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scientific essence - 4 …………
 医療室で、真っ白い顔のシイナが眠っている。抗不安剤を点滴したせいで少しは顔色が良くなったけれど、相変わらず紙みたいに白かった。ピッピッピと規則正しいリズムで点滴調整機が音を立てている。シイナの細い腕には点滴の針。肌が弱いのか、針の周りが青く内出血していて痛々しかった。
「一週間生活してみたけど、別に問題なかったのに・・・」
「家に閉じこもっている分にはね。あとは、心を許している知人も平気。でも、知らない人と突然接するのは未だにダメなのよ」
「僕は? 知らない人だけど大丈夫だったよ?」
 サツキの顔をぼんやりと眺めながら尋ねたら、サツキは少し疲れたような表情で薄く笑った。
「ミチヤのことは人として認識していないからでしょう。犬や猫と同じようなモノ」
「イヌやネコ・・・・」
 何となく情けない気分で俯いたら。
「・・・犬や猫はライフルを撃って来たりしないから」
 と、サツキが沈んだ声でぼそりと呟いた。嗚呼、そうだったっけ・・・・。そうだよね。
「後はね。広い場所もダメだから」
「広い場所?」
「そう。まあ、広場恐怖に似たような症状ね。空港に似たような開けた場所は一切ダメ」
 そうか・・・それで、研究所に入ってくるとき大ホールを避けたのか・・・。ちっとも気が付かなかった。別にシイナが倒れたのは僕のせいではないけれど、何となく気分が落ち込んでしまう。何だろう? 胸の奥が痛い。シイナの白い顔を見ていると、ギュッと心臓を掴まれたみたいになってしまう。僕が、黙って、じっとシイナの顔を見つめていると、シイナが「ううん・・・」と声を漏らして目を細く開いた。少し覗いた鴉みたいな真っ黒な目。
「・・・ミチヤ?」
 目が合って声を掛けられて、思わず、「何?」と返事をしそうになった。慌てて飲み込んで、笑いかけるとシイナはほっとしたように表情を緩めた。
「片桐先生? 僕、また倒れちゃった?」
「・・・ええ。御免なさいね。ケイジは悪い奴じゃないんだけど、少し、無作法なのよ」
「いえ。あれ位は普通です。僕が・・・病気だから・・・・」
 そう言ってシイナは手で顔を覆う。大きな溜息を吐く音が静かな医療室に響き渡った。
「・・・だめだなあ・・・僕・・・こんなんじゃ、いつまでたっても外に出られない」
 少しだけ湿った声? もしかしてシイナ、泣いてる? そう思ったら、胸の奥がもっとズキンとした。泣かないでと言って、シイナを抱きしめたい衝動に駆られて、そんな自分に気がついて僕は呆然とした。変だ。僕の中で何かが変わりつつある。
「あせっちゃだめよ? シイナ君はこんなにがんばってるんだもの。この病気に無理は禁物なの」
 聞いた事の無いくらい優しい声でサツキが告げる。そして、クシャリとシイナの真っ黒でさらさらな前髪を撫ぜた。シイナはそっと手をはずしサツキの顔を見上げ、弱弱しく笑ってみせる。目尻が濡れている様に見えたのは僕の気のせいだろうか。
「迷惑おかけしてすみませんでした。僕、そろそろ帰りますね。ミチヤ、よろしくお願いします」
 そう言いながら体を起こし、シイナは手馴れた仕草で点滴の針を自分で抜いてしまう。きっと、もう、何度もこう言う事があって、慣れてしまったんだろう。
「もう少し休んでいったら?」
「いえ。片桐先生のお仕事を邪魔するのは嫌だから。・・・・周防先生にも謝っておいてください・・・・それから・・・」
 シイナがちらりと僕の顔を見る。何となく寂しそうな目をしていると思った。
「ミチヤの事、よろしくお願いします」
「ええ・・・・・シイナ君。早い方が良い?」
「え? 何がですか?」
「ミチヤのメンテ。超特急でやれば明日のお昼には終わるわ。ただ、少し不都合が残るかもしれないけど」
「え・・・でも・・・」
 戸惑いがちにシイナは僕とサツキを交互に見やる。多分、サツキもシイナを独りぼっちにするのが不安なんだろう。僕も不安だった。このまま、シイナと一緒に帰りたい。

 ・・・・『帰りたい』と思ったこと自体が実は僕にとって重要な変化だったのだが、この時の僕に自覚は無かった。そもそも、僕は自分の症状すら自覚していなかったのだから。それをサツキに明かされたのは随分と後の事だったけど。

「それじゃ・・・お願いしても良いですか?」
「ええ、明日のお昼にまた取りに来てくれる?」
「はい」
 シイナは嬉しそうに笑うと僕の手を軽く握って、それから名残惜しそうに離した。手に残ったシイナの体温が僕の中にポトリと何かを落としていく。ポカポカと体の中を温めてくれる暖かい小石の様な何かを。
 それを何と呼ぶのか、この時の僕は、まだ、知らなかった。




