novelsトップへ purify-8へ purify-10へ

purify - 9…………

 基本的に、夏野は牧の部屋を出ない。どうしても必要なものを買いに行く時か、退屈で死にそうな時にしか外出しない。その時は後者だった。ミネが牧の部屋に押しかけてきてから二週間近く経つが、その間、牧は一度も夏野をあの部屋に連れては行かなかった。今まで、そんな事は一度も無かったのに、だが、夏野はその理由を深くは考えなかった。考えずに、軽はずみに外出してしまったのだ。

 フラフラと目的も無く、暇潰しに本屋を見たり、服を見たりして、そしてそのまま帰ろうとした時だった。出てきたのは牧が大学に行っている昼間だったが、その時はすでに夕暮れ時を過ぎ、辺りは暗くなりかかっていた。学生達が帰宅する時間には遅く、社会人が帰宅するには早いそんな時間帯。牧の家はもともと閑静な住宅街にあるので、辺りは人気が少なかった。だからこそ、夏野は油断していたのだ。そもそも、自分を連れて行こうとする人間がいるなどとは夢にも思っていないのだから仕方が無い。
 不意に現れた人影に驚く間もなく、ただ無抵抗に殴られて夏野は気を失った。その後のことは覚えていない。気がついたときには、すでにそこにいた。



















 ジクジクと殴られた頬と腹の傷が痛む。ハッハッと滑稽なほど息を荒げ、興奮して自分の中に突っ込んでいる男を夏野はぼんやりと見ていた。両手首を一括りにベッドのパイプに縛り付けられているから抵抗したくても抵抗できない。だが、きっと手が自由だったとしても夏野は抵抗しなかっただろう。
 敢えて意識をはっきりさせようとしなかったのは自己防衛本能が働いたからなのかもしれない。深く考えたり、自分の状況を正確に把握したりしたら、きっと恐怖の余り発狂したかのように叫んでしまっただろうから。
 上から覆いかぶさる男の顔は見たことがある。ミネという名前の男だ。それだけしか知らない。それだけしか知らないのに、どうして自分はこんな男に犯されているのだろうかと思う。
 知らない天井、知らない部屋、知らない男。
 縛られて監禁されている。
 そして、無残に蹂躙されている。
 どうしてこんな目にばかりあうのだろうかと、やはりぼんやりと、何の感情も伴わず純粋な疑問だけで考える。何が悪くて、こんな事になってしまうのか。夏野にはその理由が少しも想像できない。そう言えば、冬海が言っていた。夏野の体の中には薄汚い売女の血が流れているのだと。だから、どんなにがんばっても報われるはずなど無いのだと。嗚呼、と夏野は思う。これは持って生まれた性なのだと。生まれつき薄汚い血が流れて、どうしたって綺麗になんてなれっこないから、自分はこんな目にあうのだ。
「お前が悪いんだろ。お前が悪いんだ」
 と、ミネが荒い息の合間に夏野の耳に囁きかける。
 嗚呼、そうか、自分が悪いのかと夏野は思う。
「お前が誘ったんだ。俺のせいじゃない。お前が淫乱で性悪だから。だから、俺が突っ込んでやってるんだ」
 ミネの声は暗示を掛ける呪文のように夏野の中に染みてくる。嗚呼、そうか、自分が淫乱で性悪だから。
 だから、こんな目にあうのだ。だったら、自分はやっぱり薄汚くて穢れているはずだ。それなのに、どうして徹は自分を受け入れてくれないのだろう。
「お前だって悦んでるンだろ? 後ろに突っ込まれてるだけで勃たせてンじゃねぇか」
 中から前立腺を突かれれば生理的な反応を起こすのは仕方が無い。それでも、夏野はそうは思えなかった。
 こんな風に縛られて、無理やり犯されても快感を感じている。冬海に閉じ込められた時だってそうだった。どうしてこんな馬鹿げたことを躍起になってしていたのだろう。だって、もっと汚れる必要なんて無い。その証拠に、もうこれ以上汚れる必要など無いほど汚れきっているではないか。これ以上、どうやって汚れたら良いのか夏野は分からなかった。
 もう良い、と思った。もう良いのだ。だから言った。
「…もう良いよ…もう良い……もう必要ないから」
 か細い声はミネの荒い息にかき消される。ミネの吐き出す息が異様に酒臭いことに、夏野はその時気がついた。見つめた瞳は濁っていて、どこか焦点があっていない。常軌を逸脱しているような、狂気の浮かんだその瞳に、夏野は本能的な恐怖を感じた。
「は…離して! !」
 悲鳴のように叫んだら、
「煩い! !」
 と怒鳴られて頬を激しく打たれた。口の端が切れるほど激しく。力加減すら分からなくなっているミネに夏野はますます竦み上がる。恐怖に震える体を必死に丸めて庇おうとしたが、両足を抱え上げられていてそれは叶わなかった。しばらくそうして揺さぶられていると、ようやくミネは達したようで、ブルっと震えたかと思うと夏野の中から体を退いた。
 夏野は必死で体を捩り、胎児のように体を丸める。そんな夏野を見てミネは面白く無さそうにフンと鼻を鳴らしてベッドを降りた。それから、傍らのテーブルにおいてある酒瓶を拾い上げると、そのまま瓶から直接酒を飲む。飲みきれなかった分がミネの顎を伝い床に滴り、ただでさえ酒臭い部屋が更に酒の匂いで満たされた。
 よくよく見てみれば、床にも、テーブルの上にも幾つもの酒瓶が転がっている。酔って正気ではないのだと思ったら、夏野はますます怖くなった。
「なんで、こんなことするの? 離して。コレ、解いて」
 と夏野が悲鳴のように訴えれば、ミネは馬鹿にするように嘲笑った。
「解くワケねぇだろうが。お前はずっとここにいるんだ。お前は俺の玩具なんだよ。……牧のヤツ、人のコト、馬鹿にしやがって」
 そう言いながら低く唸るミネの目は、やはり正気とは思えない。怖い、と夏野は目を閉じた。



