不確定Q&AI ………………… |
Q10.血は水よりも濃い? ○か×か。 どこか遠くで電子音が鳴っているのが聞こえて、奏はぼんやりと目を覚ました。間違って目覚まし時計が鳴ったのかと思ったが、枕もとの時計はカチカチと針の音を立てているだけだ。 空調を切ってある部屋の中は大分冷え込んでおり、鼻の奥がツンとする。寒いな、と身震いをして布団の中で丸くなった。 寝起きのはっきりしない頭に、ボソボソと人の話す声が聞こえる。ドア越しに、響の声が漏れ聞こえているのだ。ああ、電話の音だったのかとぼんやり考えて、奏は再び眠りに落ちようとする。けれどもすぐに、トントンとドアをノックする音が聞こえた。 「・・・・何?」 小さな声で返事をすると、ドア越しに、 「電話」 と、響がそっけなく答える。面倒くさいなと思いつつも体を起こし、瞬間、下半身が鈍く痛んで奏は顔を顰めた。余りにあからさまな情事の余韻に情けない気持ちになりつつも、体を叱咤して電話を受け取る。 『もしもし? 奏?』 受話器から聞こえた声は、少し意外で奏は何とはなしに肩の力が抜けてしまった。 「梓さん? 事故、大丈夫だった?」 『ああ、うん。保険屋に全部任せたから大丈夫よ。怪我も無かったしね。それよりも、悪かったわね。せっかく約束してたのに』 「いや。しょうがないよ。大事が無くて良かった」 思いの外、梓が元気そうだった事に奏は安堵した。郁人から、怪我は無いが車が酷いことになったと聞いていたので、落ち込んでいるのではと心配していたのだ。 『でさ。奏、郁人と喧嘩したー?』 世間話の延長、といったような気軽な口調で尋ねられ、奏は一瞬、思考が止まる。頭の中で梓の言葉を反芻して、ようやく理解して、今度は言葉に詰まってしまった。 「・・・喧嘩なんて・・・してないよ?」 嘘をついているとしか思えない、あからさまな返事を思わず返してしまい奏はすぐに後悔した。が、梓は奏の答えを聞いて、電話越しに軽く笑っただけだった。 『そ? まあ良いや。奏、いま冬休み中でしょ? 明日の昼間とか暇?』 「あ、うん。暇だけど。なんで?」 『今日の埋め合わせにデートしよ』 「デートって・・・俺と梓さんの二人で?」 『そーよー。何よ。こんなオバサンとじゃ不満だって?』 二十以上も自分より年上の癖に、拗ねたような子供っぽい口調で梓は言う。奏は、それが何だかおかしくてクスクスと電話口で笑ってしまった。 「光栄です。良いよ。何時にどこで待ち合わせる?」 『午後一時に店の前でどう?』 「オッケ」 『昨日のお詫びにリッチなディナーを奢ったげるから』 梓の軽い口調に、奏は気分が大分浮上している事に気がついた。梓は意識的にそうしているのか、郁人の存在に触れないよう話をする。多分、今朝、家に帰って郁人の様子がおかしかったのだろう。それでも、奏の気持を汲んで、決して深く追及しようとはしない。 そのさり気ない気遣いに、奏は胸の奥がほっとするのを感じた。 「ありがと。楽しみにしてる」 言外に、そっとしておいてくれる優しさに対する感謝を含めて、奏は受話器を置いた。 「梓さん、何だって?」 不意にドア口に立っていた響に後ろから尋ねられ、奏は振り返る。 「あ。昨晩のお詫びに明日デートしようって」 「ふうん」 自分が尋ねたくせに、響は気の無い返事をして再びキッチンに戻っていった。 ほんの数時間前に、あんな話をしたのに響は何も言わない。責めもしない。慰めもしない。けれども、それは無関心なのではなくて、響の優しさなのだと奏は知っている。 足の裏に、床の冷たさを感じながら、奏は響の後を追ってキッチンへ移動した。響は、ダイニングテーブルについて、煙草をふかしながら新聞を読んでいる。