novelsトップへ 不確定Q&A@−2へ 不確定Q&ABへ

不確定Q&AA …………………
Q2.零れたミルクは戻らない。○か×か。





 月曜日の朝は気だるさに満ち溢れている。休日の疲れを持ち越した朝は、どこかどんよりと空気も重い。奏の気分も例外ではなく憂鬱なものだったが、それは休日の疲れを持ち越したからでもなんでもなかった。

「おはよう、カナ。」
 後ろから掛けられた声に、奏は過敏に反応する。びくりと体を震わせて振り向いた先にはいつもの郁人の笑顔があった。
「あ・・・お・・・はよ・・・。」
 ぎこちなく挨拶を返して奏は視線を逸らす。後ろめたさが胸の奥をチリチリと刺していた。
「体調、良くなった?」
「え?」
「土曜日。風邪気味だって。映画残念だったけど?」
 郁人の言葉に、嘘を見抜かれている居心地の悪さを感じて奏は俯いた。
「あ、もう、平気。」
「そう?じゃあ、今日の放課後にでも行く?」
 ごく自然に提案されて、奏は動揺した頭でぐるぐると断る口実を考える。嘘を責められるにしても、結論を迫られるにしても、いずれにしても奏にとっては郁人と二人きりになる状況は決まりが悪い。避けられるものなら何としても避けたかった。
「いや、明日・・・英語の小テストあるし。」
「奏、英語得意なんだろ?里佳に聞いたけど?別に勉強する必要無いんじゃない?」
 終始笑顔を崩さない郁人に突っ込まれて奏は言葉に詰まる。頭の中で余計なことを言いやがって、と、里佳の整った顔にばってんを付けた。
「・・・俺は良いけど、郁人がヤバいんじゃないの?」
「俺?俺は平気。」
 苦し紛れに言い返した言葉をあっさりと返されて、そうだった、そう言えばコイツは編入試験がかなり優秀だったという噂を聞いたなと奏は自分を恨んだ。
「・・・じゃ、貴史とかも誘う?」
 最後の手段とばかりに繰り出した言葉は、却下されるだろうと半ば諦めて言ったはずだった。
「ああ、良いよ。里佳も誘おうか?」
 拍子抜けするほどあっさりと郁人に同意されて、奏は肩透かしを食らったような気分になった。それから、不意に自分が自意識過剰のように思えて気恥ずかしさを感じた。
「あー・・・うん。じゃ、俺、言っておく。」
 意識しすぎている自分が馬鹿馬鹿しく思えて、ストンと肩の力を抜いて奏が答えると、不意に郁人は奏の肩に手を置いた。それから、ゆっくりと奏の耳元に顔を寄せる。

「ところでさ。」
 耳元で囁くように話しかけられ、奏は無意識に避けようと体を離したが、郁人は許さず、奏の肩に掛けた手に力を込めた。
「何で金曜日、先に帰った?」
 突然の核心を突く質問。先に安心させて、油断させておいて不意に仕掛ける。年齢に不相応な手馴れた手管。
(絶対に、コイツ、確信犯。)
 奏は強引に郁人から体を離すと、声を掛けられていたほうの耳を塞いで見せた。それから非難がましく郁人の顔を睨み上げる。睨みつけられても、郁人は余裕の表情で、薄ら笑いを浮かべているだけだった。
「耳、くすぐったいからヤメロって。」
「へえ?耳、弱いんだ?」
 奏が文句を言っても郁人はのらりくらりとかわし、会話を嫌な方向へ持っていこうとする。月曜の朝から、しかも教室でするような話では無いだろうと思いながら奏は態とらしく溜息を一つ吐いた。
「郁人が梓さんと話し込んでたから。邪魔しちゃ悪いと思っただけだよ。」
「それはどうも。じゃあ、今日の夜、映画終わった後にしようか。」
 当たり障りの無い答えで奏が何とか避けようとし、郁人が先回りして逃げ道を塞ぐ。もっとも苦手とする駆け引きを要求されて、奏は朝からどっと疲れるのを感じた。

