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不確定Q&A@−2 …………………
 梓の店は繁華街の大通りから少し外れた小路に立っている。小洒落た欧州風のレンガ造りの店で内装もクラッシックな雰囲気にまとめている店だ。
 料理も酒も出している店で、夕方の早い時間は食事を取りに来る客が中心で少し遅い時間になると酒を飲みに来る客が主になる。
 店の片隅にはスタンウェイが置いてあり、月水金はクラッシック、火木土はジャズがそれぞれ生演奏され、日曜日は定休日だ。

 奏はその店の金曜日の演奏のアルバイトをしている。奏は別段ピアノの演奏にこだわっていた訳ではなく、コンビニでもファストフードでも何でも構わなかったが、奏の兄の響がそれを許さなかった。
 奏と響は小さな頃に事故で父親を失くした。父親は前途を有望視されていたピアニストだったが、これから、という時に若くして亡くなったのだった。
 その後はジャズシンガーだった母親が女手一つで二人を育ててきたが、その母も無理がたたったのか二年ほど前に癌で亡くなってしまった。
 必然的に、響が奏の保護者代わりとなり、奏を養うことになった。二人の母が死んだとき、響は音大の四年生で、院に残り本格的にピアニストを目指すか、無難に音楽教師やピアノ講師に甘んじるか悩んでいる真っ最中だった。
 結局、母の死がきっかけとなり響は音楽教師の道を選び、現在は奏の通う高校の音楽の教鞭を取っている。
 そんな響のポリシーは「学生の本分は勉学」であり、奏がアルバイトをするのを頑として許さなかった。そんな時、梓が奏にたまたま空席になった金曜日のピアニストの席を奏に持ちかけ、響も母親の親友である梓には弱かったせいもあり、奏は梓の店でアルバイトをするに至ったのである。

 梓は郁人の母だったが、所謂、愛人と呼ばれる類の女だった為に郁人には戸籍上の父親は存在しない。梓自身も父親を知らない私生児だった。
 梓の母親は日本人だったが、父親はアメリカ人だった。情熱的なひと夏の恋の結果産み落とされた子供が梓だった。
 梓は、どちらかと言うと父親の血を濃く引いてしまったらしく、栗色の髪と鳶色の瞳、色の白い肌と女性にしては高すぎる身長が日本人離れしていた。
 着飾れば、持って生まれた容姿のおかげでさぞかし華やかになるであろうが、梓はそうはしなかった。
 栗色の髪を肩より少し下まで伸ばしてレイアーを入れ、それを無造作に一つに括っている。店ではいつも、白いブラウスに黒い細身のパンツと背中の開いたベストという出で立ちで、ともすれば男性に見間違えられかねない。
 実際、男性に間違えられて女性客に言い寄られたことがあるのだと、カラカラと軽快に笑いながら自慢していたこともあった。
 そんな竹を割ったようなサバサバした梓に奏は良く懐いていた。梓と奏の母親である深雪は親友同士で、響、郁人ともども家族ぐるみの付き合いを小さな頃からしていた。
 日本人形のような生粋の日本美人で、おっとりとしていた深雪がお母さん、サバサバしていて闊達な梓がお父さん、などと子供たちは良く笑っていたものだ。

「オハヨウございます。」
 奏は店の通用口をくぐり、すれ違うスタッフ達に挨拶をかける。店は夕方からの営業だったが、出勤してきたスタッフ達の挨拶は夜だろうと「おはようございます。」である。
「オハヨウ。奏君、今日のまかないペペロンチーノだよ。」
 キッチンチーフの徳沢に声をかけられて奏は不思議そうに首を傾げた。
「まかないで、ニンニク使うの珍しいですね。」
「ははは。宮沢のアホが仕入れの量を5キロも間違いやがったんだよ。」
「あはは。お客さんから苦情が来ないように歯磨きしなくちゃですね。」
「確かに。カウンターに郁人君も来てたから一緒に食べると良い。」
 にこやかに笑いながら通り過ぎる徳沢に、辛うじて愛想笑いを浮かべたまま奏は店の奥へと進む。
 本当に来たのか、と溜息を一つ漏らす。