 目を閉じて、そして開いたなら、それは夢だったんだよと誰かが言ってくれれば良いと願いながら。











 夢を見ていた。あれは、確か中学に上がったばかりの頃のことだ。夏野も徹もまだ幼さが残っていた頃。その頃はまだ夏野の方が身長が高かった。小さな頃から夏野の容姿は際立っていたけれど、中学に上がり、大人っぽさが加わり始めると、尚更人目を引くようになっていた。そして周囲も次第に大人になっていく。
 関心を引きたい相手を苛める、といった稚拙な方法を卒業して、ストレートに夏野に近づいてくる人間も増え始めていた。徹はそれがどうしても気に入らないらしく、時々、拗ねたように夏野に当たったりしたが、人の感情の機微には聡い癖に、夏野はそういった秋波にはなぜか鈍く、徹の不機嫌の理由が分からなくて戸惑ったりもした。
 中でも、一人、とかく夏野に馴れ馴れしくて、やたらと夏野の体にベタベタと接触する上級生がいた。二つ上のその少年は、成績も良く、見た目だって決して悪くはなくて、しかもサッカー部のエースだったりしたので女生徒にもかなり人気があった。そんな先輩が、なぜ自分にそれほど構ってくるのか夏野には全く分からなかった。それでも、嫌われるよりも好かれるほうが嬉しい。夏野は素直にその人の好意を受け入れていたが、ある日、徹が業を煮やしたように夏野に怒りをぶつけたのだ。
「もう、アイツには絶対、べたべた体を触らせるな!」
 そう怒鳴った徹に、夏野はキョトンとした顔を見せた。なぜ、徹がそんな風に怒っているのかサッパリ分からなかった。だから、
「なんで?」
 と尋ねたのだ。徹は、さも当たり前といった表情で、
「夏野は俺のモンだからだ!」
 と答えた。夏野はますますキョトンとする。『俺のモノ』とはどういう意味か、と首を傾げると、徹はなぜ分からないんだ、という風に足を踏み鳴らした。
「とにかく、夏野は俺のモンだ! 良いな!」
 それでも必死の剣幕で徹が言い募るので、夏野は思わず頷いてしまった。頷いてしまってから、なぜか、それがすんなりと自分の中に入ってきたことに気がついた。
 『自分は徹のもの。』
 そう思うと、なぜか夏野は酷く安心したような気持ちになったのだ。それは、小さな頃からの夏野の生い立ちに原因があって、何かに『所属する』と言う事で安堵を得る夏野の性質が影響していたことだったが、当然、夏野にそんな自覚などあるはずも無い。ただ、自分は徹のものになったのだと、不思議と違和感無く納得した。
 だが、そこでふと気がついた。自分が徹のものだというのなら、徹が自分を捨ててしまったら終わりではないか。それは、どう考えても不公平なのではないか。そう思ったら不安になった。だから徹にそれを訴えたのだ。
 そしたら、徹はそうだなと至極あっさりと納得して、さらに言った。
「じゃあ、俺は夏野のものになる。それで平等だから良いだろ?」
 夏野は深く頷く。なんて素晴らしい提案なのだろうかと、とても胸がドキドキとした。