いつもと変わらない表情と、光景だった。 けれども、奏には響が意図的にそうしているのだとなぜだか分かった。奏から切り出すまでは何も知らないような顔をしている。その癖、響には何もかも分かっているのだろうと奏はなぜか確信した。 不意に、奏は衝動的に響から新聞を取り上げ、響の顔を見下ろす。響は少しだけ驚いたような表情で、奏の顔を見上げた。 「・・・兄貴は、何で郁人がいなくなったか知ってた?」 唐突な質問に、響は一瞬眉を顰めたが、すぐにすっと表情を戻した。こんな表情をしている時は、奏には響が考えている事が読めない。 「知ってたらどうなんだよ?」 無表情な割りに挑発的な口調で逆に問い返されて奏は目を見開く。そのまま、じっと響の顔を見詰めていたが、不意に視線を逸らして俯いた。恐らく響は何かを知っていたのだろうと思った。 「・・・俺ばっかり、いっつも仲間はずれなんだな」 独り言のように呟いた言葉は諦めに満ちていた。奇妙に大人びて、どこか疲れきったような奏の表情に、響は小さな溜息を一つ落とす。 「詳しい事は知らねえよ。気になるなら郁人に聞けば良いだろうが」 「・・・郁人は教えてくれなかった」 「じゃあ、梓さんに聞けば良いだろう。何で、お前は、そこで卑屈になって諦めるんだ」 不意に真正面から響に目を合わされて、奏は戸惑う。響の黒目がちな瞳には苛立ちが浮かんでいた。 「郁人が好きなら、ちゃんとぶつかれよ。何で、お前は少し手を伸ばせば手に入るものを簡単に諦めるんだ。大学の事だってそうだ。お前にとってピアノはどうでも良いものなのか? 遊びでしかないのか?」 突然、らしくもなく興奮したように捲くし立てる響に、奏はますます戸惑ってしまった。口は悪いが、いつもは冷静沈着な兄が、こんな風に口調を荒げるのは珍しい事だった。 「・・・遊びなんかじゃないけど・・・大学には行かない」 戸惑いながら奏が何とか答えると、響はフンと小馬鹿にしたように鼻で笑う。 「馬鹿馬鹿しい。どうせ、お前の事だ。俺に負担をかけるのが嫌だとか、そんな事考えてんだろ」 責めるように、吐き捨てるように言われて奏は黙り込む。今まで何度も進路の話題には触れてきたが、響はそんな風に奏の気持を暴露するような言い方はしなかった。ただ、音大に行けと辛抱強く言い続けていただけだったのに。 それは、二人の間の暗黙の了解。 触れてはいけない話題だと奏は思っていた。負い目だとか負担だとか。響は決して恩着せがましいことを口にしなかったし、奏も自分が響に負い目を持っていることを表には出さなかった。 親を亡くし、二人きりで生きてきた兄弟の、それが暗黙のルールだったはずなのに、響は怒ったようにそれを今、口にしている。 奏は何を言って良いのか分からずに、迷子になった子供のような不安な目で響を見詰めた。そんな奏の表情を見て、響は口の端を上げて、苦笑いする。 「俺が、何でプロになるの諦めたか分かるか?」 さっきより、少しだけ優しい目で奏を見ながら響は唐突に尋ねた。なぜそんな質問をするのか、響の真意が分からず奏は少し口ごもりながら、結局、 「・・・俺を養わなくちゃならなかったから。収入が安定してる教師を選んだんだろ?」 と、答えた。それを聞いて、響はますます苦笑を深める。その顔は笑っているはずなのに、どこか泣いている様に見えた。 二年前に母が死んだ時でさえ、響は、こんな表情は見せなかった。まだ22歳の若さだったが気丈な態度で喪主を務めていた。そんな風に傷ついた兄の姿を見るのは初めてで、奏は酷く動揺する。 「違うよ。お前が、初めて梓さんの店でピアノを弾いたのを聞いたからだよ」 響は先程とは打って変わった穏やかな口調で答えた。 「・・・俺が? 何で?」 