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purify - 8 …………




 カサリカサリと枯葉の積もった温室の中に足を踏み入れる。ずっと奥のほう、時々夏野が来ていたと言うベンチに向かえば、既に紅葉も終わりを告げようとしている雪柳の枝が立ちふさがっていた。
 温室の中はそれでも、まだ暖かいが、外に出れば上着無しでは肌寒い。季節は初冬に差し掛かっていて、この寒空の下、夏野が凍えていないだろうか、心細い思いをしていないだろうかと考えれば、徹の胸は鉤爪で引っかかれたかのように鋭く痛んだ。
 徹は夏野の泣いている顔や、苦しそうな顔や、辛そうな顔を見るのが嫌いだった。夏野にはいつでも笑っていて欲しかった。光の中、ただ、屈託無く笑っている夏野を見ていたかった、それだけなのに。
 あの時の、酷く傷ついて虚ろな表情をしていた夏野を忘れることが出来ない。そもそも、いつからか、夏野の笑顔が作ったそれでしかなくなっていたことに徹は気がついていたはずだった。気がついていたのに、敢えて、それを見ないフリで通してきたのだ。今現在のこの状況を招いたのは疑いようも無く、自分の怯惰が原因だった。
 夏野の不在。
 それが徹に与える焦燥感や不安は計り知れない。ありとあらゆる手段を使って捜しているのに、一向に有益な情報は入ってこなかった。どこで何をしているのか、どこかで一人で泣いているのではないか、そう考えただけで、徹は学校など放り出して捜しに飛び出したい衝動に駆られる。だが、それは自分の両親と、そして夏野の両親にも止められているので叶わなかった。もっとも、学校に拘束される時間以外は、全て夏野を捜すことに費やされてはいるのだけれど。
 夏野が徹の前から姿を消して、すでに一ヶ月近い時間が経過している。よもや、その命が失われていたら、と想像するだけでも身の毛のよだつ思いだった。
 ベンチに腰を下ろし、深々と溜息を吐く。吐き出した息の音とカサリと枯葉を踏み分ける音が重なって、徹はふっと顔を上げた。夏野がひょっこりと顔を出すのではないかという淡い期待を抱いて。
 だが、そんな期待が実現するはずも無い。目の前に立っている男を反射的に睨みつけると、苦笑を零された。どんなに憎くても、殺してしまいたいほど目障りでも今は協力者である彼を排除するわけには行かないのだ。
「…相変わらず。そんな目で睨むなら、最初から日向を受け入れてやれば良かったのにな」
 徹の刺すような視線に、返ってくる言葉もまたいつも同じだった。
 たった一度だろうと何だろうと、夏野に触れたというだけで、夏野を抱いたというだけで、この蕗原という男を殺してしまいたいと思う。なんというエゴだと自分でも思うけれど、徹は夏野を誰にも渡したくは無かった。自分だけのものにして、誰にも触らせたくない。その恋情も執着も独占欲も、また、夏野に触れられないのと等しく徹には真実だった。
「…何か分かったか?」
 蕗原の言葉には敢えてコメントせず、目的だけを告げると蕗原は軽く肩を竦めて見せた。
「…全くの収穫無しだとは言わないが…嘘臭い情報なら幾つか」
 その答えを聞いて、徹はいきり立つ様に勢い良く立上がる。だが、何かを問い詰める前に蕗原にあっさりと手で制されてしまった。
「待てよ。お前、今、相当テンパってるって自覚あるか?」
 呆れたような表情を徹に投げかけながら蕗原は翳した手を下ろし、ポケットの中に収める。
「俺が、先に確認してくる」
「何でだ? 俺が行く」
 強い語調で徹が言い張れば、蕗原は眼鏡の位置を直しながら、息を吐き出すように苦笑した。
「七瀬って、ホント日向のことになると途端に沸点低くなるのな。こんなに熱しやすいヤツだとは思わなかった。いつも飄々として、すかした嫌なヤツだと思ってたけど」
「余計な御世話だ」
「とにかく俺が確認してからだ。お前に任せるの怖いよ」