「で? 食べたのは初日の羊羹だけ?」
「・・・・と、鰆の西京漬け・・・・」
「だけ?」
「・・・・と、独活の辛味噌あえ・・・・」
「だけ?」
「・・・・と、鰈と牛蒡の炊き合わせ・・・」
「・・・もう良いわ、要するに毎日何か食べてたって訳ね」
「う・・・で・・・でも、夕飯のときに一口食べただけだって! ホントに! だって、シイナが凄く悲しそうな顔するんだよ? 可哀想じゃないか!」
 僕がサツキの前で小さくなりながら必死に言い訳をしていると、隣で周防さんがぶはっと噴出した。
「まあまあ。サツキもさ。ミチヤ君が可愛いのはわかるけどイジメも程々にしろよ。それよりも、明日の昼までにフィードバックと治療計画の練り直ししなくちゃだろ?」
 嗚呼、周防さんは僕の救世主です。
「別に大筋では変更は無いわよ。それにミチヤは明日から思う存分シイナ君の料理が堪能できるんだから、コレ位のイジメ耐えるべきだわ」
「ね、マジで明日から食って良いの?」
「良いわよ。クライアントの希望なんだもの」
 それを聞いて僕がヤッター! と大袈裟に喜んでいたら、ボコンと後ろから雑誌で殴られた。相変わらず手の早い女だな、サツキは。
「良いなー。シイナ君って料理上手でしょ? お母さんが京都の老舗料亭の娘だったのよね」
「・・・って・・・例の空港で犠牲になったお母さん?」
「そうよ。料理は母親直伝って言ってたわ」
「ふうん」
 それで、あんなに料理が上手なのか。京都の老舗料亭だなんて和食ばっかりなはずだよ。京都は和食の本場じゃないか。実に素晴らしい。コレまでは苦行だったあの素晴らしい料理の数々も、明日からは天国だー! と思っていたら、もう一発ボコンと殴られた。嗚呼、いいとも。何度でも殴るが良いさ。今の僕は太平洋よりも心が広いよ。
「それにしても。サツキもいい加減だな。もう少しきちんとミチヤ君に事情を説明して置けよ」
 周防さんが計画書に目を落としながら、少しだけ尖った声で言う。あれ? 周防さんがこんなに尖った声出すのって珍しい。
「・・・悪かったわね。色々と事情があるのよ」
「だから、『二兎を追うものは一兎も得ず』って言葉知ってるか? 二つのプロジェクトを同時に走らせるなんて無茶だって言ってるだろ」
「余計な事言わないで。今回のプロジェクトは私が責任者なんだから」
 あれ? あれれれれ? 何か、険悪? 一週間前に喧嘩したのは知ってたけどもしかして冷戦続行中? って言うか、二つのプロジェクトって何? まあ、僕はサツキの正式な助手じゃないし、研究所のメンバー登録するのも拒否してるから、公のプロジェクトには表立って参加できない。だから詳しい事情を聞かせてもらえない事も時々あったけれど、今回は一応『検体』として参加してる以上、詳細は説明してもらわないと困る。
「二つのプロジェクトって何?」
「・・・・何でもないわ。ミチヤは今まで通りシイナ君と生活して頂戴」
 サツキの頑なな口調。こういう口調で話すときは決して何も教えてくれない。しかも機嫌が頗る悪い。触らぬ神になんとやらだ。仕方がないと諦めかけていたら、こちらもご機嫌ナナメの周防さんが横から口を出してきた。
「ミチヤ君。シイナ君は君がdollとして来たことを治療だと全く知らない。シイナ君は元々は所長が預かっていた患者だったのをサツキが自分なら治療できると言って引き取ってきた。
確かに二年前に比べればかなり症状は改善された。でも、まだまだ完治はしていない。はっきり言って社会生活に溶け込むことはできないのが現状だ。他人が怖い、他人と一緒に生活できない。でも、一人でいると不安だ、だからdollが欲しいと言った。
サツキはシイナ君に開発中のdollのモニターになる気はないかと提案したんだ。使用しながら改善点を挙げてくれればそこを改良すると。それならば破格の安価で譲れると持ちかけた」
 僕は黙って周防さんの説明を聞きながら眉を顰めた。だって、おかしくないか? dollを用いた心的外傷患者の治療を研究するのなら、dollを改善する必要なんてないからだ。それとも、心的外傷患者治療用のdollでも開発しようって魂胆なんだろうか? 浮かんだ疑問を更に周防さんに尋ねようとした時だった。
「ユズル。余計なことを言うなら出て行って」
 サツキの冷たい声が研究室に響き渡る。物凄く怒っている時の、静かな声だった。周防さんは黙ってじっとサツキを見詰め、しばらく二人は睨み合っていたけれど、周防さんは乱暴にがたんと椅子から立ち上がり、
「公私混同して取り返しのつかないことになっても俺は知らないからな」
 と苛立った口調で言い捨ててそのまま研究室を出て行ってしまった。
「・・・サツキ? 良いの」
「良いのよ。それよりも、治療計画の練り直しが必要な部分を説明するから聞いて頂戴」
 いつものサツキらしくない、覇気の無い疲れた声。一体、サツキは何を隠して何を一人で抱えようとしているのか。きっと僕が聞いても答えてはくれないだろう。じっとサツキの横顔を眺めているとサツキは僕の視線に気がついてふと振り返る。それから、優しく笑った。
「大丈夫よ。ミチヤに悪い事が在る訳じゃないから。心配しなくても平気」
 穏やかに言ってくれるけど、僕が心配しているのは自分のことじゃない。サツキのことなんだと伝えたいのに上手に言葉が紡げない。
「ん」
 短く返事をするとサツキは、やっぱりどこか疲れたような顔で小さな溜息を一つ吐いた。





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