「ういース。何だよ、二人してつるんじゃって。朝からやーらしい話?」
 渡りに船とはこの事だ、と、奏はぱっと顔を上げて後ろからやって来た貴史に笑顔を向けた。
「っス。だーれがやらしい話だよ、カツオじゃあるまいし。今日の放課後、里佳とお前と四人で映画見に行こうって言ってたんだって。」
「そうなの?何か、ユキと奏が内緒話してるとやーらしいんだよなー。」
「だから、何でそうなるんだって。」
「さて、なぜでしょう。」
 貴史はおどけたように笑って見せて、それから、ちらりと何かを含んだ視線を郁人に一瞬だけ送る。郁人はそれに気がついて、ひょい、と眉を上げて肩をすくめて見せたが、奏はそれには気がつかなかった。
「皆さん、オハヨーゴザイマース。何ですか何ですか、朝から良い男ばっかり集まって。悪だくみかー?」
「オハヨー。里佳、今日の放課後暇?皆で映画見に行かないか?」
「ハヨ、カナちゃん。今日も美人ね。放課後?暇っちゃ暇だけど?強いて言えば、カナちゃんに英語教えてもらおうかなーと。」
「やめとけやめとけ。お前の頭じゃ、今日勉強しても焼け石に水だって。」
「なんだとーう?カツオの分際で生意気な。」
 朝から元気な里佳は、笑いながら貴史に蹴りを入れる振りをする。奏は空気を軽いものに変えてくれた里佳に感謝しつつ、ほっと息を吐いた。
「でも、みんなで映画行くんだったら明日のテストは諦める。あーあ。でも、良いよねー。三人とも、焦って勉強しなくても大丈夫だもんねー。」
「じゃ、今日の放課後な。」
 至極あっさりと告げると、郁人は先に一人自分の席に戻ってしまった。

「・・・ユキとカナちゃん、何かあった?」
「・・・・何も無いけど?何で?」
「んー・・・何ていうの?妙な空気が漂ってなかった?」
「妙な空気って?」
「えー・・・?カナちゃん怒らない?」
「何だよ?」
「何ていうの?ジョージの後の空気みたいって言うの?」
 郁人の背中を見つめながら、里佳は首を傾げる。何気なくもらした感想で、他意が無いのは分かっても、奏はヒヤリとしてしまうのだった。里佳は、本質的なことは分かっていないくせに、こうして時々妙に勘が鋭かったりする。もっとも、大抵はピントがズレているのだが。
 洞察力が鋭くて、大抵のことは察してしまう貴史よりはタチが良いが、やはり、奏は動揺して閉口してしまう。
「里佳、馬鹿なこと言ってねーで、席、戻れって。予鈴鳴ったぞ?」
 他意はないのか、それとも態と助け舟を出したのか読めない態度で貴史が告げる。自分も席に戻りながら、貴史はちらりと一瞬、奏に意味深な視線を送った。
 奏はそれを受け取り、ふぅ、と小さく息を吐く。月曜の朝から疲れた、と机に突っ伏した。






* * *





「面白かったねー。最後がすごい良かった。ユキ映画の趣味良いよね。」
 映画の興奮冷めやらぬ様子で里佳が一生懸命まくし立てる。午後6時過ぎからの上映は、終わってみればすでに9時近かった。
「どうも。どっちかって言うと女性向けの映画だから、里佳は気に入るかなと思ってたけど。」
「うん。でも、アレ、リバイバルでしょ?ユキ、一回見たことあるの?」
「ああ。もともと10年も前の映画なんだけど、スクリーンで見たくて。BGMも良かったからデジタルで聞きたかったし。」
「うん。良かった。カナちゃん、今度、ピアノで弾いてよ。」
「楽譜探してきてくれたらね。」
「おし。明日、カワイ行って探してくる。」
 本気で探してくるつもりの里佳を見ながら奏は苦笑した。里佳の屈託の無さは、奏を救ってくれる。それは小さな頃から少しも変わっていないな、と奏はぼんやり感傷に浸った。
 郁人が戻ってきてから、こうして、昔のことを思い出すことが増えた。そうする事によって、無理に昔の関係を再現しようとしているように思えて、奏は違和感を感じる。
 無理に再現しようとしている、という事は、どこかで以前とは全く何かが変わってしまったことを認識しているということだ。
 自分の向かう方向の舵が上手く取れない。そんな気がして、奏はちらりと郁人を盗み見る。郁人は里佳のはしゃぎ様を穏やかな笑顔で眺めていた。
「なあ、これから、どっか寄ってく?」
 貴史に尋ねられて、自然に四人の足が止まる。
「どうしようか?軽く何か食ってく?」
「俺、腹減ってないけど。」
「アタシもー。ってか、そろっと家帰って英語の勉強したいよ。」
「お前まだ諦めてねーの?」
「うるさいなー。カツオには関係ないっつの。」
「お前らは?」
 お前ら、と、二人一括りにされることに奏は抵抗を感じる。奏と郁人は小学生の頃は一番仲が良かったし、いつも一緒に行動していたから、二人一組として扱われることなどしょっちゅうだった。
 今更、抵抗を感じるのがおかしい、自意識過剰だ、と思いながらも奏は釈然としない。
「このまま帰っても良いけど。カナ、どうする?」
 映画が終わったらにしようか、と、耳元で囁かれた低い声が蘇る。郁人の声は良い声だけど、艶がありすぎて落ち着かない。耳元で囁かれる声にしては甘すぎて、奏は戸惑ってしまう。
「ん。俺も帰ろうかな。」
「そっか。じゃ、解散しようか。」
 さりげなく、ソツなく仕切るのは昔からの郁人のやり方だ。了解、じゃあな、と貴史は一人私鉄の駅に向かう。里佳は都バスで郁人と奏はJRだ。
 自然と二人で駅に向かうことになり、奏は居心地の悪さに手に汗をかいてしまう。