「何でだよ?」
「死人とか出そうで」
 あっさりと蕗原が流した言葉に徹はスッと目を眇める。途端に冷静さを取り戻したかのように冷たく見えるその表情は、だがしかし、更に怒りが高まった証拠なのだと蕗原は悟った。
「なぜ?」
 問いかける声さえ氷点下の冷たさだが、そこには抑えきれない憤りが滲んでいる。
「そういう状況かもしれないってことだろ」
 徹の為でなど決してない。ただ、状況を複雑にするのを厭って蕗原はなるべく淡々と徹を刺激しないように答えた。だが蕗原の意図とは反対に、徹はさらに目を細めて、見下すように蕗原を眺めた。もっとも、蕗原はそんな視線に怯みもしない。ただ、小馬鹿にしたように嘲笑を浮かべた。
「俺に凄んでも何も変らない。そもそも、日向があんな風になった一番の原因は七瀬、お前だろう」
 事実だったが蕗原に指摘されるのは憤懣やる瀬無い。
 だったら。だったら、なぜ蕗原は。
「だったら、なぜ夏野を抱いた?」
 射殺しそうな視線を向けて徹が威嚇すれば、蕗原は心底困ったように笑った。
「結局、お前が許せないのはソコなんだな。だったら、最初からお前が日向を抱けば良かったことなのに」
 徹が夏野を抱けなかった理由を、否、『抱かなかった』理由を、ほぼ正確に悟っていながら蕗原はそんな風に揶揄した。
 蕗原だって夏野が好きだったのだ。出来ることなら奪ってしまいたいと思う程度には強く。だが、他でもない、夏野自身の為にそれを押し殺してきた。徹に対して嫉妬や憎悪がないはずがない。
「日向を抱いたのは日向が好きだからだ。言っただろう。俺は三年間もの間、ずっと日向が好きだったと」
 夏野が失踪した直後から、それは何度も聞いた真実だった。そして、蕗原が夏野の前に現れた理由も。だから、徹はいくら憎くても蕗原を完全に排除することが出来ないのだ。そんな徹の複雑な内心を読み取ったのだろう。蕗原はスッと笑いを収めると、
「安心しろよ。俺はちゃんと分を弁えてる。日向に伝えるべきことを伝えたら、もう、アイツには近づかない」
 と小さな声で言った。
「だから、俺が自分で確認するまで、お前は余計な動きをするな」
 そして、最後にそう釘を刺すとそのまま、あっさり温室を立ち去った。その背中を見送ることもせず、徹はギュッと目を閉じて、額の辺りで両手を握り合わせる。

 そのまま何かを祈るように、しばらくの間身動きもせず、ただ夏野の事を思った。


























 ピンポンピンポンと何度も繰り返し鳴らされるインターフォンの音で夏野はハッと目を覚ました。ソファの上で転寝をしていたらしい。部屋に差し込む穏やかな日差しが昼過ぎの時刻を示していて、夏野は不思議そうに首を傾げた。今日は平日で、平日のこの時間は大抵、牧は大学に行っている。牧の知人はそれを知っているはずで、それ以外で訪問してくるのは恐らく何かのセールスや勧誘だけだ。
 それなのに、何度も繰り返されるインターフォンの音。まるで、中に夏野がいることを知っての行動のようで、夏野は微かに身震いした。
 夏野がここにいることを知っているのは何人かの牧の知人だけのはずだし、そもそも、牧は滅多に知り合いを部屋の中に入れない。夏野をあっさりと拾い、簡単に部屋の中に入れたことを考えると少し意外だったが。
 それでも夏野が居留守を決め込んで、その音を無視していると、今度はドアをドンドンと直接叩く音が聞こえてきて、夏野はますます身を竦めた。
「オイ! いるんだろ! 開けろよ!」
 と、玄関のドア越しに聞こえてくる声は、聞き覚えのある声で夏野は逡巡した。
 なぜ聞き覚えがあるのか。
 それは、その声の主が夏野が牧に連れられて行くあの荒んだ部屋に必ずいる男のものだったからだ。何度もセックスしたことがある男だ。確か、峰村という名前で、周りから『ミネ』と呼ばれていた。
