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scientific essence - 13 …………
 シイナはとにかく、やると決めたからには相当強気に出ていた。
 まず、僕の指を手当てする為に必要な消毒薬や包帯を寄越せといった。それから、環境が劣悪すぎるから別の部屋を用意しろとも。連中はそんなシイナの生意気とも取れる態度に少し鼻白んだようだったが、結局は言うことを聞いた。
 それから、遠心分離機だとか、分光光度計、ドラフト、電子顕微鏡などの専門的な器具を用意しろと大分偉そうに命令していた。設備も無いのに研究なんてできるわけがないだろうと、小馬鹿にしたように大の大人を鼻で笑いながら。聞けば、その一つを取り上げても数千万単位の機材らしいが、シイナは、
「別に。金出すのはあいつらなんだし」
とケロリと答えていた。そんなに強気に出て大丈夫なのだろうかと、僕は内心ヒヤヒヤしていたが、連中は人を痛めつけることにはプロでも、さすがにバイオテクノロジーの知識は全く無いらしい。シイナに言われるままに、様々な手配をして機材をかき集めているらしかった。
 普段はどちらかというと穏やかでおっとりした雰囲気のシイナだが、実は、研究に関することには性格がコロリと変わってしまうのだということが次第に僕にもわかってきた。それは、僕のこき使いようを見ても明らかだ。
 シイナは僕を助手として使うのだと言い張り、結局連中にそれを納得させてしまった。色々な測定器と端末を接続し、はじき出される膨大な量のデータをシイナは僕に処理させる。それも本当に半端なデータ量じゃない。でも、僕が辟易しているとシイナはニッコリ笑って、
「ミチヤの得意分野なんだから平気でしょう?」
とか何とか言う。はっきり言って鬼だ。
 そんな風に僕達は昼間用意された施設でひたすら研究を行い、夜になると最初の部屋よりは幾分マシな部屋に閉じ込められる、という日課を繰り返すことになった。

 シイナは僕が心配しているよりも案外元気で、研究室にいる時はかえっていきいきしているようにも見えた。僕が少しだけ不思議に思って尋ねると、シイナは苦笑を浮かべながら、
「やっぱりね。研究そのものは好きみたいだ。…あんなことしでかしておいて不謹慎かもしれないけど、こんな風に無心に好きなことをできるのは楽しい」
と答えてくれた。それから、更に、ポツリと、
「…でも、このせいで、また大変なことが起こるかもしれないんだね」
と沈んだ顔をする。僕は何と言って慰めていいかわからずに、結局、ただシイナのことをギュッと抱きしめるだけ。シイナは、そうすると少しだけ安心したような表情になる。シイナのほうが僕よりも二つ年上だけど、そんな時のシイナは子供みたいに見えた。
 それ以外は、今までdollの振りをしなくてはならなくて、しゃべれなかった分を取り戻すみたいに、僕とシイナは色々な話をした。良く考えたら、近い年代の人間とこんなに沢山のことを話したのは僕は初めてのことだった。僕の過去も、シイナの過去も決して安穏とした平和なものだったとは言えないけれど、シイナに自分のことを話すことに抵抗は全くなかった。何でなのかはわからない。でも、シイナも同じように感じているようで、僕が尋ねたことはシイナは何でも答えてくれた。
 それは、とても不思議な充足感と連帯感、そして心の奥の方が穏やかにフワリと温まるような安心感を僕に与える。誰かと心が通い合うっていうのは、こういうことなんだろうかと思った。サツキや周防さんも僕の話をきちんと聞いてくれたし、疑問には答えてくれた。けれども彼らはやはり僕の「保護者」であり、同じ目線の高さで対等に心を通い合わせるというワケにはいかなかったのだろう。
 シイナと一緒の時間を過ごせば過ごすほど、僕はシイナが好きになった。僕が素直に好意を告げればシイナも僕が好きだと答える。けれども、それが恋というものなのかどうかはまだわからないとシイナは戸惑ったように僕の体を押し返す。それでも、キスくらいならと時々は許してくれたけど。