素直に疑問を口に乗せた奏に、響は深く息を吐き出した。 暫く沈黙したまま答えるのを躊躇していたが、ゆっくりと口を開く。 「自分の才能の限界に気がついたからだよ。本当にピアノの才能があったのは、親父の血を引いたのは、奏。お前だって知ってしまったからだ」 静かな口調で穏やかに告げられた言葉は、奏の中にするりと入り込んできた。そこに滲み出る迷いや、葛藤や、苦しみも含めて。 プライドの高い兄が、自分にこんな事を告げるなど俄かには信じられず、ましてや、ずっと長い間、決して超えられない壁だと思っていた兄の言葉だとは思えず、奏は自分の耳を疑ってしまう。 問いかけるような眼差しを響に向ければ、響は苦悩や葛藤を削ぎ落とした、静かな表情で奏を見詰め返した。その瞳には確かな情愛のようなものが浮かんでいる。奏は冷たい足元から何か暖かいものがじわりと染み入ってくるような気がした。 「俺が、ずっと、お前にコンプレックスを持ってたって知らなかったろ?」 思いも寄らぬ兄の告白に奏は呆然としたまま、首をひたすら横に振る。そんな奏の姿に響は少しだけ笑った。 「どんなに俺が努力しても手に入れられないものを簡単に捨てようとするお前が憎いって思った事もあった。でもな」 そう言うと響はゆっくりと椅子から立ち上がる。少しだけ奏より高い目線で見下ろして、そっと腕を伸ばした。 「それ以上に、俺はお前こと大事だと思ってた。伸び伸びとして、何にも縛られない自由な子供だったのに、そんな風に自分を抑える事ばかり覚えていくお前が歯がゆかったよ」 やんわりと奏の頭を抱きしめながら響は告げる。知らず知らずのうちに、奏の目には涙が溢れてきて止まらなかった。 悲しいわけではない。寂しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、切なかった。兄の情愛がしんしんと奏の中に降り積もり、それが切なくてしょうがなかった。 「本当に欲しいものがあるんなら、なりふり構わず追いかけなくちゃ駄目だ。みっともなくたって、格好悪くたって。今しか、それが許されないんだから。・・・奏は・・・奏は後悔するなよ」 最後の言葉は殆ど消え入るように小さかったが、奏の中に痛いほどはっきりと入り込んできた。 兄が、何に苦しみ、何を諦めて、何に後悔してきたのか奏には分からない。けれども、いつだって自分達二人の間には、自分達にしか分からない家族の情が確かに通っていたのだと思った。言葉の足りない兄弟だったのかもしれない。それでも、響と自分は間違いなく兄弟であり、家族なのだ。 そして、兄にコンプレックスを感じ、負い目を持っていたことが、逆に兄を縛り付けていたのだと奏は悟った。 奏は響の胸に顔を埋めたまま、何度も何度も頷く。響のシャツが奏の涙で濡れたけれど、響は何も言わずに奏を抱きしめていた。 「郁人の事もそうだからな。たまには、後先考えないでアクセル思いっきり踏んでみろよ」 少しだけ軽い口調で、茶化すように言われて、奏は響の胸の中で少しだけ笑った。「それって、やっぱり実体験からのアドバイス?」 顔を上げて、涙が乾かない濡れた頬のまま、やり返すように言ってやれば、不意に体を押しやられ、おでこをピンと指で弾かれた。 「イテッ!」 「生意気言うんじゃねえよ。メシ食え、メシ。朝から何も食ってねえだろうが」 ふと時計を見てみれば既に午後の一時を過ぎていて、奏は急にお腹が減っていたことを自覚した。 「何か食べるものあんの?」 尋ねれば、響は再び椅子に座って新聞を読み始めたまま、黙って冷蔵庫の方を指差す。その横柄でものぐさな態度は、もう、すっかりいつもの響だった。 奏は安心しながら冷蔵庫に向かう。 何も変わらない。 