 梓と郁人は親子なのだから、店に郁人が足を運ぼうと何の問題もないはずだった。
 けれども、佐宗母子(おやこ)には空白の五年間が存在する。その理由を奏は知らない。梓は決してはっきりとした理由を教えてはくれなかった。
 ただ、郁人はいなくなったのだと、もう会えるかどうか分からないのだと、どこか気の抜けたような声で奏に告げた。
 それなのに、突然に郁人は戻ってきた。聞けば、今は梓の住むマンションに一緒に暮らしているという。
 突然いなくなった理由も、突然戻ってきた理由も奏は知らない。奏に知らされることは無かった。
 それが、奏の存在意義の希薄さを示しているようで、奏は必要の無い惨めさを感じてしまう。
 奏がキッチンフロアを抜け、店のほうに入ると、何人かのスタッフが掃除をしたりテーブルメイクを行っていた。その奥のカウンターの中では梓が上からぶら下がっているグラスを一つ一つチェックしているのが見えた。
 そして、その前の席では郁人が座ってコーヒーを飲んでいる。
 時折、顔を上げ梓と一言、二言、言葉を交わす。軽く微笑む。梓も返すように笑う。
 ただ、それだけの光景であるのに、まるで映画のワンシーンでも見ているかのような錯覚に奏は陥った。
 小さな頃は、然程、外見に注目したことなど無かったが、今、目の前にいる男は確かに酷く人目を惹く。奏自身も客観的に見て、郁人は格好の良い男だと思う。
コーヒーを飲む姿が絵になるなど、笑い話のようだったが、実際目にしてしまうと納得せざるを得ない。
 その外見のみに惹かれて、女の子達が郁人に告白するのも頷けた。
 別段、その事については奏は何の困惑も感じていなかった。奏が困惑しているのは郁人の距離感だ。

「カナ!」
 不意に郁人が振り返り、奏の姿を認めると破願した。トンネルから外に出る瞬間にぱっと光が差し込むような、そんな笑顔だと奏はぼんやり考える。
 自分が女だったら、さぞかし嬉しがるだろうとも。
「一緒にまかない食べようと思って待ってた。」
「アンタはスタッフじゃないんだから金払いな。奏、オハヨ。」
「梓さん、オハヨウ。郁人、ホントに来たんだ。」
「ケチ臭いこと言うなよ。ホントに来たって何?迷惑だった?」
 前半は梓に向かって、後半は奏に向かって言い、表情を曇らせる。こんな困ったような顔まで絵になるとは何事かと奏はふうと小さく息を吐き出した。
「別に迷惑じゃ無いけど。物好きだね。」
「どうして?奏のピアノ、聞く価値はあるだろ?奏が弾くようになってから、金曜日の客が増えたって聞いたけど?」
「ピアノのせいだけじゃないだろうけどね。奏は老若男女問わずたらし込むからねえ。」
「梓さん、人聞きの悪いこと言わないでよ。俺がいつ誰をたらしこんだよ。」
憤慨したように奏が言い返すと、梓は化粧気の無い顔でクスリと笑った。
「奏は気がつかない内にたらしこむからねえ。響みたいに分かっててやるのもタチが悪いけど。」
 からかうような微笑を浮かべながら、梓は肩を竦め、その横で郁人が面白くなさそうな顔で、ズズっと冷めたコーヒーを啜った。
「そう言えば、響、店に来るって。終わったら車で一緒に帰ろうって伝えてくれって。」
「あ、そうなんだ。梓さん、アリガト。」
「響ちゃん、店来るの。」
「ああ。ユキ、アンタ、学校でまだ響に会ってないの?」
「俺、選択美術だもん。わざわざ音楽室に会いに行くのもなんだし。」
「それもそっか。」
「響ちゃん、相変わらず美人?」
 悪戯な瞳で奏の目を覗き込み、含み笑いを浮かべて郁人は尋ねた。店の少し暗めの照明に、郁人の鳶色の瞳がゆらゆら揺れる。琥珀色に透き通る瞳は奇妙な引力があると奏はぼんやりと考えた。
「奏?」
「え?あ?ああ。何か、半年前に恋人が出来てから、やっと落ち着いたみたいだけど。」
「恋人?」
郁人は微かに眉間に皺を寄せ、それからふっと口元を緩める。
「女?男?」
「・・・男。」
 言い辛そうに奏が答えると郁人はおどけた様に眉を上げて見せて、そっか、とだけ相槌を打った。

