊かでないお国柄上、金で解決できると踏んだのだろう。
 半ば生きる屍の状態で、人形のように喜怒哀楽も理性も欠落している状態のシイナに、連中は研究を続けさせた。少し脅せば、シイナは震え上がり、何でも言いなりになっていたらしい。そのころの記憶も曖昧で、シイナははっきりとは覚えていないようだったが。
「僕は言われるままに、その『悪魔の産物』を生み出し続け、それをそいつらがその村にばら撒き始めた。細々とした農業で食いつないでいるような、質素で素朴な人たちばかりだったのに」
 シイナはただひたすら、静かに涙を流しながら淡々と語る。その瞳は、やはりどこか虚ろで生彩を欠いているようだった。自分は罪人なのだと、その虚ろな瞳が悲痛な叫びを訴えている。一体、今まで何度そんな風にシイナは自分を責めて生きてきたのだろうか。
「軟禁されていたと言っても全く自由が無かったわけじゃない。比較的自由に外に出ることはできたんだ」
 そもそも、隣町まで数十キロと離れているような小さな村だ。一つ間違えば砂漠にさ迷い出ないとも限らない。そんな場所で、シイナ一人で逃げ出せるはずはないと連中は考えていたのだろう。
「そこで、僕は一人の少年と出会った。そんなに食料が豊かな場所じゃなかったからね。小さな痩せぎすの男の子だったよ。綺麗な目をしていた。屈託の無い笑顔を僕に向けてくれていた可愛い子だったのに」
 はじめて見る日本人が珍しくて、その子供は簡単に警戒心もなくシイナに懐いたという。純粋な現地の子供との交流。それが癒しになったのかどうなのか。シイナは次第に冷静さを取り戻していった。そして、自分のしていることに気がつき、恐れ始める。けれども、一度動き始めた歯車を止める手立てをシイナは持たなかった。
 ただ、無力に、与えられた農作物を食べてはいけないとその少年を通じて村の人たちに訴えたが、さして科学的な知識があったわけではない彼らは、幼い、歳若い少年にしか見えないシイナの言うことになど耳を貸さなかった。ただ、その少年を除いては。
 そして、気がつけば、一人、また一人と村人達は原因不明の病で倒れ始める。何のことはない。ただの軽い風邪が流行っただけだ。けれども、おかしな農作物を与えられ、それを食べ続けた彼らには抵抗力が無かった。ただの風邪に対抗することができずに、老人、女子供だけでなく、体の大きな大人の男たちまでバタバタと倒れて行った。そして、少年も。
 高熱にうなされ苦しみながら少年は、シイナに謝ったという。食べてはいけないと言われたのに、例の作物を少しだけ食べてしまったのだと。ゴメンナサイと。言うことを聞かなかったから病気になってしまったの? と、ただでさえ痩せていたのが、更に痩せ細り、そのあどけない瞳だけが大きく見えるようになってしまった顔で。
 そして、成す術もなくシイナが見ている前で少年は死んでしまった。その直後にシイナは神林の手配で救出される事になったが、その時にはすでに238人の犠牲者が出ていたという。村の人口のほぼ9割の人間が、シイナの生み出した『悪魔の産物』によって命を奪われたのだ。
「その後の半年は本当に酷かったよ。突然錯乱して喚き出したり、食事も取れないほど無気力になってしまったり。自分のした事を誤魔化そうと、頑なに科学技術そのものが悪なんだと思い込んだりもした。遺伝子に関する研究が悪いのだと、全ての研究を今すぐに止めるべきだと、あちこちの学術機関や学会に気が狂ったような批判声明を送りまくったりもした」
 自嘲的な笑みを零しながら、シイナはそう言った。その笑顔は酷く儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
 僕は、無意識に腕を伸ばしてシイナの体を抱きしめる。ほんの少しでも、シイナの傷ついた心が癒えれば良いと思った。

 シイナは、黙って僕に抱かれたままはらりと一粒の涙を零す。一度泣き始めてしまうと、止まらなくなってしまったのか、シイナはずっと僕の胸に顔をうずめたまま声も立てずに泣き続けた。
 薄暗く狭い檻の中。
 僕らは無力な小さな子供のように、ただ身を寄せ合い、いつまでもそうしてじっとしていた。










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