何があっても、自分と響は兄弟だし、たった二人きりの家族なんだと思えた。 * * * 「奏! 次あれ乗るよ!」 「・・・梓さん、ちょっと休憩させて」 梓にグイグイと腕を引かれて、奏は心底疲れきったように懇願する。 デートと称されて連れて来られたのは、近場の遊園地だった。何も、自分と二人で来る事も無かろうに、と思いつつも、梓には逆らえないので、結局、奏はここまで引きずられてきてしまった。しかも、梓は次から次へと絶叫系のマシンばかりを選んで乗るので、奏は相当体の限界に来ていた。 それでなくとも二日前の行為の名残があって、何となくだるさを感じているのだ。 「もー。若いくせにだらしないなあ」 「三半規管の性能と年齢は関係無いって」 文句を言いながら近くにあったベンチにドサリと腰を下ろす。梓はそんな奏の姿を見て笑うと、少し離れて、すぐに暖かいコーヒーを持って戻ってきた。 「ほら」 「あ、ありがと」 奏の隣に腰掛けながら、梓も自分のコーヒーに口をつける。真っ白な湯気が息の白さと交じり合いながら立ち上っていくのを奏はぼんやりと眺めていた。 年の瀬の遊園地は人もまばらだ。それでも、ポツポツと子供連れの家族が目に付く。冬休みに入った子供をきっと遊びに連れて来ているのだろう。そういえば、まだ、母が生きていた幼い頃、皆でこの場所によく来たなと奏は思い出した。 郁人が突然いなくなってからは、一度も梓と一緒にこの場所に足を運んだ事は無かったけれど。 不意に、奏は、梓がわざとこの場所を選んだような気がして、ちらりと梓の横顔を盗み見た。梓は何か思い出しているのか、少し遠い目をしてサックスブルーの冬の空を見上げている。そんな表情はとても郁人に似ている、と奏は少しだけ胸を痛めた。 あの晩以来、もちろん郁人とは話していない。連絡も取っていない。 それでも、きっと、郁人は傷つき、怒っているだろうと奏は確信していた。勝手な言い草で郁人を追い詰めて、簡単に寝て、何も言わずに逃げてきた。今度こそ、本気で愛想をつかされたかもしれないと思うと自嘲的な笑みが零れた。 「奏」 不意に静かな声で呼ばれ、梓の方を向くと、梓は穏やかな優しい笑みを浮かべて奏を見詰めていた。 「何?」 「郁人を許してやってね」 「・・・許すって・・・何が?」 言われた言葉の真意が掴めず、眉を顰めて奏が尋ねると、梓ははぐらかすように、フフフと少女のように笑った。 「ね、あれ乗ろうか?」 梓が指差した方向には大きな観覧車がある。日本で一番だか二番だかに大きい事で有名な観覧車で、比較的最近できたというそれに、奏は一度も乗ったことがなかった。 「・・・別に良いけど」 戸惑いながら奏が了解すれば、梓は無理にはしゃいだような様子で奏の手を引いていく。その姿が、なぜか奏には痛々しく見えて、胸が詰まった。 梓は、まるで、失くしたものを必死に取り戻そうと足掻いているかのように見える。失くしたものとは一体何なのか奏には分からない。死んでしまった奏の母、親友だった深雪なのか、それとも郁人と離れていた五年間の時間なのか、それとももっと別のものなのか。 ただ、奏は不意に、梓には何も無いのではないかと思った。郁人は確かに戻ったけれど、果たして、梓の心の拠り所になっているのかと言えば甚だ疑問だ。 例えば。 例えば、寂しくて泣きたくなったときに梓は誰かに頼る事が出来るのだろうかと思ったら、奏はとても切なくなってしまった。 黙って手を引かれたまま、大きな観覧車に乗りこむ。 二人きりの空間に閉じ込められた途端、奇妙な沈黙が降りる。梓は少し体を捻って、後ろの窓からぼんやりと外を眺めていた。 