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不確定Q&AC …………………
Q4.友人は恋人になり得る。○か×か。





 日曜日は店の定休日である。
 いつもは裏手の通用口から入るところを、奏は表の店の入り口の前に立っていた。もちろんドアにはCLOSEの札が掛けられている。しかし、札の表示とは反対に、奏がドアを押すとあっさりとそれは開いた。
 カランと誰もいない森閑とした店の中にドアのベルが鳴り響く。
 奏は、真っ直ぐにピアノのほうに歩いていくと、持参してきた楽譜を譜面台にセットした。
 奏と響が住んでいるアパートは防音がなされていない。安普請の壁は簡単にピアノの音を漏らしてしまうので、本物のピアノを置くのは諦めていた。
 いつもは電子ピアノにヘッドホンを付けて練習をしていたが、グレードテストが近いのでピアノを使わせてほしいと奏が梓に交渉したところ、定休日である日曜ならば構わないと了解を取り付けたのだった。
「朝から、店の鍵は開けておくから。ま、しっかりやんな。」
 磊落に笑って梓は煙草をふかしていた。郁人の様子を聞こうかどうしようか迷って、結局、奏は尋ねることが出来なかった。

 ただの友人なら。
 ただの友人なら、なんのわだかまりも無く、日曜日に一緒に買い物に出かけたり、映画に出かけたりしても何の問題もなかっただろう。
 一体、自分と郁人の関係は何と表現したらよいのか。
 奏は考えても仕方の無いことを何度も考えている。
 郁人のことは、そういう風に考えられない。そう伝えれば、このすわりの悪い状況から抜け出せるはずだったのに、気がつけば、尚更、落ち着きの悪い何とも中途半端な状態に陥っているのだった。

 スタンウェイの蓋を開け、パラパラと何気なく指を走らせると、静まり返った店内にピアノの音がキンと響き渡った。普段は食器の重なる音や人の声や忙しなく店内を歩き回る足音に混じり合っているので、もっと柔らかい音に聞こえるが、こうして何の物音もしないと、煉瓦造りの壁に反射して硬質な音になる。
耳に鋭く突き刺さるような堅い音が、なぜか、今の奏には心地よかった。曖昧さのないはっきりとした音。
 世界が白と黒だけではないのだと気が付いたのはいったいいつ頃からなのか。
 ふと、衝動的に奏はショパンの幻想即興曲を弾き始めた。
 テンポが良く、指使いも複雑で難易度の高い曲だったが、初めてその曲をレッスンで弾いた時、奏はさほど手こずらずに弾けたことを思い出した。今は、もう、定期的に通うことをやめてしまったピアノ教室の講師は
「奏は、こういう曲の方が向いているね。」
と含み笑いを浮かべながら評した。その時は、まだ、奏にはその意味が分からなかった。
「奏は、表面が穏やかそうに見えているだけで、本当は芯の所が熱いんだよ。」
「どういう意味ですか?」
 まだ、あどけなさの残る中学時代の事だ。奏は14才になったばかりだった。
「言葉の通りだ。情熱家って事だね。」
「?俺が?あんまり言われたこと無いけど?」
「それは、まだ、奏がそれを向ける対象に出会ってないからだ。奏の方が響よりもピアニストには向いている。」
 講師の名前は都築と言って、奏にピアノを教える前は響に教えていた。30代半ばの渋めの男で、奏は写真の中でしか見たことのない父親に似ているような気がして、何とはなしに好意を抱いていた。
「でも、兄貴の方が難しい曲も弾けるし、テクニックだって全然上でしょ?」
「そうだね。でも、そんなものは長く弾いていれば何時かは追い越してしまう。大事なのは表現力とピアニストとしての心のあり方だ。」
 穏やかな言葉で告げられた内容は、兄が聞いたなら辛辣極まりない言葉だったろう。だからなのだろうかと、奏は素直に首を傾げた。
「先生が俺を誉めてくれるのは嬉しいけど・・・。そう言うこと言うから、兄貴は先生のこと煙たがるんじゃないの?」
「そうかもしれないね。私が本当のことを言い過ぎるから嫌がるんだろうね。」
 飾ることを知らない幼さで率直に奏が尋ねたとき、都築は不思議な笑いを浮かべた。その意味を奏が知ったのは随分後のことだったけれど。