 奏の兄、響が恋愛に対して節操無しだったのは奏と郁人がまだ幼い子供だった頃からだ。老若男女問わず、と言うのが誇張では無いほど節操が無い。
 そのうち夜道で刺されるのではないか、でなければ、良からぬ病気を貰ってくるのではないかと奏はヒヤヒヤしながら兄の付き合いを眺めていたものだ。
 それが、不思議なことにピタリと半年前から止んだ。その理由を尋ねても兄は心境の変化だとしか言わず、教えてくれなかったが、兄の高校以来の親友で、家にも良く出入りしていた兄の親友に、奏がそれとなく尋ねてみたところ、新しい恋人が出来たからだと教えてくれた。しかも、それが自分だと。
 それを聞いた時、奏は仰天して眠れなかった。
「郁人も知ってる人だよ。」
「誰?」
「透さん。」
「透?って佐原透?」
「うん。」
 郁人も奏と一緒に響の乱れた交友関係を目の当たりにしてきていたから、別段問題は無いだろうと奏はあっさりと事実を話す。ともすれば身内の恥を晒すことにもなりかねないが、子供の頃から郁人は響のそう言った行動に嫌悪感を抱いているようにも見えなかったので、奏は郁人に話すことに特に抵抗は感じない。
「やっぱりそうなったんだ。長かったね。」
「やっぱりって?」
 郁人が独り言のように呟いた言葉の意味が分からず、奏は小首を傾げる。奏の癖の無い黒髪がサラリと揺れて、黒目がちの瞳が自分に向けられるのを郁人は目を細めて眺めた。その表情には微妙な艶が浮かんでいる。けれども、奏はそれには気が付かなかった。
「響ちゃん、ずっと佐原透のこと好きだっただろ?」
 さも当たり前と言った口調で告げられた答えに奏は大きく目を見開く。
「何それ?そんなの知らない。」
 驚いて奏が訴えると郁人は肩をすくめて苦笑した。
「小学生の俺が見ても分かるくらい態度に出てたじゃないか。カナ、鈍すぎ。」
「知らない。そんなの知らない。郁人の思い込みじゃないの?」
 眉間に皺を寄せ、責めるような口調で奏が言い張ると、郁人は苦笑を浮かべたまま、
「分からないなら良い。」
とだけ、小さく呟いた。一方的に話を切られて奏は消化不良の苛々を抱え込まされる。分かったような口調で言う郁人が、なぜか無性に癇に障った。
 けれども、郁人はそんな奏を気にすることなく、不意に意味深な表情を浮かべる。
「カナ、辛かった?」
「?辛かったって、何が?」
 問い返されて、郁人は自分の顔を奏の顔に前髪が触れ合うほど近づけた。いつの間にか梓は、店の奥に引っ込んでしまい、カウンターには奏と郁人の二人きりだ。
「カナ、好きだっただろ?」
「だから、何が?」
「佐原透。」

