novelsトップへ purify-5へ purify-7へ

purify - 6 …………

「夏野だったからしたんだ。他のヤツだったらしなかった」
 と、徹は言った。確か、中学二年生の文化祭の時のことだ。クラスの出し物を何にするか散々揉めて、結局コメディタッチにアレンジした眠り姫を上演しようと言う事になった。王子役はあっさりと徹に決まったのだが、お姫様役を誰がやるかで更に揉めた。徹は中学生の時からすでに女子生徒に人気が高く、バレンタインにチョコを幾つももらったりしていた。誰がお姫様役になっても角が立つ、それならいっそ男が女装してお姫様をやれば良いのだという話になって、夏野に白羽の矢が立ってしまったのだ。夏野は最初嫌がったのだが、クラスメイトに泣きつかれて最後まで突っぱねることも出来ずに結局それを引き受けた。夏野のお姫様姿があまりに板についていて、クラスメイト達はさすがに絶句していたけれど。
 文化祭の当日、劇の最後に王子がお姫様をキスで眠りから呼び起こすシーンで徹は夏野に真似事ではなくて本当にキスをした。夏野はキスなんてするのはその時が初めてだったから、怒りまくって徹に食って掛かった。そうしたら、徹が至極あっさりと答えたのだ。
 夏野だったからしたんだと。
 それがどういう意味なのか夏野には分からず、それ以上深く追求する気にもならなかったので、結局その件はうやむやになってしまったけれど、夏野が徹を意識し始めたのはその頃だったのではないかと夏野は思う。だが、それは、曖昧な未分化な感情で、はっきりとした恋情とは程遠い幼いものだった。
 夏野が徹に対する特別な感情をはっきりと自覚したのは皮肉なことに、あの事件のずっと後、ようやく普通に生活できるように回復して、無事に高校に進学した夏のことだった。
 それまでの徹は実に献身的に夏野に寄り添っていた。生活の中心に夏野を据えて、何をするにも夏野を優先していた。それは今でも変わらない。だが、あの時は、今ほど夏野は息苦しさを感じていなかったはずだ。むしろ、徹に依存していたと言っても良い。徹がいなければ、不安で不安で仕方が無い時期がずっと続いて、その状態ではいけないのだと気が付いたのも、その夏だった。
 きっかけは他愛の無いこと。徹が初めて彼女を作ったのだ。その時も、ショックを受けている夏野に徹は平然と言い切ったのだ。つきあう女がいても夏野との時間を優先すると。だが、それでも夏野の心は晴れなかった。グズグズと嫌な物が腹の辺りにわだかまって、苦しくて、泣きたくて、切なくて仕方が無かった。徹が初めて付き合った女は、ずっと年上の社会人で、夏野は一度だけその女性を見かけたことがある。
 朝帰りの徹をその女性が車で送ってきて、そうして、徹の家の前で二人はキスをして別れたのだ。その現場を夏野は偶然見てしまった。その時の胸の痛みようを夏野は忘れることが出来ない。その痛みは、徹が新しい女性と付き合うたびに夏野に襲い掛かり、苦しめた。
 そして、夏野は気が付いたのだ。自分が徹を特別な意味で好きなのだと。気が付いた時には、夏野は絶望的な気持ちになった。報われるはずの無い恋だと他でもない、夏野自身が一番良く知っていたからだ。

 徹はあの時の夏野を知っている。あの時、徹は戸惑うことなく穢れた夏野に駆け寄り抱きしめてくれたけれど、一瞬だけ、体を強張らせたのを夏野はなぜかはっきりと覚えている。
 徹はいつだってしっかりと立ち、夏野を真直ぐに見つめてくる。その徹が揺らいだのを夏野が見たのは、後にも先にもあの時だけだ。その揺らぎの理由など考えなくとも理解できる。夏野が汚いから、穢れているから、最低の獣だから、徹は一瞬だけ躊躇したのだろう。夏野をその腕に抱きしめることを。





