 そう言えば、何だかんだと良いながら、郁人が戻ってきてから学校以外で二人きりになるのは初めてだと気が付いて、奏は郁人に尋ねたかった質問のあれこれを思い出した。
 どうして、五年前に急にいなくなってしまったのか、だとか、五年の間どこにいたのか、だとか、どんな風に五年間を過ごしたのか、だとか、或いは、五年の間に奏のことを思い出したりしたのか、だとか言う事。
 けれども、そのどれを尋ねても郁人を責めるような言葉になりそうで、結局、奏は尋ねることができなかった。ただ、気まずく黙り込んでしまう。
 郁人も暫くの間、何も言わなかった。ただ、奏の横に並んで歩くだけ。奏は、街灯の光に落ちた二つの影を見下ろして、その長さの違いに離れていた年月を改めて実感する。
 知らない間に肩の高さが並ばなくなった。カナ、と自分を呼ぶときの呼び方は変わらないのに、その声はもう男の声だ。
「カナ。」
 郁人は不意に穏やかな声で呼びかけ、顔を上げた奏の目をじっと見つめる。それから、何も言わずに駅とは違う方向に歩き始めた。奏は一瞬迷い、結局、郁人の後をついていくことにする。
 答えを出すのが憂鬱でも、この据わりの悪い状況を改善しないほうが気持ちが悪いと覚悟を決めた。
 郁人は少し歩いて、住宅街の一角にある小さな公園の中に入っていく。公園の中は街灯が少なく、薄暗かった。二人のほかには人影も見えない。
「座ろうか。」
 穏やかな声で郁人が促し、奏はそれに従って公園のベンチに腰掛けた。すぐ近くにある街灯の光に焼き付けられた真っ黒な影が足元に落ちる。
 余りに黒が深くて吸い込まれそうで怖いねと手を握り合った事を奏は不意に思い出した。郁人の母親の梓は店を開いていたし、奏の母親の深雪はもっぱら夜の店で唄うのが仕事だった。当時、大学生だった響は下宿していたので奏も郁人も夜は一人ぼっちだったのだ。
 自然と二人でいるのが当たり前になった。
 いつまでも、隣に並んでいるのだと、何の疑問も抱いていなかった屈託の無かった子供時代。なぜ、子供のままでいられないのだろうと、奏は詮無い事を考える。いつまでも屈託の無いまま手を繋ぎあっていられたら良かったのに。

