scientific essence - 5 ………… |
「どうもありがとうございました」 ひょこんとシイナがサツキにお辞儀をする。シイナの表情は明るくて嬉しそうだけれど、目の下には隈が出来ていて、表情とギャップがあって変な感じだ。 「・・・シイナ君、もしかして昨晩寝てないんじゃないの?」 サツキも同じ事を感じていたらしく、心配そうに尋ねる。シイナは悪戯が見つかった子供みたいに、バツが悪そうに苦笑いした。 「・・・何だか、ミチヤがいないと寂しくて・・・変ですよね、まだ一週間しか一緒にいないのに」 少し恥ずかしそうにシイナが首を傾げる。僕は、シイナの言葉に胸の奥がギュッと締め付けられるような気がした。別に僕のせいじゃないのに、一人にしてゴメンナサイと謝りたくなってしまう。 「・・・そんな事はないわ。シイナ君、今まで一人だったから尚更そう感じるんだと思う。今日は、帰ったらお昼寝してね」 シイナに対するサツキの口調はやっぱり、どこか優しい。子供をいたわる母親のようなイメージが付きまとう。シイナは、そんなサツキの態度に気がついているのかいないのか。あどけない笑いを浮かべて素直に、はい、と頷いた。 「それで・・・今日からご飯食べさせても良いんですよね?」 ああ、そうでした! ご飯だよ、ご飯! 今日から、夢の和食パラダイスが待っているんだ! 素晴らしい! そんな、僕の浮かれ具合を空気で察知したのだろう。サツキは、 「ええ、大丈夫なんだけど微調整が上手くいかなくて・・・すごく食い意地が張って意地汚くなってしまったの・・・シイナ君に迷惑が掛かるかもしれないわ」 と、嫌味をチクチク言いやがった。相変わらず良い性格してる女だよ。 「あ、そうなんですか? でも、食欲があった方が作り甲斐があるから平気です」 「やさしいのね、シイナ君。でも、甘やかすと付け上がるから、厳しく躾けてね。食べさせ過ぎないように注意して? この子、満腹中枢に異常があって、放っておくと馬鹿みたいにいつまでも食べ続けちゃうから」 「そうなんですか? わあ、じゃあ、気をつけなくちゃ」 ・・・サツキ・・・アンタって女は・・・。それを素直に信じるシイナもシイナだけど。仮にもシイナは科学者だろ? 分野は違っても、多少は分かるだろうに変だと思わないのか? 普通、気がつくぞ。シイナって、薄々感じてはいたけど、もしかして天然? 所謂、学者馬鹿と言うか、世間ズレしてないと言うか・・・すぐに誰かに騙されそうで何だか心配だ。僕が守ってやらなくっちゃ。 と、そこまで考えてはたと我に返った。なんで、僕がシイナを守らなくちゃならないんだよ? 変なの。 「それじゃ、片桐先生、ありがとうございました」 シイナは晴れ晴れとした笑顔を浮かべてサツキに会釈する。 「ええ、それじゃあ、また、一週間後にね?」 サツキは相変わらず優しそうな表情でシイナを見詰め、それから、同じような視線を僕にもチラリと送ってから小さく頷いた。その後ろで、周防さんが複雑な表情でサツキをじっと見詰めている。怒っているような、心配しているような、困っているような、そんなのが全部混ざったような表情。 一体、何なんだろう? 周防さんは、サツキがしている事に不満があるみたいな事を言っていたけど、詳しい事情が僕には分からないので周防さんのその表情の意味は測れない。何とはなしに、心の片隅にモヤモヤとした不安が巻き起こってきたけれど、シイナの柔らかい手にキュッと手を握られたら、瞬間的に吹き飛んでしまった。 柔らかくて、すべすべしていて、僕よりも少し小さいシイナの白い手。 手を繋いだまま、シイナは嬉しそうに僕を見上げて、 「じゃあ、帰ろうか?」 って、笑った。僕の胸の中で、チリチリと小さな鈴を鳴らしたようなくすぐったさが生まれる。シイナの笑顔、僕は、好きだ。出会って、一週間しか経っていないけれど、それだけははっきりと言える。 つられるように、僕も笑い返して、キュッとシイナの手を握った。 二人でシイナの家に帰ってきた途端、シイナは電池が切れた人形みたいにバタンとベッドに倒れて眠り始めてしまった。そう言えば、昨日から一睡もしていないって言ってたっけ。僕がいなくなって寂しくて眠れ無かったって。 僕も、昨晩はシイナがどうしているか気になってあんまり深く眠れなかったけど。 シイナはどこか、やっぱり繊細なんだなと思った。 僕は、シイナが寝てしまったのですることもなく、ぼんやりとシイナの寝顔を眺める。 あどけない無防備な寝顔は、ただでさえ幼く見えるシイナの顔を更に幼く見せた。本当に、小さな子供のような寝顔。それでいて、長くて黒い睫毛が伏せられている目元は奇妙な艶がある。そのアンバランスさがシイナの魅力を引き立てているような気がした。 額に掛かった前髪をサラリと掻き揚げてやると、形の良い額が晒される。 窓から差し込む午後の日差しを浴びて安らかに眠っているシイナの姿は、本当に天使みたいだった。それでなければ、神様に加護されている子供のよう。 僕は、奇妙に静まり返った自分の気持ちを不思議に思いながらも、その穏やかな空間を酷く心地よく感じていた。 