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不確定Q&AE …………………
Q6.無力な子供に罪は無い。○か×か。





 十二月はかき入れ時だ。誰も彼もが、クリスマスムードにどこか浮かれているような気がする、と、心なしか明るく見える客の表情を眺めながら奏は思う。
 奏が通う高校は既に試験休みに入ったので、奏は曜日を問わずに呼ばれれば梓の店のバイトに入る事にしていた。季節柄、クラッシックの曲に交えてクリスマスソングも演奏したりすると、さらに客達のクリスマスムードが高まっていくようだった。
 チクチクと頬に痛い視線を感じながら、それを払拭しようと奏は『Joy To The World』を軽快に演奏してみたが、奇妙に早まる動悸と居心地の悪さはどうしようもなかった。
 郁人が、じっと見つめている。穴でも開くのではないかと言うほど、ただひたすら奏の横顔を見つめ続けている。一体、何なのか、と奏は苛つくのを抑えられない。

 結局、里佳に警告されてからも奏は何かの行動に出ることは出来なかった。郁人ともう一度話し合うことも出来なかったし、梓に何か話を聞くことも出来なかった。ただ、歯医者に行くのを嫌がる子供のようにズルズルと現状を引きずっているうちに試験休みに入ってしまった。それを理由に更に尻込みをしていたら、今度は急に郁人が梓の店に訪れるようになったのだ。そして、何も言わずに、ただ奏がピアノを弾くのをじっと見つめる。
 郁人の行動の真意が掴めずに、奏は困惑していた。
 里佳と一緒にいるときに出くわした女が郁人の何なのかは、未だに不明のままだ。あれ以降も時々二人で歩いているのを見かけたとあちこちから聞いたので本当に付き合っているのかもしれない。
「隣の女子高の、今年の文化祭の準ミスなんだって。」
というのは、幼馴染の一人、雪村奈々の情報だ。
「結局ユキも面食いだったのね、つまんないの。」
と、面白くなさそうに言い加えていたのを奏はぼんやりと聞いていた。
 別に、郁人が誰と付き合っていようが自分には関係の無い話だった。そう思おうとしているのに見えない棘がチクチクと首の後ろの辺りを刺しているようだった。友達なのに何も教えてくれないなんて水臭いと拗ねているだけなのだと自分に言い聞かせてみたが、それならば、なぜ郁人本人に尋ねることが出来ずにいるのか説明が出来なかった。
 要するに、自分が郁人にとってその程度の存在だったのだと思い知るのが怖いだけなのだ。
 認めることが悔しくて目を逸らしていたが、結局はそういうことなのだった。

 赤や緑のランプでクリスマス仕様に飾られた店内を奏は何気なくぐるりと見回す。カウンターで響と透が梓に何か話しかけているのが見えた。梓は何が楽しいのか、ケラケラと笑っている。それから一つ席を置いて隣に座っていた郁人に何か話を振った。郁人が顔を上げて笑う。紙切れを受け取って、不意にピアノの方に振り返ったので奏と真正面から目が合ってしまった。
 奏は驚いて一瞬息が止まってしまったが、郁人も少し驚いたように目を見開いた。それからふっと表情を緩めて柔らかく笑いかける。その穏やかな笑顔は以前と全く同じように見えて、奏はなぜか泣きたい気分になった。
 郁人は優雅とも思えるようなゆったりとした動作でピアノの方に近づいてくる。奏の傍らに寄り添うように立つと、一枚の紙切れを差し出した。
「クラッシックじゃないけど。・・・弾ける?」
 差し出された紙切れには見たことのある字で『戦場のメリークリスマス』と書かれていた。
「・・・・弾けるけど・・・・これ・・・兄貴だろ?」
「うん。響ちゃんから。」
「・・・やな奴。これ、兄貴の得意な曲。」
「だよな?俺、何か聞かせてもらった記憶あるよ。」
 軽く笑いながら何気なく答えた郁人の言葉に刺激されて、記憶が鮮明に蘇る。一日遅れのクリスマスを皆で楽しんでいたあどけない思い出。
 残り物のケーキを皆で食べながら、響がのべつまくなしにクリスマスソングをピアノで弾きまくっていた。半分酔っ払いながらの演奏だったけれど、とても胸に染みたのを奏は今でもはっきりと覚えている。
 今では、響は人前で殆どピアノを弾かない。高校の音楽教師になると決めてから梓の店で弾くことも一切しなくなった。あれ程弾ける兄が、人前で演奏することを頑なに拒んでいる理由を奏は朧気にしか理解していない。
 ふと浮かんだ考えは、クリスマスムードに浮き足立っている店内の雰囲気に影響を受けたものだったのかもしれない。奏はふ、と郁人の顔を見上げる。何か言いたげな表情で自分を見上げてくる奏に、郁人は首を傾げた。
 奏はピアノの前から立ち上がるとチノパンの尻ポケットを探る。財布の中から一枚の千円札を取り出すと、たった今受け取ったリクエストの紙切れと一緒に郁人に差し出した。
「何?」
「兄貴に。突っ返してきて。俺からのリクエストだって。」
 郁人は少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに奏の企みを理解して笑って見せた。
「了解。カナは?カウンター来てコーヒーでも飲む?」
「そうする。どっちみちあと五分で休憩だし。」
 二人でピアノの傍を離れると、響と透が不思議そうな顔を見せたが、郁人が札と紙切れを差し出すと、響は苦虫を噛み潰したような表情になった。透は、どこか面白がるような表情で響の出方を見守っている。
「弾いてよ。たまには。」
 ぶっきらぼうに奏が告げると響は一瞬だけ奏の目を見つめた。慈しみだとか、諦めだとか、憤りだとか、喜びだとか。様々な感情が入り混じった複雑な眼差しだったが、奏には全てを理解することはできなかった。ただ、透だけが穏やかな目で響を見つめている。

