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scientific essence - 14 …………
 シイナと二人でこの場所に閉じ込められて、8回目の朝(正確には朝だったかはわからない、とにかく、眠りから目覚めた8回目の時間ということだ)に『そいつ』はやってきた。
 いつもは僕達の周りには黒服の体つきも屈強な怪しげな男たちばかりしかいなかった。だから、シイナの研究とやらも全くの二人だけでやらなくてはならなかった。シイナは僕以外の助手を必要としなかったし、向こう側から助手を用意しようかと言われたときも、邪魔になるから要らないと邪険に断っていたから。
 だが、僕はその時、全く想像もしていなかったのだ。助手など付けられてしまったらシイナが都合が悪いと思っていて、それを断っていたことに。なぜ都合が悪いのか、その理由に。
 そして、『そいつ』がやってきたことでそれは審らかにされることになる。



「お二人では何かとご不便でしょうから、お手伝いをさせていただくために参りました」
 僕らよりも随分と年上だろう、その白衣の男は眼鏡を上げながら柔和な笑顔を僕らに向ける。だが、その目は決して柔和などではないことが、人を見ることに関して決して鈍くない僕とシイナの目には明らかだった。
 どこか酷薄そうに見えるその瞳。コイツは、僕の爪を剥いだ男と同じ種類の人間だと、僕は瞬時に判断した。つまりは、他人の痛みに対して鈍いか、あるいは敢えて頓着しないタイプの人間。
「目黒シイナさん。まず最初にお聞きしたいのですが、あとどの程度でこの研究は形になりますか?」
 シイナはそう尋ねられると目に見えてわかるほどビクリと激しく反応し、それから縋るように、見えない背後で僕の手をギュッと握り締めた。
「そんなことはわかりません。培養にどの程度の時間が掛かるかなんて、やってみないとわからないし。それに、途中で培養に失敗するコトだってあります」
 少しだけ顔色を青くして、それでも顔をしっかりと上げてきっぱりとシイナはいったけれど、僕の手を握るそれが微かに震えているのが、なぜだか酷く気になった。
「…培養に失敗…ですか? 故意にダメにするのではなくて?」
 何が楽しいのか、その眼鏡男はクスクスと笑いながら端末の傍らにおいてあったデータの束を手に取りパラパラと捲り始めた。それから、スッとその顔から表情を消し去る。
 男は決して体も大きくはなかったし、どちらかといえば白衣を着た研究者にありがちなヒョロッとした体型をしていたけれど、そんな風に表情を失くすと、奇妙に恐ろしく見えてしまった。どこか、人形のような、感情を持たないロボットのようで。
「……奇妙な点が幾つかありますね?」
 そう言いながら男はちらりとシイナのほうを見遣る。シイナは決して視線を逸らさずに男を睨みつけていたけれど、やっぱり顔色はどこか悪いし、体は微かに震えているし、まるで小さな子猫が虚勢をはって大きな敵を威嚇しているようにしか見えない。それが、どこか痛ましくて、僕は酷くハラハラとした。
「私が以前に見たシイナさんの研究とは、どこか違うように見えるのですが?」
「……検体が違うから…」
「ふむ。以前の検体は確かヨモギとトウモロコシでしたか?」
「……なんでそこまで知って…?」
「あの時、私も同じ場所にいて研究のお手伝いをさせて頂いていたんですよ? 何度もお話したこともあったのですが。嗚呼、でも、あの時はシイナさんは『普通ではなかった』から、覚えていらっしゃらないかもしれませんね?」
 にっこりと笑った眼鏡の男に、シイナは今度ははっきりとわかるくらい顔を真っ青にした。握った手は、あからさまに震えていた。そんなシイナの様子を眼鏡の男は楽しそうに眺める。まるで、鼠をいたぶる猫のような、残忍な目をしていた。
「いくつかおかしな点を、上に報告させていただきますよ。私では……知識不足ですから判断しかねますし」
 男はそう言うとあちこちに散らばっていたデータの束を全て黒服男たちに集めさせ、
「それでは、後日」
と言って去っていった。