 そんな駆け引きじみた遊びが、僕らの唯一の息抜きだったのかもしれない。ままごとのような擬似的な戯れだといえなくもなかったけれど、でも僕らが互いに向ける暖かな感情は決して紛い物などではなかった。

 シイナは自分が胸に抱いている痞(つか)えも僕に打ち明けてくれた。そもそも、なぜdollをシイナは手に入れたかったのか。それは、人間が科学の力で踏み込んでいい領域を見極めたかったからなのだとシイナは言った。遺伝子地図は神様が作った生命の設計図なのだともシイナは言う。それは、決して人間が踏み込んではいけない領域なのだと。dollは恐ろしく高い値段で取引されているいわば『ペット』だったが、その技術は明らかにクローン技術であり、その根幹を成すのは遺伝子操作の技術だ。明らかに神の領域を侵犯するその存在を、シイナは自分の目で確かめたかった。そう言った。
「科学の進歩は必ずしも、人に良い事だけを与えているとは言えない」
 シイナが翳りのある表情で言った言葉は確かに頷ける。自然破壊、環境破壊、利便の追求による古き善きものの喪失。上げればきりがない。
「一度は科学の世界に身を置き、万物の真理を追究していた人間の言うことではないかもしれないけれど、僕は、この世の中には解明されない方が良いことが沢山あると思う」
 夜、二人並んでベッドに横になりながら、シイナはそんな話を僕に聞かせてくれる。
「例えば?」
「例えば…ううん。そうだな。片桐先生が片手間にやってる研究とか?」
「サツキが片手間にやってる研究?」
「うん。知らない? 恋愛のメカニズム」
「恋愛のメカニズム?」
 なんだ、それは? そもそも、サツキが片手間に本業以外の研究をしているなんて聞いたことがなかった。
「何冊か本も出してて、結構売れてるみたいだよ?」
 それも、若い女の子を中心に売れているらしい。恋愛と言う曖昧な現象を科学的に解明しようと試みている本らしい。
「僕も暇潰しにでも読んでみて、って一冊本をもらっただけなんだけどね。何だったかな…心理学と、生体科学と、あと行動科学もちょっと入ってるのかな? そんな感じの複合型の研究だったみたいだけど。人が人に恋するのは免疫学的に説明できるって説。知らない?」
「知らない? どんなの?」
「簡単に言うと結局、種の保存の本能だって話。どんな生物でもより強い固体を生み出す本能が働くってのは知ってるよね?」
「うん」
 ありとあらゆる世界で生命の淘汰は起こっている。成長の遅い植物は早い植物の日陰になり、太陽の光を浴びることができずに枯死する。どこか体の弱いシマウマは、群れについていけずに肉食動物の餌になる。そもそも、雄と雌が配合して次世代を成す、という事象自体が淘汰であり、より強い固体を残そうとする生命の本能ゆえの行動なのだ。
「人間は、科学の力で様々なことを可能にした。病気で体の弱い人を治したり、免疫や抵抗力の弱い人にはワクチンを投入して免疫を強めたり。だから、生命の本能から逸れている動物だって説もあるけど」
 でも、実は気がついていないだけで結局は種の本能に踊らされているのだとサツキは本に書いていたという。より強い固体を生み出すためにはあらゆる細菌、ウイルスに抵抗できる、より多くの免疫を持たせればいい。だから、人は、自分には無い免疫を持っている人間に惹かれる。その免疫はもちろん外見で判断できるものでもなければ、匂いや色があるわけでもない。けれども、時として理屈ではなく人が恋に落ちてしまうのは自分には無い免疫を本能で感じ取るからなのだと。そして、それを人は『フェロモン』と呼んだりするのだと。
「なんか、こじつけっぽい説だなあ」
「うん、まあ、片桐先生も大半はシャレで書いてるから本気にしないでねって笑ってたけど。研究の中身の真偽じゃなくてさ。何ていうのかな。たとえば恋愛とかを科学的に解明しようとするのはすごく無粋なことだと思わない?」
「…まあ確かに」
と、答えながら僕は以前サツキに大見得を切った言葉を思い出していた。

『恋なんて所詮は脳内分泌物質の結果だろ?