 最後まで曲を弾き終えて、奏が余韻に浸っていると不意にパチパチと後ろから拍手の音が聞こえる。奏が驚いて振り返ると透がニコニコと笑いながら立っていた。
「透さん?どうしたの?今日は定休日だよ?」
「ああ、ちょっと梓さんに用事があってね。電話したらこっちだって。」
「あ、そうなの?事務所のほうかな。」
 奏が店の奥に無意識に目をやりながら答えると、透は奏のすぐ横まで近づいて来た。軽くウェーブのかかった前髪をかき上げながら眼鏡の奥の目を細めて奏を見下ろす。
「カナちゃん、やっぱり即興曲の方がいいよ。エチュードも悪くないけどね。選曲は偏ってないほうが良いんじゃないかな。」
「・・・そうかもしれないけど・・・。」
「やっぱり苦手?」
 蠱惑的な瞳に優しく笑いかけられて、何となく奏は透の顔を直視できなくなる。ぼんやりと鍵盤の上に置かれた自分の手を見つめた。
「どうなんだろう。あんまり、情熱的なのって向いてない気がする。」
「そう?俺は逆にこういう曲のほうが向いてると思うけどね。」
 何度か言われた言葉をまた繰り返されて、奏は首を傾げる。
「・・・透さん。俺ってさ、情熱家に見える?」
 突然尋ねられた脈絡の無い質問に、透は少しだけ怪訝そうな表情を見せ、それからすぐに何か思案するように腕を組む。
「カナちゃんは情熱家だろう?と、俺は思うけど?響もそうだし深雪さんも実はかなりの情熱家だったらしいしね。血は争えないと思うよ。」
 響、という名前が透の口から発せられても、奏は然程痛みを感じなかった。時折、透はこうして無意識に奏と響を比較する。透にとって奏は「響の弟」という定冠詞が必ず付属しているのだ。以前は、それが物寂しく感じたこともあったけれど、今は、それが奏を傷つけることは無かった。不意に胸に湧いたのは素朴な疑問だけだった。
「・・・あのさ。不躾で悪いんだけど、透さんっていつから兄貴のこと好きだったの?」
 二人が付き合い始めたのはどうやら半年ほど前かららしかったが、どちらから言い出したのか、だとか、どういう経緯でそういう関係に陥ったのかだとか、奏は全く知らなかった。
 二人は仲の良い高校時代からの友人同士。
 奏はずっとそう思っていた。響は恋愛に関しては確かに節操なしで、男女問わずとっかえひっかえしていたが、友人に対しては誠実だったように見えた。否。基本的に響は人に対して誠実なのだ。それが、恋愛感情が間に挟まった途端に不誠実になる。恋愛に対して不誠実だと言った方が正しいのかもしれない。
 多分、それは響の親友であった透にも分かっていたはずだろう。それが、どうして、そういう関係に至ったのか奏は今ひとつ理解できないでいた。
「・・・いつから、って言われると難しいな。強いて言えば高校時代からかな。」
 苦笑いしながら透は答える。奏は些か、その答えに驚いてしまった。
「え・・・でも、あの人、恋愛関係、高校時代とか酷くなかった?」
「酷かったね。まあ、でも、半分は俺の責任と言うか・・・・。」
 ボソボソと透らしからぬ小さな声で呟かれた言葉に奏はますます首を傾げる。
「友達が恋人になるのって難しくない?」
 ましてや、響の素行の悪さを知っていた透ならば尚更だ。けれども、透は眉をひょいと上げ面白そうに笑って見せた。眼鏡のお陰で三割り増し程度には真面目に見える透の笑顔は人好きのしそうな表情に見えるが、その瞳にはタチの悪い悪戯な光が宿っている。
「それって、カナちゃん、自分のこと?」
「えっ・・・。」
 不意に話を振られて奏は言葉に詰まる。これでは肯定しているのと同じだったが、動揺の余り奏は取り繕うことが出来なかった。
「この間さ、俺がここでカナちゃんと話してたらさ、梓さんの息子がすごい目で睨んでただろ?」
 からかうような笑いを浮かべて透は奏を追い詰める。透は普段穏やかで優しそうに見えるくせに、時々意地悪だ。アイツはもともとが意地悪なんだ、と響はいつもボヤいているが、実はそちらが本性なのだろうかと奏は少しばかり兄を気の毒に思った。
「カナちゃん、彼とは幼馴染だったんだよね?カナちゃんの家で何度か鉢合わせた記憶あるよ。小学生の頃はあんなチビだったのに、随分でかくなって戻ってきたよな。しかもあの容姿だからね、彼、モテるだろ?」
「・・・あー・・・うん・・・そうみたいだけど・・・俺には関係無いし・・・。」
 歯切れの悪い口調になってしまうのは、どこか、後ろめたいところがあるからなのか、どうなのか。
 奏は俯いたまま、ポンと白鍵を手持ち無沙汰に叩いた。
 硬質な音が店内に響いて落ちる。
「関係無いのかい?」
 本当に、と続きそうな笑いを含んだ目で見つめられて奏はますます追い詰められる。こう言う時の透は本当に楽しそうだ。本気で好きになるには手におえない相手だと肩をすくめた。響は、よくこんな男を相手にしているとも。
「透さんって、兄貴のこともそうやって虐めるワケ?」
 仕返しに、上目遣いで睨みながら言ってやると透はカラカラと磊落に笑った。
「カナちゃんも言うようになったね。昔はいたいけな子猫みたいだったのにね。」
「・・・あんまり虐めないでやってよ。あの人、口は悪いけど結構繊細なんだからさ。」
「程々にしておきます。さて、俺は梓さんのところに行くよ。練習邪魔して悪かったね。」
 透は踵を返して店の奥のほうに向かう。奏は背の高い広い背中を見送りながら郁人のことを思い出した。穏やかな表情で、表面を取り繕いながら、その実、用件以外のことで話しかけなくなった郁人。今ではもう、何かを含んだような視線を向けられることも無い。すげなくしたことで自分に対して興味を失ってしまったのだろうか。そうかもしれない。
「勝手に気持ちを押し付けて、勝手に自己完結して・・・」
 本当に勝手な奴、と一抹の寂しさを苛立ちに変換しようとしたが上手くいかなかった。