「・・・なんで、郁人、急に戻ってきたワケ?」
 半ば無意識に疑問の言葉は奏の口から零れた。郁人はすぐには答えない。沈黙の指し示す答えを読み取ろうと、奏は郁人の顔を見つめる。
 小さな溜息を一つ吐いた後、郁人は顔を上げ、同じように奏の顔を見つめた。
 街灯の光に揺れる鳶色の瞳。色素の薄いその瞳が、奏は好きだった。迷いの無い、真っ直ぐな瞳。不安なときも寂しいときも、その鳶色の瞳を見つけると安心できた。
「カナに会いたかったから。」
 シンプルな言葉はストンと奏の中に落ちてきた。それが郁人の真実なのだと素直に納得できた。けれども、譲れない頑なな痼りが奏の胸のうちには存在する。
「じゃあ、何で、何も言わないでいなくなった?」
 費えたと思っていたのに、郁人の顔を五年ぶりに見た瞬間に、その痼りは未だジクジクと痛む病巣のように鮮明な痛みを奏にもたらした。それを無視して、奏の横に滑り込もうとした郁人を奏は受けれいれられない。
「・・・五年間、父親ンとこ行ってた。それ以上は言えない。俺だけの問題じゃないから。それじゃダメ?」
 どこか、痛いのをこらえるような苦笑いを浮かべ郁人は答える。奏は郁人の顔をじっと眺めたまま、きゅっと拳を握り締めた。吐き出す息が白い。けれども、寒さは感じていなかった。
「何の連絡も無かったくせに、急に帰ってきて会いたかったって言われても納得できない。」
「でも、事実だから仕方ない。カナに会うためだけに俺は帰ってきたんだ。」
「電話も、手紙も無かった。」
「出せない状態だったから仕方ない。でも、奏のこと忘れたことは無かった。」
「・・・そんなの・・・」
 嘘だ、という語尾は掠れた。見つめ続けている郁人の瞳に嘘や虚飾は見当たらない。奏は郁人を忘れていた。否、忘れようと努めて、ようやく痛みが薄れてきた頃だったのに。
 突然の再会に、奏は喜べばいいのか、怒ればいいのか分からなかった。
「嘘じゃない。カナが好きだって言うのも。俺はカナとの関係を確定したい。」
「確定するって何だよ?郁人の言ってること分からない。」
「簡単だろ?俺とカナが恋人になるってコト。」
 悪戯な笑みを浮かべて郁人は手を伸ばす。奏の綺麗な指をつかむと、軽く握り締めた。途端に、奏の体に緊張が走る。触れられるのが苦手なわけでは無い。貴史はスキンシップが好きで、しょっちゅうふざけて奏に抱きついたりするし、里佳も同様だった。酔っぱらってキスしたことすらある。
 けれども、郁人に触れられると奏はどうしても緊張してしまう。
 郁人の行動の一つ一つに何かを敏感に感じ取ってしまうからだった。そんなはずは無いと否定し続けてきたが、それも限界だという事を、奏は頭の片隅で悟っていた。
「俺、男だけど?」
「知ってるよ?昔、何度も一緒に風呂にも入った。」
「お前、ホモなワケ?」
「さあ?まあ、カナは男だからある意味そうなんだろうけど。」
 それでも、悪足掻きとばかりに郁人を怒らせようと試みる。怒らせて、先日の言葉を撤回させようと奏は必死だったが、そんな奏の意図には郁人はとうに気がついているらしかった。余裕のある笑みを浮かべて、優しげに奏を見つめている。
「・・・俺、郁人のこと、そういう対象として見れない。」
「ウソツキ。」
 視線を逸らして、小さな声で告げた答えを即座に否定される。その自信過剰な態度に奏はかっときて再び郁人の顔を見上げた。
「ウソじゃない。」
「じゃ、何で、カナの指、震えてるワケ?」
「・・・そんなの・・・寒いからに決まってるじゃないか。」
「へえ?・・・・じゃあ、試してみよう。」
 そう言うと郁人は奏の指を軽く引く。それからもう片方の手で強引に奏の頭を手繰り寄せた。不意に重なった唇は少し冷たかったが、決して奏に不快感など与えなかった。
 奏では驚いて目を見開く。すぐ目の前に郁人の鳶色の瞳があった。この目がいけない、と思いながら結局何の抵抗もなさずに、ただされるがままになっていた。
 不快感や、嫌悪感など訪れるはずがない。奏の脳裏に蘇った記憶は、まるで昨日の出来事のように鮮明だった。馴染んだ感覚は、五年の歳月を隔てていようともあっさりと奏を連れ去ってしまった。