 『自分は徹のもので、徹は自分のもの。』
 それは酷く夏野を安心させ、暖かく穏やかな気持ちにさせた。その癖、その反面、奇妙な高揚感があるのだ。なぜ、そんな風になるのか分からない。分からないけれど、ずっとそうならば良いな、と夏野は思った。



 ずっと自分は徹のもので、ずっと徹は自分のものならば良いな、と思った。



















 一体、どのくらいの時間が経過したのだろうか。用を足す時と、余りに汚れが酷くなってシャワーを浴びる時しか夏野に自由は許されなかった。
 ミネは自分を犯していないときは大抵酒を飲んでいる。そうでなければ、奇妙な粉末を吸引していたりもする。もはや、理性的な判断など出来ない状態になっているのだろう。非合法のクスリでもやっているのかと、夏野の恐怖は更に増した。
 ふとした隙に逃げ出すことも考えたが、裸のままこの部屋を飛び出すことも躊躇したし、そもそも、あんな風に正気を失っている男相手に、逃亡が失敗した時のことを考えると、恐ろしくて足が竦んでしまった。
 ミネは、夏野を犯しながら良く分からないことを言う。大半は牧に対する罵詈雑言のようだった。
「牧は悪魔みたいなヤツだ。あんなヤツより俺の方が良い。俺の方が良いだろう?」
 濁った瞳で尋ねられ、夏野は一度だけ首を横に振ったが、そうしたら、またしたたかに頬を打たれたので、それ以来、とにかく頷くようにした。
「アイツは男だろうが女だろうが、人間だなんて思っちゃいない。平気で食い物にして見殺しにする。千晴の時だってそうだった。俺はやめろと言ったのに」
 ブツブツと呟くミネの言葉の中には時折、『千晴』という名前が出てきて、夏野は首を振った。一体、誰のことだろうかと思う。だが、ミネが恐ろしくて尋ねる気になどならない。ただ、
「千晴が死んだのは牧のせいだ。牧が千晴を殺したんだ」
 とミネが言うので、恐らく、『千晴』という人物は既に亡くなっているのだという事だけは分かった。
 抵抗さえしなければ、ミネは夏野をそれなりに丁寧に扱ってくれた。暴力も振るわない。ただ、セックスは頻繁だった。セックスしながら、夏野の耳に、可愛い、だとか、綺麗だ、とか囁く。ただ蹂躙するだけの相手に、なぜそんな馬鹿馬鹿しい言葉を繰り返すのか夏野にはさっぱりだった。
 ミネがしきりにその名を出すので、夏野は犯されながらも牧の事を考えた。どこか冬海に似た瞳をした牧。どこか翳りのある、何かを諦めきった笑顔を浮かべている牧。牧があんな笑顔を浮かべるようになった理由は、その千晴という人物が原因なのだろうかと夏野はぼんやり思う。けれども、そんな思考もすぐにかき消された。
 取って代わるのは、結局、徹の姿だけだ。恐怖から逃げるために夏野は徹の姿を思い浮かべる。自分を抱いているのは徹だと、どこか無理のある夢想を浮かべて正気を保つ。けれども、それはすぐに失敗してしまうのだ。
 そもそも、たったの一度でも夏野は徹と抱き合ったことが無いのだから。

