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scientific essence - 12 …………
「…ミチヤは僕のことを軽蔑した?」
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。その部屋には時計がないので分からなかった。いつの間にか泣き止んでいたシイナは、僕の腕に体を預けたまま、幾らか穏やかに凪いだ声で尋ねてきた。
「なぜ? なぜ、軽蔑するの?」
 僕がシイナの目を真っ直ぐに見詰めながら不思議そうに尋ねると、シイナは戸惑ったように僕の顔を見詰め返してきた。いつでも、僕の気持ちを落ち着かなくさせる黒くて大きな瞳が揺れている。僕の言葉の真意を図りかねて、シイナは戸惑っているようだった。
「…だって。僕は沢山の人の命を奪ってしまった犯罪者なんだよ」
「間違っちゃダメだよ。それをしたのはシイナじゃない。シイナを監禁した連中だ。罪はシイナに、ではなく、彼らにある」
「でも! …でも、あの恐ろしい植物を生み出してしまったのは僕だ」
 シイナは頭を振って俯いてしまう。シイナは僕よりも二つ年上のはずだけど、何だか、その時は小さな迷子になった子供みたいに見えた。実際、シイナは2年前からずっと迷子になっている子供みたいなものなんだろう。僕も似たような状態だったのかもしれないけれど、今だけは僕が手を引いてシイナを連れ出してあげたいと思った。それは、僕にとっては初めての感情だった。

 僕は今まで誰に対してもそんな風に『大切な存在』だとか『守ってやりたい』だなんて思ったことはない。あくまでも、サツキの元にいる間は僕は『被保護者』であり、ありとあらゆる外部のものから逃げる為にサツキの背中に隠れていることしかできなかった。もっとも、その時の僕にはそんな自分の変化を自覚する余裕は全く無かったけれど。実際に、それに僕が気がついたのはもっとずっと後のことだった。そして、それが全てサツキの差し金だと知って少しだけ拗ねてしまうのも。

 僕は、思わずクスリと笑ってしまう。シイナはとても純粋なんだと思った。そして、それがシイナの良いところで、弱点でもある。その良さも弱さも僕はとても好きだと思えた。
「じゃあ、シイナ。誰かがピストルで誰かを撃って殺してしまったとしたら、悪いのは誰?」
 僕がそう尋ねるとシイナは訝しげに眉を寄せて僕の顔を見上げる。
「…そんなの、ピストルを撃ったヤツに決まってるじゃないか」
「うん。でも、シイナの論理からいくと悪いのはピストルを作ったヤツってことになるよね」
 僕が悪戯な笑いを浮かべながら指摘してやると、シイナは、あっ! という顔をして、それから少しだけ拗ねたように口を尖らせた。
「そ…そんなの。それと、これとは話が違うよ」
「そうかな? 同じだと思うよ。僕は、様々な科学的な知識や技術には善だとか悪だとかいう属性は全く無いと思う。科学そのものは善でも悪でもない。無機的な、事実のみを解明する普遍的な知識でしかない。それに善だとか悪だとかいう性質を付加するのはあくまでも人間だ。それを悪用するのか、人の為に役立てようとするのか決めるのは人間なんだから。それがScientific Essence。科学の本質というものじゃないんだろうか?」

