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purify - 13 …………


 同じだけ時間を掛けて夏野が自分の住む駅に帰ってきた頃には、すっかりと日は暮れて真っ暗になっていた。通勤の時間もとうに過ぎてしまっていたので、駅は人影がまばらだったから、駅の出口、ガードレールに腰掛けているその人に気が付くのは簡単だった。もっとも、人が沢山いたとしても夏野は簡単にその人を見つけ出すことができるだろう。それが酷く馬鹿馬鹿しくて、そしてどこか切ないような気がした。
「……おかえり」
 ガードレールから腰を上げ、夏野に近づきながら徹は気軽に挨拶の言葉を掛ける。夏野は肩を竦めて呆れた顔を作って見せながら、
「ずっと待ってたワケ? 暇だね」
 と嫌味を言う。言いながら、そう言えば徹と言葉を交わすのは随分と久しぶりだなと思った。
「悪かったな。蕗原から連絡があったから迎えに来たんだよ」
「蕗原が?」
 徹の言葉が意外で、夏野は軽く目を見開く。徹は軽く頷いて相槌を打っただけでそれ以上は何も言わなかった。ただ、横柄に顎をしゃくって夏野の足を促す。いささか抵抗を感じつつも、夏野は素直に徹の後をついて歩いた。
 無言のまま並んで歩き続ける。街灯に照らし出された長い影が二つ並んでいるのをじっと見ていると、夏野は感傷的な気持ちを抑え切れなかった。こうして当たり前のように二人並んで歩いていた幼い頃は、自分達がこんな風に変ってしまうなんて思っていなかった。ただ隣にいるのが自然な、それでいて無くては呼吸が出来なくなってしまうような、空気のような存在だったのだと思う。それは今でも変らない。ただ、そこに消しようの無い恋情という余計な感情が加わってしまっただけで。
 ふと、夏野は徹の横顔を見上げたが、徹は夏野のほうには目を寄越さなかった。ただ、酷く凪いだような穏やかな表情で真直ぐに前を見詰めている。蕗原が去ってから、徹は不思議と以前のようなピリピリとした空気を一切感じさせなくなった。その代わりに、表情が正直になったと思う。夏野の前ではポーカーフェイスなど装わないし、機嫌の良し悪しもはっきりと分かる。今は、少しだけ機嫌が悪いように見えた。もともと、夏野が蕗原に関わっている時には徹は機嫌が悪くなるので、意外なことではない。
 数十分ほど並んで歩き、見慣れた道筋を辿って着いた先は二人の通っている高校だった。この時間は夜間部の授業を行っているのだろう。あちこちの教室に灯りが点っているのが見えたが、こんな時間に学校に来るのは夏野は初めてだった。
 戸惑う夏野を他所に、徹はただ黙って足を進める。どうやら温室のほうへ向かっているらしかった。
「蕗原、元気そうだったか?」
 不意に話しかけられて、夏野ははっと顔を上げる。気がつかないうちに、俯いて、二人の影を睨みつけるように歩いていたらしい。
「ああ、うん。杖をついて歩けるようになってた」
 不意の言葉に、夏野が反射的に答えると徹は、ふ、と薄い笑みを浮かべて、
「そうか」
 と相槌を打った。温室の入り口にたどり着き、その室内に足を踏み入れるとフワリと金木犀の香りが漂ってくる。唐突に夏野は、ああ、日常に戻ってきたのだと思った。蕗原に会った昼間の出来事がなぜだか遠いことのように感じる。ほんの数時間前の出来事でしかないはずなのに。
 徹に促され、温室の奥まで進み、いつものベンチに二人並んで腰を下ろす。暫しの沈黙が降りて、それが息苦しいような、それでいてどこか甘い痛みを訴えるような不思議な気持ちで夏野はそっと耳をそばだてた。聞こえてくる虫の鳴き声は、すっかり季節が秋に移ろいだことを伝えてくる。二人が身じろぐほんの微かな衣擦れの音まではっきりと聞こえるくらい静かで、声を立てるのが恐ろしいほどだった。けれども、その静寂を破ったのは徹だった。
「気が済んだ?」
 何に対しての質問なのかが分からず夏野はただ沈黙する。
「まあ、気が済んでも済まなくても約束は守ってもらうけど」
「約束?」
「蕗原に会いに行ったら俺のものになるんだろ?」
 徹の言葉はどこかふざけているような口調で、夏野は性質の悪い冗談に文句の一つも言ってやろうかと顔を上げる。だが、夏野を真直ぐに見つめてくるローズグレーの瞳は全く真摯なものだった。逃げることも欺瞞も許さないその真直ぐな眼差しに夏野はキュッと口を固く引き結ぶ。ゆっくりと徹から視線を逸らし、自分の足元を見つめながら、
「………ならない。前にも言った。俺は蕗原の為に出来ることは何でもしたいから」
 と小さな声で答えた。徹が目で、空気で、物言わぬ言葉で自分を手繰り寄せようとしているのがひしひしと伝わってくる。その誘惑に夏野は簡単に負けそうになった。どんなに誤魔化しても、自分に、徹に、蕗原に、全てのことに嘘をついても、結局、戻ってくるのは最初の場所なのだ。それでも、夏野は、ただ、自分にだけ甘い結末が訪れることなど許せない。
 ただ、徹が好きだと激しい感情のままその胸に飛び込むことは、途方もない裏切りで、罪のように思えてならなかった。それが何に対する罪なのかは分からなかったけれど。
 だから、ギュッと拳を握り締め、この嵐のような恋情に攫われぬよう自分を保っている。けれども。
「夏野が好きなのは俺なのに?」
 そんな簡単な一言で、徹はあっさりと夏野の決心など粉々に砕いてしまうのだ。