 正直、夏野はミネが好きではなかった。もっとも、あの部屋にいる男達など、誰も好きではないが。だが、特にミネが夏野は苦手だった。どこか粘着質なネットリとした視線をいつも夏野に向けていて、言葉での暴力が一番激しい男だったからだ。
 他の男も大概、セックスの最中に下衆な言葉を夏野に向けてくるが、それはどちらかと言うとセックスを楽しむスパイスとして卑猥な言葉を敢えて口にしているだけだと夏野にも分かる。だがミネが夏野に向ける言葉はそれとはどこか質が違うのだ。まるで夏野を憎んでいるかのような侮辱と侮蔑の言葉。もしかしたら、牧が監視していなければ、暴力さえ振るうのではないか、そんな風に思えるほどミネの目にはどこか異常な光が浮かんでいる。だから夏野は特にミネが苦手で、そして怖かった。
「出て来いよ! おい! ナツ! !」
 牧ではなく、明らかに自分が目的でミネはここに来たのだと分かり、夏野は側にあるブランケットを胸に抱き、カタカタと小刻みに体を震わせた。体を小さくしてミネが去るまでやり過ごそうと息を殺したが、
「出てこないと窓のガラス割るぞ! ! オイ!」
 と叫ばれて、弾かれたようにソファから立上がった。そんな事をされたら騒ぎが広がって、夏野がここにいることが誰かに知れてしまうかもしれない、そう思ったからだ。
「で…出る、出るよ! !」
 悲鳴のように叫んで鍵を開けると、夏野がドアのノブを回す間もなくあっという間に外からドアが開けられた。
「最初からさっさと開けろよ!」
 そう頭から怒鳴りつけられ、夏野はヒッと身を竦めた。
「ご、ごめんなさい…」
 身を縮めて夏野が謝ると、ミネはフンと鼻で笑い夏野の体をドンと室内に押しやった。
 ソファの脇で所在無く夏野が立ち尽くしていると、ミネは頭の天辺から足のつま先まで、まるで視線で嘗め回すように夏野を眺める。それから、
「お茶くらい出せよ」
 とぞんざいに言い放った。
「あ……ご、ごめんなさい」
 慌ててキッチンに向かおうとする夏野の腕をミネは掴むと、
「もういい」
 と短く言い捨てて強引に引き寄せる。そして、そのままソファの上に押し倒されて、夏野は竦みあがった。
「ヤらせろよ。溜ってンだよ」
 着ていたシャツを裾からたくし上げられて、夏野は必死で腕を突っ張る。
「ヤッ! いやだ! やめろよ!」
 だが、ミネは抵抗されるとは思っていなかったのだろう。面白く無さそうに夏野の頬をパシンと軽く叩いた。
「抵抗すンなよ。どうせ、毎晩、牧と散々ヤってんだろうが」
「や…やってない! ここでなんか、セックスしたこと無い!」
 夏野は必死に叫んだが、事実だった。最初に契約したとおり、牧はあの部屋に夏野を連れて行って何人もの男とセックスさせたが、この部屋にいるときには決して夏野に手を出そうとはしなかった。あの部屋では、牧とも確かに何度か余興のようにセックスしたけれど、それ以外は牧と寝たことなどなかったのだ。だから、少なくとも、この場所は夏野にとっては安全な場所のはずだった。
「嘘付けよ。お前みたいな淫乱なヤツが男無しでいられるわけないだろうが。散々、牧も銜え込んでンだろ! ?」
 罵られて、無理矢理ねじ込むようなキスをされて夏野は必死で抵抗した。意識してのことではない。ただ、本能的に、反射的に恐怖に駆られてがむしゃらに暴れただけだが、ミネは酷く癇に障ったのだろう。
 先ほどよりもずっと強く、頬が赤くなるほどミネは夏野の頬を打った。鋭く走った痛みに夏野は体を必死に丸め、ただ、ガタガタと震え上がる。
「大人しくしてろよ。そうすりゃお前も悦くしてやるからよ」
 嘲笑うように耳に吹き込まれて、夏野は目の前が真っ暗になるような気がした。今まで散々、何人もの男を相手にしてきたが、自分の意思でセックスするのと、無理矢理蹂躙されるのとでは天と地ほども違う。だから、夏野は、怖かった。
 なす術もなく、ただ身を固くして蹲っていると、ガチャンと何か金属質の音がして、
「ふざけたことしてくれるな」
 と、酷く冷たい声が聞こえてきた。