 それは奇しくも僕がサツキに散々言い聞かされてきた言葉と同じ。
 僕は、その言葉をシイナに訴えながら自分にも問いかけていた。

 サツキは長いこと、暗闇の中から出てくることができなかった僕に辛抱強く愛情を注いでくれた。そして、少し外に出かけては同じところで躓いてしまう僕にいつだってそう教えてくれたのだ。
 僕は犯罪者ではない。人間の屑でも犬畜生でもない。ただ、たまたま優れた頭脳を持って生まれてしまっただけなのだと。そして、その優れた頭脳自体は善でも悪でもないのだと。僕を利用していた大人たちはそれを悪用した。だから、彼らは罪人なのだ。けれども、僕自体は罪人ではない。これから、僕がそれを悪用しなければ僕が罪人になることはありえないのだと。
 僕は、まだ、どこか納得していないような顔をしているシイナに僕の話をして聞かせた。治療の為に医者に打ち明けたり、サツキに話したりする以外にそんな話をするのは初めてのことだった。けれども、僕はなぜかシイナに聞いて欲しかったのだ。
 僕は、なるべく感情を挟まないように淡々と小さな頃からの出来事をシイナに教える。
 シイナは、時折顔を真っ青にしたり、唇を噛み締めてつらそうな顔をしたり、涙ぐんだりしながら僕の話を最後まで聞いてくれた。まるで、僕の過去を自分の事のように感じて、泣いてくれるシイナを見たら、僕はなんともいえない感情で胸がいっぱいになってしまう。言葉では上手く表すことができない、不思議な切ない感情。
 泣き濡れた真っ黒な瞳で、真っ直ぐに僕を見詰めてくるシイナを見ていたら無意識に腕が伸びた。
 とても自然な感じでシイナの両方の頬に手を当てて唇を寄せる。シイナの眦に溜まった涙をペロリと舌で舐め取ると、シイナは驚いたように目を慌てて閉じた。そのまま唇を下ろして、シイナの唇にキスを落とした時もそのままで、シイナは注射を待つ子供のように目をギュッと閉じたまま待っていた。
 唇が離れて暫くすると、シイナはようやく恐る恐るといった風におどおどと目を開く。ほんのりと目元と頬が赤くなっているのが、すごくカワイイと思った。真っ黒な大きな瞳が、上目遣いに僕を窺っている。どう反応して良いのか分からずに、戸惑っているみたいだった。
「え…っと。あの…い、今のナニ?」
 その聞き方が、あんまり子供みたいで僕は思わず噴出してしまう。もしかして、シイナは初めてだったのかもしれない。17歳なんだから、キス位したことがあってもおかしくないけど、シイナはずっと研究に夢中で、しかも、その後は大変な事件に巻き込まれたりしたんだ。そういう機会がなくても不自然じゃない。僕は、何となく直感的に、シイナは初めてなんだろうなと思った。そう思ったら、変に嬉しくて浮かれた気持ちになってしまった。
「何って。キスだろ?」
 僕が笑いながら答えると、シイナはやっぱり頬を赤くして少しだけ俯いた。
「そ…そんなの分かるけど! な、何でそんなことするワケ?」
 俯いているせいで、シイナのつむじとうなじが良く見える。その首筋までが少し赤くなっているのを見たら、反射的に手が伸びてしまって、僕はシイナの体をぎゅうっと抱きしめていた。
「んー? それは、やっぱりスキだからじゃない?」
 軽い調子で僕が答えると、シイナは「わあ!」と驚いたような声を上げて僕から慌てて体を離す。それから、赤い顔で口元を覆った。
「す、す、スキって。スキって、ど、どういう意味?」
「どういう意味って、キスしたいスキって一種類しかないと思うけど」
 ケロリと僕が答えるとシイナはトマトみたいに真っ赤な顔になって、急にプンプンと怒り出した。
「そ、そんな事! 今言うの不謹慎だろ!? 大体、な、何で…一体、いつから…」
 どうして、こういう場面でシイナが怒り出したのかイマイチ僕にはその思考回路が分からなかったんだけど、いつから、と尋ねられたので少しだけ考えてみた。
 一体、いつからなんだろう。初めて会ったときからスキだったのだといえばその通りだとも思ったし、キスして初めて気がついたといえばそれも正しいような気がした。
