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purify - 5 …………

「夏野と僕の名前は対になっているんだよ」
 というのが、彼の口癖だった。彼の名前は冬の海と書いて冬海(ふゆみ)といった。夏の野と冬の海。随分と詩的な対だと思わないかと、冬海は悪戯っぽく笑った。冬海は夏野よりも三つも年上で、そうでなくとも大人っぽい少年だったが、そんな風に笑うと少しだけ自分に近いような気がして、夏野はなぜか嬉しく思ったものだ。
 冬海は、大きな総合病院の院長の息子で、町内でも一番の大きな家に住んでいたが、決して高飛車でも横柄でもなかった。威張り散らしたり、傲慢だったり、そんな態度も一切なかった。もちろん、世間知らずの金持ちのお坊ちゃんにありがちな愚鈍さも持ち合わせてはいなかった。
 成績は優秀で、人当たりも良く、決して人を差別したりせず、誰彼と無く優しく接する、非の打ち所の無い少年だった。当然、冬海には信望者が多く、いつだって周りには取り巻きがいたけれど、ちやほやされたり、持ち上げられたり、おべっかを使われることを冬海は嫌った。そのせいなのかどうなのか、冬海の周りには沢山の人がいつでもいたけれど、親友と呼べるような人間はいないようだった。それなのに、なぜか、夏野のことだけは特別に可愛がっていた。
 どうして、冬海にとって夏野だけが特別だったのか、夏野には今でも分からない。ただ、誰にも気づかれず、ひっそりと冬海が心の中に飼いならしていた闇と同じ種類のものを、夏野も抱えていたのではないかと思う。
 冬海はいつだってニコニコと穏やかに、綺麗に笑っていて、何でも飄々と容易くやってのけた。病院の跡取りとして、医者になることを当たり前のように思われていても、それを気負っている様子も見られなかった。周りの期待に対するプレッシャーなど微塵も感じていないようにも見えた。だが、人知れず、その胸の内に深い深い闇を育てていたのだ。
「夏野は何に対しても一生懸命で、純粋で、真直ぐで偉いね」
 そう夏野を褒めながら、優しく、兄のように夏野の頭を撫でながら、だが、冬海は夏野の中に巣食っている決して消え去ることの無い不安を見抜いていたのだろう。だから、共に堕ちていく道連れに夏野を選んだのかもしれない。そして、実に冬海は巧みだった。
「でも、いくら一生懸命でも夏野はまっとうにはなれないよ? だって、夏野の中には薄汚い売女の血が流れているんだからね。知ってた? 夏野の母親は愛人だったんだよ。男の人に足を開いて、体を売って生きている汚い女だったんだ」
 朦朧とした意識の中、まるで催眠術でもかけるかのように繰り返し囁かれた言葉。冬海の言葉は逃れることの出来ない呪詛のように夏野の心を侵食した。
「だから、夏野が一生懸命がんばっても無駄なんだよ? 報われるはずが無い。きっと、夏野のお父さんも、お母さんも、本当は夏野の事を憎んでいる。汚いと思っている」
 だから、夏野は素直に足を開いていれば良いんだよ、と、笑いながら冬海は続けた。あの時、夏野は泣いていただろうか。記憶は曖昧ではっきりと自分では覚えていない。けれども、脳裏に浮かんでいたのが徹の顔だったということだけは不思議とはっきり記憶に残っている。夏野を狂気から救っていたのは確かにその徹の顔だったけれど、同時に、それは夏野を鋭利な刃物のように傷つけていた。
「その証拠に、ほらね? 夏野はこんなに浅ましくて、いやらしくて、淫乱じゃないか」
 そう言って笑った冬海の顔はとても楽しそうだった。嬉しそうだった。知らない場所で迷子になった子供が、やっと友達を見つけて喜んでいるような笑顔。けれども、それは完全にどこか常軌を逸脱していたように思う。

 あれから、彼はどうしたのだろうか。
 誰も教えてくれないし、酷く恐ろしかったから自分で確かめる気にもならなかった。もう一度、冬海と会ったなら、夏野は壊れてしまうかもしれない。あるいは、冬海の闇に引き込まれて、そのまま溶けて消えてしまうかもしれない。
 だから、夏野は蓋をする。なるべく、記憶の外にそれを追いやり、思い出さないように努力する。
 徹だって、あんなことは忘れてしまえと言った。だから、夏野は思い出さない。
 逃げるようにどこかへ行ってしまった冬海の家族。
 売りに出された大きな家は未だに空き家のままだ。