「……牧……お前、まだ、大学のはずじゃ……」
「ヘエ? それを知って間男しに来たってか? 暇なことで」
 牧は綺麗な作り物のような笑顔を浮かべて、夏野のほうに近づいてくる。ミネは慌てたように夏野の上から立上がった。
「…コイツが誘ったんだ」
 ミネはすぐ側まで来た牧から視線を逸らしてそんな事を言う。一体、自分がいつ誘ったのかと夏野は腹が立ったが、牧は、
「うん。まあ、そう言うこともあるかもね。ナツは自分でそうするつもりがなくても男を誘ってるみたいなヤツだし?」
 とあっさりミネの言葉を肯定してしまった。
 だが、違う、自分は一度だってミネを誘ったことなど無いと夏野が訴えるよりも先に、
「でもな。ミネ。お前も知ってるだろ? 俺は、自分の玩具に手を出されるのが大嫌いだって」
 と牧が続けるほうが先だった。
 牧は変らず笑っている。絵に描いたかのような綺麗な完璧な笑顔は、だがしかし、目だけは決して笑っていなかった。その目の冷たさに、夏野はぞっとする。ミネもそれが分かったのだろう。チッと小さく舌打ちすると、
「悪かったよ」
 と忌々しげに謝罪して、そのまま玄関へと向かった。
「ミネ。もう、お前、アソコには来るなよ。もちろん、この部屋にもな。……来たらどうなるか分かってるだろう? 林みたいになるぜ?」
 玄関のドアを開ける直前に牧に投げかけられた言葉に、ミネの背中は面白いほど大きく揺れる。だが、否とも是とも言わずに、ミネはそのまま立ち去った。
 牧の小さな溜息が、しんと静まり返ってしまった部屋の中に落ちる。
「ナツ、悪かったな。俺の人選ミス」
「え?」
 苦笑混じりに牧に謝罪され、夏野は首を傾げた。どこかあどけない無防備にさえ見える夏野のその表情に、牧は微かに目を細め、それから、指先でスッと夏野の頬を撫でた。
「それとも、やっぱりナツが悪いのかな? 今までだってミネは似たようなことしてきたけど、あんな風になったのは初めてだし。タチの悪い子だね」
 そうして、そんな意味の分からないことを言う。





 夏野が戸惑った表情で牧を見上げていると、牧はどこかあさっての方に視線を逸らし、
「ああ、そう言えば、お前のこと、捜してるヤツがいるみたいだ」
 と、別の事を呟いた。



















 眼鏡を掛けた高校生、と牧は言った。瞬時に浮かんだのは蕗原の顔だ。それが徹でなかったことに、夏野は安堵を覚えればよかったのか、落胆を覚えればよかったのか。全く分からなかった。牧は、更に、
「そいつは、ナツが泣かない理由と関係あるの?」
 とサラリと尋ねた。夏野は、え? と顔を上げる。見上げた先、牧の顔はなぜだか不思議と穏やかで優しそうで、慈愛のこもったような表情だった。だが、牧のそんな笑顔は嘘のように綺麗で、夏野はぞっとする。どうして、そんな風に薄ら寒くなるのか分からなかったけれど。
「…違う…と思う」
 夏野は牧から視線を逸らし、俯きがちに曖昧な答えを返した。違うと思う。直接的には。夏野が泣かない理由はあくまでも徹にあったけれど、それでも、蕗原に会ったばかりの頃、夏野の笑顔が泣き顔代わりだと見抜かれたことが鮮明に脳裏に浮かんでいた。
 思えば、蕗原の存在は最初から不思議だった。冬海の従兄弟だと知るまで、蕗原は夏野にとって確かに避難所の役割を果たしてくれていたと思う。自分を肯定できない夏野を、一から十まで許してくれるような空気が蕗原にあった。だから、蕗原の横は居心地が良かったのだ。だが、それは激しい恋情とは程遠い感情だ。蕗原のそばにいても、こうして蕗原のことを思い出しても、深いキスをされた時も、あまつさえセックスをしていた時でさえ、夏野は何の揺らぎも感じていなかった。じっと自分の足元を確実に見つめられる冷静さが頭の片隅には必ず存在した。