「・・・五年前に郁人が突然いなくなったのは、アタシのせいなんだよねえ・・・」 ふと、ポツリと梓が呟いた言葉に奏は顔を上げたが、梓は窓の外を見詰めたまま、奏の方に振り返ろうとはしなかった。うっすらと、観覧車の窓に梓の顔が映る。曖昧なその輪郭は、泣いているようにも見えたし、笑っているようにも見えた。観覧車は、既に、中程まで登ってきている。開けてきた視界の端に、小さく梓の店が見えた。 「郁人の父親って知ってる?」 不意に込み入った話を振られて奏は何と答えて良いのか分からず戸惑う。ただ、梓が奏に何かを伝えようとしていることだけは分かったので、小さく、 「知らない」 と、返事をした。 「結構偉い人なんだよね。政治家なんだけどさ。もちろん、奥さんも子供もいるの。なのに、アタシの事囲っちゃってるんだけどね」 ヘビーな話をしているはずなのに、梓の口調はどこまでも軽い。だが、それが逆に奏には辛かった。 梓の事情は何となくは知っていたが、大人の事情に子供が首を突っ込んではいけないと感じていたので、決して奏から聞くようなことは無かった。 「あのお店も、全部、その男にお金出してもらってたの。でもねえ。本妻さんの子供が事故にあっちゃってね。半身不随になっちゃったワケ。で、運が悪い事にさ、本妻さんの子供ってのが、その子一人っきりでさ。 あの人も、結構、焦ってたんだなあって今なら分かるんだけど、突然、跡取りに郁人を寄越せって言ってきたんだよね」 「それって・・・それって、五年前の事?」 奏は大きな目を見開いて、梓の背中をじっと見詰める。ふと、その背中が小さく見えて、奏は今更、梓がただの普通の一人の女性だという事に気がついた。 梓は竹を割ったような男勝りの性格で、いつでも豪快に笑っている。そんな印象しかなかったのに。 「うん。もちろん、アタシは郁人を手離すつもりなんて無かったんだけどね。郁人を寄越さなけりゃ、店を取り上げるとか脅されちゃったんだよねー。ほんっと参ったよ、あの時は」 そう言いながら、梓は少し長い、栗色の前髪を雑にかき上げた。 「店なんて取り上げられても、風俗だろうがなんだろうが仕事さえ選ばなけりゃ、多分、アタシと郁人二人で生きていくくらいならなんとかなったんだろうけど。なんだろうね。アタシもヤキが回ってたのかね。 克征と・・・アンタの父親と、深雪と始めた店だから、思い入れもあってすごく手放し難くてね。それに、店を取り上げられたら、そこで歌ってた深雪も路頭に迷うんじゃないかとか、色々考えちゃってさあ。 郁人は、その頃から変に聡いところがあって、そういうアタシの迷いみたいなのが分かっちゃったんだろうね。自分から、父親の所に行くって言い出して。 で、結局、ああいうことになっちゃったのよ」 そこまで言い終わると、ようやく梓は奏の方を向き、きちんと椅子に座りなおした。じっと奏を見詰めるその鳶色の瞳はどこか苦しそうに見える。その表情が郁人の辛そうな表情とたぶって、奏は何も言えなくなった。困ったように、ただ、梓の顔を見詰め返していると、不意に、梓は表情を緩めて柔らかい微笑を浮かべた。 「郁人がね、奏に何もいえなかったのは、アタシの事を子供を売ったロクデナシの母親って思われたくなかったからだと思う」 「そんなこと! ・・・そんなこと・・・・思う訳・・・無いのに・・・」 弱々しく否定しながらも、奏は、もし本当のことを聞かされていたら幼い自分が梓を責めなかったかどうか、自信は持てなかった。大好きだった郁人を奪われて、何かに当たらずにはいられず、梓にその吐け口を求めなかっただろうとは言い切れない。そんな奏の迷いが分かったのだろう。梓は優しく笑ったままゆっくりと奏に頷いて見せた。 「それからね。