ココロの平穏も安息も、ヨロコビもカナシミも全ては科学で解明できる。』

 僕は確かにそうサツキに言い切っていた。けれども、今はシイナの気持ちもわかると思った。それは、僕が本当に誰かを好きになったからなんだろうか?
 恋愛を科学で分析するなんてシイナの言うとおり無粋なことだと思う。それはただの種の本能で、免疫学の問題なのよだなんて、あまりに色気もそっけも無さ過ぎる。わからないからこそ不安で、けれども楽しくて、ステキなものも確かに世の中には沢山存在すると思った。そんなことすら、今までの僕は知らなかった。本で読んだ知識だけが全てだと勘違いしていたけれど、世界はとても広く、僕の知らないことが星の数ほどある。それを教えてくれるのはシイナだと思った。
「まあ、とにかく、それは一例でしかないんだけど。僕は敢えて踏み込んではいけない領域というのが存在すると思う。遺伝子地図は、その最たる分野だと思っているんだけど」
 そう言いながらシイナはどこか痛みを堪えているような苦笑いを浮かべて見せた。そんなシイナが切なくて、けれども、僕は上手い慰めの言葉が見つけられずにそっとシイナに唇をよせ、シイナの額に微かなキスを一つ落とす。シイナはくすぐったそうに肩を竦めると少しだけ表情を緩めて、眉間に溜まっていた力をふっと解いた。
「…ミチヤがいてくれて良かった。ミチヤと出会えて良かった」
 シイナは独り言のように、なんの照れも衒いもない言葉をポツリとこぼす。それは僕の言葉だと思った。シイナがいてくれてよかった。シイナに出会えてよかった。心のそこからそう思う。
 僕はシイナの細い体をギュッと抱きしめながら、今度は頬に軽いキスを一つ落とした。シイナは、ふっと安心したような小さな溜息を零す。それから、不意に顔を上げ、何かを決心したような表情で僕を見詰めた。
「…ミチヤ」
 改まったような硬い声。
「何?」
「……もしも……もしも、僕のせいで殺されるようなことになってしまったら…そうしたら、僕のことを憎む? 恨んでしまう?」
 微かに体を震わせて、声すらも震わせてシイナはそんなことを尋ねてきた。薄暗闇の中にぼんやりと見える、大きくて真っ黒な瞳は不安に揺れているように見える。
 ここに閉じ込められてから、既に僕らは六回の夜を迎えた。とはいえ、窓の無い場所に監禁されているので実際に夜が来ているのかどうかはわからない。体内時計の感覚に任せて六回睡眠を取っただけだが、既に一週間近くの日時が過ぎているのは確実だった。助けが来る気配は正直、全く感じられなかった。神林に渡されていた探知機とやらを念のために肌身離さず持ってはいたが、どうやら何の役にも立っていないらしい。拉致されてくる時に乱暴されたから、その時に故障してしまったのかも。つまり、万事休すという状況だ。助けは来ない。シイナはしたくない研究を無理にさせられている。そして、恐らく。恐らく、研究が完了したなら僕らは二人とも殺されてしまうだろう。どんな馬鹿でも、その程度の想像は容易につく。シイナはそれがわかっているから、そんなことを僕に言い出したのだろうか。
 僕は揺るぎのない目でシイナをじっと見詰めたまま、はっきりとわかるように首を横に振った。仮に、脅しの目的でシイナよりも先に殺されたとしても、僕は絶対にシイナを恨んだり憎んだりしないだろう。
「そんなことはありえない。僕のシイナに対する好きだという気持ちは、きっと死ぬまで変わらないよ」
 なるべく明るい口調を心がけて僕がそう伝えると、シイナはクシャリと顔を歪ませて、涙ぐんでしまった。
「僕も…僕もミチヤが好きだよ?」
 そう言って、僕の胸の辺りに顔を埋める。何だか、小さな子猫に縋りつかれているみたいで僕はなんとも言えない気持ちに押しやられてしまう。嬉しいような、甘いような、それでいて心の柔らかいところがツンと痛むような切ない気持ち。
「……ミチヤ……」