 近づきすぎた鳶色の瞳に真っ直ぐ見つめられて奏は意識をそちらに取られていまい、一瞬問われた内容が頭に入ってこなかった。暫くの間があった後、言葉をゆっくりと噛み締めて、カッとその白い頬に朱を走らせる。
「何言ってんだよ!そんな訳・・・・。」
 即座に否定しようとした言葉は途中で途切れた。郁人の表情にはからかうような色もふざけた様な様子も浮かんでいない。真剣な眼差しを向けられて、奏ははっと言葉を呑み込んでしまった。
「別に良いけどね。」
 郁人は不意に顔を離し、面白くなさそうな口調で奏を突き放す。奏が戸惑うのはこうしたムラのある郁人の距離感だ。近づきすぎるほど近づいたかと思うと急に突き放す。物理的な距離感も、心理的な距離感も。
 郁人は別段、起伏の激しい性格ではない。もちろん気分屋と言うわけでもない。どちらかといえば起伏の少ない穏やかな気性だったが、奏に対しては時折こうしたムラを見せる。それも、ある一定の種類の駆け引きをしている時だけ。けれども、奏にはそれが一体何なのか把握できずにいた。
「キッチンオーケーです。フロアー?」
 不意に徳沢の大きな声が響き渡る。
「フロアーオッケーです。」
「カウンターオッケーです。」
 次々にスタッフから声が上がり、奏は慌てて立ち上がると
「ピアノオッケーです。」
と告げ、食べ損なったペペロンチーノを恨めしそうに眺めながらピアノの前に移動した。

「オープンしまーす!」
 フロアチーフの声が響き渡り、カランカランと鈴の音を立てて店のドアが開かれる。何人かの客が店に入ってくるのを確認してから、奏はピアノの蓋を開き、指ならしにパラパラと和音のアルペジオで鍵盤を叩いた。
 それから、適当に曲を選んで気ままに演奏する。店のBGMとしてピアノを弾くので自然と選択する曲は、穏やかな曲調のものが多くなるのだった。
 アベマリア、アラベスク、オンブラマイフと適当に弾いたところでリクエストが入った。
 リストのラカンパネラ。
 いつものリクエストだった。
 曲目が書かれたメモを見て、奏は反射的に顔を上げ視線を巡らせる。いつもの場所にいつもの顔。
 カウンターのすぐ手前の席に佐原透が座っているのが奏の視界に入る。決して派手ではないが洗練された服装に身を包んで、長身の体を持て余すように足を組んで座っている姿は、一枚の絵のようだった。穏やかで真面目そうに見える外見は薄いチタンフレームのメガネのお陰で演出されている。実はレンズの下の顔は思いの外甘いマスクで、ともすれば軽薄にも見られがちなのを奏は知っている。
「それを防ぐ為の伊達眼鏡。」
と、透は笑いながら度の入っていないレンズの説明をしてくれた。確かに、眼鏡無しの透の目は蠱惑的でさぞかし女を泣かせてきたのだろうということは想像に難くない。兄もこの眼に参ってしまったのだろうかと詮無い事を考えて奏は透の顔をぼんやりと眺めた。
 透は奏の視線に気が付くと軽く微笑みかけ手を振った。奏は反射的に透に向かって頭を軽く下げたが、頭を上げる際にすぐ側の郁人が目に入った。
 相変わらず面白くなさそうな表情で奏を見つめている。
 つまらないのなら帰れば良いのに、と奏は憂鬱な気分で楽譜を開いた。

