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不確定Q&AH …………………
Q9.トラウマは人の性質を変える? ○か×か。





 夜半過ぎから降り始めた雪は早朝にようやく止んだが、結局五センチほど積もってしまい、電車のダイヤは大幅に乱れていた。
 それでも、どうにか通常の半分ほどの本数は動いているらしい。学生は冬休みに入っても、社会人は通勤しなくてはならない。始発の電車から数本遅らせた便とはいえ、早朝と言っていい時間の電車なのに、結構、混んでいる事に奏は些か驚いた。
 体がだるくて、あちこちが鈍く痛んでいたので座りたかったが、到底無理な話のようで、奏は諦めてドアのすぐ近くの場所を確保する事にした。
 まだ薄暗い街の中を電車は走り始める。窓に映った自分の顔をじっと見詰めて奏は溜息を一つ吐いた。微かに曇ったガラスに火照った頬をつけると冷たさが心地良かった。
 そうやってドアに凭れたまま車窓の景色をぼんやり眺める。別段、どうという事はない見慣れた景色だ。それなのに、この押し寄せる遣り切れなさは何なのか。油断をすると涙腺が緩みそうで、それを堪える為に奏はギュッと手のひらを握り締める。
 酷く惨めな気分と、過ぎ去った楽しい時間を思い出すときのような切なさが混在していた。

 眠っている郁人は起こさずに、そのまま部屋を出てきた。今頃、冷たくなったシーツに気がついて怒っているだろうか。それとも、呆れているだろうか。或いは。
 或いは、ほっとしているのかもしれない。
 そこまで考えて、酷く、思考が女々しくなっている事に気がついた。
 奏は自分を叱咤するように、フ、と鼻を鳴らして自分を笑い飛ばしたが、惨めな気分と切なさは払拭されなかった。
 そうこうしている内に電車は奏の降りる駅に到着してしまう。気を抜くとへたり込んでしまいそうな体を何とか誤魔化して、自分の住むマンションまで辿り着いた。

 響がいるのかどうか確認はしていなかった。透の部屋で過ごすのなら不在だろうが、もし、透がこちらに来ているのであれば、少々バツが悪いような気がして、奏は気配を殺して部屋に入った。
 なるべく音を立てないように靴を脱ぎ、リビングキッチンを通って冷蔵庫の前に立つ。無性に喉が渇いていたので、ミネラルウォーターをコップに一杯飲んでから自室に戻ろうとした。
「お早いお帰りで」
 自室のドアに手を掛けたところで突然後ろから声がする。酷く驚いて奏が振り向くと、響がリビングに立ってじっと見ていた。
「・・・あ・・・驚かすなよ・・・」
「そりゃ悪かったな。帰ったら『ただいま』位は言えよ」
「眠ってると思ったんだよ・・・それよか・・・透さん、いるの?」
 戸惑いがちに奏が尋ねると響は訝しげに眉を顰めた。
「ああ? なんで、透がいるんだよ」
「え? だって。昨日、一緒にいたんじゃないの?」
「いねえよ。昨日はお前に振られたからな。一人でさ・び・し・くケーキ食ってたよ」
 フンと鼻を鳴らして響が答えたので、奏は驚いてしまった。
「え? だって・・・」
「ま、どうでも良いけどよ。それより、お前、風邪でもひいたのか?」
「? いや? 何で?」
「声、掠れてる」
 指摘されて、奏は一瞬考え込んだが、すぐに原因に思い当たってカッと頬に血を上らせた。その様子を見て響がさらに訝しげに眉を寄せる。
「奏?」
「な・・・んでもない・・・」
「ってツラか? 郁人と何かあったな」
 兄の前では嘘をつけない自分も、変なところで鋭い兄も、嫌で仕方がない。黙っていてもいつかは悟られてしまうに違いなかった。それならば、いっそ、勢いに任せて何でもない事の様に言ってしまえば良いと、半ば捨て鉢な気分で、奏は、
「寝た」
とぶっきらぼうに言い放った。
 響は一瞬驚いたように目を見開いて、それから、呆れたような顔で深々と溜息を一つ吐いた。
「・・・お前な・・・・」
「何だよ。説教なら聞かない」
「説教じゃねえよ。忠告だよ。ちゃんと、郁人と話して納得しての事なんだろうな?」
「郁人と何の話するんだよ」
「お前の気持ちとか、郁人の気持ちとか、だよ」
「なんで、そんな面倒くさい事話さなくちゃならないんだよ。たかがセックスすんのに」