 七瀬ハ男トモセックスデキル人間ダカラ。

 蕗原の言葉が頭の中でグルグルと回る。何度も何度も、壊れた蓄音機のようにその言葉を再生しているのに、夏野にはその意味が理解できなかった。男、ホテル、先週、と、キーワードだけが夏野の頭の中で点滅を繰り返す。一体、蕗原は何を言い出したのかと思った。
「否定できないって事は、事実って事で良いんだよな?」
 そんな夏野の困惑を他所に、蕗原はさらに続けて徹を追い詰める。徹は決して夏野の方を見なかった。ただ、蕗原の顔をじっと睨みながら黙っていただけ。その口から否定の言葉がこぼれる事は無かった。
「どういうこと?」
 平坦な声が、夏野の口からこぼれる。意識して口にした言葉ではなかった。徹と蕗原、どちらに向けたわけでもない質問。だが、徹は口を噤み、蕗原は口を開いた。
「そのまんまの意味。七瀬は日向と付き合っているくせに、他の男と平気で寝てたってコト」
 侮蔑の嘲笑を徹に向けたまま、蕗原は吐き捨てるように言った。その言葉の意味を理解した途端、夏野は頭をハンマーでしたたかに殴られたような衝撃を受けた。

 徹ハ他ノ男ト平気デ寝テタ。

 それじゃあ、なぜ、自分とはセックスしないのだろうかと疑問に思い、夏野の鈍くない頭は一瞬でその答えを弾き出した。徹は夏野が男だからセックスしなかったのではない。夏野が夏野だったからセックスしなかったのだ。
 なぜか。簡単な話だ。夏野が醜く汚らしいことを、他でもない、徹が一番良く知っているからだ。その結論に達した途端、夏野の背筋は本能的な恐怖で慄いた。これまで信じて縋っていたものをあっさりと奪われ、崖っぷちから突き落とされたような恐怖。
 夏野は、あの時から自分で自分を肯定することが出来ない。両親が幾ら夏野を愛しているのだと、大事なのだと抱きしめてくれても夏野の不安は晴れることが無かった。ただ、徹が夏野を肯定してくれた時だけ、夏野は何とか立っていることが出来たのに。
 その徹に否定されたら、夏野はどうやって立っていれば良いと言うのか。
「…嘘だよね? 蕗原の冗談なんだよな?」
 藁にも縋る思いで夏野は徹をじっと見つめる。徹は一瞬だけ夏野の目を見つめ、それからさっと視線を逸らしてしまった。それが雄弁な答えだった。今まで、一度たりとも徹がそんな風に目を逸らすことなど無かった。いつでも真直ぐに夏野を見詰めてくれた。それが夏野を時として追い詰めることさえあったけれど。
 それでも、そんな風に目を逸らしたりはしなかったのだ。
 罰なのだ、と夏野は思った。
 親友の位置に満足せず、浅ましくもその先を求めた自分への。
 それが本心であろうとなかろうと、徹はそれまでは確かに夏野を大事にしてくれたのだ。恋人よりもお前が大事だと、いつだって優先してくれたのだ。だが、夏野はそれ以上を徹に求めた。性愛を含んだ恋情を徹に向けてしまったのだ。だから、その罰として、こんな知りたくも無かったことを知る羽目になった。
 ……徹が本当は夏野を穢れて、汚れていると思っているから、決して夏野に触れることが出来ないのだと言う事実を。
 顔面蒼白で、唇を震わせている夏野を蕗原は痛ましげに見つめていたが、夏野にはそれに気が付く余裕は全く無かった。夏野の視界には徹の姿しか眼に入っていない。ただ、ひたすら夏野から視線を逸らし、夏野を否定しているようにしか見えない徹の姿しか。
 ダメだ、と夏野は思った。このままそんな徹を見ていたらきっと泣いてしまうと思った。それだけは出来ない。夏野が泣いているのを見るのは嫌いだと、徹が言ったのだから。この期に及んでも、夏野はそんな約束に縋ろうとしていた。だから、踵を返して走り出す。ここではない、徹のいない場所に行かなくてはならないと思った。駆け出した夏野を追ってくる足音が後ろで聞こえたが。
 それが徹ではないことを、夏野は確信していた。






