 強い香りがする。オレンジ色の花がその独特な芳香を振りまいているのだ。その匂いに夏野は秋を知った。残暑が厳しかったから夏が続いているような気でいたけれど、心なしか空も高いことに気が付いた。
 この温室に来るのはどれくらいぶりだろうと思いながら、ベンチのある場所に進んでいく。自分の靴裏が草を踏み分ける音が聞こえて、夏野はなぜだか俄かに緊張した。
 徹と付き合うことになってから、この場所には一切来ていなかった。夏野がここに来ようとすると徹が嫌な顔をするせいもあったけれど、夏野自身、蕗原に会って何を言えばいいのか分からなかったからだ。
 あの雨の中の蕗原の告白を、夏野は綺麗さっぱり無視したけれど、蕗原は特に気にした様子は無かった。教室でも徹の目を気にして、殊更素っ気無く蕗原に接してしまう夏野に、怒りもせず、ただ、淡々とクラスメイトの顔をしている。
 だから、あの告白は特別な意味など無かったのではないかと夏野は思っていた。
 いつの間にか紅葉しかかっている雪柳の枝を掻き分けて温室の奥まで進む。生い茂る枝に隠れるようにあるベンチには、初めてのときのように蕗原がのんびりと座っているのが見えた。それに夏野はなぜかほっとして、そっと蕗原の前に近づく。蕗原は夏野に気が付くと、眼鏡の奥のローズグレーの瞳をそっと綻ばせ、穏やかな微笑を浮かべた。
「…久しぶり」
 そして、実に自然な口調でそれだけを言う。夏野は深く安堵して無意識に溜息をついた。
「座ったら?」
 促され、隣の場所を空ける蕗原に、夏野は一瞬だけ躊躇したが、すぐに素直に腰を下ろした。夏野の安堵の溜息がもう一つこぼれる。蕗原の隣はどうしてこんなにも呼吸が楽なのだろうかと、夏野は不思議に思った。

 徹と付き合い始めてから、すでに三ヶ月が経とうとしている。徹はもともと夏野にはかなり甘かったが、付き合うようになってからは夏野でさえ呆れるほどの甘やかしぶりだった。
 出来うる限り、時間を割いては夏野と一緒にいようとする。夏野の要求は殆どといっていいほど否とは言わない。掌中の珠のように夏野を優しく抱きしめては触れるだけのキスを何度も落とす。傍から見たら理想的な恋人だったかもしれない。だが、夏野は疲れ果てていた。
 夏野は徹が好きだったし、今だって、その恋情は徹にしか向いていない。それは確かだけれど、やはり、どうしても違和感が拭えないのだ。徹は優しい。優しいのに、その笑顔さえもがポーカーフェイスの一つでしかないように夏野には思えてしまう。
 徹にとって夏野は何なのかと尋ねれば、恋人だとはっきりと断言するし、好きかと尋ねれば好きだと答えるくせに、そこに熱だとか、激しさだとかそう言ったものを夏野は一度たりとも感じたことが無い。
 それが証拠に、二人が恋人になってから三ヶ月経った今でさえ、徹は触れるだけのキス以上のことをしようとはしないのだ。だが、夏野には様々な負い目があるから、自分から誘うようなことはもちろん出来ないし、それとなく徹の意図を探ることさえ出来ない。
 夏野は今まで誰とも付き合ったことなど無いから、平均的な恋人同士が肉体関係を持つまでの時間がどの程度なのかなど全く想像もできなかった。でも、真理が二ヶ月足らずで徹とセックスをしたことを知ってしまっているから、どうしても疑ってしまうのだ。徹が機会を待っているのではなくて、そもそも、最初から夏野とセックスする意思など無かったのではないかと。
 不安と焦燥感。そして、それを相手にぶつけることが出来ないことへのフラストレーション。そして、そのフラストレーションに対する自己嫌悪。夏野は、その無限ループにはまり込み、疲れきってしまった。疲れて、なぜか、蕗原の顔を見たいと思った。だから、この温室まで久しぶりに足を運んだのだ。