───たかがセックス。


 昨晩も言った言葉に、奏は動揺する。自分が言った言葉だというのにも関わらず。不意に鼻の奥がツンとしてきて、気が付いた時には止められなかった。
 みるみるうちに視界が歪み、つ、と涙が零れ落ちた。そうなると、もう、止めどもなく涙が流れ続けてしまう。そんな自分が情けなくて、惨めで、奏は腕で顔を覆ったまましゃくりあげた。
「お前なあ・・・・そんな割り切ったり、遊んだりできねえくせに・・・っとに・・・・」
 小さく息を吐いて響は奏を抱き寄せる。胸に奏の頭を抱きこんだまま、ポンポンと二つ背中を叩いた。それが奇妙に優しくて、奏は尚更涙が止まらなくなる。
 子供のようにしゃくりあげて、そのまま響の腕の中で泣き続けた。



「ホントに良いの?」
 一度だけ。
 一度だけ、郁人は戸惑った表情で奏に尋ねた。らしくもなく飄々とした表情を崩した郁人は、どこか子供っぽく見えて、奏は混乱する。五年前の幼かった郁人と目の前の郁人が交差して、どうにも居た堪れない気持ちに追いやられた。
 ここまで来て、良いも悪いも無い。
 自分がどうしたいのかだとか、自分の気持ちだとか、そんな事を考える余裕は奏には無かった。ただ、この、曖昧な状況をとにかくどうにかしたい、その一心で郁人の腕を引き寄せた。
 郁人と寝てしまえば、何かの答えが出るかもしれない。事態が分かりやすい方に前進するかもしれない。そんな漠然とした希望的観測しか無かった。
「良いよ。たかがセックスだろ?」
 蓮っ葉な表情と口調で言い捨てた瞬間の郁人の表情を奏は忘れる事が出来ない。
「・・・人の事、馬鹿にするのも大概にしろよ」
 傷ついたように、怒ったように歪んだ顔。
「誰が、そんなモノ欲しいって言ったよ?」
 咎めるようなキツイ口調で吐き棄てるように言われ、奏は口篭ってしまった。投げやりな言葉で自分の中の核心を覆い隠そうとしたツケが真正面から返って来て途方に暮れる。
 そんなことを言われても、郁人の真意なんて再会してからこのかた、一度も分かった事などなかった。
 それなら、一体、何が欲しいのか、と聞くことが憚られて奏は唇を噛み締め目を逸らす。
「嫌ならやめれば良いだろ」
 ともすれば震えそうな小さな声で言い返したが、眦に涙が溜まってきて困ってしまった。
「寝たくないなら、やめれば良いんだ」
 いじけた子供のように意固地に言い返すと、郁人が小さな溜息を漏らす。
「そうやって、ずるい言い方をしていつも俺を追い詰めるんだよな、奏は」
 自嘲的な言葉の後に降りてきた唇は、決して乱暴なものではなかったけれど。
 郁人の手が、指が、唇が、優しければ優しいほど、奏は遣り切れない気持ちに追いやられてしまった。
 怯えるまいと思っているのに、自然と体は震えてしまうし、ガチガチだった。郁人はそれには気が付いていたのか、いなかったのか。

 ただ、ひたすらに、郁人は柔らかく、優しかった。
 壊れ物を手に取るように大事に扱われて、なおさら、奏は惨めで情けない気持ちになってしまった。
 先に昂ぶらされて、イかされて、男同士だという事を突きつけられて堪らない気分にさせられた。自分が酷く汚い生き物のように思えて消えてしまいたいと思っていたのに、それに続く行為は、更にそれを上回っていた。
 体を繋げるのは大変で、肉体的な負担よりも、精神的な負担の方が圧倒的に大きかった。
 どうして、こんな惨めで、恥ずかしい思いをしなくては繋がれないのか、どうしてこんなに醜い事にならなくては繋がれないのか、考えれば考えるほど気持ちは塞ぎこんで行き、涙がこぼれるのを止められなかった。
 その癖、自分の中で郁人がイったのをすぐ目の前で見た時には、何もかもが吹き飛んで、奇妙な充足感に満たされてしまったのだから始末におえない。
 最後に、郁人のあの脳髄に響くような低い掠れた声で、「奏」と呼ばれたときには頭の芯がジンと甘く痺れたような気がした。
 それで、結局、何かが好転したのかといえば、全くそんなことは無かった。
 奏の感情は、更に複雑にこんがらがってしまい、思考はいよいよ袋小路に入り込んだ。