 どこで、なんのボタンを掛け違えたのだろうと一生懸命思い出そうとしたが、やはり奏には分からなかった。そもそも、自分が郁人とどういう関係になりたかったのかも朧気なのだ。
 郁人は一番の親友だった。それどころか、親友、という言葉で括るには親密すぎる関係。
 そもそも、幼い二人には「恋愛」という概念は存在しなかったので、そう表現するしかなかっただけのことなのだ。
 ただ、郁人がいつも隣にいるのが当たり前だと思っていた。それが間違いだったのか。
 奏にはやはり分からない。
 小さな溜息は鍵盤の上に空しく落ちた。無意識に指が鍵盤を叩く。弾き始めた曲はサティのジムノペディだった。この曲が好きだと言った郁人の優しい眼差しを思い出して居た堪れない気持ちに追いやられる。
 確かに、あの時、自分はあの鳶色の瞳を独占したいとは思わなかったか。
 ただ、単純な意味で言うならば確かに奏は郁人が好きだった。昔からの仲の良かった友人なのだから当然だ。
 けれども、郁人が奏に向ける「好き」の意味を奏は測りかねていた。
 「恋人」になりたい、と郁人は奏に言った。それは、到底、不可能なことのように奏には思える。同性愛に嫌悪感がある訳ではない。響が恋愛に対して節操無しだったのを近くで見ていたせいか、然程、奏には同性との恋愛というものに抵抗は無かった。
 今まで、女だけでなく、男にも告白されたことはあったが、断ったのは「男だから」と言う理由からではなく、単に誰とも付き合う気にならなかっただけだった。
 それなのに、今、郁人と恋愛関係に陥ることを想像すると、とてつもなく恐ろしいことのように思える。何が、そんなに恐ろしいのかはっきりとは分からないのに恐ろしいのだ。

 最後の一音が店内に余韻を残して響き渡る。曲調と相まって、奏はすっかり切ない気持ちになってしまった。
 一緒に遊んだり笑いあったり、時には喧嘩をしたり、悩み事を相談されたりしたり。そういう分かりやすい関係になれないものだろうかと思案して、奏は首を振った。
 元々が、そんな単純で、健全な関係ではなかったのだ。
 友達とはキスしたりしない。幼い子供の好奇心から出た行動だと誤魔化すことも出来たが、奏にはもう分かっていた。郁人も奏も行為の意味が漠然と分かっていながら何度もそれを繰り返していたのだと言う事が。幼さは免罪符にはならない。
 単にそれを定義する言葉を知らなかっただけなのだから。
 奏は無意識に、指で自分の唇をなぞった。その表情は、決して子供などではなかったけれど。




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