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purify - 12 …………


 バスから降り立って、一番最初に夏野が感じたのはヒヤリとした肌寒さだった。用心の為に一枚多く上着を着てきたはずだったが、それでもやはり、どこか肌寒い。それで、ようやく、随分と北の町まで来てしまったのだという実感が湧いた。
 特急電車で三時間、ローカル線に乗り換えて一時間。そこから更にバスに乗ること数十分。たどり着いた場所は、木々が鬱蒼と茂る高台にポツンと建っている療養所だった。周りを見回せば、見事なほどに紅葉が進んでいる。ようやく金木犀が咲き誇っているあの温室とは、季節がまるで違うと、夏野はひんやりとした澄んだ空気を深く吸い込んだ。
 一度失踪し、戻った後で、夏野は半ば強引に両親と約束させられた。もう、決して、二度と何も言わずにどこかへ行ったりしないと。だから、夏野は正直に両親に打ち明けたのだ。蕗原が入院しているというその療養所に行きたいのだと。夏野の両親は、蕗原が夏野を庇って大怪我をしたことを知っている。子供が首を突っ込むことではないと、決して夏野は詳しい話は聞かせてもらえないが、謝罪として月々幾らかの送金もしているらしい。
 だから、夏野が蕗原に会いたいという心情も多少は理解しているのだろう。だが、両親は夏野のその申し出に、すぐに首を縦には振らなかった。父親は思慮深い表情で、
「今、お前がしなくてはならないことは、彼に会いに行くことではないよ」
 と穏やかに言った。
「彼もまた、夏野が会いに行くことを望んではいない」
 父親がそう言った事で夏野は悟る。恐らく、蕗原は、夏野の両親にまで何某かを言い含めて去って行ったのだろうと。妙な所で手回しがいいと苦笑しながら、それでも夏野は蕗原に会いたいのだと両親に頼み込んだ。
 夏野のその真摯な態度に打たれたのかどうなのか、父親は、それならば、受験が終わってから会いに行きなさいと条件を出した。だから、夏野は半年の間、ただひたすら勉強に心血を注いだ。もともと学校の成績は優秀だったのだ。あっさりと有名私立の指定校推薦を夏野はもぎ取り、秋の中ごろには進路を決定していた。

 徹との関係は、その間、何も変化していなかった。夏野は、とにかく徹を避けようとしているのに徹は執拗に夏野の隣に近寄ってくる。だが、それ以上何かをしようとはしなかった。ただ、気が付けば隣にいる。夏野が一切口を利かなくとも、登校する時、お昼ご飯を食べる時、下校する時、休日を図書館で過ごす時、徹は隣に立ち、座っている。そこに微かな甘い息苦しさを感じることを夏野は否定できない。だが、とりたてて苦痛だとは思えなかった。十年以上、慣れ親しんだ存在なのだから、違和感など湧くはずも無い。幼馴染の因果を感じて夏野は、時折、苦笑を漏らしたりもしたが、ただ、徹のしたいようにさせておいた。
 いずれにしても、これ以上夏野から徹に近づくことはしない。また、これ以上近寄らせることもしない。ただ、黙って今の距離を保ち続けるだけだ。
 テスト休みを利用して、蕗原に会いに行くことも徹には言わなかった。けれども、きっと、徹のことだから気が付いているだろう。気が付いているだろうが、夏野を止めることもしなかった。


 カサリと音を立てて落ち葉の舞い散る小路を歩く。ハラハラとイチョウの葉が軽やかに落ちていくのを夏野はぼんやりと見上げた。空が高い、と、その向こう、黄色の葉の隙間から見えるそれを眺める。蕗原と別れてから随分と時間が経ったのだと、夏野は奇妙な胸の痛みを感じた。十代の半年はあまりに長い。どこか寂しさを感じるようなこの場所で、蕗原はその半年を過ごしたはずなのだ。その時間の対価を夏野はどうやって支払えば良いのか、未だに答えは出ていなかった。
 建物の少し手前で足を止め、蕗原に会ったら何を言うのか考える。だが、やはり何の言葉も浮かんでは来なかった。そもそも、自分は蕗原に会って何をしようというのか。それすらも分からない。けれども、ただ、会いたかった。そんな自分に夏野は苦笑を漏らす。そして、それが苦笑だとしても、自分が笑えることを確認した。