 いずれにしても、最初からシイナは僕にとって特別な存在だったような気がする。
 単なる惚れたはれただけの感情ではなくて、もっと深い『好き』という感情。
 けれども、今、それを性急にシイナに告げる必要はないような気がした。これは、じっくりと育てていく類の感情であり、関係なんだと本能的に思ったからだ。
「シイナは僕のこと嫌い?」
 僕は少し首を傾げて、悲しそうな表情を作って尋ねてみる。この手は少し卑怯かな、とも思ったけどこれくらい許されるだろう。シイナはそういう事にはどうも奥手で鈍そうだし。
 案の定、シイナはぐっと言葉につまり、困ったように僕の顔を上目遣いで睨み上げた。
「き、嫌いじゃないよ。でも…でも、ほんの少し前まで、ミチヤのことは人間だって知らなかったんだし…」
 ほとほと困った、という態でシイナは答える。そんな困った表情まで可愛くて仕方がないと思ってしまうんだから、僕も相当ヤられてるんだろう。
「じゃあ今は?」
「そ、そんな事急に言われても…」
 答えるシイナはもう、しどろもどろだ。
「キスして嫌だった?」
 畳み掛けるように尋ねるとシイナは少しだけ首を傾げて、
「あんなの。突然だったから、良く分からない」
と実に僕に都合のいい答えを返してくれた。僕は内心ほくそえみながら、けれども、表面上は素っ気無さを装って、
「じゃ、もう一回してみれば分かるよね」
とサラリと言うともう一度、シイナの顔を捕まえる。え? とシイナが驚いている間に、そのままチュッとシイナに軽いキスをした。
「ミチ…」
 抗議の声を上げようとシイナが口を開きかけた隙をついて、今度はもっとちゃんとしたキスをする。シイナは、やっぱり注射を待ってる子供みたいにギュッと目を閉じたまま体を硬直させていたけど。
「んっ…んん…んーー!!」
 大丈夫かなと思って、舌を突っ込んだとたんに突き飛ばされてしまった。両手で口を押さえて真っ赤になって、しかも涙目で僕を睨みつけてくる。その顔があんまり可愛くて、僕は笑いが止まらなくなってしまった。
 シイナは本格的に怒ってしまったみたいで、
「こ、こんな時に何考えてるんだよ! 不謹慎だよ! 不謹慎!!」
とか喚きまくっている。確かに状況が状況なだけに、不謹慎なのかもしれないけど。
 危機的状況に陥った二人は恋に陥りやすいって、心理学的にも一般的に言われていることなんだから別に良いじゃないかと本当に不謹慎なことを僕は考えてしまった。
 シイナが幾ら怒っても僕が少しもこたえず、相変わらず笑っているのでシイナも馬鹿馬鹿しくなってしまったらしく、大きな溜息をわざと一つ吐いてみせる。
「もう。ミチヤきちんと状況分かってるの? 指とか…平気?」
 大分赤味の引いた顔で、シイナは今度は心配げに僕の手を取る。そう言われて初めて、僕は自分が指を怪我していたことを思い出した。さすがに爪を剥がれたせいでヒリヒリはしていたが、針を刺された傷はもう殆ど血も止まっていて、そう痛まなかった。シイナは自分が怪我したわけじゃないのに、グスンと少しだけ鼻を鳴らして、
「こんなことするなんて酷いよ…もう、絶対に、こんなことさせないから」
と呟く。
「大した傷じゃないよ」
「程度の問題じゃない。僕のせいで、ミチヤが傷ついたりするのは嫌なんだ。もう、誰も僕のせいで苦しんだり、辛かったりするのは見たくない」
 シイナは確固たる信念を感じさせる口調でそう言った。そこには偽善や建前は感じられない。シイナはきっと心底そう思っているんだろう。それがシイナの心の美しさなんだ。
 そして、そう言い切ったシイナに少し前に感じたような儚さはもう漂っていなかった。しっかりとした意志を感じさせる真っ直ぐな瞳。凛とした横顔は、線は細くとも芯のしっかりとした強さを感じさせる。

「…大丈夫。僕はミチヤを守ってみせる。もう、あんな後悔はしたくないから」

 僕の手をぎゅっと握り締めながら笑ったシイナの笑顔は、太陽に向って咲き誇る向日葵みたいに鮮やかで、明るくて、綺麗だった。









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