これは、奏が負担に思ったら嫌だから、絶対に言うなって郁人に言われてたんだけどね」 そう言って梓は少しだけ悪戯な笑いを浮かべる。何を言い出すつもりなんだろうと奏が首を傾げると、梓は優しく奏の頭を撫でた。 「奏はもう覚えていないかな?」 「何を?」 「響が音大生の時、ウチの店でピアノを弾いていたでしょ?」 「うん」 「その時に、『僕も大きくなったら絶対にこの店でピアノを弾く』って言ってたの」 兄が、梓の店でお客さん達の視線を集め、鮮やかにピアノの演奏をしていたのを見て、奏は幼心に憧れを抱いた。それは、兄に対する憧れであったのか、それとも人前でピアノを弾き、拍手を浴びる事への憧れであったのか。 或いはその両方がないまぜになり、奏は興奮したように兄の姿を眺めていたのでは無かったか。 そして、その時、隣には必ず郁人がいた。 「奏にね、あのお店でピアノを弾かせてあげたいから。お店を取り上げられると困るって。郁人は言ってたよ」 そう言いながら、梓はそっと奏から手を離す。 観覧車はすでに天辺を通り過ぎ、徐々に地上に降りようとしている所だった。 奏は、聞かされた真実に胸が詰まって言葉が出ない。何も、言うべき言葉が見つけられなかった。 再会してから、何度も郁人に投げつけた言葉の暴力を思い出す。 郁人の気持ちなど一度も考えようとはしなかった。ただひたすら、自分が被害者ぶって、逃げ回り、時には激しく郁人を責め立てて傷つけた。 裏切られた、と思っていた出来事の何もかもは全て奏の事だけを考えていた事だったのだと、いつでも郁人の心は自分の上にあったのだと、そう知ってしまったら、不意に涙が溢れてきた。胸の中で嵐のような激情が膨れ上がって止められなくなる。留め金が外されたその感情は、奏がずっと押し込めて見ない振りをしてきたものだった。その呼び名を、奏はとっくに知っていた。 「絶対に戻ってくるって。奏に会いに戻ってくるって。最後の日に、一度だけ郁人は泣いたんだよ。奏。だからね、郁人を許してやってね」 穏やかな声でお願いされて、奏は激しく首を横に振る。許すも許さないも無い。そもそも、許しを請わなくてはならないのは自分の方だと、奏は思った。 「俺・・・郁人の事好きだ」 嗚咽を漏らしながら、素直な胸のうちを吐露すれば、梓は、 「知ってる。郁人も奏が好きだよ」 と、簡単に答えてくれる。少しも咎める色など見えない、穏やかな口調だった。 「・・・梓さんから、郁人、取っちゃって良いの?」 泣き濡れて気が済んだ子供のように、あどけない顔で尋ねれば、梓は破顔して、声を立てて笑った。 「良いよー。だって。郁人を連れ戻してくれたのは奏だもん。でも、響はちょっと怒るかもね。重度のブラコンだしね」 「そうなの?」 「そうよ。奏気がついてなかったの? 鈍いなあ」 梓は、やっぱり楽しそうに笑っている。 観覧車は、もうあと少しで地上へと戻るだろう。 「郁人、今、家にいる?」 「いるよ。はい」 何もかも分かった顔で、梓はコートのポケットに手を突っ込むと鍵を取り出し奏に差し出す。 「借金の返済と、喧嘩の仲直りは早いに越した事は無い。って。深雪の持論。変な子だよねえ。アンタの母親」 奏は鍵を受け取りながら、思わず笑った。不意に死んだはずの母親に肩を叩かれたような気がして、すっと胸が軽くなる。羽でも生えてきたかのように気持が浮き立って、走り出したくて仕方が無かった。 観覧車が地上に着いたとたんに、奏は勢い良く飛び降りる。 「梓さん、リッチなディナーは別の日にね!」 そう言いながら手を振り、もう、走り出している。 後ろから、梓が笑いながら、 「今晩はアタシは店に泊まるからごゆっくり」 と言っているのが聞こえたけれど。 奏の心は、もう、真っ直ぐに郁人の方に向いていた。 |