 蕗原が去ってから暫くは、夏野は本当に笑えなかった。いつでも俯いて、ただ何かに迷い、不安を抱いている表情しか作れなかった。それでも、ここまで安定したのは徹が常に隣にいたからだと、夏野は認めざるを得ない。少し苦味を含んだ笑いを浮かべることも出来るようになった。だが、きっと、蕗原が見たいという笑顔はこういう表情ではないのだろうと夏野はぼんやりと建物を見上げ、それから再び足を動かし始めた。
 受付で書類に名前を書き、蕗原廉という人に会いに来たのだと告げたら、比較的若そうに見える女性職員が、案内するからと言ってわざわざ出てきてくれた。胸には箱崎、というネームプレートが付いていた。箱崎が、わざわざ受付の仕事を抜けてくれたことに夏野が恐縮していると、なぜか箱崎はニコニコと嬉しそうな顔を夏野に向ける。
「構わないんですよ。ここは、それほど訪問客が多い施設ではないし。それに、蕗原君にご両親以外のお客様が来るのは初めてだから、私も嬉しいの」
「嬉しい?」
 なぜ箱崎が嬉しいのか分からずに夏野が首を傾げると、箱崎は、どこか少女じみた表情でクスクスと軽やかに笑った。
「蕗原君、この療養所じゃ有名なの。職員にも彼のファンは多いし」
「…はあ」
「オバサンが何言ってるのかって思ってる?」
「いえ! そんなこと無いです…ケド…」
 夏野が戸惑いがちに答えると、箱崎はたどり着いた部屋のドアをそっと開けた。ドアには『リハビリ室1』というプレートが掛かっていて、中は結構な広さがあった。幾つかバーが並べられていて、比較的小さな子供が数人と、中学生か高校生くらいの患者が数人、職員に付き添われて何かの訓練を行っていた。
 夏野が想像していたよりも、その場所は悲壮感が漂ってはいない。時折、笑い声も聞こえたりして、なぜだか夏野はそのことにホッとして知らぬ間に強張っていた肩の力を抜いた。
「…ここには、いないみたいねぇ…」
 独り言のように箱崎が呟くと、こちらに気が付いた職員が声を掛けてくる。
「蕗原君に面会なんですけど」
 と、箱崎が答えたら、なぜか、室内の視線が夏野に集中した。夏野が戸惑って箱崎に目を向けると、箱崎はやはり、ふふふと悪戯な少女めいた笑みを浮かべ、
「日向夏野君です」
 と夏野を紹介した。ただの面会客をわざわざ紹介する必要は無いだろうと夏野は焦ったが、周囲は、なぜかザワザワとどよめきたった。
「男の子だったんだ!」
 と、誰かが言えば、箱崎が、
「ねえ? 私もてっきり女の子だとばっかり思ってたんだけど」
 と答える。夏野にはなんのことかさっぱり分からなかった。だが、そんな夏野の戸惑いを他所に、
「蕗原君、今日は天気が良いから裏の散歩コースに行くって言ってたよ?」
 と小学生くらいのヘッドギアをつけた男の子が答える。箱崎は、
「そう? ありがとう」
 と言って、夏野を促し、そのままリハビリ室を後にした。裏の散歩コースとやらに夏野を案内しつつ、箱崎は気軽に会話を続ける。
「職員や他の患者さんが驚くくらい、蕗原君リハビリに一生懸命で。どんなに回復が芳しくなくても、あの子、絶対にめげなし腐らないの。そういうのって黙ってても周りに空気が伝わるのよね。あの若さで、あの精神力は尊敬に値する」
 夏野が入ってきた正面玄関とは全く正反対の方向にある裏口の扉を開け、箱崎は綺麗に舗装されている遊歩道へと夏野を案内した。
「普通はね、治る見込みが薄かったりすると、やっぱり投げちゃう人が多いのね。健常者には想像付かないかもしれないけど、リハビリってのは途方も無いくらい苦痛が付きまとうし。自分の体なのに、自分ではままならないって言う歯痒さは、物凄くストレスもある。でも、蕗原君は絶対にそういうのを見せないの。何が彼をそんなに支えてるのかと思って一度聞いたら、『俺が治らないと苦しむ人がいるんです。だから、その人のために少しでも回復しないといけない』って」
 遊歩道の脇には花水木や躑躅、寒椿、桜、銀杏、楓、雪柳、様々な木が植えられている。季節季節に、散歩を楽しめるようにと配慮されているのだろう。今は、銀杏と楓の木が綺麗に色づいていた。