「もう、寂しい顔はしないで。ずっと笑ってて」 小さな声で、眠っているシイナに告げる。もちろん返事なんてあるわけは無い。ただ、安らかな顔で眠り続けているだけだ。 僕は、無意識に、本当に無意識に、何も考えることなく自然にシイナの額にキスをした。 し終わってから、不意に、我に返って首を傾げる。 僕は一体、何をやっているんだろうか? 何だか、胸の奥がくすぐったいような、暖かいような不思議な気持ちで一杯になって、僕は戸惑ってしまう。 シイナと一緒にいると、何だか、勝手が狂ってしまうらしい。 「それって、やっぱ、シイナの天然に毒されかけてるって事?」 何となく、落ち着かない気持ちで独り言を漏らす。シイナはそんな僕の気持ちなど露知らず、スヤスヤと安心したように眠り続けたのだった。 里芋と蟹のしんじょ、蛸と蕗の炊き合わせ、ジャコと桜海老と牛蒡の湯葉巻き揚げに、帆立と豆の炊き込みご飯。旬の青菜の胡麻和え、鮎の塩焼き、蛤と三つ葉のお吸い物。 帰った日の夕飯のメニューだ。 食卓に並んだそのご馳走を眺めながら、僕は眩暈がしそうだった。 素晴らしい! 素晴らしいとしか良いようがない! 本当に日本食は素晴らしいよ! 神様、この世の中に和食と言うものを生み出してくれてどうもありがとう! 普段は信じてもいない神様に心の中でお礼を言いながら、僕はシイナの前の席に腰を下ろした。 「せっかく、今日からご飯が食べられるようになったからね。ちょっと頑張ってみたんだ。口に合うと良いんだけど・・・」 照れ臭そうにはにかみながらシイナは首を傾げる。君は、ホントに素晴らしいクライアントだよ。今までメチャクチャ運の悪い人生だと思ってたけど、こんな良い事があるなんて捨てたモンじゃないね。 「頂きます」と口に出して言ってはいけないから、心の中でだけ言って手を合わせる。そしたら、ぶはってシイナに笑われてしまった。 「面白いね。ドールってそんなことまでインプットされてるんだ。ミチヤってどっからみても外人なのに、そんな風に日本人らしい仕草をするとなんか、おかしい」 そう言って、シイナはクスクスと笑い続けている。そう言えば「いただきます」の動作って初期動作に入ってたっけ? ま、いっか。何度もシイナが目の前でやってるのを見てたから、動作を学習したんだって幾らでも言い訳は通るだろう。 「・・・お箸ね、ミチヤ用に買ってみたんだ。漆塗りなんだよ? 気に入るかな」 見れば、黒に少し赤茶の砂が混ざったような綺麗な箸が置かれていた。漆塗りの箸が高価だとか、そう言う事ではなくて、何と言うか、僕のためにシイナが箸を用意してくれたと言う事が、ナゼだかとても嬉しかった。 「ありがとう」 と、凄く言いたくて喉まで出掛かったけど言うわけにはいかないから僕は精一杯笑って見せた。そうすると、シイナも嬉しそうに笑う。僕が喜ぶとシイナも喜ぶ。それが、酷く暖かい事のように思えて僕は急に泣きたい気持ちになってしまった。一体、何なんだろう。嬉しいのに、泣きたいなんて。嬉しいのに、胸の奥の方が痛いような気がするなんて。 嬉しそうな表情のまま、シイナは上品な仕草で手を合わせ「頂きます」と言って食事を始めた。 シイナは、料理だけでなくて実はかなり食器にも凝っている。 今日の食器は備前焼。全ての食器が備前焼で統一されている。備前焼特有の綺麗な流れ胡麻の食器が食卓を演出していて風情があった。料理だけでなく、食器にもこだわるのはやっぱり料亭の娘だったと言うお母さんの影響なのだろうか。 いずれにしても、シイナはとても「日本の文化」を尊んでいるように思える。部屋自体はフローリングで完全に洋風なんだけど、部屋の片隅に畳を敷いて簡易の床の間を作って掛け軸を掛けたり、こんな風に食器を日本の焼き物で揃えてみたり。そもそも、シイナの外見自体が純日本風って感じなんだけどね。箸の使い方も上手。 ふと、ケイジさんがシイナの事を「男の子版の京人形みたい」と言ったのを思い出して思わず笑いが浮かんでしまった。すると、シイナが不思議そうな表情で、「何?」と首を傾げる。その拍子にサラサラとシイナの真っ黒な髪の毛が揺れた。僕は黒い髪が好きだ。日本人らしくて。黒い瞳も。 シイナのいる空間は、居心地がとても良くて、一緒にいるととても穏やかな気持ちになるから不思議だ。 そんな事を考えながら無意識にシイナを見詰めて微笑んでいたらしい。 シイナは、ふ、と寂しそうな表情で笑って、 「どうして、ドールは話せないのかな? 凄く残念だな。次の点検の時に、話せるようにしてくださいって片桐先生にお願いしてみようかな?」 と言った。 それは良い考えだと、僕も思うよ? 僕もシイナと話がしたい。 話せるようになったなら、箸を用意してくれてありがとうと伝えたい。美味しい料理をありがとうと伝えたい。 人と人との間に言葉があるのは余りに当たり前で、普段は何とも思わないのに、不思議だね。使えないと、その有り難味がとてもよく分かる。 仕草や表情で伝わる何かも確かにあるけれど、感謝の気持ちや嬉しい気持ちは、きちんと言葉にして伝えたい。 そうしたらね、シイナ。君は、もっと嬉しい顔をしてくれるかな。 |