 夏野に抗えない制御できない激しい感情を与えるのは結局のところ徹しかいない。その感情のどれもが苦しいものだったとしても、夏野はこの浅ましい、ちっぽけな恋を投げ捨てることが出来なかった。何度か放り出してしまおうとしたし、放り出してしまえば自分も、徹も、苦しめなくて済むと知っていても、気がつけばそれは夏野の胸の一番奥深く、誰にも手の届かない場所に結局はポツンと戻ってきてしまうのだ。
 それが馬鹿馬鹿しく、やるせなく、それでいてなぜかどこか夏野を安心させた。
「そいつが迎えに来たらナツは帰るのか?」
 どこか面白がるかのように尋ねられて、夏野は一瞬だけ答えに詰まり、それから小さく首を横に振った。きっと蕗原が迎えに来たとしても夏野は帰らないだろう。夏野が帰るとしたら、それは徹が夏野を受け入れてくれる時だけだと思う。だが、そんな日が果たしてくるのだろうか。
 こんな事をしている自分がいかに愚かしいか夏野は十分自覚していたが、不思議と徹にそれを知られることが怖いとは思わなかった。徹は傷つくだろう。自分のせいで夏野がこんな自傷行為のような事を繰り返していると知ったら。それでも、夏野はそれで徹が自分を受け入れてくれるなら構わないと思っていた。
 自分の浅ましさなど十分に承知している。こんなに心の内まで真っ黒なのに、なぜ、徹は自分を綺麗だなどというのか夏野にはさっぱり分からなかった。むしろ滑稽だと思う。自分を拒絶するために嘘八百を並べ立てたのではないかと疑うほどに。だが、あの時の徹の言葉には微塵の嘘も含まれてはいなかった。だから、徹が夏野を綺麗だと言ったその言葉は、徹にとっては真実なのだ。

 だが、蕗原は、と夏野は不思議に思う。
 蕗原が自分のことをどう思っているのか、夏野には全く分からない。眼鏡を掛けた高校生で、自分を捜していそうなのは蕗原しか思いつかないから、多分蕗原なのだとは思う。だが、なぜ蕗原が自分を捜しているのか夏野には理解できなかった。
 蕗原は冬海の従兄弟だった。冬海と夏野の間に起こった出来事も知っているという。だが、蕗原は夏野とセックスした時に、決して夏野を罵倒しなかった。ただ、そこにあったのは愛情のような優しさだけだったように思う。実際、合間に好きだと囁かれたような気もするが、あの時の夏野はどこか虚ろだったので、それが事実なのか勘違いなのかは定かではない。
 以前、何度か温室でも蕗原には好きだと言われたけれど、夏野にはどうしてもそれが実感として内に入ってこなかった。今でも、あれは冗談だったのだと思っている。夏野の過去を知っているのに、夏野を好きになる人間などいるはずがないからだ。
 けれども。
 けれども、もし、本当に蕗原が自分のことを好きだったら。そう考えると、夏野はとても嫌な気持ちになる。嫌悪や不快とは違う、敢えて言うなら取り返しのつかない過ちを犯してしまった、そんな気持ちだ。落ち着かない、いてもたってもいられないような気持ち。
 今では、何人もの名前も知らないような男とセックスしている夏野だが、それでも、夏野がそんな気持ちに追いやられることは無い。なぜなら、その男達は夏野をセックスの道具としてしか見ていないし、当然、夏野を好きだなんて馬鹿げた事は言い出さないからだ。
 夏野の中には夏野にしか理解できない線引きがあって、名前も知らない男とセックスすることは夏野の徹への気持ちを裏切ったり歪めたりする性質のものではないのだ。だから、いくらでも平気でセックスできた。だが蕗原は違う。何が違うのか説明は出来なかったけれど、やはり違うと夏野は思った。
 放っておいてくれれば良いのに、と思う。
 徹が迎えに来なければ帰るつもりなどないし、自分を動かすことが出来るのも徹だけだと信じているけれど、万に一つ、徹以外の人間で自分を動かすことの出来る可能性を持っているとするならば、それは蕗原のような気がして、それが夏野には不安だった。






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