 透は奏のピアノの才能を買っている。人を惹き付けるという意味では響よりもピアニスト向きだ、とも。奏自身はそれは褒めすぎだとは思うが、透に褒められて悪い気はしない。
 奏が梓の店でアルバイトを始めた頃から、透は毎週金曜日にこうして奏のピアノを聞きに来てくれている。奏にはそれがささやかな楽しみだった。
 奏にとって、透はもう一人の兄のような存在だ。
 奏にピアノのアドバイスをしてくれたり、響と一緒にコンサートに連れて行ってくれたり、時には二人で食事に誘ってくれたりもした。
 透は音楽評論の仕事をしていて、その耳も確かで、そういう意味では奏は透を尊敬してもいた。
 兄に対する親愛の情や尊敬の念は抱いていても、郁人が言うような下世話な意味で好きだった訳ではない、と、奏は腹を立てる。それでいながら、図星を突かれたような奇妙な焦りと痛みを胸のどこか片隅で感じてしまっていた。
 そんなはずは無い。そんな感情を抱いたことは無い、と自分に言い聞かせてみたが、兄との事を聞かされた時に理由の分からぬ痛みを感じたことは否定できなかった。
 けれども、そんな事は今まで目を背けてやり過ごしてきた。それを突然現れた人間に抉り出される筋合いなど無い。
 八つ当たりに近い憤りを郁人にぶつけながら奏は鍵盤を叩く。心の乱れが指に表れてしまうのか、自然と曲は荒っぽいものになってしまった。
「何か嫌なことでもあったのかい?」
 休憩中に透に声を掛けられて、奏は尚更言葉に詰まってしまう。理由など、とても言えなかった。
「・・・ごめんなさい。せっかく透さんがリクエストしてくれたのに。」
「そんな事は構わないけど。体調が悪いとか、そう言う事は無いんだよね?」
「あ、うん。平気。」
「そう?なら、良いんだけど。」
 ふ、と透が柔らかい笑みを浮かべるのを奏はぼんやりと見上げていた。奏は、この穏やかな笑顔が好きだった。見ているとほっとして安心する。けれども、今は後ろから突き刺さるような視線が奏を居たたまれなくさせていた。
 一体全体何なのか。
 どういうつもりなのか奏には全く分からなかった。
 妙な難癖をつけて奏に絡んだところで、郁人に何のメリットがあるというのか。
 奏はゆっくりと振り返り、案の定、刺すような視線を向けている郁人を睨み付けた。郁人は奏の目をじっと見つめ口の端を微かに上げる。
 顔が良いだけに、そういう嫌味な笑い方をすると酷く意地悪そうに見える、と奏は思った。
「カナ。そろっと休憩終わり。」
 カウンターの中の梓から窘められて、奏は慌ててピアノのほうに戻る。ピアノの椅子に腰を下ろしてふとテーブルの透に視線を向けると、丁度店に入ってきた響が透の隣の席に腰を下ろすのが見えた。透はごく自然に響に笑顔を向けている。奏はその光景をぼんやりと眺めた。
 自分の入る隙間の無い絵のようだ、と自嘲的な気分に陥る。

 コツン、と譜面台を叩く音がして、急に意識を取り戻され顔を上げれば郁人がすぐ傍に立っていた。郁人はどこか痛いところがあるような表情で奏を見下ろしている。
「これ。リクエスト。」
「あ。うん。」
 差し出されたメモを受け取って曲目を見ると、サティのジムノペディと書かれていた。癖のある右上がりの字は小学生の頃から余り変わっていない。
「趣味変わった?結構、シブいね。」
 ふ、と奏が微笑むと郁人は幾分表情を緩めた。
「最近ね。サティ好きなんだ。」
「そう。」
「近くで聞いてて良い?」
「ん。良いよ。」
 さっきまで面白くなさそうな顔をしたり、妙な難癖をつけて絡んだりしたくせに、郁人の目は、もう優しい。
 毛布で包んで暖めてくれるような穏やかさに、やはり奏は戸惑いながらも少しだけ安堵する。馴れ馴れしかったり、突き放したり、過保護だったり。
 どれが、本当の郁人か奏には分からなかった。
 けれども、こんな風に穏やかな郁人は嫌いじゃない。些細なことで無意味に痛んだ気持ちを和らげてくれる。
 小さな頃、肩を並べて笑いあった。その気持ちを鮮やかに思い出しながら、少しだけ感傷を交えてメランコリックな曲を弾いた。
 終始、郁人は穏やかな眼差しで奏の横顔を見つめ続けた。

 奏の容姿は決して華美ではない。ともすれば地味に見えてしまいがちだったが、穏やかな品がある。姿勢の良い清潔さと、その癖、相反する奇妙な艶。
 そのアンバランスが奏の魅力だと梓などは評する。そこが深雪とそっくりだと。
 育ちの良い上品さと、清潔さ。しかしながら、潤んだ黒目がちの瞳に浮かぶ奇妙な艶。
 清純と淫蕩が同居している、と梓は笑った。深雪は意味が分からずに首をかしげていたが、時折、馬鹿になってしまったように深雪に傾倒してしまう男がいるのも事実だった。
 奏も同じように時折言い寄られる。しかも男女を問わないから始末に終えない。
 けれども、ピアノを弾いているときの奏を見たことのある人間ならば仕方が無いのかもしれなかった。
 鍵盤を叩いているときの奏は、まさに、梓の言うところのアンバランスを体現している。
 世俗を拒絶して、酷くストイックにも見えるし、逆に音楽に身を沈めて陶酔しているようにも見えた。