(嗚呼、透さんには全部分かっているんだ。)

 奇妙な寂寥感と安堵感がない交ぜになった気持ちで奏は響を見つめ続けた。
「今日だけだぞ。」
 投げやりな口調で言い捨てると、響はカウンターの席から立ち上がる。それから、ピアノに向かって歩き出そうとした。
「あ、響ちゃん。こっちは俺から。」
 思い出したように郁人が千円札と紙切れを差し出す。それを受け取りながら、響は、ぷっと噴出した。
「郁人、お前、ベッタベタだな。」
「いいじゃん。」
 響に笑われて郁人は少しだけ拗ねたように肩をすくめる。響は、へいへい、と微苦笑しながらそれを受け取りピアノの前に座った。
「何?」
「ラストクリスマス。」
「・・・郁人、ホント、それベッタベタ。」
 奏も同じように笑い出しながらつっこんでやると、郁人はほっとけ、と拗ねたようにそっぽをむいた。並んでカウンターに座ると、何も言わなくても梓が暖かいコーヒーを入れてくれる。苦味が適度に心地良いそれを一口飲み込むと、離れた場所でパラパラとピアノをかき鳴らす音が聞こえた。
 響は暫くアルペジオで和音を流し、指慣らしを済ませるとラストクリスマスから弾き始める。途端に店内の何人かの客が、ピアノの方を振り返って視線を送るのが分かった。そのうちの何人かは、そのままピアノを弾く響の姿に見入っている。主に若い女性が殆どだったが、中には男性も何人かいた。

 奏はコーヒーカップを手にしたまま、ピアノを弾く兄の姿をぼんやりと眺める。兄が、人前でピアノを弾かなくなったのは一体いつからだろうかと考えたが、はっきりとは思い出せなかった。
「・・・母さんが死んだ頃からだったかな?」
 小さな溜息のような独り言は、すぐ後ろに座っていた透には聞こえてしまっていたらしい。
「何が?」
 耳元に息を吹きかけるように囁かれて、奏は椅子からずり落ちそうになる。それでも何とか体を支えて、恐らく態とであろう透の悪戯を咎めるように下から睨みあげた。
「透さん、悪戯やめてよ。」
 きつい口調で奏は訴えたが、透はこたえた様子など微塵も見せない。余裕のある笑顔を浮かべたまま、くつくつと鈴がなるように笑った。
「兄弟だね。」
「何がですか?」
「響も耳が弱いって知ってた?」
 楽しそうに透に告げられて、奏は顔を真っ赤にする。耳が弱いと指摘された事が恥ずかしいのか、それとも、あからさまに透と響の関係をノロケられたのが恥ずかしいのか、もう分からない。ふと視界の端に入ってきた郁人の表情は、酷く不機嫌そうだった。
「・・・透さん・・・態とでしょう?」
「何がだい?」
 郁人がすぐそばにいるから、態と楽しんでこういうことをするのだと奏には分かったが、透はそらとぼけてみせる。暖簾に腕押しとはこの事だと奏は大仰に溜息を吐き、これ以上の追求は無駄だと諦めた。
「兄貴が、人前でピアノを弾かなくなったのっていつからだったかな、と思って。母さんが死んだ頃からだったような記憶があるから。」
「・・・嗚呼。カナちゃんが店で弾いたのを聞いたときからだろ。」
「え?そうだっけ?」
「うん。その時、高校教師になるって決めたらしいよ。」
「え?何で?母さんが死んだから仕方なく教師になったんじゃないの?」
「いや?聞いてないのかい?・・・ああ、まあ、響の性格じゃ死んでも言わないか。」
 珍しく歯切れの悪い言い方をする透に奏は首を傾げた。一体何の話かと尋ねようとした時に、響がタイミングよく次の曲を弾き始める。聴きなれた透明感のある曲の出だしに、奏ははっとしてピアノの方を振り返った。
 気がつけば、店内の殆どの客がピアノの方に視線を送っている。無遠慮に言葉を発する人間もいない。厨房の方から漏れ聞こえてくる微かな人の声と食器の音、店内を歩き回っているスタッフの足音以外は殆ど雑音は聞こえなかった。
 店内の殆どの人間がピアノの音に聞き入り、その演奏する姿に見入っている。響のピアノはいつもこうだったと、奏は思いだす。もちろん、響のピアノのテクニックはそれなりだったけれど、人を惹き付けるのは決して技術の高さではないと奏は確信していた。それでは何なのかと問われると奏ははっきりと言葉には出来ない。ただ、ピアノを弾いている響の姿にはどうしても目を惹かれてしまうし、その音にはそれ以上に惹きつけられてしまう。敢えて表現するのならば、音や演奏する姿全体に漂う空気のようなものだろうか。それが響は独特で、どうしようもなく奏を惹き付ける。