 夏野が好きなのは徹だ。
 だから。
 だから、夏野は蕗原に全てを差し出すことが出来ないというのに。

 それを徹が言うのか、と思ったら怒りのようなやりきれない感情が膨れ上がって、涙腺が緩むのを堪え切れなかった。零れ落ちた涙は何に流されたものなのか夏野にはもう分からない。ただ、蕗原の優しい笑顔が脳裏に浮かんで、もう、どうにもならなかった。
「俺は蕗原なんて大嫌いだよ。もっと言えば憎い。殺してやりたいくらい」
 不意に物騒なことを徹がポツリと零す。その言葉の内容よりも、まるで子供の駄々のような徹の口調のほうに驚いて夏野は顔を上げた。徹はバツの悪そうな苦笑いを浮かべて、それでも、言葉の内容とは裏腹な穏やかな目で夏野をただ真直ぐに見つめていた。
「俺以外にお前のことを泣かせたり、笑わせたり出来るヤツだから。消してやりたいくらい嫌い」
 やっぱり、どこか子供じみた我侭な口調で徹は言う。ふと、夏野は小さな頃の徹を思い出していた。もともと、徹はこんな風に我侭な所が昔からあった。夏野が他の人間と仲良くすると途端に機嫌を悪くして、夏野は自分のものだと言い張ったのだ。自分の感情に嘘をつかない真直ぐさ。夏野が惹かれたのはそこではなかったのか。
 両親に好かれようと、周りに良い子だと思われようと無理をしていた夏野を唯一責めたのは徹だった。それは徹の真直ぐさと、夏野への思いやりから来ていたのだと、不意に夏野は悟る。

 どうしようもない。本当にどうしようもない。
 今更、こんなに徹が好きだと確認したとて、何がどうなるというのだ。

「でも、義理は果たさなくちゃならなかったから半年待った。お前が蕗原に会いに行くのも黙って見送った。でも、もう、これ以上は譲歩しない」
 そう言って徹は夏野の腕を掴む。触れられた場所がジリジリと電流でも流されたかのように甘く痺れて、夏野は反射的に体を離そうとしたが徹は許さなかった。頭よりも体のほうが感情には素直なのだと夏野は思った。良し悪しはともかく、夏野にとって、徹と言う存在だけが特別で、こんな風に器の反乱を招く。まるで中毒患者のように無意識にその体を求めそうになる。ベンチの上に押し倒されて、貪るようなキスを与えられ、そのまま流されたいと、隔てるものが何もないほど近づき触れ合いたいとその背に腕を回しかけるのを、だが、夏野はひたすら理性で抑え込んだ。
 ぐっと力を入れてその肩を押し返す。真上から見下ろしてくる徹の目は完全に情欲に濡れていて、その劣情を押し隠しもせず、ただ夏野を求めているのが分かった。心の片隅でそれを歓喜する自分を夏野は否定できない。だが、そのまま流されることは出来ないと強く抵抗する自分もまた真実だった。
「俺は徹とはセックスしない……徹とだけはセックスしない……」
 心を与えている相手に体まで与えてしまえば、全て明け渡すことになってしまうのだから。そうしてしまえば、夏野は蕗原に何を差し出せば良いと言うのか。悲愴な決心で夏野が拒絶するのを、だが徹は鼻で笑い飛ばした。
「じゃあ、強姦する」
 そう言いながら、けれども、徹はそれ以上、無理に先に進もうとはせず、ただ、ふざけたように夏野の額と鼻の頭に一つずつ触れるだけのキスを落とすと夏野から体を離した。
「惚れた弱味だな。しょうがない。譲歩してやるよ」
 大袈裟に肩を竦めて見せる徹を不思議そうな表情で夏野は見上げ、首を傾げる。
「譲歩?」
「蕗原が治って戻ってきたら、全部俺のものになるって約束しろよ。蕗原が戻ってくれば、お前の負い目も消えるだろう?」
 どこか高飛車な口調で徹が命令するのを聞いて、夏野はムッとした表情で徹を睨み上げた。
 勝手な言い分だ。今までどれだけ自分の意思ではままならない感情に振り回されてきたか徹は知らないから言えるのだと腹が立った。だが、夏野の抵抗は長くは続かない。返事をしない夏野に、徹が焦れたように、
「約束しろ。約束しなけりゃここで強姦する」
 と脅してくる。その子供じみた我侭な強引さに呆れつつも、徹の目が真剣なことだけは分かったので夏野は面白く無さそうな顔で頷いた。恐らく、その夏野の表情もひどく子供じみていただろう。

