purify - 10 ………… |
規則正しく繰り返していた呼吸が乱れる。じっと注意深く見ていなければ気がつけないほど微かに、その白い瞼がヒクリと動いて、夏野はじっとそれを見詰めた。白いのは、決して元の肌が白いからではない。血の気が失せて顔色が悪いせいだ。もともと、蕗原はさほど色白というわけではなかった。 ゆっくりと瞼が上がり、ローズグレイの虹彩が僅かに覗く。緩やかに二度三度小さな瞬きを繰り返して、それからようやくその瞳は開かれた。 ぼんやりとしていた瞳が夏野の上で焦点を結ぶ。次の瞬間、浮かんだ表情は、実に複雑そうな表情だった。喜べば良いのか、呆れれば良いのか、怒れば良いのか。蕗原自身にも判断が付きかねる。そんな表情。 「……また来てたのか」 うんざりしたような口調は、決して蕗原の本心ではない。ただ、夏野のためを思って装われた演技なのだと、夏野にははっきりと分かった。あれほど、何を考えているのか分からない、その真意が図れないと思っていた蕗原の表情が、今になって手に取るように分かるというのは何の皮肉なのだろう。 「…ノート持ってきた」 だから、夏野は淡々と目的だけを告げる。不要な言葉は蕗原に負担を掛けるだけだと他でもない、夏野自身が一番良く知っているからだ。 「日向」 小さな、けれどもはっきりとした響きで名前を呼ばれ、夏野は顔を上げる。そして真直ぐに蕗原のローズグレイの綺麗な瞳を見つめた。目を逸らしたりはしない。自分の侵した罪から逃げるつもりなど毛頭無かった。だが、蕗原は夏野から、そんな覚悟を取り上げようとする。そもそも、最初から、夏野は罪など犯していないのだと何度も言い張る。平行線を辿るやり取りは、かれこれ、半月以上も続けられていた。 「ノートはもういらない」 素っ気無さを装った言葉は、けれども、どこか隠し切れない労わりと慈しみが滲んでいる。それを感じ取るたびに、夏野はいつも不思議に思うのだ。どうしてこの人は、こんなにも強く、そして優しいのだろうかと。 「どうして?」 夏野が問い返せば、蕗原はベッドに横たわったままフッと口元だけを緩めて笑って見せた。 「休学することに決めた」 淡々と告げられる決定事項は、それでも、何もかもを覚悟しているはずの夏野に微かな衝撃を与えた。蕗原が重傷を負い、学校に通うことが出来なくなって既に一ヶ月以上が経過している。そして、先行きの見通しは決して明るくは無い。だから、蕗原がそう決めたことは意外なことでは無かったはずだ。 「…そんな顔をするなよ。日向のせいじゃない」 夏野の表情から何を読み取ったのか、蕗原はそんな風に笑ってみせる。そして、どこか違和感の残る不自然な仕草で左手を持ち上げ、スッと夏野の頬を撫でた。 上がらぬ右腕。ピクリとも動かぬ右手が夏野の罪悪を常に審らかに開示している。 むしろ、ナイフのような刃物のほうがマシだったのだと医者は言った。もちろん、刃物の場合、傷が深くなり内臓を傷つける可能性が大きくなるので一概には言えませんが、と言い添えて。 中途半端に鋭利で、だが中途半端に緩やかなその刃先は、神経を運悪く潰すように損傷させてしまった。回復の見込みがゼロだとは言わない。右足は、それでもリハビリ次第でどうにかなる可能性が大きい。だが右手はどの程度、動くようになるのか予想がつかないのだと夏野は蕗原の母から聞いた。 蕗原の傷は相当に重く、最初の一週間は集中治療室に入ったきり、身内でさえ面会できなかった。次の二週間は、負担が掛からない程度の短時間ならば家族だけ面会しても良いと言われ、結局、夏野が蕗原の顔を見ることが出来たのは、事件からゆうに三週間は経過した頃だった。 それでも、夏野はずっと病院に通いつめた。面会できないと知っていても、その日の蕗原の容態を聞くためだけに病院を訪れた。そんな夏野に蕗原の母親は、申し訳ながりこそすれ、責める言葉の一つも夏野には向けなかった。それが、むしろ、夏野には苦しかった。 自分のせいで蕗原は怪我をしたのだと夏野が謝罪しても、蕗原の母はただ首を横に振り、 「貴方を責めると廉に叱られるから」 と静かに笑っただけだった。それから、戸惑いがちに、 「間違っていたらごめんなさい。もしかして貴方は日向夏野さん?」 と問うた。なぜ、自分の名前を知っているのだろうかと不思議に思いながら夏野が頷けば、まるで、自分の方が加害者だと言うような申し訳無さそうな表情で、 「私の方が貴方に謝罪しなくてはならないわ。私の甥が…冬海が……本当にごめんなさい」 と逆に謝罪されてしまった。