 ただ、心の中で悲鳴のように、何度も何度も徹の名前を呼んだ。










 朦朧と沈みかけている意識を浮上させたのは、夏野の今の状況には余りに不似合いなインターフォンの明るい響きだった。監禁されてからどれくらいの時間が経過していたのか夏野には分からなかったが、後で聞いたところによると、実際は監禁されて三日に満たなかったらしい。苦しい時間は余計に長く感じるから、夏野にとっては一週間以上の時間に感じられたけれども。
 その時、ミネはベッドの傍らでやはり酒を飲んでいた。夏野がこの場所に連れて来られてから今まで一度もインターフォンなど鳴らなかったので、最初、夏野はそれが何の音かすぐには理解できなかった。深酔いしているミネも同じだったのだろう。ミネは、その音を最初無視した。二度目も同じように無視して、三度目に鳴った後で、
「……るせーなー」
 と唸るように呟いた。だが立上がって玄関に向かおうとはしない。居留守を使ってやり過ごすつもりらしかった。夏野は暫し逡巡する。今、ここで叫べば助かるかもしれない。自分がこんな目にあっていることを誰かに知らせることが出来るかもしれないと思った。だが、そのせいでミネを怒らせたらどうしようかとも迷う。
 叫ぶべきか否か。夏野は口を軽く開いたまま唇を震わせた。だが、夏野の迷いは結局のところ不必要なものに終わった。玄関から、
「ミネー出ろよ。いるの分かってンだよ」
 という、間延びした、どこか暢気な牧の声が聞こえたからだ。ベッドの上からはミネの後ろ頭しか見えない。だから、ミネがどんな表情をしているのか夏野には分からなかったけれど、その体がビクリと跳ね上がったことだけは、はっきりと分かった。
 だが、ミネはそれ以外は身じろぎもせず、少しも動こうとはしない。
「出ろって言ってンだよ! 出なきゃドア蹴破るぜ! ?」
 と、珍しく苛立ったような牧の声がドア越しに聞こえたが、やはりミネは立上がろうとはしなかった。牧が助けに来てくれたのだ、と夏野は思ったが、なぜか安堵はしなかった。それよりも、嫌な予感がして夏野は仕方が無かった。とても、嫌な予感がする。理由は分からなかったが、ドアを開けてはいけない、と夏野は怯えた。
 だが、夏野の不安を他所にガンッと激しい音が聞こえる。一つ、二つ目でドアは大きく外れ、三つ目でガッシャーンと激しい音を立てて内側に倒れて開いた。
 その先に見えた人影は牧だけではなかった。牧の後ろに見える長身の影。一緒に部屋の中に入ってきた蕗原の姿に、夏野は酷く驚いた顔を見せた。だが、それ以上に蕗原のほうが驚いたような表情をしていた。そして、その表情はすぐさま憤怒の表情に取って代わる。蕗原は土足で部屋に駆け上がり、ミネを乱暴に押し退けると夏野の腕を真っ先に解いた。それから、そのまま夏野の体を抱きしめる。折れてしまうのではないかと思うほど強く抱きしめられて夏野は苦しかったけれど、戸惑いのほうが大きくて何を言ったら良いのか分からなかった。
「何しに来たんだよ!」
 とミネが牧に噛み付いているのが蕗原の肩越し、目に入った。牧は呆れたような嘲笑をミネに向け、
「ナツを迎えに来たに決まってンだろ? お前、こんなことして、ただで済むとは思って無いよな? ああ?」
 ミネの体を軽く蹴り倒す。