 寄せては返す既視感。子供の頃のやり取りをなぞるような。
 本来辿るはずだった道筋を、徹はやり直そうとしているのかもしれない。十四歳のときに捻じ曲げられてしまった二人の関係を。ならば、それに付き合うのも悪くない、と、どこか澄んだ気持ちで夏野は思った。















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 ふわりと鼻先をくすぐる緑の匂いに、ふ、と夏野は目を覚ました。はっと顔を上げると目の前には雪柳の見事な白い花房が揺れているのが見えた。転寝をしていたのだと気がついて、夏野はベンチから体を起こす。パサリと音を立てて制服の上着が地面に落ち、それでようやく自分にその上着が掛けられていたのだと言う事に夏野は気がついた。
 制服の上着?
 まだ、どこかぼんやりとした寝起きの頭で夏野は考える。なぜ制服の上着なのだろう。今はまだ、高等部は春休みのはずだ。夏野は先日高等部を卒業して、今はこの高校の生徒ではないし、もちろん今日は私服でここに来た。徹になぜかこの場所に呼び出されたからだ。
 ふと、腕時計に目をやると昼過ぎの時刻で、待ち合わせの時間からすでに三十分が経過していた。それにしても、この制服は誰のものなのだろうかと拾い上げ、ふとした弾みにくしゃんとくしゃみが出てしまった。
「こんな場所で転寝なんかしてるから。風邪ひいたんじゃないのか?」
 後ろから掛けられた声に、
「ああ、うん。大丈夫だと思うけど」
 と自然に答えてしまってから、夏野ははっとしたように顔を上げた。雪柳のすぐ傍らに人が立っている。いつか見たことのあるような光景に、今までの出来事が全て夢だったのではないかという錯覚に夏野は陥る。パチパチと無意識のうちに大きく瞬きを繰り返したが目の前の人は消えてなくなったりはしなかった。
「蕗原…」
 小さな声で名前を呼んでもそれは同じ。
「何?」
 まるで、何事もなかったかのように蕗原は返事をして、それからふっと口元を緩めた。
「元気だった?」
 世間話をするような軽い口調で尋ねられ、夏野は返す言葉も無く、ただ大きく首を縦に振る。何度も。
「どう…どうして、ここに?」
「うん? 春から三年生に復学することになったから。その手続きで」
 そう言いながら、蕗原は歩み寄り、夏野の手の中にある制服の上着をそっと取った。
 その足取りは御世辞にも軽快とは言いがたい。どこか重そうに右足を引きずっているように見えるけれど、それでも杖が無くても歩いている。夏野から上着を取り返したのも右手だった。
「……戻ってきたんだね……」
 ただ、じっと蕗原の顔だけを見上げている夏野の目にはあっという間に涙が浮かび、眦からそれが零れ落ちた。
「ずっと、ずっと俺、待ってたんだよ?」
「うん。ありがとう」
「ずっと、ずっと待って……蕗原がいなくて寂しかった…寂しかったんだよ……」
 泣きながら切々と訴える夏野に、蕗原は嬉しいような、困ったようなそんな複雑そうな表情を浮かべた。幾らかぎこちなさの残る右手で夏野の涙を拭う。眼鏡の奥のローズグレイの瞳に悪戯な色が浮かぶのを夏野は滲む視界で不思議そうに見上げていたが、蕗原は、不意に夏野の向こうに視線を移し、
「そんなに感激して泣いてもらえるのは凄く嬉しいんだけどね? できれば、二人きりの時にでも、もう一回泣いてくれる? なんだったら、抱きついてもらっても良いけど?」
 そんなことを言った。
「後ろで人のこと殺しそうな目で睨んでるやつがいるから、感動も半減するよな」
 そう言われて、初めて夏野は自分の後ろに徹が立っていることに気がついた。
「会わせてやっただけでも感謝しろよ」
 と、憮然とした表情で徹は蕗原に文句を言ったが、蕗原は気にした風も無く呆れたように笑った。
「嫉妬深い亭主を持つと苦労するぜ? 悪いことは言わないから、日向、俺にしとけ」
 蕗原の当てこすりを、今度は徹が呆れたように笑う。二人のふざけたようなやりとりに、半ば呆れて、それでも堪えきれず、
「二人とも、何言ってんの?」
 と、夏野は声を立てて笑った。















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