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scientific essence - 6 …………
 僕は、狭くて、寒くて、薄暗くて、汚れきった部屋の中で蹲っている。部屋の中には同じような子供が、僕と同じような目をして体を小さく丸めていた。常にお腹は空いている。寒さをしのぐコートさえまともに無い。
 先週、肺炎をこじらせた僕より一つ下のウラジミルが死んだ。死体をそのままにしておくと臭くなるから、と、まるで犬や猫に対するような言い草で、大人達が死体をどこかへ運んでいった。きちんと、墓地に埋められて、弔ってもらえるのだろうか。もしかしたら、路地裏のゴミ箱に捨てられてしまったのかもしれない。平気でそういう事をする、碌でもない大人達しか、ここにはいないから。
 僕が死んだら、どうなるんだろう。同じように、ただのゴミのように人目につかぬ場所に捨てられてしまうのだろうか。誰にも悲しんでもらえず、誰にも気がつかれずに。
 教会のシスターは、良い行いをしなさいと言った。そうすれば天国にいけるからと。
 けれども、悪い事をしなければ生きていけない子供はどうすれば良いんだろうか。僕には分からない。ただ、大人達に言われた通りの事をするだけだ。そうすれば、僅かなパンとミルクが貰える。
「お前は幸運な子供なんだ」
と、大人達は言う。
「頭が良くて良かったな。そうでなければ、口減らしの為にとっくに殺されていたぞ」
「俺達に感謝しろ」
とも。
 酒を飲んで暴力を振るう事しか能の無いロクデナシの父親から救ってくれた事を感謝しろと言われても、暴力を振るう人間が酔っ払いから、そうでない人間に代わっただけで、僕にとっては大差が無い。

 25,000ルーブル。

 男達が、僕の父親に払った代償。僕の脳みそに付けられた金額だ。
 人の命は何物にも代え難いとシスターは言ったけれど、そんな事は無い。それが証拠に僕の命はお金で買える。何て安っぽくて、軽いのだろう。

 何の価値も無い僕の人生。
 そして、この、狭くて、寒くて、薄暗くて、汚い部屋が僕の全世界。ここで、体も頭も腐って朽ち果てていくのを僕はをひたすら待っている。






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 後味の悪い夢を見て、目が覚めた。
 もう、忘れかけている小さな子供の頃の夢だ。思い出すことも殆ど無くなった頃の事を、なぜ、今頃夢に見たりするのだろうと、嫌な気分になりながらも深く息を吐き出す。
 窓の外はまだ薄暗くて、時計を見てみれば、起きるには、まだまだ早い時間を示していた。
 少しだけ荒くなっていた息を整えて、ふと横を見てみればシイナが穏やかな寝息を立てて眠っているのが薄明かりの中、見えた。何の憂いもない安らかな寝顔。
 それで、僕の呼吸は少しだけ落ち着く。
 良かった。アレは夢だ。遠い祖国の地に捨ててきてしまった僕の過去。もう、二度と僕を追いかけてきたりしない。
 サツキに日本に連れられてきてから一度も思い出したことの無い記憶なのに、なぜ、今になって思い出したりしたんだろうかと、僕は小さく溜息を一つ吐いた。カーテン越しの窓の外はまだ暗く、まだ暫くは夜は明けないようだった。
 布団からはみ出しているシイナの白い手を柔らかく握ってみる。目を覚ましてしまったらどうしようかと、少しだけ怖かったけど、どうやら熟睡しているらしく、気が付いた様子は無かった。
 小さな溜息を一つ吐いて僕はもう一度目を閉じた。けれども、一度溢れ出してしまったものはそう簡単には消えてくれず、記憶の奥底に閉じ込めていた悪夢が蘇りそうになる。何かを叫んでそれを発散してしまいたい衝動に駆られたが、不意に手を握り締められて少しだけ驚いて目を開いた。隣でシイナが寝ぼけ眼で僕を見ていた。
「眠れないの?」
 どこか呂律が怪しい口調で尋ねてくる。僕が曖昧に頷くと、シイナは「そう」と、小さく相槌を打ってそれから、もう一度、きゅっと僕の手を握り締めた。そして、そのまま目を閉じてしまう。すぐにシイナの安らかな寝息が聞こえ始めて、僕はホッと息を漏らした。
 僕は再び目を閉じる。シイナと手を握っていると、まるで見えない何かに守られているみたいな錯覚がして僕は少しだけ安心した。

