purify - 11 ………… |
温室のベンチに腰掛けて、母親が用意してくれたサンドイッチに噛り付く。けっしてまずいわけではなかったが、一人で食べる食事はやはり、どこか味気無かった。だからと言って、騒がしい教室で食べる気にもならない。最近は、笑い方を忘れてしまったかのように夏野は作り笑いすら出来なくなっていた。自然と沈みがちになってしまう夏野を、周囲は心配したり、訝しげに眺めているが、敢えて夏野に近づいてくる人間はいなかった。もしかしたら、徹辺りが何か手を回しているのかもしれないが、夏野にはどうでも良かった。 徹をどうでも良いなどと思うことは、夏野の人生において初めてのことで、夏野自身、そんな自分が不思議だった。だが、その半面で自分がただ逃げているだけだと言う事もどこかで分かっていた。 いつだって、自分は逃げていたように思う。 徹への気持ちから、ずっと逃げ続けていたことがこの状況の原因だと分かっているのに、こうしてまた逃げている。蕗原を心配している風で、その実、半分は徹から逃げるために蕗原を探すことに没頭しているのだ。 そんな自分の弱さを夏野は嫌悪した。蕗原は、醜いところも弱いところも認めてやれと言っていたが、夏野には到底出来そうも無かった。 徹と正面から対峙することが夏野は怖かった。徹と対峙してしまえば、何も変っていない夏野の深淵を映し出されるから。 夏野は蕗原の手を取りたいと願っているのだ。差し出せるものは全て蕗原に差し出したい。そうすれば、蕗原も夏野も幸福になるような気がした。 あの日、蕗原が夏野を拒絶した理由を夏野はきちんと理解していた。他でもない、ただ、夏野の事だけを思って離された手を取れないのは、あまりに辛い。あの強くて優しい人を選べない、そんな自分勝手な醜い人間にはなりたくないとそう思っているのに。 天気の良い日だからか、温室の天井近くの窓が開け放たれている。そこから緩やかに差し込んできた風に、目の前の雪柳がたおやかに揺れた。ハラハラと雪のように地面に落ちるその花びらを、夏野はぼんやりと眺めている。ふと、その向こうの扉からひょっこり蕗原が現れるような、そんな錯覚に陥って顔を上げれば、いったい、いつからそこにいたのか、徹がその白い花の傍らに静かに立っていた。 「……何の用?」 形の良い細い眉を顰め、夏野はぶっきらぼうに尋ねる。決して褒められた態度ではないのに、なぜか徹は目を細め、口元を緩めて笑った。 「『今年は受験生だって事を自覚しなさい』だとさ」 揶揄するような口調で徹が言えば、夏野は眉間に皺を寄せ、迷惑そうな表情になる。 「担任からの伝言。お前、二年の学年末のテスト、順位、50位も下げただろ?」 咎める口調ではなかったが、事実なので夏野は返す言葉が無かった。一ヶ月以上学校を無断で休み、その後は蕗原の事で頭が一杯で勉強どころの騒ぎではなかったのだ。夏野が10位より成績を下げたのは、その時が初めてで、教師達も両親も酷く心配していたようだった。だが、三年になってすぐの実力テストではきちんと元の成績に戻したのだから、文句を言われる筋合いでもないと思い直す。むっとした表情で徹を睨みつけていると、徹は苦笑を漏らして夏野の隣に腰を下ろした。 「おじさんとおばさんも心配してた。血眼になって何かを調べているみたいだって。もしかして、また、突然、失踪したりしたら困るから監視してくれってさ」 「……失踪なんてしない……」 「そうしてくれ。もう一度あんなことされたら、俺も何するか分からない」 強い口調で吐き出された言葉に、夏野は思わず顔を上げ、徹の顔を見つめてしまう。真正面からそのローズグレイの瞳と視線を合わせれば、あっという間に何もかもが台無しになった。捨てようと思った覚悟も、殺してしまおうと思った感情も。結局、こんな風に夏野を簡単に揺さぶり、制御できない嵐のような感情に攫えるのは、どう足掻いても徹しかいないのだ。そして、更に性質の悪いことに、徹は、 「夏野。お前は俺のものなんだろう?」 そんなことを平気で口にするのだ。肯定したいという気持ちと、否定しなくてはならないという気持ちが夏野の中で激しくぶつかる。返す言葉に迷い、震える夏野の唇を徹はじっと見つめていた。 「……違う」 それでも必死の思いで否定しても、徹は片方の眉を器用に上げ、面白がるような表情を夏野に向けた。 「なぜ? 俺達、恋人同士なんだろう?」 何かの茶番のようにそんな言葉を吐き出す徹を、夏野は睨みつける。