「もしかしたら、もう、ダメかもしれない」
 就寝前の薄暗い部屋で、シイナはポツリと漏らした。何の話かわからずに、僕は首をかしげて、隣に眠るシイナの顔を見つめる。シイナは、小さなため息を一つ零すと、両手で自分の顔を覆ってしまった。
「ミチヤを僕は死なせてしまうかもしれない」
 震えた声でシイナは言ったけれど、僕はやっぱりその言葉の意味がおぼろげにしかわからなかった。もしかしたら、という疑惑は抱いていたけれど。
「どうして? なんで突然、そんなこと言い出すんだ?」
 僕が尋ねてもシイナは深く息を吐き出しただけで何も言わない。仕方がないので、僕は自分が考えていることを言うことにする。
「……今している実験は、シイナが以前にしていた研究とは全く関係ないことなんだろう? 畑違いの奴等にはわからなくても、専門家が見ればすぐにわかってしまう。そういうこと?」
 僕が半分かまをかけると、シイナははっとしたように顔を覆っていた手を外し、僕の顔を驚いたように見つめた。
「…何で…どうして? ミチヤはこの分野のことはあまり知らないんじゃ…?」
「うーん。何となく」
 本当に何となく、だったんだけど。シイナの性格からしたら、何千人、何万人の被害者が出るようなことは絶対にしないと思った。命の重さを天秤に掛けるなんて実にナンセンスだと思う。けれども、やっぱり僕一人の命と、何人もの人の命を秤にかけたら。
 シイナは後者を取ると思った。それは決して僕のことを軽んじてるだとか、そういうことではない。研究者としてのシイナの良心がどうしても許せない領域が僕には何となくわかるのだ。
「……怒っている?」
「怒る? どうして?」
「僕がミチヤを見殺しにしようとしているから」
「それは違うだろ? シイナって時々自虐的だよな」
 僕が苦笑してそう言うと、シイナは困ったように眉間に皺を寄せた。こんな風に困った表情が、実は結構好きなんだと最近気がついたんだけど、そんなことを言ったらやっぱりシイナは不謹慎だと怒るのだろうか。
「別にいいよ。殺されたって。それが僕の運命だったんだと思う。シイナが一番いいように。つらくないようにすればいい」
 何の気負いもなく、虚飾もなく、あっさりと僕が言い放つと、シイナはクシャリと顔を歪ませて、泣き出す寸前の表情をした。実は、この表情は困った顔よりももっと好きだったりする。
「……どうして? どうしてミチヤはそんなに優しいんだろう」
 僕に尋ねるというより、独り言に近い呟きでシイナは言った。でも、僕はその言葉に首をかしげる。僕は自分が優しいだなんて思ったこともないし言われたこともない。振り返ってみれば、いつだって自分のことで精一杯で他のことになんか目が行かない状態だったような気がする。
 僕は、もしかしたら何かが変わったのかもしれないと、実感として自覚したのはもしかしたらこの時かもしれなかった。そして、ふと、サツキの顔が浮かんだ。不意に、これは全てサツキが最初から計画していたことだったんじゃないかと。もちろん、なんの根拠もない漠然とした考えだ。
 でも、サツキはいつでも僕をおもちゃにしたりいじめたりして楽しんでいるけど、基本的に何だろうと僕の為になることばかりをしてくれる。そう思ったら急にサツキに会いたくなった。ホームシックっていうのはこういう感情なのだろか。
 僕が死んだら、サツキは悲しむだろうな。もちろんシイナも。自分が死んでしまうことよりも、シイナやサツキが悲しむことのほうが余程辛いことのように思えた。そうして、そう思えることが実はとても幸福なことなのではないかと唐突に僕は悟る。
 辛いだけの子供時代。苦しいことばかりだったけれど、僕は、今、幸福なんだと思った。
「……シイナ。もし。もし僕が死んだとしても悲しんだり泣いたりしないで」
 僕が真剣な表情でそう言うとシイナはひゅっと喉を鳴らして息を吸い込んだ。けれども何も言わない。暫しの沈黙の後、
「わかった。ミチヤが死んでも悲しんだり泣いたりしない」
と僕が驚いてしまうくらいはっきりとした凛とした声でシイナは答えた。そこまではっきりと『悲しまない』と断言されてしまうのも少しだけ寂しいような複雑な気持ちになったけれど、シイナが泣いたりするよりはずっとマシだと思った。
 けれども、僕はその時は全く気がついていなかったのだ。