 不意に、日本に来てまだ間もない頃、サツキと一緒に行ったお花見の事を思い出す。
 滅多に外出許可の出ない僕の為に、サツキが何とか折り合いをつけて、一度だけ大きな植物園に連れて行ってくれたことがあった。夜の植物園は照明も十分ではなく、僕は薄暗い中をどうでも良い気分で歩いていたのに、余りにも鮮明に白く浮かび上がる満開の桜の花を気がつけば食い入るように見ていた。
 ハラハラと落ちてくる花びらが何かを連想させる。それは、遠い祖国で見た景色と似ていた。
「雪が降っているみたいで怖い」
と、僕は無意識に呟いた。サツキはそんな僕の手を握りながら、
「怖くないわ。綺麗なのよ」
と、優しく教えてくれた。
「けれども、ある種の緊張感と、寂寥感を与えてくれるのは確かね。日本人は大抵、桜が好きだわ。刹那的な美しさと、潔い散り際が侘び寂びの精神に通じるのかしら。ミチヤはこの花が嫌い?」
 尋ねられて、僕は訳も分からず激しく首を横に振っていた。涙が溢れて止まらなかった。なぜ涙が零れてしまうのかちっとも分からなかった。
「ミチヤはたった今、生まれなおしている最中なのよ。これからはこの国がミチヤの故郷になるの。涙が出るのは郷愁のせい」
 その時、サツキが言った言葉は、僕にはさっぱり理解出来なかったけれど、なぜだか、今でも鮮明に記憶に残っている。その時の、サツキの優しそうな目も。
 シイナが、僕を見詰める時の目は、少しだけサツキに似ている。シイナとサツキは少しも似たところなんて無いのに。
 僕は、少しだけ力を入れてシイナの手をぎゅっと握る。もう一度目を開き、シイナの穏やかな寝顔を見詰めているうちに、不思議と気分は鎮まって行き、ウトウトとした眠気が襲ってくる。

 嗚呼、そうだ。シイナのイメージは桜に似ている。
 朧気になってきた意識の片隅で、そんなことを思った。




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「次のね、メンテナンスの時に、ミチヤがしゃべれるようにしてもらおうと思うんだけど」
 二人で食卓をはさんで夕飯を食べているときに、シイナは突然切り出してきた。まるで、悪戯を思いついた子供みたいにウキウキしたような表情。
 でも、正直、僕もシイナと話が出来るようになるかと思ったら、すごく楽しみになってきたから人の事は言えない。笑ったまま軽く頷いてみせると、シイナはますます嬉しそうな顔をした。
 ちなみに、今晩の夕飯は湯葉尽くし。
 和風湯葉春巻きに、蟹の湯葉巻きお吸い物。湯葉巻きと胡麻入り豆腐のとろみあんかけ、ご飯は筍とシメジの炊き込みご飯。食器は信楽焼で統一されている。
 それにしても、ホントにシイナの料理の腕は素晴らしい。このままお店が開けるんじゃないかと思うくらい。こんな料理が毎日食べられるだけでも、割の合わない依頼を受けた甲斐があるってもんだ。
 しかも、シイナ本人も愛すべき性格と来ている。ホントに今回は運が良い。
 そんなことを暢気に考えていた時だった。