 蕗原は夏野に肩を貸したまま何も言わない。夏野から話し出すのを待っているようにも見えた。
 夏野がどんな浅ましい事を言ってもきっと蕗原は夏野を否定したり、蔑んだりしないだろう。そんな妙な信頼が夏野の中にはあって、だから、夏野は無防備に疑問を口にしてしまった。
「…蕗原って今まで誰かと付き合ったことある?」
 夏野が尋ねると、蕗原は少しだけ目を見開いて意外そうな顔をした。まるで、予想していた質問と全く関係の無い質問をされてしまった、そんな表情だった。
「まあ、人並みに」
「じゃあ、その付き合った人とセックスした?」
 更に夏野が尋ねると、蕗原は呆れたように苦笑をこぼした。
「何の尋問? まあ、童貞だとは言わないけど」
「別に、尋問してるワケじゃないけど……その、俺、結局、徹と付き合うことになって…」
 少しばかり後ろめたい気持ちを抱えながら夏野が告白すると、蕗原は興味が無さそうに、ふうんと相槌を打った。その態度に、夏野は、やはり蕗原の告白は冗談だったのだと思う。思ったから、更に無防備な言葉を口にし続けた。
「その…なんというか。一般的に、付き合ってるときって、どういう感じで仲が進展するのかなって思って。普通、好きな人がいたら、セックスしたいと思うよね? それが普通だよね?」
 肯定して欲しくて夏野は縋るようにそんな質問をすると、蕗原は呆れ果てたように肩をすくめた。
「それを俺に聞く? 俺、日向が好きだって言ったよな? つまり、それって、俺は日向とセックスしたいと思ってるかどうかって聞いてるって事だけど。……答えて良いわけ?」
 蕗原に切り返されて、夏野は、
「あ…」
 と、小さく声を漏らして黙り込む。俯いて顔を赤くすれば、蕗原は困ったように笑った。
「俺の言葉を本気にしてなかったわけだ」
「蕗原、あれから何も言わなかったし…俺に返事を求めたりもしなかったから」
「そりゃあね。別に答えが欲しくて好きだって言ったわけじゃないから」
 そう言いながら、蕗原は中指の背でそっと夏野の目元を撫でた。実に些細な触れ合いでしかないのに、そこには奇妙な色が浮かんでいて夏野は戸惑う。蕗原の触れ方はいつもそうだった。
 まったく性的なものを感じさせないかと思えば、唐突に、駆け引きじみた艶を帯びた空気を醸し出す。けれども、それは決して強引ではなくて、切羽詰ったような激しさや熱を感じさせないのだ。だから、夏野は引くことも逃げることも思いつかない。
「でも、日向とセックスしたいと思うかどうかって聞かれれば、したいと思うってのが答えだけど」
 そんな事を言われても、夏野は、ただじっと蕗原の顔を見上げるだけだ。
「俺は無理に日向の中に踏み込んだりはしないよ。ただ、逃げたくなったら逃げてきて良い。背中くらい、いつでも貸すから」
 夏野が自覚していなかった、けれども、その時に一番欲しかった言葉を蕗原はくれる。いったい、この人は何なのだろうかと思いながらも、夏野は誘われるように、そっと頷いていた。