「蕗原君、『大事な人なんです』って言うから、あんな格好良い子にそこまで言わせるなんて、綺麗な子なんだろうねって言ったら、真面目な顔で『すごく綺麗な子です。名前も綺麗なんです。』て答えたのね。そんな事言われたら、どんな名前か気になるじゃない? だから、聞いたら貴方の名前を教えてくれたの」
 そう言って箱崎は、やっぱり悪戯な笑いをこぼし、
「でも、男の子だとは思わなかった」
 と付け加えた。
 夏野は何も言う事が出来ずに黙り込み、俯いてアスファルトだけを見つめながら歩き続ける。離れても尚、自分のことを思いやる蕗原に、ズキズキと胸が痛むようだった。蕗原にそこまで思われるような人間ではないと、夏野自身が一番良く分かっている。それでも、蕗原が望むならやはり、夏野は自分の何もかもを蕗原に差し出したいと思った。例え、それが不可能なことだとしても。
「そこを右に曲がってみるわね。そこから先は雪柳が続いてる遊歩道なんだけど。蕗原君、この道が好きでいつも散歩に来ているのよ。今は、紅葉が綺麗だから」
 箱崎に促されて夏野は遊歩道の突き当りを右に曲がった。数十メートルほど先にベンチが見えて、そこに誰かが腰を掛けて休んでいるのが見えた。見覚えのある懐かしい横顔。少し痩せて肉が削げたせいか、どことなく大人びた印象を与える横顔だった。近づくにつれ、彼の傍らに杖が置いてあるのが見える。それでも、杖を使ってなら一人で歩けるようになったのかと思ったら、夏野の胸は安堵で膨れた。
「蕗原君」
 箱崎が名を呼ぶと、じっと目の前の木々を見つめていた蕗原はゆっくりと顔をこちらに向ける。箱崎に視線を寄越し、次に、その後ろに立っている夏野の姿に気が付いて驚いたように大きく目を見開いた。それから、すぐに、呆れたような、それでいて仕方が無いなといったような苦笑を浮かべた。
「『夏野君』が面会よ」
 箱崎はからかうような口調で言うと、
「それじゃあ、ごゆっくり」
 と踵を返して建物のほうに戻っていってしまった。
「…ひ…久しぶり」
 夏野が少し緊張しながら話しかけると、蕗原は、
「久しぶり」
 と穏やかな口調で答えた。
「元気だった?」
 どうでも良いことをそんな風に聞きながら、夏野はうろうろと視線を泳がせる。それがおかしかったのだろう。蕗原は噴出して笑った。
「こんな遠い場所まで良く来たな。大体、七瀬は何をやってる訳? 日向をこんな場所まで寄越して。ちゃんと口止めしたはずだけど?」
 笑いながら言われ、夏野はムッとする。とかく、蕗原は自分との事に徹を引き合いに出す。そう言えば、初めて教室で会話を交わした時もそうだったと、一年半前のことを思い出した。
「徹なんて関係ない。もう、今は、口だって効いてない」
 意地を張るように夏野が答えると、蕗原は一瞬だけきょとんとした顔をして、それからすぐに苦笑いを浮かべた。
「それはまた……綺麗に、俺の言ったこと無視してくれたわけだ」
「無視したとか、そう言うことじゃなくて…」
「じゃあ、まだ、ちゃんと笑えてないんだな」
 不意に、笑いを消した、真剣な表情で蕗原は夏野を見上げた。
「縛って欲しい?」
「え?」
「俺が日向を縛りつけたほうが楽?」
 真直ぐに見つめてくるローズグレイの瞳は、初めて話した時から何も変っていない。どこかしら慈しみを湛えている優しい目だ。だが、欺瞞を許さない潔癖さがそこにはあった。
 蕗原の質問の真意が分からず夏野は戸惑う。
「日向を縛り付けることなんて簡単だよ。俺の怪我はお前のせいだから、一生責任を取れって言えばいいだけだ。俺がそう言ったら、お前はそうするんだろう。七瀬に会うなと言ったって、従うんだろう?」
 どこか憤りを感じさせる口調で蕗原は夏野を問いただす。それは事実だと夏野は思ったが、頷くことを躊躇して、ただその色素の薄い瞳を不安げにユラユラと揺らめかせた。その目元は変らずどこか寂しげで、確かに翳りのある艶を湛えてはいたが、蕗原の望む屈託の無い表情とは程遠かった。
「日向がどう思っているか知らないけど、俺は聖人君子なんかじゃない」