 きっかけは何だったか。嗚呼、そうだ、響のせいだと奏では朧気に思い出す。
 小さな身体の中心で早鐘のように打ち付けている心臓を何とか抑えようと小さな身体を丸めて、部屋の隅っこに蹲っていた。
『俺達もしてみようか。』
 一番最初は郁人が言い出した。それを、突然奏の前からいなくなることで終わらせたのも郁人だったし、去ったときと同じく突然に現れて再び始めようとしているのも郁人だ。
 ぼんやりと思考を過去に飛ばしている隙に、奏の唇が緩んで、そのタイミングを逃さずに舌が入り込んでくる。無意識に目を閉じてしまうのは、哀しいかな、昔身に付いてしまった習性のせいかもしれなかった。
 奏の頭を支えていた手が動いて、クシャリと奏の真っ直ぐな髪を掻き回す。その感触で、五年前よりも随分と大きくなった手のひらを知る。骨張った大きな男の手。もう片方の手は奏の指を緩慢な動きでなぞり続けていた。
『カナの指、綺麗で好きだ。』
 同じように奏の指をなぞりながら、熱のこもった幼い声を耳元で囁かれると、奏はいつでも体中の力が抜けてしまうような気がした。
 質が悪い、いつまでたっても変わらないと、自分にも、郁人にも呆れ果ててしまいながら、結局奏は最後まで突き放すことは出来なかった。

 やがて、ゆっくりと唇が離れる。どちらのともつかない唾液で濡れた唇が急に冷気に晒されて、ひやりとした。鈍化してしまった時間感覚では、一体どれくらいそうしていたのか皆目見当もつかなかったが、それでも奏の頭はどこかで冷めていた。奏の中の何かが、未だに郁人を許していない。寂しさに泣いた夜は決して一晩や二晩ではなかった。
「何なんだよ、お前?捨てた玩具を急に思い出して、もったいなくなった?」
 鋭利な刃物のような言葉は、うねりのように押し寄せた奏の怒りから発せられたものだった。奏らしくない、激情に任せた言葉は簡単に郁人を傷つける。奏自身も。
 郁人は眉を寄せて苦しげな表情をしていたが、奏の指は決して離さなかった。奏も無理に振り払おうとはしない。自分からは振り払わない。ただ、離せと無言の視線で訴える。何時だって手を離すのは郁人の方からだ。自分に選択権はない。それが無性に腹立たしく、同時にやりきれなく哀しかった。
 どんな理由があったにせよ、奏は「捨てられた」のだ。郁人にそんなつもりがなくとも、止むに止まれぬ事情があったとしても、幼い奏が自分を護るために言い聞かせた答えが結局は奏の中の真実になってしまう。
 五年かけてやっと納得できた答えを一週間やそこらで覆せるほど奏は器用でもなければ大人でもなかったのだ。
「捨ててない。玩具だなんて思ったこともない。取り消せ。」
 怒りを含んで、郁人の低い声が更に低くなる。捉えられていた指は痛くなるほど強く握りしめられていた。
「嫌だね。お前は俺を捨てたんだ。気紛れでフラッと現れて『好きだ』?笑わせんな。」
 自嘲に満ちあふれた声で奏は吐き捨てる。郁人は衝撃を受けたように大きく目を見開き、しばらく奏を瞠目していたが、やがて力無く奏の指を離した。奏の指は重力に従ってだらりと下に落ちる。さっきまで郁人が触れていた部分がジリジリと痺れているようだった。
「・・・なるほど。分かった。」
 奏の棘のような言葉に何かしら憤りを感じていないはずはない。それなのに郁人の声は静まり返って、怖いくらいに穏やかだった。それが、逆に奏の胸をひやりとさせる。たった今、離してはいけない手を振り払ったのではないかと急激に不安が訪れたが、一度吐き出した言葉を反故にする方法を奏は知らなかった。
「それが、今のカナの答えなワケだ。」
 郁人はゆっくりとベンチを立ち上がる。地面に落ちた黒い影が長く延びるのを奏は黙って見下ろしていた。
「時間取らせて悪かったな。」
 郁人は奏の方を一度も振り向かなかった。何かを押さえ込んだような低い声で短く告げるとそのまま歩き出す。その後ろ姿を奏は眺めながら、何時の間に郁人はあんなに背中が広くなったのだろうとぼんやり考える。
 やっぱり、郁人は奏をおいていく。いつだってそうだ。置いて行かれるのは自分の方だ。

 差し出された手を振り払ったのは自分の癖に、奏は理不尽な寂しさを感じていた。



novelsトップへ 不確定Q&A@−2へ 不確定Q&ABへ