 小さな頃、兄がピアノを弾くのを見て、無性に自分もピアノを弾きたくなった。奏がピアノを弾き始めたのはそれがきっかけだった。
 奏の父も新鋭のピアニストだったが、事故で若くして亡くなってしまった。将来を有望視されていた矢先の事故だったと言う。響は自分の父を見てピアノを習い始めたらしいが、奏は小さすぎて殆ど父のことは覚えておらず、影響を受けたのは父というよりも、むしろ響からだった。
 お手本にするのも、目標にするのも常に兄のはずだったのに、いつからか、奏がせがんでも決して響はピアノを弾いてくれなくなった。その理由を奏は知らない。もしかして、自分のせいではないかと疑い悩み、だからと言って兄に尋ねることも出来ずにここまで来た。
「・・・母さんが死んで、俺を養わなくちゃならないからピアノを止めたんじゃないの?」
 か細い不安げな声音で奏は宙に問うた。返事はどこからも返っては来ない。ただ、ひたすらに透き通った響のピアノの音だけが響き渡っている。さっきまでの浮かれたムードなどどこかに吹き飛んでしまったかのような、厳粛な空気が漂っていた。
 まるで、店内の中にしんしんと静かに雪が降り続けているようなそんな錯覚を覚えて、奏は眩暈がする。
 響の腕は衰えていなかった。それどころか、まるで冴え渡り、以前よりも遥かに上の方に行ってしまった感さえ受ける。子供の頃から奏が愛してやまなかったピアノ、そのままだった。その指を折ったのは自分なのか。いつも、心のどこか片隅にしまい込んであるしこりがジクジクと痛み出す。
 不意に、奏は泣きたい気分になってぎゅっと唇を噛み締めた。と、その時に何か暖かいものが奏の手に触れる。はっとして顔を上げると、郁人が奏の右手をぎゅっと握った。郁人は何事も無かったかのようにピアノを弾き続ける響の方を見つめている。奏の方は見なかった。
 奏は一瞬、その手を振り払おうかと逡巡したが、なぜだか郁人の体温を離し難くてそのままにする。ぼんやりと郁人の整った横顔を見つめたまま軽く手を握り返すと、郁人の手の力が強くなった。痛いくらいに強く手を握られて、それでも奏はなぜだか安心した。小さな子供だった頃に急に戻ってしまったようにあどけない気持ちで郁人の横顔を眺め続ける。すっかりシャープな線になってしまった輪郭は、少年の域を出掛かっているがその鳶色の瞳は小さな頃と変わっていなかった。
「カナは何も悪いこと無い。ここで、好きなようにピアノを弾いていれば良いんだ。」
 決して奏のほうに郁人の視線が向けられることは無かったけれど。
 小さな小さな声で囁かれた声は、ピアノの音に掻き消されて、奏は空耳かと疑う。

 空耳でも良かった。
 郁人の暖かい手は奏を慰め安心させる。救いの言葉のように響いた低い声は、いつまでもいつまでも奏の耳の奥に残っていた。



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