 郁人は、目を細めてピアノを無心に演奏する奏を見つめた。ちらりと楽譜に視線をやり、それから再び鍵盤に目を落とすその仕草が、何かを煽り立てる。
 奏が最後まで演奏を終えると郁人は小さく拍手を送った。
「やっぱり良いな、カナのピアノ。」
「お客様のお気に召しましたでしょうか?」
 奏がおどけて態と慇懃に尋ねると、郁人は声を立てて笑う。こういったやりとりは楽しい。いつも郁人がこうなら良いのに、と思いながら奏も笑った。
 と、後ろから声がかかる。
「ユキ?」
 郁人と奏が振り返ると、そこには響と透が立っていた。
「あ?響・・・ちゃん?」
「おう。久しぶりだな。五年ぶりか?なんだよ、お前。同じガッコにいるんだから挨拶くらいしに来いよ。」
「いや、何か、音楽室って行きにくくて。ゴメンネ。」
「良いけどな。それにしても、お前でかくなったな。俺より背高い?」
「あ、うん。180ある。」
「生意気ー。」
 笑いながら響は郁人の髪の毛をグシャグシャとかき混ぜた。郁人は笑いながら、それを手櫛で直す。
「響ちゃんこそ、相変わらず美人だね。」
「そりゃ、どうも。お前は、口まで上手になったね。」
「ホントだって。」
「奏の次にってんだろ?」
「何で俺が出て来るんだよ?」
「あー、まー、カナはね。」
 奏が口を挟もうとしたのを郁人はやんわりと止め、響の後ろに立っていた透に目を移した。
「それよか、響ちゃん最近落ち着いたんだって?」
「なんだ、そりゃ?奏が余計なこと言いやがったな?」
 本気で怒っていない目を響に向けられ、奏は微かな罪悪感を感じて視線を逸らす。それを誤魔化そうとして奏は無理に明るい表情を作って見せた。
「事実じゃん。透さん、こんな口悪い奴、さっさと止めた方が良いよ?」
 奏に話を振られて透は穏やかな笑顔を浮かべる。
「そうだよな。カナちゃんに乗り換えようか?」
 ふざけて透がこぼした言葉にすら、過敏に反応してしまう奏を郁人は気が付いている。フザけんなよ、と、響が笑って、そのまま二人でカウンターに戻っていくのを奏は微かな痛みを抱えて見送った。