 シイナがその言葉の後ろに飲み込んだ言葉に。
 揺るぎのない決心をしていたことに。






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 ドンドンと乱暴にドアを叩く音と、
「起きろ!」
と怒鳴る声で僕達は安らかな眠りから叩き起こされた。こんな風に起こされたことは、ここに監禁されてから一度もなかった。僕は漠然と、ああ、ばれてしまったんだなと思った。
 シイナもそう思っていたらしく、青褪めた顔をしていた。
 寝癖がついたまま、朝の支度もさせてもらえないまま僕らはいつも実験していた部屋に無理やり引きずっていかれた。
 そこにはあの冷たい目をした白衣の眼鏡男がいて、その隣には随分と仕立ての良い高級そうなスーツを着た中年くらいの男が立っていた。顔は結構整っているんだけど、中身の悪辣さが滲み出ているかのような、いかにも悪そうに見える男で、僕はこっそりと笑ってしまった。
 だって、絵に書いたような『黒幕』って感じの男だったから。でもシイナはそこまで余裕がなかったらしい。真っ青な顔をしてずらりと僕らの周りを取り囲むように並んでいる連中を見ていた。
「初めまして。目黒シイナ君」
 男はその悪辣な顔に、さらに嘲笑のような醜悪な笑みを浮かべてシイナに話しかけた。シイナは返事をしない。青ざめた顔をしていながらも、反抗するかのようにプイとあさっての方向に顔を向ける。その態度に、男は声を上げて笑った。子供を馬鹿にするような高笑い。酷く神経に障る。
「随分と生意気な子供だな。私は、子供にバカにされるのが我慢ならなくてね」
 そう言いながら懐に手を差し入れる。タバコでも取り出すのだろうかと悠長に見ていた僕は、けれども、そこから出てきたものを見てぎょっとした。それが、一丁の拳銃だったからだ。シイナもそれに気がついて、更に顔色を青くする。
「正直に答えたまえ。君が今している研究は何の研究だね?」
 男は銃口を椎名の頭に向けたまま、恫喝するような口調で尋ねた。けれどもシイナは怯んでいないようだった。じっと男を真っ直ぐに見詰めたまま、
「品種こう配です」
とケロリとした口調で答えた。一瞬、その意味がわからなかったらしい。男は訝しげに眉を寄せた。
「キャベツとブロッコリーの品種こう配。花も葉も茎も食用として利用できる掛けあわせを作る実験をしています。もし成功すれば商用的にかなり価値があると思います。あ、特許権は貴方に差し上げますよ?」
 そう言うと、シイナはにっこりと笑った。そのあまりに堂々とした態度に、その言葉の内容に、周りにいた男達は狐につままれたような顔をした。だが、白衣の男と、黒幕らしき男だけは分かったらしい。シイナに完全におちょくられ、バカにされたということに。
 それが証拠に、白衣の男の額にはうっすらと血管が浮き出ていた。
「私は子供にバカにされるのが我慢ならないと先ほど言ったばかりなんだがね」
 そう言って男はカチリと拳銃の安全装置を外した。
「それとも、君は一度痛い目を見なければわからないほど愚かな子供なのか?」
「痛い目を見ても僕は変わらない。僕を殺したければ殺せばいい。死んでも僕はあの研究の再現なんて絶対にしない」
 シイナは顔を上げたままはっきりと言い放った。僕はこんな状況なのに、不謹慎ながらそのシイナの凛とした顔に見とれていた。自分のことのように、シイナが誇らしいと思った。
 だが、そんなことを悠長に考えていられたのはそこまでだった。シイナの意思が決して揺らがない固いものだと男も気がついたのだろう。不意に矛先を変えた。
「なるほど。だが、君の大事な友人が傷ついても同じことが言えるかな?」
 そう言って、男は銃口を僕に向け、僕が、え、と思うまもなくあっさりとトリガーを引いた。衝撃で僕は後ろに吹き飛び、尻餅をつく。その直後に熱を肩に感じ、じきにそれは激しい痛みに変わった。
「ミチヤ!!!」
 シイナは慌てて僕に駆け寄り、庇うように僕の体を抱きこんだ。ダクダクと血が肩から流れていく感覚がする。熱と激しい痛みに僕は脂汗をかきはじめた。
「私は道楽でこんなことをしているわけではないのでね。ただの脅しじゃない。君が屈服しないと言うなら、次は彼の額に風穴があく」
 言葉どおりに男は僕の頭に銃口を向けたままシイナと僕を見下ろした。きっと、男はそれでシイナが屈服すると思ったのだろう。けれどもシイナはそうはしなかった。
「ミチヤを殺すなら殺せばいい。でも、僕は絶対にお前達の言うことなんてきかない。ミチヤが死んだら僕もすぐ後に死ぬだけだ。死のうと思ったら、どんな方法だってどんな場所だって死ぬことはできる」
 そうはっきりと言い切った。何の迷いもない、覚悟を決めた表情で。それがとても綺麗な顔で、僕はシイナから目を離すことができなかった。
 死に直面したせいなのか、それとも血を見たせいか、僕は妙に興奮しているらしく、高揚する気持ちを抑え切れなかった。シイナがとても好きだと思って、その気持ちだけで胸がいっぱいになる。
 僕が大事だからといって屈服するよりも、ゴメンなさいと泣きながら謝られるよりも、ずっとずっと嬉しかった。これは、まるで、熱烈な告白のようなものなんじゃないだろうか。僕にはそうとしか聞こえなかった。