 不意に、ピンポーンと、部屋のインターホンが鳴った。

 僕は、正直、その音が一体何なのか鳴った瞬間には分からなかった。それもそのはずだ。シイナの家に来てから三週間近くが経過していたけれど、一度として、インターホンが鳴った事など無かったかのだから。
 シイナはその音を聞いた途端、目に見えてはっきりと分かるほど顔色を変えた。訝しげに眉を寄せて、ピリピリとした空気を体から発し始める。
 まるで、天敵を目の前にして相手を威嚇している野生動物みたいな雰囲気だった。
 そんなシイナを見たことは一度も無かったから、僕は些か驚いた。けれども、そんな僕の心中を察する余裕さえ無さそうな態度で、シイナは立ち上がり、室内の受話器を取った。
「はい?」
 素っ気無い短い返事に対して、返って来た言葉は。
『やあ。シイナ君、久しぶり。部屋に上げてくれないかな?』
 その場には、いっそ、そぐわない明るい声。
 シイナは、その声を聞いた途端に全身の毛を逆立てたみたいだった。
「何の御用ですか?」
 機嫌が悪い事を少しも隠そうとせずに、シイナは無礼とも思える口調で尋ねた。
『おやおや、つれないね。久しぶりに君の顔が見たいと思っただけなんだがね』
「僕は貴方の顔なんて見たくありません」
『へえ? じゃ、君の顔は見なくても良いから、最近飼い始めたっていうお人形さんの顔だけでも見せてくれよ』
 お人形、っていうのはもしかして僕の事かな? この家に他に人形らしきものは無いから、僕のことなんだろうな。それにしても、一体、この男は何者なんだろうか? 
 奇妙なほど飄々とした口調が、神経に障る。何となく好きになれなそうなタイプだと思った。シイナも同じように思っているらしく、男の言葉を聞いた途端、下唇を悔しそうに噛み締めた。
「・・・一体、誰に聞いたんですか?」
『おやおや。俺を誰だと思っているんだい? 君の事で知らない事なんて無いよ』
「プライバシーの侵害ですよ。警察を呼ばれたくなかったら、さっさと帰って下さい」
 シイナらしからぬ、強くて厳しい口調だった。半ば喧嘩腰の。
 相手にもそれが伝わったのか、小さく溜息を吐く音がインターホン越しに聞こえた。
『・・・相変わらずだね。いつまで、殻に閉じこもっているつもりだい? お人形遊びも結構だが、君にはもっとしなくてはならないことがあるだろう?』
 今までとは打って変わって、真剣みを帯びた大人の男の声で、そいつは言った。シイナがその瞬間、小さく息を呑み、顔色を青くしたのを僕は見逃さなかった。けれども、それはほんの一瞬で。
「大きなお世話です。僕のことは放って置いてください」
 にべもなくシイナはそう言い切ると、ガチャンと乱暴に受話器を置いた。
 そのまま、すぐに、食卓に戻ってきて腰を下ろす。
 もう一度鳴るかと思ったインターホンは、その後、一度も鳴る事は無かった。

 何か考え込むように頭を抱え、肘をテーブルについているシイナ。
 僕は、何か言葉をかけようとして、かけてはいけないことに気がついた。もっとも、声をかけられたとしても、何を言って良いのか分からなかっただろうが。

 何かに悩み、苦悩しているシイナ。

 僕の知らないシイナだった。
 穏やかで、いつもニコニコと笑っている静かな少年。
 心の奥底に、癒えぬ傷を持ったままの少年。
 そして、今は、何かに苦しんでいる。
 それが何なのか知りたい衝動に僕は駆られてしまう。



 シイナの全てを知りたい。



 それは不意に僕の心の奥底の方から湧き出した欲求で、その余りの強さに、自分自身で戸惑ってしまう。この感情は一体何なんだろうかと問いかけても、僕の中に答えは存在しなかった。それが、僕を不安な気持ちにさせる。
 自分自身の精神状態がバランスを失った不安定な状態に突入していた事に、けれども、僕はその時は気がついていなかった。









 そう。
 自分の病巣に、全く気がついていなかったのと同様に。








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