 夏野が思い出せる限りでは、冬海に暴力を振るわれたのは最初の一度だけだった。だが、一度だけで十分だった。冬海は、弱者の心理を実に良く理解していたのだろう。
 躊躇無く夏野に対して暴力を振るえるのだと言う事、そして、冬海と夏野の間には絶対的な力の差があること。それを見せつけられただけで、夏野の反抗心はあっというまに萎んでしまった。時々、本能的に反射的に夏野が抵抗しても、その時は軽く、決して傷など付かない程度に殴れば夏野は途端に怯えて従順になった。
 そもそも、違法合法を問わず、飲まされたり、嗅がされたり、或いは打たれたり、内部に塗り付けられたりして夏野は薬漬けのような状態だったから、まともな抵抗などできようはずも無かっただろうが。
 セックスの何たるかも理解していない夏野が、正常な思考を失うのに三日と掛からなかった。そして、その正常でない夏野に冬海はありとあらゆる蹂躙を加えた。生理的な反応を堪え切れずに夏野が達すれば、その度に、暗示のように夏野はいやらしい、夏野は淫乱だ、夏野は汚らしくて浅ましいとその耳に吹き込む。次第に、夏野はそれが真実であるかのように思い込み、ただひたすら冬海に謝り続けながら、命令されたことをなんでもやった。
 銜えろと言われれば銜えたし、自分で入れろと言われれば何でも入れた。その行為の意味を考える余地など無かった。ただ怖かった。冬海の言う事を聞いていないと怖かったのだ。
 冬海が何を思って夏野にそんな仕打ちを与えたのか夏野には分からない。ただ、冬海は夏野が悪いのだ、夏野が誘ったのだとそう言った。憎まれていたのだろうかと思う。けれども、夏野が従順に従っているときの冬海は随分と優しかった。まるで恋人に睦言を囁くように、夏野は可愛い、夏野は綺麗だと言う。体のあちこちを愛撫する手や指は壊れ物を扱うかのように丁寧だった。だが、二人は決して恋人同士などではなかった。そこには圧倒的な力関係が存在していて、冬海は搾取する側で、夏野は搾取される側だった。
 夏野を犯していたときの冬海の優しさは実に気まぐれな優しさでしかなかったと思う。お気に入りの玩具で遊ぶ子供が、その無機質なものに対して向ける愛情のような。
 夏野はただの玩具だったのだ。冬海の好きなように作り変えられた、セックスのための玩具。あの部屋での夏野の役割はそれでしかなかった。
 その時のことを思い出すと、夏野は自分の体を八つ裂きにして、どこかの海にでも捨てたくなってしまうから、なるべく思い出さないようにしている。病院の先生も、両親も、そして徹も思い出すなと言うからそれで良いのだと思ってきた。思うようにしてきた。
 今では、冬海の顔もはっきりとは思い出せない。靄が掛かったように、その輪郭は曖昧だ。だから、夢の中で夏野の顔をした獣を犯しているのは冬海ではない。冬海ではないのだ。














 フラフラと当所も無く歓楽街をふらつく。すでに夜も遅くに差し掛かっているのに制服姿で歩いている夏野を、通り過ぎる人たちが胡乱な眼差しで見ていた。けれども、夏野はそれさえも気が付いていなかった。
 ただ、家には帰りたくなかった。あの明るくて、清浄な場所は自分のいて良い場所ではないような気がする。自分にはもっとふさわしい場所があるような気がした。例えば、そう、こんな薄汚れた歓楽街の路地裏のような。
 不意に後ろからぐいっと腕を捕まれ、眼光の鋭い、柄の悪そうな男に、
「いくら?」
 と尋ねられる。一体何を言われたのか分からずに、夏野がぼんやりと男を見上げていると、男は苛々したように、
「いくらだって聞いてんだろ? お前、そんな格好してこんな場所ふらついてんだから、ウリだろ?」
 とさらに問うた。
 夏野の頭は正常に回転しない。嗚呼、そうか、きっと自分の内側からなにかが滲み出てしまっているのだろうとぼんやり考えた。だから、体を売ってそれを生業にしているような、そんな人種だと思われるのだと思った。そういえば、自分の本当の母も、そう言う類の人間だったと言うではないか。血は争えないとはこのことなのか、と夏野は思わず薄ら笑いを浮かべる。すると、目の前の男は馬鹿にされたとでも思ったのだろう。不意に眉を顰めて、夏野の胸倉を掴み上げた。
「アア! ? テメェ、バカにしてんのか?」
 そう凄まれて、拳を振り上げられても夏野の中に恐怖は生まれてこない。どうでも良い、と思った。こんな汚い体、むしろボロボロになるまで殴られたほうが良いのだ。だが、その拳が振り下ろされる前に、夏野の体は力強い腕に攫われた。
「コイツ、そういうんじゃないんで。すみません」
 投げ捨てるように男にそう言うと、腕の主は夏野の体を強引に引っ張って大通りの方へ向かって走る。見上げた横顔、眼鏡越しのローズグレイの瞳はどこか怒りを湛えているように見えた。何を一体そんなに怒っているのだろうかと、夏野は強く腕を引かれながらぼんやりと考える。そもそも、蕗原に、こんな激しい一面があると言う事を夏野は初めて知った。揺らがない、沸点が高いと言う点では蕗原と徹は随分と似ていると思っていたが、何某かの逆鱗を持っているところまでそっくりだと思う。だが、その逆鱗が自分にあるとは理解できていない夏野だった。
「痛い」
 どこかぼんやりと輪郭を失いつつある夏野の世界で、けれども痛覚だけは失われていなかったらしい。そう訴えると、蕗原はようやく走るのをやめ、腕の力を少しだけ緩めた。
「家まで送っていく」
 激しさを無理矢理に抑え込んだような声で言われたが、夏野はふるふると首を横に振ってそれを拒絶した。
「家には帰りたくない……帰れない……」
 帰れるはずが無い。あの綺麗な場所の一体どこに自分がいて許されるというのか。焦点の定まらぬ、どこか潤んだ瞳で夏野が蕗原を見上げると、蕗原はなぜか、ひゅっと音を立てて息を飲み込んだ。どうしたのだろうと、夏野が無防備に首を傾げると、蕗原は目を閉じ、体の中から何かを追い出すかのように深々と息を吐き出した。それから、ゆっくりと目を開ける。
「……じゃあ、俺のうちに来い。こんな場所でうろつかせるワケには行かない」
 別段夏野がこんな場所でフラフラしたからと言って、さきほどのように柄の悪い連中に絡まれたからと言って、蕗原に害が及ぶわけでもあるまいに、と夏野は眉を顰める。
 だが蕗原は否とは言わせないつもりらしかった。夏野の腕を引いて強引に駅の方向へ向かう。毒々しいネオンの中、蕗原に逆らう気力も無く、ただ夏野は蕗原に引かれるまま歩き続けた。