 苦々しいものを吐き出すように蕗原は言う。どこか苛付いている表情を向けられて、夏野はますます戸惑った。
「弱いから負けそうになる。日向の気持ちが七瀬にあるって知っていても、お前を縛ってしまおうかと思ったりもするよ」
 そう言いながら蕗原は右手をゆっくりと上げた。まるで、何かとてつもなく重いものを持ち上げているかと錯覚するほど、その動作は重苦しく、どこか痛々しい。それでも、確かに、蕗原の右腕が動いていることに夏野は目を見張った。ただ、腕を上げるだけの動作だが、蕗原の額には微かに汗が浮かび上がっている。それが、どれだけ大変なことか見ているだけで容易に想像が付いた。
 酷く不自由な所作で、蕗原は夏野の左手に触れる。恐らく、本当は夏野の手を握りたかったのだろう。だが、まだ、そこまでには回復していないようだった。だから、夏野から手を握る。握った手はどこかひんやりとしていた。
「俺は日向が好きだよ。日向とセックスしたいとも思うし、自分だけのものにして独占したいとも思う」
 眼鏡の奥、眩しいものでも見るかのように目を眇め、ただ蕗原は穏やかな眼差しを夏野に注いだ。
「それでも、俺はこの気持ちが汚れているとは思わない。いつだったか日向に言ったね。『人を好きになると言う事は、それがどんな形であれ、とても純粋で尊いことだと思う』と。あれは、日向に言ったんじゃない。自分に言った言葉だった。だから、それを汚させないでくれ。この気持ちが、日向の犠牲の上にしか成り立たないと、そうは思わせないでくれ」
 そう言った蕗原の静謐な瞳を見つめ返しながら、夏野は湧き上がって来る涙を止めることが出来なかった。いつの間にかあふれ出したそれは、夏野の白い頬をただ静かに流れ落ちる。ただ、言葉も無く泣き続ける夏野を蕗原は、どこか嬉しそうな顔で見つめ続けた。
「きちんと泣けるようになったんだな」
 そう言いながら、左手で夏野の涙を拭う。
「……俺は、蕗原にたくさんもらった。返しきれないほど沢山貰った。だから、何か返したい。蕗原に出来ることがあったら何でもしたい。それだけなんだよ。徹に対する気持ちとは確かに違うかもしれないけど、俺は、蕗原のことが好きだから」
 嗚咽混じりに夏野が言うと、蕗原は静かに頷いた。
「それなら、待っていてくれるだけでいい。きちんと克服して日向のところに帰るから。日向が待っていてくれるなら、それだけで俺は頑張れる」
「待つよ! いつまでだって待ってる! !」
 必死に言い募る夏野に蕗原は少しだけ悪戯な表情を浮かべた。
「きちんと七瀬の隣で待ってろよ」
「……なんで、そこに徹の名前が出てくるんだよ…」
 夏野が頬をぬらしたまま憮然とした表情で尋ねれば、蕗原はどこか人の悪い、今まで夏野には見せたことの無い笑みを作る。
「俺は七瀬のところに戻れとは言ったけど、日向を諦めるとは言ってない」
「…………………………何?」
「一旦、お前らがちゃんとくっついてくれないと、正直、罪悪感無しにお前に迫れないから困る」
 そんなふざけたことを言う蕗原に、夏野は呆れかえって言葉を失った。
「だから、お前はちゃんと七瀬の所に戻れよ」
 けれども、そう言った蕗原の口調はやはり穏やかで優しくて、どこまでが本気なのか判断しかねた。多分、半分は、夏野の気持ちを軽くするためだけにわざと叩かれた軽口なのだろう。そう言う気の使い方をする人間なのだと、夏野は既に理解していた。だから、ただ素直に頷く。
「ちゃんと帰ってきて。俺は待ってるから。いつまでも待ってるから」
 そう繰り返して伝えると、蕗原は小さく頷いて、それから、
「そろそろ帰れよ。バスの最終がもう少しで出てしまう」
 と、夏野の帰りを促した。
「見送らないよ」
 と少しだけ寂しさを滲ませた声で言われ、夏野はまた泣きそうになったけれど。それを堪えて、
「子供じゃあるまいし一人で帰れるよ」
 と言い返したとき、自然と零れた笑みに夏野自身は気が付いていなかった。









 それは、蕗原が初めて見た夏野の表情だった。









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