そう言えば、この女性は冬海の叔母に当たるのだと、自分の過去をこの女性にも知られているのだと思っても、なぜだか、夏野の心は騒がなかった。ただ、静かに首を横に振り否定する。夏野と冬海の間にあったことは、この女性にはなんら落ち度など無かったのだと知っているから。 それなのに蕗原の母は、 「貴方は真直ぐな、綺麗な人ね」 と言うのだ。どうすれば、そんな言葉が出てくるのか夏野には全く分からない。自分の息子に大きな傷を負わせた罪人に向ける言葉ではないと思った。 なぜ、誰も、自分を責めないのだろうかと夏野は思う。蕗原の母親も、蕗原自身も、徹も、夏野の両親も決して夏野を責めない。 夏野の両親は、ようやく家に戻ってきた息子に、もう、二度とこんな心配をさせるなと、今まで見たことも無いほど厳しい顔で言った。母は半分泣いているような状態で、夏野の胸は酷く痛んだ。こんな、どうしようもなく汚れた最低の人間ではなく、もっと、きちんとした綺麗な子供を引き取ればよかったのに、と思った。思っただけではなく、実際、それを口にしたなら普段は決して怒ったりしない温厚な父に頬を叩かれた。父に叩かれるなど、夏野が引き取られてから初めてのことだった。 父は苦しそうな、悲しそうな表情で、二度とそんな事を言ってはいけないと夏野を叱り、それから、ただ、ぎゅっと夏野を強く抱きしめた。 ただ、夏野は両親に良い子供だと思われたかった。いつまでも愛されていたかった。引き取ったことを後悔させたくなかった。そのために頑張ってきたのに、結局は、こんな愚かなことでそれを台無しにしてしまう。どうしようもない。本当にどうしようもないと夏野は泣きたくなったが、けれども、涙は出なかった。 徹に拒絶された時も、牧の所にいた時も、ミネに監禁されていた時でさえ、そう言えば泣く事は無かったなと不意に夏野は気がつく。そして、自分が泣かない理由を思い出して、ますます泣きたくなった。自分を雁字搦めにしているのは、そして、こんな状況に陥ってしまってもそれでも自分を捉えて離さないのは、どうやっても捨て切れない徹への気持ちなのだと。 もう、捨ててしまいたい。と夏野は思った。 捨ててしまおうと決心したはずだった。 蕗原の障害のことを聞いたときから、夏野は心に決めている。自分のこれからの時間は、すべて蕗原の為に使おうと。夏野の何もかも、時間も体も、ただ、蕗原に償うためだけに使うのだと。 けれども、蕗原は夏野をいらない、というのだ。自分が怪我をしたのは夏野のせいではないのだから、夏野が償う必要など無いのだと。それに、もし、この怪我が夏野のせいだとしても、自分が欲しいのは夏野の時間でも体でもないから、どちらにしても、やっぱりいらないと蕗原は優しく笑った。 時間でもなく、体でもなければ何が欲しいのか、とはさすがに夏野は聞けなかった。今ならば、蕗原が自分に求めているものが何なのかはっきりと分かる。分かるけれども、それは、どうしても夏野には差し出せないものだった。自分の意思で差し出さないのではない。自分の意思ではどうにもならないから差し出せないのだ。 「もう良いから、ここには来るなよ」 蕗原は、静かに目を閉じて夏野に言う。大分、傷が治ってきているとは言え、やはり辛いのだろう。だるそうな倦怠感が夏野の目にもはっきりと伝わった。 「…でも」 夏野が反論しようとしても、蕗原は頑なに首を横に振る。 「俺は、日向を縛りたくない」 はっきりとした口調で蕗原は言い切った。 「縛るとか、縛らないとか……そう言うことじゃない。俺が…俺が、蕗原の為に何かしたいから…本当に、俺、蕗原の為になら何でもする。何でもするよ?」 それでも夏野が取り縋れば、蕗原は切なげな吐息を一つこぼした。 「……俺が日向に望むことは一つだけだ」 「何? 何をして欲しいの?」 初めての蕗原の要求に、夏野は思わず身を乗り出して聞いてしまう。だがしかし、蕗原の口から飛び出したそれは、とてつもなく簡単で、けれども、夏野には不可能とも思える難しいものだった。 「日向の笑ってる所が見たい。作った笑顔じゃない。ちゃんと心から笑ってる笑顔が見たい。だから、日向。お前は七瀬のところに戻れよ………」 夏野の体は一瞬にして凍りつく。徹のところになど戻らないと決心している端から、どうして、こんな風に蕗原は夏野を壊そうとするのか。実際、家に戻ってからも夏野は努めて徹とは接触しないようにしていた。蕗原の症状を聞いてからは尚の事、意識して徹を避けた。