この男は、この期に及んで何を言い出すのかと思った。もういい加減、振り回されるのは嫌だ、解放されたいと切実に願ったが、それが叶わないことは夏野自身が一番良く分かっていた。 「馬鹿馬鹿しい。冗談にしては性質が悪すぎる」 怒ったように夏野が切り捨てようとしても、徹はその表情を崩さなかった。だが、きっと、ほんの少しだけ夏野に注意力があったなら気が付けただろう。徹の手が余裕なく、固く握り締められていた事に。 「冗談なんかじゃない。俺は夏野と別れたつもりは無いけど?」 「じゃあ、今すぐ別れる」 即座に夏野が返せば、さすがに徹はふっと口元を引き締めて射るような視線を夏野に向けた。 「俺は夏野を離すつもりは無い」 酷く冷たい口調で告げられた言葉に、夏野はヒュっと息を呑む。嬉しいのか苦しいのか、それとも悲しいのか。そのどれもだと夏野は思った。ただ、胸が痛い。そのまま心臓が止まってしまうかと思うほど。 「お…俺を抱けないって言ったのは、徹じゃないか! ……そん、そんなの、恋人同士なんかじゃ無い!」 「『抱けない』んじゃない。『抱かない』んだ。でも、お前が他の誰かのものになるって言うんなら…蕗原のものになるなんて言うんなら、俺はお前を抱くよ?」 「な…に…何を言って……」 ジリジリと背筋に痺れを感じて、夏野はただ体を震わせた。 自分自身を誤魔化すことなど出来ない。夏野の奥底から湧いてくるのは紛れも無い歓喜だった。だが、それは、すぐに途方も無い罪悪感と自己嫌悪に取って代わる。 「お前がどう思ってるか知らない。でも、俺が夏野を好きだって感情は事実だ。言っただろ? 誰かとセックスしてる時だって、頭に思い浮かべていたのは夏野だって。俺は、お前が思ってるほど出来た人間じゃない。下衆なエゴの塊だよ。それでも、やっぱり、夏野を誰にも渡すつもりは無い」 徹の口調はあくまでも淡々としていた。だが、その目には確かな熱が浮かんでいる。今まで、どうしても見破ることが出来なかった徹のポーカーフェイスが、容易く読み取れた。徹の言葉に嘘は無い。夏野を守り、理想であろうとしていた徹は、もうどこにもいなかった。 そこにいるのは、ただ、必死で夏野を離すまいとしている、夏野と同い年の未熟な少年でしかなかった。 嗚呼、と夏野は目を閉じる。なぜ、今、この場所でそれを自分に分からせるのだ、と夏野は絶望のようなものを感じた。徹が、自分と同じ意味で自分の事を好きだなどと夏野は思ったことは無かった。期待したことも無かった。夏野が一番大事だと言われたときも、触れるだけのキスをした時も。 だが、徹は自分が好きなのだ。寸分違わず、自分と全く同じ意味で。 ただ単なる事実として、それはすんなり夏野の中に入って行き、呼吸をするような自然さで夏野はそれを理解した。けれども。 「……俺は、徹のこと、もう好きじゃない」 夏野にも徹にも、あまりにあからさまな、分かりきった嘘を夏野はつかねばならないのだ。 「もう、俺は徹のものじゃない……俺は、俺は、もう蕗原のためにしか生きていかない」 徹の手を取りたい。その胸に飛び込んで、どうしようもなく、気が変になってしまうほど好きなのだと言ってしまいたい。けれども、脳裏に蕗原の穏やかな慈しみに満ちた笑顔が思い浮かんで、それは到底出来なかった。 徹は、夏野の答えを予想していたかのように深々と溜息を一つ吐き、制服の胸ポケットから一枚の紙切れをカサリと取り出した。 「そんな事を言うなら、これは渡さない」 そう言って、徹はその紙を夏野の目の前でヒラヒラと振って見せた。 「……何?」 「蕗原が今いる場所の住所」 徹の答えを聞いた途端、夏野は立ち上がり条件反射のようにその紙を取ろうとしたが、それよりも更に早く徹は立ち上がり、手を高く上げてそれを夏野から遠ざけた。 「よこせよ!」 「嫌だね」 「よこせったら! !」 子供の喧嘩のように一枚の紙切れを取り合いながら、ふと、夏野は奇妙な既視感に囚われる。夏野のしていることも子供じみているが、徹の態度も大人とは言い難い。まるでじゃれあっているかのようなやり取りは、あの事件が起こる前には当たり前のように、毎日繰り返されていたもののはずだった。それを唐突に思い出して、夏野はピタリと動きを止め、じっと自分の爪先を見つめるように俯いた。 「…夏野?」 訝しげに自分の名を呼ぶ徹の声は、どこかじゃれあいの余韻を残しているのかあどけなく聞こえる。 