 僕の胸に顔を埋めたまま、また少しだけ声音を変えてシイナが僕の名前を呼ぶ。
「何?」
「…あの…その…」
「うん?」
 シイナは顔を上げずに、何かを言いよどんだ。一体何だろうと思って、シイナの顔を覗き込もうとしたけれど、シイナはムキになっているみたいに僕の胸にしがみ付いて絶対に顔を上げようとしない。キュッと僕のシャツの胸の辺りを強く握り締めると、唐突に、
「…ミ…ミチヤはエ…エッチとかしたことあるの?」
と、とんでもないことを聞いてきた。
「……ナニ? どうしたの? 急に?」
「し、したことあるのっ!?」
 僕が狼狽して尋ね返すと、シイナは逆切れするように、強い口調で言い返す。僕は呆気に取られたまま、それでも、
「ない…けど?」
と思わず答えていた。
「…じゃ、したいと思う?」
 そりゃしてみたい。お年頃の男としては興味があるのは当然だろう。しかも、今は好きだと思える人ができたんだから尚更だ。だから、やっぱり動揺しつつもバカ正直に、
「うん」
 と答えた。すると、シイナはますます僕の胸の辺りに強くしがみ付いて、
「じゃ…じゃあ、してもいいよ?」
と、蚊の鳴くような小さな声で告げてきた。僕は、それを聞いた瞬間思考がストップする。何を言われたのか正直、理解できなかった。
 してもいいよ? 何を? この会話の流れからいくと、エッチをしてもいいってことか?
 そう思った瞬間に、僕はポカンと口をあけて間抜け面をさらしてしまった。一体、この人はナニを言い出したのか。極限状態に押しやられて、神経やられた? でなければ、ヤケクソになっているのか。
 僕は、心配になってシイナの顔を何とか覗き込んだけれど、シイナの表情は羞恥で赤く染まっている以外は極めて正常な状態に見えた。それで僕はピンと来る。要するに、シイナは僕に『お詫び』をしようとしているのだ。それに思い当たった途端、僕は腹立たしいような呆れたような気持ちになってしまった。馬鹿にするなと言いかけて、はっと口をつぐんだ。
「…シイナは僕が好きなの?」
「…うん」
「エッチしたいって思うほど?」
「……わからない。ミチヤの事は好きだけど、僕は今まで誰かの事をこんな風に好きになったことがないし。第一、ついこの間までミチヤのことはdollだと思っていたから」
 まあ、そうだろう。僕の方は最初からシイナの事情も何もかもを知っていたんだからフェアじゃなかった。
「じゃあ、シイナがエッチしたいって思うようになったらさせてもらう。第一、こんな場所じゃ落ち着けないし。ここから出られたらにしよう?」
 僕がなるべく明るく軽い口調を装って、茶化すようにそう言えばシイナはフルフルと首を横に振った。
「そんなの! ここから出られないかもしれないのに!」
 シイナはあっさりと本音を吐露する。やっぱり、そう思っていたからそんなことを言い出したのか。僕は、嬉しいような情けないような複雑な心境で、シイナの体をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫。出られる」
 根拠なんか何もない。けれども、僕は絶対にこの場所から逃げられると思っていた。いや、絶対に逃げてやると心に決めていたと言った方が正しい。
 僕は、絶対にここから逃げてやる。シイナと二人で。
 絶望なんてしない。諦めたりもしない。もう、僕は、あの暗くて汚い部屋で殴られることを恐れて蹲っていた小さな子供じゃないのだから。
 僕には守ってくれる人達がいる。そして守りたい人がいる。だから強くなれるのだと、その時ストンと心の底から納得できた。
 状況なんて少しも好転していないのに、なぜだか僕の心には力が満ちてくる。それは、明らかに僕の中で何かが上向きに変化した瞬間だったけれど。


 その時の僕には、未だ、自覚はなかった。









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