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不確定Q&AB …………………
Q3.17才は大人である。○か×か。





 土曜日の高校は、閑散としている。

 午前中で授業は終了しているから、残っている人間は部活動に参加している生徒と、図書室や教室で自習をしている生徒しかいない。しかも、来週に中間考査を控えている今、部活動を行っている生徒は殆どいなかった。
 そんな閑散とした校舎内を奏は中間考査とは何ら関係のない音楽準備室に向かって歩いていた。ノックもせずに音楽準備室のドアをガラリと開ける。一瞬、もわっと白い煙がドアから吹き出すのを眉間に皺を寄せて眺めた。
 汚れた空気を避けるように腕で鼻と口を覆い、暫くそれをやり過ごす。ようやく、煙が薄れたのを見計らって、奏は準備室に足を踏み入れた。
「兄貴、煙草吸いすぎ。」
「学校じゃ兄貴って呼ぶなつってんだろ。」
 一際、機嫌の悪い声が中から聞こえ、奏はへいへい、と肩を竦めた。
「二宮センセー音楽室の鍵貸して下さい。」
 奏が態とらしく猫なで声で告げると、準備室の一番奥、机に向かって何か書き物をしていた教師、二宮響が顔を上げジロリと奏を睨み付けた。奏と響はよく似ていると言われる。一緒に歩いていれば十人中十人ともが兄弟だと分かるくらい。けれども奏は響の方が整った顔をしていると思う。目が理知的だと思う。仕草がいちいち綺麗で人目を引く。要するに魅力的、ということで誰しもが奏よりも響を選ぶだろうと奏は常々思っていた。ピアノのことにしても。いつまでたっても兄を超えることは出来ない。
「お前、来週中間考査だろうが。」
「その次の週、グレードテストだもん。俺にはそっちの方が大事でーす。」
 ふざけた口調で、勝手知ったる部屋とばかりに奏は鍵棚からカチャリと音楽室の鍵を取り出す。
「学生の本分は勉強だっつってんだろ?グレードテストは大学入ってからでも間に合うだろうが。」
「俺、大学行かないモン。」
 奏があっけらかんとした口調で答えると、響は形の良い細い眉を軽く上げ、それから眉間に皺を寄せた。
「二宮、ちょっとここに座りなさい。」
 神妙な口調で響が告げると奏はますます戯けたように肩を竦めた。
「説教なら聞かないよ。大丈夫、中間考査もちゃんと10番以内に入るから。」
 すげなく奏は答えたが、その言葉に偽りはなかった。実際、奏は高校に入学してからこのかた一度も上位10番以内から転げ落ちたことはない。ガツガツとむやみに勉強するタイプではない。要領が良く、短時間で集中して詰め込むタイプなのだった。
「奏。そう言う事じゃ無いだろう。何で無理して焦って将来を決める?」
「それは、教師としての言葉?保護者としての言葉?」
 からかうような奏の言葉に響は目を伏せ大きな溜息を一つ吐いた。
「もう良い。うちに帰ってからな。」
 うんざりとした口調で、再び机上の書類に目を落とした兄を奏はぼんやりと眺めた。
机に向かうその横顔は、部分部分を抜き出せば確かに自分と似たパーツであるはずなのに、漂う雰囲気は全く持って異なものに感じられる。それが、年齢の差から来るものなのかそれとも、もともと持って生まれた本質の違いなのか奏には客観的に判断できない。