「煩い! ナツが言ったんだ! ナツは俺の方が良いんだ! お前みたいな人殺しより、俺が良いに決まってる!」
 ミネは、尋常ではない様子で喚いていたが、そんなミネには一切目もくれず、蕗原はただ黙って夏野の体に上着を掛けてやると、そのまま抱きかかえる様に玄関に向かおうとした。
「どこに連れて行く気だ! !」
 大きな声で怒鳴りつけられて、夏野は反射的にビクリと体を震わせる。だが、それに気がついたのか気がつかないのか、蕗原は夏野を抱く腕の強さを強めてそのまま歩き始めた。無視されて、怒りが頂点に達したのかミネは近くにあった酒瓶を拾い上げると、それを蕗原に向かって振り下ろそうとした。だが、足元がふら付いているし、意識もはっきりとしていないせいなのだろう。あまりの大振りは、平均的な反射神経をもっている人間にはさしたる脅威ではなかった。実際、蕗原は、夏野を抱えたまま、それをあっさりと避けた。
「ナツを離せ! ! そいつは俺のモンだ! ! !」
 それでもミネは諦めず、訳の分からないことを喚きながら酒瓶を振り回す。そのどれもを避けていたが、埒が明かないと思ったのだろう。蕗原は夏野の体を自分の後にドンと押しやり庇いながら、ミネと真正面から対峙した。
「ふ…蕗原! !」
 夏野は真っ青になりながら蕗原の名を呼んだが、蕗原は振り返らなかった。振り返らなかったが、ただ、穏やかな声で、
「大丈夫。ちゃんと連れて帰ってやるから」
 とだけ言った。
「で、でも」
 それでも、蕗原が怪我をしたらと思うと気が気ではなく、夏野は体を乗り出そうとする。それを牧が後ろからやんわりと抱きしめた。
「まあ、ナツは大人しくしてたら?」
 こんな緊迫した場面だというのに、牧の声にはどこか面白がるような色が浮かんでいる。もしかしたら、実際に楽しんでいるのではないかと思えるほどの不謹慎さだった。
「お姫様は、ここで見物してンのが相場だろ?」
 耳元に囁かれて、夏野はカッとした。
「蕗原はもともと関係ないんだ! ! 蕗原が怪我したら嫌だ! !」
 そう言って夏野は牧の腕の中から逃れようとする。だが、やんわりと抱きしめているはずの腕は、夏野がどう暴れても振り解くことは出来なかった。夏野が焦って、躍起になって体を捩っていると、ガシャーンとガラスの砕ける音がする。見れば、ミネが空振りした酒瓶が壁に当たり、砕けていた。
 鋭いガラスの切っ先が蕗原に向けられている。夏野は真っ青になって、尚更、躍起になって牧の腕の中で暴れた。
「離せ! 離せってば!」
「お前の、そう言うところがムカつく」
 だが、牧は決して拘束を緩めず、冷たい瞳で夏野を見下ろしていた。夏野はその瞳の冷たさにハッとして、本能的な恐怖を覚える。なぜ、こんな冷たい瞳で見つめられなくてはならないのか分からずに、ただ、ただ、視線を逸らすことも出来ず、牧の瞳を見つめ返していた。
「自分のためには抵抗しないくせに、他人のためには抵抗するんだな」
「…何…何を言って…」
 夏野は戸惑いながら牧の目をただ見つめ続ける。牧が何を言いたいのか分からず、また、牧の真意も測りかねて夏野は抵抗するのも忘れて、牧の腕に抱きしめられていた。
「お前がしてたことは、汚れるって事じゃない。人間は、あんなことで汚れたりしないんだ」