 私鉄に乗せられ、何駅かを通り過ぎ、閑静な住宅街で蕗原は電車を下りた。夏野の降りたことの無い駅だった。静まり返ったその街中を、ただ腕を引かれて歩いていく。
「ここだ」
 と促されて門をくぐった家は、そこそこの大きさの一軒家だったが、家の灯りはついていなかった。
「……家の人は?」
「今は、父親が単身赴任中で、母親は父親に会いに行ってる。しばらくは誰もいない。気兼ねする必要は無いから、家に帰るのが嫌なら、しばらくここにいてもいい」
 穏やかな口調でそう告げられ、夏野はふ、と小さな溜息を漏らす。胸のつかえも、苦しさも、辛さも薄らぎはしないけれど、ほんの少しだけほっとしたような気持ちになった。だが、それもほんの束の間の安息でしかなかった。
 通されたリビングルームを夏野は何気なく見回し、そして『それ』を見つけてしまったのだ。
 ―――――他愛の無い家族写真。
 一枚は恐らく蕗原と両親が写っているのだろう。少しあどけなさの残る少年らしい蕗原と大人の女の人と、男の人。男の人は一目で蕗原の父親だと分かるくらい、良く似ていた。母親らしき女の人は、かなりの美人で、笑顔がとても温かそうな人だった。その写真は別段問題なかった。夏野が、ヒッと悲鳴のように息を飲み込んだのは、その隣にあった写真を見てしまったからだ。
 写っていたのは四人。蕗原の母親らしき女性、そしてその女性と同じ顔をした女性がもう一人、そして蕗原と、残りの一人は夏野が忘れたくても忘れられなかった人物その人だった。
「な…に……?」
 夏野は無意識に体を震わせ、その写真から後退さる。それに気がついた途端、蕗原はしまったと言う風に、今まで見たことが無いほど顔を歪ませた。慌てて、その写真立てを夏野の目の前から取り上げても、後の祭りだった。
「な…に…? なん…で? その写真…どうして? …なんで、なんで………」
 ただでさえ白い顔を更に紙のように白くさせ、夏野は迷子になって途方に暮れている子供のような表情で蕗原を見上げた。
「なんで? ………なんで『冬海君』と蕗原が一緒にいるの?」
 夏野がその名を呼んだのは、実に二年半ぶりの事だった。そして、その顔を見るのも。
 曖昧だった冬海の輪郭は、瞬く間に夏野の中に鮮やかに蘇る。そして、その輪郭は夏野に恐怖と苦痛をも思い出させてしまった。
 可哀想なほど唇を青くさせ震わせている夏野に、蕗原はらしくもなく動揺し、躊躇し、何度も自分の唇を舐めて濡らす。どう誤魔化そうか逡巡しているのが、隠しようも無くその表情には表れていた。
「どう……どうして? その写真、何なの?」
 だが、夏野は誤魔化しを許さない。悲痛な悲鳴のような声で蕗原を問い詰めると、蕗原は観念したかのように、
「…俺と冬海は従兄弟だから」
 と吐き捨てるように答えた。
「……従兄弟?」
「そうだ」
「……仲が良かった?」
 一つ一つ知りたくなかったことを、夏野は自分の傷を抉るように問うた。脳裏には真っ赤な警告ランプが点滅している。聞いてはいけないと本能が告げているのに、なぜだか夏野は蕗原を問い詰めることを止めることが出来なかった。
「…良かった。俺も冬海も一人っ子だったから…兄弟みたいだった」
 蕗原は何かを覚悟したかのように、不意に肝の据わった揺らがぬ視線を夏野に真直ぐ注ぎ、一切の嘘偽りを含まぬ言葉を夏野に与えた。だから夏野は、その続きを尋ねてしまったのだ。