「教えて」 「え?」 「……頼むから…頼むから、教えてくれよ。蕗原はどこにいるの?」 哀願しているようにさえ聞こえるのは、夏野の声が震えているからだ。これは、何だろうと思いながら夏野は戸惑う。目の奥が熱い。眼球の裏側が痛くなるほど。 夏野の異変に気がついたのか、徹も動きを止め、ただじっと夏野の顔を見つめた。俯き加減の顔は、睫が長すぎて、その色素の薄い瞳の表情を読み取れない。けれども、そこが薄っすらと光を反射しているようで徹は眉間に皺を寄せた。 「教えたらどうするつもり?」 「そんなの…会いに行くに決まってる」 会いに行ってそのまま、そこに留まりたい、いっそのこと。もう、二度と徹とは会わずに。そうでなければ負けてしまいそうだから。 「じゃあ、約束しろよ。約束したら教えてやる」 「約束?」 「蕗原に会いに行って、戻ってきたら、俺のものになるって。ちゃんと俺に抱かれるって」 ピンッと何かが弾け飛ぶのは一瞬だった。初めの一粒が零れ落ちてしまえば、まるでブレーキが壊れてしまったかのように、何もかもが制御を失った。 どんなに捨ててしまおうとしても、殺してしまおうとしても、結局、こうして何度も夏野は思い知らされるのだ。夏野の恋情が向かう先は徹しかないのだと。 だから、夏野は蕗原に全てを差し出すことが出来ない。蕗原を完全には選べない。ただ、夏野の笑顔が見たいのだと、時に夏野を癒し、庇い、自分が傷ついても尚優しく触れてくれた人を。 生暖かい感触が頬を伝う。視界がぼんやりと輪郭を失っている理由を、夏野はすぐには悟れなかった。 「…そんな約束は出来ない」 答えた声は完全に涙声だったけれど、徹はさして驚いてもいないようだった。夏野の泣き顔が嫌いだと、見たくないと言っていたのは徹だ。だから、夏野は泣くのを我慢してきた。だが、今は堪えることも出来ず、ただ、夏野は泣き続けていた。 パラパラと自分の体から何かが剥げ落ちて、その後から新しい何かが生まれてくるような、不思議な感覚が内側から湧き出てきて、ただ、その心地よさに身を委ねるように夏野は泣き続けた。 不意に、蕗原の優しい声が耳に聞こえた気がした。 『人を好きになると言う事は、それがどんな形であれ、とても純粋で尊いことだと俺は思うよ。』 そんなはずはない。そんなはずがあるわけが無かった。 これほどまでに浅ましい、愚かしい、醜い恋情が。 ただ、涙に暮れる夏野の体を力強い腕が掬う。腰を抱き寄せられ、幾らか強引な仕草で顎を上げさせられ、不意に徹の唇が落ちてきた。だが、これまで与えられたことがあるような、ささやかな触れ合うだけのそれとは違う。夏野の何もかもを奪い取ってしまおうとするかのような、激しい、貪るようなキスだった。 体中に電流が走ったかのように、夏野の体は慄く。膝の力が抜けて、ガクガクと震えるのを徹の腕だけが支えていた。こうして触れられてしまえば、何もかもが真っ白になって、ただ、徹のことしか考えられなくなる。嵐のような熱に攫われて、抗うことも出来ずにもみくちゃにされてしまう。頭の中も、体の中も、胸の中も、どこもかしこも、ただ徹が好きだというその感情だけで一杯になってしまうのだ。 唐突に体が離され、夏野の体はズルリと崩れ落ちる。腕だけを徹に捕まれ、ぶら下がるように膝を地面に付けば、 「ザマアミロ」 と、やけくそのような声が上から降ってきた。 「なん…なんで…こんなこと……」 「夏野が好きなヤツは誰?」 唆すように尋ねられ、夏野は悔しさの余り唇をキュッと噛み締めた。 夏野が好きなのは誰なのか。そんな事は分かりきっている。分かりきっていることを思い知らせるためだけに、こんなことをする徹が半ば本気で憎いと思った。 「……徹なんて好きじゃない…徹なんて嫌いだ……」 搾り出すように口にした言葉は、自分で聞いても、ただひたすら好きだと訴えているようにしか聞こえなくて、夏野は尚更泣いた。 馬鹿馬鹿しい。 愚かしいことこの上ない。 けれども、それが恋というものなのではないかと、夏野はただぼんやりと思う。 「強情なヤツ」 声と同時に、ハラリと一枚の紙が夏野の前に落ちてくる。 「言っとくけど、お前が会いに行ったって蕗原は会わないだろ。俺にだけ、行き先を教えた理由をちゃんと考えろよ」 徹はそれだけを言い残すと、振り返りもせず、温室を後にした。 夏野は落ちた紙を拾い上げ、じっとそれを見つめる。 記してあった住所は、遠く離れた北の町だった。 |