 僕はシイナが好きだ。
 とても、とても。


 シイナは僕を抱きかかえるようにして男を睨みつけている。シイナの腹を括った反抗に、周りを囲む男達も気圧されているようだった。拳銃を構えている男もシイナの覚悟が嘘ではないと思ったのだろう。トリガーを引くかどうか、躊躇している様子を見せて、それが致命的になった。






 不意に耳をつんざくような破裂音が聞こえた。まるで、爆竹が勢いよく破裂しているかのような。それから、すさまじい閃光と白煙。僕らの視覚はあっという間にきかなくなる。それから、怒号と何かが倒れる音、壊れる音、人の叫び声。何が起こったのかわからず、本能的に僕達は抱き合ったまま床に伏せてじっとしていた。
 何が起こったのかようやく判断できるようになるまでに、多分それほど長い時間を要したわけではないと思う。数分かそこらだったのだろう。けれども、僕らにはとても長い時間に思えた。
 白煙が大分薄れ、次第に視界がはっきりしてきた頃にヒョイと誰かに抱え上げられた。それから、撃たれた肩のすぐ脇の辺りを何かの布で強く縛られた。
「随分と待たせてすまなかったね」
 聞き覚えのある声がして、ふと顔を上げれば神林が僕らのほうに向かって歩いて来た。その後ろ側には今まで僕達を囲んでいた男達が連行されていくのが見えた。
「君達がどこにいるのかは大分前に割り出していたんだがね。黒幕が尻尾を出すのを待たなくてはならなかったものでね」
 飄々とした口調で神林が言えば、シイナは僕が驚いてしまうほどすばやい仕草で立ち上がると、パーンと派手な音を立てて神林の頬を平手で殴った。
「なんでもっと早く来なかったんですか!? ミチヤが怪我をしたんですよ!?」
 シイナが怒りのあまり顔を真っ赤にして叫ぶのを神林は苦笑しながら眺めている。
「すまない。悪は根源から絶つ必要があったんだ。ミチヤ君には本当に申し訳ないことをした。片桐サツキさんにも派手に叩かれたんだがね」
「サツキが?」
 言われてみれば、シイナが叩いた方と反対側の頬も微かに赤くなっている。
「ああ、彼女は外で待っているよ。だが、君は治療が先だな。救護班!」
 神林が呼ぶと、担架を持った白衣の人たちが駆け寄ってきた。
「それにしても、踏み込んでくるタイミングが良すぎたんじゃないですか?」
 僕が疑問に思って尋ねると、神林は、やっぱり飄々とした表情で、
「ああ。君に持たせた通信機がね。盗聴機能も搭載しているんだ。それに、血液に反応して危険信号を飛ばすようにも設定してあったからね」
と答えた。さすがに、それを聞いて僕は呆れ返ってしまったんだけどシイナはなぜか赤かった顔を青くした。
「盗聴…って…じゃあ、じゃあ、僕達の会話をずっと聞いてたってことですか?」
「ああ」
 神林はシイナに向かってニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべる。
「実に心洗われるような青春ラブストーリーを拝聴させて頂いたよ」
 嗚呼…そうか。好きだの何だのとか、エッチしてもいいとかどうだとか、そんな会話を聞かれたのかと思ったら僕は恥ずかしいというより脱力してしまった。でも、力が入らないのはそのせいだけじゃないかもしれない。出血が激しかったからなのかも。
 シイナは神林の言葉に再び顔を赤くして怒りのあまり言葉も思い浮かばないようだったけれど。僕は急激に力を失って体を支えられなくなった。



 その後のことはわからない。貧血で倒れてしまったから。
 気がついたら、僕は病院のベッドの上だった。










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