 夏野の心の中の傷は少しも癒えてなどいなかった。ただ、ひたすらそこから目を逸らしてきただけ。夏野が泣いたり苦しんだりすると、両親も、徹も同じように苦しむのだと気がついた時から夏野は泣くのをやめた。一生懸命何でも頑張れば、少しはこの汚れた体も浄化されると思ったから、何でも一生懸命がんばった。そうすると、徹も両親も、安心したような顔をするから、尚の事、夏野は過去から目を逸らし、ただ、ひたすら無心に頑張ってきた。頑張ってきたと言うのに。
 『一生懸命頑張ったって無駄なんだよ。報われるはずが無い。』
 冬海の言ったとおりだったのだと、夏野は唐突に悟った。
 『その証拠に、ほらね? 夏野はこんなに浅ましくて、いやらしくて、淫乱じゃないか。』
 冬海の嘲笑う声が頭の中で鳴り響く。




「そ…それじゃあ…それじゃあ、蕗原は、し……知ってた?」
 『何を』知っていたのか、と夏野は聞かなかった。聞く必要など無かった。夏野の中にははっきりとした確信があったからだ。蕗原は、何もかも知っていたのだと言う。
「……………………ああ」
 予想した答えは、いとも容易く夏野の最後の逃げ場所を粉々に打ち壊した。夏野はどこにも逃げようが無い。誰も彼も、夏野の汚さを知っていると言うのだ。無意識にガタガタと震える体を夏野は止められない。
「そ…そうなんだ? し…知ってたんだね。お…俺が、どうしようもなくきったない人間だって」
「………日向」
「冬海君に聞いたんだろ? 俺が、浅ましくて、淫乱で、男を銜え込むのが好きな変態だって」
「日向」
 何かを窘めるかのような語気の強い蕗原の言葉は、だがしかし夏野には届かない。夏野の心は急速に闇に囚われてしまったかのようだった。
 飲み込まれる。抗いきれない闇に。抗えるはずも無い。それは冬海から与えられたものではないのだから。最初から夏野の心の中に巣食っていたものだったのだから。
「ほ、本当なんだよ? …お、男のを舐めるのも好きだし、突っ込まれるのも好きで……突っ込まれただけで、何遍も、何遍も達くんだ。汚い……獣みたいなヤツなんだ……」
 誰に告げるでもない。ただ、ひたすら自分の中の傷を深く深く抉るためだけに吐き出された言葉を、蕗原はどうしても止めたかった。ただそれだけだった。大した力など加えていない。痛みを与えるつもりも無かった。
「日向!」
 大きな声でその名を呼び、軽く頬を打っただけ。だが、思ったよりもパンと夏野の頬は大きな音を立てた。そして、それだけで十分だったのだ。最悪のタイミングで加えられた攻撃は、夏野と蕗原と、一体どちらにとって最悪の方向へと舵を向けてしまったのだろう。
「ヒィッ!」
 夏野は蕗原が驚いてしまうほど大袈裟に体を竦ませ、か細い悲鳴をあげ、自分の頭を庇うように腕で覆った。
「ゴメンナサイ! ゴメンナサッ…! ちゃん…ちゃんとっ! ちゃんと舐めるから!」
 そう言いながら、蕗原の下半身に縋りつく夏野の目には、蕗原自身など全く映っていなかった。その色素の薄い、無機質な硝子のような瞳が見つめているのは過去だけだ。そうと知っていても、その夏野の行動は蕗原の抑え込んできた箍を外すには十分だった。
「………夏野」
 何かを押し殺したような、それでいて何かを懺悔するかのような声音で蕗原は一度だけ、たった一度だけ夏野の名を呼んだ。











 夏野の華奢な体に覆いかぶさっているのは蕗原のはずだった。けれども、夏野の目に映っていたのは間違えようも無く、過去のその人だった。



novelsトップへ purify-5へ purify-7へ