 なぜ、無理をして焦って将来を決めるのか。
 同じ質問を、そっくりそのまま目の前の兄にぶつけたい衝動に駆られる。すんでの所でその衝動を抑え、ゴチャゴチャと絡まり合う思考を振り払うように踵を返した。
 同じ質問をぶつけたところで、兄は本当の事など言わないだろう。普段は過ぎるくらいその容姿には不似合いな毒舌を振りかざす癖に、肝心なところで黙り込む。そして、穏やかな表情を奏に向けるのだ。
 それが、いつも奏の心のどこかしらに翳りを落としている。重荷、だとか負い目、だとか。母が生きていた頃には思い浮かびもしなかった言葉が脳裏をよぎる。
 奏が音楽室の鍵を開け、ドアを開けると馴染みの空気がふわりと広がった。何と表現して良いのか分からない、独特の匂い。楽器の匂いなのかもしれない。
 奏はこの匂いが好きだった。
 生まれて初めて買ってもらったアップライトのピアノと同じ匂いが仄かにする。
 無意識に、奏はその空気を吸い込むと教壇の左脇に狭苦しそうに置いてあるグランドピアノの蓋を開けた。ポン、と軽く人差し指で白鍵を叩く。ガランとした教室にCの音が余韻を残して響いた。
 兄は、奏に音大へ進学しろと強く薦める。しかし、両親がいなくなってしまった今、その学費は全て響が稼いだ給料から捻出されているのだ。
 フゥと小さく溜息を吐いて、奏は楽譜を取り出す。
 グレードテストに選曲した5曲の曲を透に報告したら、苦笑にも見える笑顔を薄く浮かべて、
「カナちゃんらしいね。」
と感想を述べた。
「激しさのない穏やかな曲ばかりだね。」
とも。
 そう言えば、梓にも似たようなことを言われたな、と、ふと窓の方を見上げる。広がる空には鰯雲が縮れ縮れに広がっていて、その青はどこまでも遠かった。

 自分の世界を、静かで穏やかなものだけで埋め尽くしたいと思うのは、幼さ故の傲慢なのだろうか。けれども、奏はどうにも激しいものが苦手だった。そのベクトルが自分に向かっていても、自分から外に向かっていてもそれは同じだ。ぬるま湯の中に浸っているような曖昧で、穏やかで、緩やかな状態の中に閉じこもっていた方が楽だと感じるようになってしまったのは一体いつからだったろう。
 ぼんやりと空を見上げながら、奏はパラパラと和音をアルペジオで鳴らしてみた。そのまま指ならしをさっと続けて、それから、殆ど仕上がっているベートーヴェンのソナタとバッハの協奏曲をさらう。
 更に、ショパンの別れの曲を途中まで弾きかけて、ふと手を止めた。
「同じショパンなら、幻想即興曲にした方が良いんじゃないかい?一曲くらい派手な曲を入れた方が審査員受けすると思うけどな。」
 昨晩、梓の店で透に言われた言葉をふと思い出す。郁人は店には来なかった。月曜日の夜以来、郁人は奏に距離を置いている。外側から見たならば分からないであろう微妙な距離。貴史と里佳は何かしらを感じてはいるらしかったが、奏にも郁人にも取り立てて何も聞かなかった。郁人は決して奏に対して邪険な態度を取るわけでも冷たいわけでもない。穏やかさは以前と何ら代わりが無かったが、何かを含んだような意味深で親しげな態度を取らなくなった。
 奏の言葉に納得したのかどうかは、分からなかったが何とは無しにほっとした気分になったのは確かだ。それとともに、胸の片隅に奇妙な寂寥感と喪失感が存在するのを奏は無視し続ける。そんな事よりも、今は間近に迫ったグレードテストだと自分に言い聞かせた。
 奏は華美な曲が嫌いなわけではないが、情感を込めて弾いている内に次第にテンションが上がって、昂揚してしまう感覚が、何となく苦手なのだった。