徹は、常に、何か言いたそうな鋭い視線を夏野に向けているけれど、それでも、敢えて強引に接触してこようとはしない。 「……徹のところになんか戻らない。戻らないよ。何度も言ったじゃないか。俺は蕗原の為に何でもするって」 俯き、病室のリノリウムの床をじっと見つめたまま夏野が言い募れば、不意に蕗原は目を開き、皮肉げな笑みを浮かべて見せた。 「そんなに、まだ、七瀬に囚われてるのに?」 図星を突かれて夏野はキュッと下唇を噛んだ。否定は出来ない。蕗原もまた分かっているのだろう。 それが証拠に、夏野は泣かない。まだ泣けない。 「日向」 どうすれば、そんなに優しい声が出せるのだろうと不思議に思うほど、穏やかで安寧に満ちた声で蕗原はその名を呼んだ。 「心から泣けないヤツは、心から笑えないよ」 そして、そんな事を言う。夏野はただ、何も言う事が出来ずに首を横に振り続けた。切なくて、胸が痛くて、泣きたくて仕方が無い。それなのに、涙は零れないのだ。どうして零れないのか不思議なほど、苦しいのに。 「日向」 と改めて蕗原は夏野の名を呼ぶ。 「ずっと、日向に伝えたかったことがある。本当はそれを伝えるために日向のいる高校に転入した。でも、伝えられなかった。……日向が本当に笑っていないことに気がついたから」 蕗原は左手をやはり不自然に上げ、自分でもどこか違和感を感じているような仕草で夏野の髪を撫でた。 上がらぬ右手。未だ、正常には機能しない右足。これから蕗原が背負うであろうハンデは計り知れない。それでも、この優しくて強い人は笑うのだ。笑って、夏野に優しく触れるのだ。 「もう、一年近くも経ってしまったんだな」 感慨深げに蕗原は言い、髪に触れていた左手を夏野の寂しげな目元に移動させた。夏野が蕗原と出会い、ほぼ一年近くの時間が経過していた。その時間が長いのか短いのか夏野には分からない。分からないけれど、その時間の間に、蕗原という存在が夏野の中に水が染み渡るように入り込んできたのは事実だった。徹に向ける感情とは全く違う。執着とも程遠い。けれども、夏野にとって蕗原は確かに『特別』な存在だった。 「日向。冬海は死んだよ」 唐突に告げられた事実に、夏野は、え、と思わず顔を上げた。 「1年前に、死んだんだ」 と、蕗原は重ねてその事実を夏野に告げる。 「自殺だった。病院の屋上から飛び降りて死んだ。だから」 慣れない仕草で夏野の目元に置かれていた指先は頬を滑り、肩を撫で、腕を通って夏野の右手にたどり着いた。そして、その白い手を確実に握り締める。 「だから、日向。もう過去に囚われちゃいけない。過去に縛られることは無い。そう伝えたかった」 真剣な表情で自分を見つめるローズグレイの瞳は、やはり真直ぐで、綺麗だと夏野は思う。 「それなのに、今度は俺がお前を縛るのか? …………そんな事はさせないでくれ」 そう言って、一瞬だけ、何かの思いを込めるように、断ち切るかのように蕗原は夏野の右手を強く握り、そして、そっと離した。 夏野は何も言う事が出来ずに、ただ、じっと自分の右手を見つめる。蕗原の熱が、まだ、そこにはっきりと残っているような気がしたけれど。 「もう帰れよ。そして、ここには来るな」 はっきりとした拒絶の言葉と、目を閉じた蕗原の表情に、何も言う事が出来ず、ただ、途方に暮れて病室を後にした。 蕗原が見事なほど鮮やかに消息を絶ったのはそれから三日後のことだった。休学届けが既に出されていた学校側も、今現在の蕗原の所在地は知らないと言った。病院側に尋ねても、守秘義務があるから教えられないの一点張り。一度だけ訪れたことのある蕗原の家を訪ねてみれば、見知らぬ人が出てきて、一時的に家ごと賃貸しているのだと言われた。 だが、あまりに夏野が悲壮な顔をしていたのだろう。病院の職員は、 「リハビリで有名な療養所に転院したみたいですよ。転院先はごめんなさいね。教えられないの」 と申し訳無さそうに、それだけは教えてくれた。 蕗原を捜す何の手がかりもなく、夏野は途方に暮れた。リハビリで有名な療養所というのを捜そうにも、そんな施設は掃いて捨てるほど存在していることに、夏野はすぐに気がついた。それでも蕗原を探そうと躍起になって、虱潰しに施設をあたったが、状況は芳しくなかった。 蕗原がいなくなってしまったのは、自分のせいだと夏野は酷く不安になり、ただ、強迫観念に急かされるように、蕗原を探し続けた。そして、気がつけば、蕗原と出会った季節が再び訪れ、夏野は高校三年生に進級していた。 |