 自分は、郁人をどう思っていたのか。
 本当に、郁人と寝たかったのか、寝て良かったのか。
 答えなど出るはずが無かった。
 ただ、不思議と奏は後悔はしていないのだった。



「・・・何か、良くわかんない・・・。俺、どこで何を間違ったんだか・・・」
 嗚咽交じりに奏が呟く。響はそれには何も答えずに、相変わらず、トントンと規則正しいリズムで奏の背中を叩き続けた。
「良いから、ちょっと寝て来い。寝不足だとロクな事考えねえからな」
 言葉は悪いが酷く優しい口調で言われて、奏はさらに涙腺が壊れてしまった。
「・・・う・・・・俺が・・・悪かったの・・・?」
 しゃくりあげながらそれでも続ける奏に、響は肩をすくめる。
「別に誰も悪かねえだろ。お前らは、絶対的に言葉が足らねえんだって。ったくよ。手間が掛かるんだからよ。良いから、さっさと自分の部屋いって寝ろ」
 そう言って半ば強引に奏の背中を押しやる。奏は逆らわずに素直に自分の部屋に入った。そして、そのまま崩れるようにベッドに倒れこむ。
 目を閉じると瞼の裏に郁人の顔が浮かんだ。
 奏、奏、と、あの低い声で何度も耳元で囁かれたのを思い出す。ゾクリと背筋を甘い痺れが走って奏は目を閉じたまま苦笑を浮かべた。

 どうしようもない。
 本当に、どうしようもない。

 始末に終えないのは郁人ではなくて自分の方だ。
 奏は、ただ、単純に答えが欲しかっただけだった。結局、郁人と寝ても答えなど出なかったけれど。
 郁人と寝たかったのかと聞かれたら答えられない。けれども、郁人が好きなのかと聞かれたら迷い無く「好きだ」と、答えられるだろう。疲れと睡魔に侵食された思考の片隅で、ぼんやりとそんなことを思った。

 悔しさだとか、悲しさだとか、寂しさだとか。
 何も聞かされずに、だた、そこにぽつんと置き去りにされた、あの時の気持ちを奏は忘れる事ができない。屈託なく笑いながら告げた「郁人が好きだ」という気持ちはあの瞬間に綺麗に冷凍されて、奏の奥底にしまい込まれてしまったのだ。そして、そこにあることをひたすら無視し続ける事で、ようやく痛みに対して鈍くなれたのに突然、郁人は奏の前に舞い戻ってきてそれを無理矢理引っ張り出した。
 忘れたと思っていた気持ちは、少しも褪せることなく奏の中に残っていたのだと、どうして認める事が出来なかったのだろう。
 知らず知らずのうちに、閉じた眦から涙が流れ落ちる。


 もう一度、同じように郁人がいなくなったら、きっと、立ち直れない。


 ふいにストンと奏の中に落ちてきた答えは、奏をあっさりと納得させて奇妙な安堵感を与えたが、同時に、どうしようもなく絶望的な気分にもした。



 失う事が怖いから、受け入れる事が出来ない。



 透は奏が情熱家だと言った。
 響は、奏をブレーキをかけるのばかりが上手だと言った。

 そのどちらもが当たっていると奏は思う。ただ、素直に感情を真っ直ぐに走らせていた子供の頃は、確かな強さで郁人が好きだと思っていたはずだった。
 郁人において行かれて、酷く傷ついて、それ以来、無意識に感情を抑制するようになっていたけれど、結局は本来あるものを押さえ込んでいるに過ぎない。
 胸の中で渦巻く、嵐のような激情を奏は見てみない振りをしていただけだったのだ。



 ベッドに横たわり、静かに濡れた瞳を開き、白い天井をぼんやりと見詰めながら奏は深く息を吐き出す。
 吐き出した息は、エアコンをつけていない冷えた部屋に白く溶けた。




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