 牧の瞳には怒りとも、悲しみともつかない暗い翳りが浮かんでいる。その理由が夏野には分からない。分からないが、牧が怖くて仕方が無かった。
「良いよ? 離してやる」
 そう言って牧は唐突に夏野から腕を放し、そして、勢い良く夏野の体を前に突き飛ばした。夏野は牧の方にばかり気を取られていたから気がつかなかったのだ。突き飛ばされた先、ミネが蕗原に向かってその鋭いガラスの切っ先を振り下ろそうとしていたことに。
 まるでスローモーションのように、夏野の目の前に鋭利な凶器が落ちてくる。それを避けることすら考えられずに、ただ、夏野は呆然としてガラスの先がキラキラと光を反射しているのを見ていた。だが、それが夏野の肉を抉ることは無かった。最後の最後まで。
 何が起こったのか、夏野には一瞬理解できなかった。視界が暗く翳ったことしか分からなかった。何が起こったのか分かったのは、生暖かいトロリとした感触が喉元を滴ったからだ。
「な…に…?」
 すぐ目の前には蕗原がいる。蕗原の体が夏野の上に覆いかぶさっているのだ。何かの弾みで眼鏡がどこかに飛んでしまったのだろう。蕗原の顔には眼鏡が掛かっていなかった。だが、直接、そのローズグレイの瞳を夏野が見ることは叶わなかった。蕗原は、目を閉じ、真っ青な顔で呻き声を上げているだけだったから。
「な…に…?」
 同じ言葉を夏野は繰り返し、トロトロと喉元から胸に滴ってくる生暖かい感触に手を這わせる。ベタリとした感触を目の前に翳せば、それは気を失ってしまうほど鮮明な赤だった。
「ふき…蕗原?」
 返事は無い。ただ、苦しげな呻き声だけ。覆い被さる肩越し、腰を抜かしたように尻を突き、頭を抱えて、
「そいつが悪いんだ。そいつが、俺のナツを連れて行こうとするから…俺のせいじゃない…俺のせいじゃない…」
 と、ぶつぶつ呟いているミネが目に入る。そして、その手前には、蕗原の体にザックリと突き刺さったガラスの瓶が見えた。不自然なほど、まるで、体から酒瓶が生えているのではないかと思えるほど深く突き刺さったそれに、夏野の思考は追いつかない。
「ふき…蕗原? ……蕗原?」
 どんどんと早まっていく動悸を感じながら、ただ、夏野はその名を呼ぶ。返事など返って来るはずが無いと、頭のどこか片隅では分かっていながら。
「早く病院に連れて行ったら? 早くしないとそいつ、死ぬかもよ?」
 誰も彼もが普通でない状況下に置かれているというのに、牧の声だけは異様なほど冷静だった。
 死、という単語が夏野の頭の中を駆け巡り、その意味を理解した途端、夏野の体は全身の毛穴が開いたかと思うほど恐れ戦いた。ガタガタと震え始める体を、だが、牧は楽しそうに、だがどこか悲しそうに眺め、
「そいつ、死ぬかもな。夏野のせいで」
 と、妙にゆっくりなはっきりとした口調で言った。殊更、『夏野のせいで』という部分を強調して。
 夏野は蕗原の背に手を回すことも出来ず、ただ、震えたまま牧の顔を見上げる。牧は、
「分かった? 本当に汚れるってそう言う事だよ」
 と穏やかな口調で告げ、とても冷たい顔で笑った。











 まるで、悪魔みたいに見える、綺麗な笑顔だと夏野は思った。











novelsトップへ purify-8へ purify-10へ