 奏が鍵盤の上に指を置いたまま、迷っているとガラリとドアの開く音がする。
 視界の端に響が入って来たが、別段、奏に声をかけるでもなく、少し離れた窓際に凭れて促すようにちらりと視線をよこしただけだった。
 奏は、もう一度別れの曲を最初から弾き始める。響は窓に凭れ、腕を組み、目を閉じてそれをじっと聞いているようだった。一通り奏が弾き終えると、響は静かに目を開く。奏は兄が何か評価を下すのを暫く待ったが、響は何も言わずに俯いたまま何事かを思案しているようだった。
「・・・透さんに、エチュードより幻想即興曲辺りの方が良いんじゃないかって言われた。」
 沈黙が何となく気まずくて思わず奏が言葉を漏らすと、響はふと視線を上げ、奏を見つめた。
「・・・透が?」
「あ、うん。兄貴は・・・」
「学校じゃ兄貴って呼ぶな。」
「・・・二宮先生はどう思いますか?」
 肩を竦め、苦笑いを浮かべながら奏は尋ねた。
「バッハがイタリア協奏曲で、ベートーヴェンが悲愴の第二だろ?残りは?」
「ドビュッシーのアラベスク一番と・・・・サティのジムノペディ一番。」
 最後の一曲を告げるときに奏は逡巡してしまう。郁人がその曲を好きだと言ったことを思い出してしまったせいだった。
「・・・奏らしいな。」
 響が苦笑混じりに言った言葉は、やはり透や梓と同じ言葉だった。
「学校じゃ奏って呼ぶな。」
 何となくうんざりした気分でやり返してやると、響は奏の子供っぽさを笑ってかぷっと吹き出した。
「そりゃ失敬、二宮君。」
「・・・曲、変えた方が良いのかな?」
「・・・変えなくても合格はするだろ。その優等生的な演奏ならな。」
 皮肉混じりの声で言われて、奏はギクリとする。自覚がある癖に、こうやってはっきりと指摘されると傷ついてしまうのは何故なのか。鍵盤に視線を落とし項垂れていると、言葉とは裏腹な優しい手でクシャリと頭を撫でられた。
「どうして、こんなにブレーキ踏むのばかり上手な子供になっちまったんかな。」
 溜息混じりの言葉が頭の上に落ちてくる。
「・・・俺、もう、子供じゃ無いよ。」
 それでも、落ち込みを悟らせないように強がると、クスリと笑う気配がした。
「知ってるか?子供の定義。」
「何だよ?」
「俺は子供じゃないって言い張るのは子供の証拠なんだよ。」
 クツクツと笑いながらグシャグシャと奏の髪を掻き混ぜる響の目はからかう色を浮かべながらも酷く穏やかで優しい。
「ま、せいぜい頑張れよ。言っとくけど俺はアドバイスしねぇぞ。」
 捨て台詞を残したまま、音楽室を出ていく。去り際に、
「後二時間で帰るからな。それまでに鍵返せよ。」
とだけ告げて。

 響の優しさは独特だ。口が悪いのでそうと分からない事もあるが、一見突き放しているように見えて実はそうではなく、相手に気を使わせないさり気なさがある。
 透は響のそう言ったところが好きなのだろうかと考えて、奏は詮無くなった。
 考えるだけ無駄なことだ。そもそも、奏は響と張り合う気など無かった。響から奪いたいと思うほど激しい感情でもない。ある種、憧れの延長のような感情を抱いていたことは確かに認めるが、郁人が示唆したような恋愛感情とはやはりどこか違うような気がしていた。
 いっそ、五年前、郁人を失って激しく傷ついたその感情のほうが余程それに近いのではないかと考えて、それから、何を馬鹿なことを、と首を振って振り払う。
 激しさは五年前に捨ててきた。それからアクセルの踏み方は忘れてしまった。自分の世界は穏やかなものだけで良い。もう、あんなに悲しい思いをするのも、傷つくのも御免だった。
 郁人は危険だ。
 穏やかな奏の世界に大きな波を立てようとする。激しい嵐の中に攫おうとする。近づいてしまえば奏は踏みとどまれない。それが分かっていたから、奏は自分の出した答えが間違いだとは思わなかった。
 寂寥感と喪失感は安寧の代償として支払われるものだ。だから、それが自分に寄り添うのは仕方の無いことなのだと奏は自分に言い聞かせる。
 暫く逡巡して、結局奏はもう一度「別れの曲」を弾き始める。今の自分には皮肉な曲名だと自嘲的な気分に陥りながら。



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