「まだ、好きなんだ?」
 二人が離れた途端掛けられた言葉は、奏を責めているようでもあり慰めているようでもあり、それでいて、同じ痛みを郁人も抱えているかのような響きがあった。
「だから違うって。」
「嘘。」
「嘘じゃないって言ってるだろ?郁人、しつこい。」
「じゃ、良いんだ。」
「何が?」
「俺が好きだって言っても。」
 唐突に突きつけられた告白に、奏は一瞬耳を疑う。それから言葉の内容を疑って、最後に郁人を疑った。
 黒い瞳を大きく見開いて、郁人の顔を凝視する。
 その鳶色の瞳には周到な罠が張り巡らされているとも気が付かずに。
 子供の頃の無邪気さなどとうに無くなった瞳には、真摯な気持ちと、どこか昏さを孕んだ熱と、抑えきれない焦燥が浮かんでいた。
 郁人の真意を測りかねて、奏は探るように郁人の顔をひたすら見つめる。パチパチと無意識に瞬きを繰り返す黒い瞳が困惑に揺れていた。
 やがて奏は戸惑いながら、ぎこちない笑みを浮かべる。郁人の言葉を強引に捻じ曲げて、自分が許容できる意味にまで婉曲して。
「・・・あ・・・りがと・・・・俺も、郁人・・・好き・・・だけど?」
「なんて逃げを俺が許してやると思ってる?何?それ?友達として、とか言う常套手段?」
 郁人は奏の目から視線を決して逸らさない。前にも後ろにも逃げることを許さない、真っ直ぐな瞳だった。奏は困惑したまま、無意識に郁人から目を逸らす。
 なんと返事をして良いのか分からずに、じっとピアノの鍵盤を見下ろした。
 今までも、何度も告白などされてきた。男に告白されたことだって一度や二度ではなかった。奏の何がそうさせるのか奏自身は分かっていなかったが、相手側の人間にとっては奏の性別は別段、障壁にはなっていない様だった。
「雰囲気がね、何ていうんだろう?受動的、っていうか。受け入れる側、みたいなんだよ。女性的でもなければ、軟弱なカンジでもないのにね。」
 この前、奏に告白してきた店の客は奏をそう評した。もちろん、奏は告白自体は断ったが。
 受け入れられなければ断れば良い。今まで何度もそうしてきたように。
 正直に言って奏はまだ誰とも付き合う気など無かった。そう思っているのに何も言葉が浮かんでこない。
 やっとの事で搾り出した答えは、
「今・・・仕事中だから。そういうの後にして。」
という、何とも据わりの悪い言葉だった。郁人は俯いたまま自分を見ようとはしない奏の 横顔をじっと見つめる。鍵盤の上に置かれたままの奏の指は微かに震えていた。

 こう言う所がタチが悪い、と郁人は苦笑する。
 奏の指はピアノを弾いているせいか長くて綺麗な形をしていた。爪も清潔に切りそろえられている。郁人はその指が好きだった。触ってみたり、撫で回してみたり、銜えてみたいと思ったことが何度もあった。
 小さな頃はそんな欲求の所在が理解できずに戸惑ったものだったが、五年の歳月が何もかもを郁人に明らかにしてしまった。
 だから、戻ってきたのだ。諦めるつもりなど毛頭無いのだと、その気持ちを視線に絡ませて、郁人は奏の傍らに寄り添う。そして、奏の右手の上に自分の右手を重ねた。
瞬間、奏の体がびくりと反応したが、郁人は構わずに奏の小指から中指までの指を握りこんだ。それから身を屈めて奏の耳に口元を寄せる。
「良いよ。じゃあ、仕事が終わったらね。」
 自分の声の効果を十分に知った上で、郁人は態と低めの声を奏の耳に吹き込んだ。

 奏は弾かれたように慌てて郁人から体を離し、右耳を手で押さえたまま何か抗議の声を上げようとしたが、結局、何も言うことは出来ずにピアノに視線を戻して、演奏を再開した。
 ピンと伸ばした姿勢の良い背中で一生懸命に郁人を拒絶しようとしているくせに、黒目がちの瞳は潤んで揺れている。ピアノの音も。
 奏が無意識に選んで弾いた曲はドビュッシーの月の光だったが、水辺に差し込むそれを表現したような曲は奏の揺れる心情と奇妙に噛み合って、不思議な甘さを醸し出していた。
 横顔に郁人の視線を感じて無意識に唇を舐めて湿らす。
 ピアノの音と、店内のざわめきが交じり合って、少し薄暗い店の中は夜の水辺のようだ。
 奏は困惑に四散する意識の中で、ふと、郁人の距離感を思い返す。近いのか遠いのか分からない郁人の距離感。
 けれども、五年前と郁人の距離感は何ら変わっていないのかもしれなかった。
(変わったのは俺の方?)
 ふと浮かんだ疑問の答えは、五年前の思い出の中に眠っている。
 寄せては返す、様々な出来事の思い出を一つ一つなぞりながら奏はピアノを引き続ける。
 穏やかさと、起伏の無い安寧に満ち足りていた奏の世界に、何かが起こる事を予兆している夜だった。



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