「夏野。どこ行くの?」
 夕飯の食料を調達しようと思い、商店街に向かって歩いていた時のことだった。その前日から両親は海外旅行に行っているので、夏野は家で一人ぼっちだった。夜には徹が遊びに来る事になっていて、次の日は休みだったからそのまま泊まっていく予定だった。
「冬海君。夕飯買いに行くトコ。冬海君は? 学校の帰り? 遅いね」
「ああ、生徒会の仕事があってさ。でも、なんで夕飯? おばさん、今日は残業なの?」
「ううん。お父さんとお母さんは、昨日から二人でヨーロッパ旅行に行ってるから、今、ウチには俺一人なんだ。だから、何か夕飯買ってこようと思って」
 夏野がそう答えると、冬海は、何か考え込むように、
「ふーん」
 と返事をした。
「そしたら、夏野、ウチに来たら? ウチで夕飯食べたら良い」
「え? でも、邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないよ。どうせ、父親も母親もいないだろうし。一人で食べるのも寂しいから付き合ってよ」
 気軽に誘われて、夏野は躊躇した。冬海は小さな頃から夏野を可愛がってくれている近所のお兄さんで、何度かこんな風に誘われたことがある。だから、別に行くのは構わないのだけれど、夏野が冬海と仲良くすると徹が嫌な顔をするのだ。最近は、特にそうだった。冬海と遊ぶと、徹は途端に機嫌が悪くなって、
「アイツとは仲良くするなよ。なんか、スゲー嫌な感じがする」
 と言うのだ。その『嫌な感じ』と言うのが何なのか夏野にはさっぱり分からない。徹に尋ねても、
「アイツ、夏野のコト、嫌な目で見てるじゃないか。なんで、分からないんだ」
 と、怒るだけだ。そう言われても、夏野には冬海の目が『嫌な目』になど見えない。いつだって、冬海は優しく笑って夏野の頭を撫でてくれるし、夏野が一生懸命がんばっているのを褒めてくれるのに。
 夏野は両親の本当の子供ではない。本当の親はろくでもない人間だったと、周りの人間が口さがなく中傷しているのを知っていたから、それを撥ね退けるように夏野はとにかく何でも一生懸命にがんばった。
 夏野は今の両親が大好きだった。だから、両親には好かれていたい。良い子供を引き取ったと思われたい。少し贅沢を言うなら、出来得る限り長い間愛されていたい。その為に、何だって努力してきたのだ。冬海はそんな夏野を良く理解してくれて、いつだって褒めてくれる。
 徹は反対だ。どうしてだか、夏野の懸命さを否定する。
「無理なんかしなくたって、おじさんとおばさんは夏野の事を心底愛している。なんで、そんなに痛々しいほど無理してがんばるんだ」
 と、怒ったような、それでいて寂しそうな顔をするのだ。
 徹のことは大好きだけれど、一番に好きだけれど、でも、夏野の事は理解してくれない。夏野の不安を分かってくれない。それが少しだけ苦しかった。冬海は、こんなにも分かってくれているのに。夏野の不安も、少しぐらい無理をしてでも頑張る理由も分かってくれて、それを認めてくれて、褒めてくれるのに。
 それでも、徹の言葉が気になって、夏野は、
「でも、もう少しで徹がウチに来るから」
 と、やんわりと断ろうとした。けれども、冬海は否とは言わせない笑みを浮かべて、
「じゃあ、夕飯を食べたらすぐ帰れば? 家政婦がいっつも多目に料理を作っていくから食べきれないんだ。夏野も一緒に食べてよ」
 そんな風に誘ってきた。躊躇しながらも、夏野はそれ以上断ることも出来ずに、渋々と頷いて冬海の後をついて行った。
「そう言えば、おじさんとおばさん、いつまでいないの?」
「うん? 七泊八日の旅行だから、あと一週間帰ってこない」
「へえ。それまで夏野、一人ぼっち?」
「うん」
 夏野が素直に頷くと、なぜか冬海は嬉しそうな顔で笑った。
「じゃあ寂しいね」
「うん? でも、徹がいるから」
 けれども、夏野がそう答えた途端にすっとその笑みを消す。不意に、その瞳に何某かの陰が差したような気がして夏野はたじろいだ。
「あの…冬海君、何かあった?」
 何だかいつもの冬海と違うような気がして、夏野は不安になる。冬海はどこか虚ろな表情で、
「ああ、うん。そうだね。少し疲れているかもしれない」
 と答えた。夏野はそれに少し驚く。こんな風に冬海が弱味を見せるところなど初めて見たからだ。
「大丈夫? 何か、俺に出来ることある?」
 慌てて夏野がそうきけば、冬海はようやく少しだけ笑みを取り戻して夏野の顔をじっと見下ろした。
「ありがとう。夏野は優しいね。素直で純粋で一生懸命で。こんなに良い子なのになあ」
 そう言って、やはり冬海は優しげな笑顔を夏野に向けたけれど。
 その瞳はいつもと、どこか違ってはいなかっただろうか。
 隠し切れない闇を浮かべているそれに、だがしかし、夏野はついぞ気づくことは無かった。


















「別に俺は構わないんだけどな」
 そう言いながら蕗原は苦笑いを浮かべた。昼休み、いつもの温室でのことだ。夏野が徹を避けて、昼休みをここで過ごすようになってから一週間が経過していた。顔を見るのが苦しくて、行きも帰りもわざと時間をずらして登下校しているし、週末も適当な理由をつけて会っていない。教室で、徹が不機嫌そうに自分を見ているのにも気が付いていたけれど、その視線さえ夏野は気が付かない振りをした。
「七瀬にスゲー睨まれてるのって、やっぱり日向のせいだよな?」
 からかうように言われると、夏野は謝るしかなくて、ベンチに腰掛けたまま俯いた。
「何が原因? 痴話喧嘩?」
「……ケンカできるような仲だったら良かったんだけど…」
「どういうコト?」
「…本当に付き合っているのかどうか分からなくなった」
 好きだと告白して、付き合おうといわれて三ヶ月以上が経ったけれど、一体、何が変わったのだろうかと夏野は思う。確かにキスはする。ただ触れるだけの子供だましのようなキス。だが、徹は決してそれ以上のことをしようとはしない。
 ずっと好きだった徹と付き合えて嬉しいはずなのに、夏野は不安と息苦しさばかりを強く感じているありさまだった。息苦しい。もしかしたら、徹は自分を監視するために付き合おうだなどと言ったのではないかとさえ思う。
「……徹はやっぱり、男とは付き合えるヤツじゃないんだと思う」
 遠まわしに夏野が不安を吐露すると、なぜか蕗原は訝しげに眉を寄せた。
「日向と七瀬が付き合い始めたのっていつ?」
「……え?」
 夏野が好きだというくせに、蕗原はそんな風にあっさりと聞いてくるから、やっぱり夏野は戸惑ってしまう。蕗原の『好き』という言葉がどこまで本当なのか図りかねる。だから、蕗原との距離の取り方も無用心で、気が付けば驚くほど近くを許してしまったりするのだ。
「半月くらい前から?」
「え? 違うよ。三ヶ月くらい前、かな」
 誘導尋問にあっさりと引っかかり答えてしまうと、蕗原は訝しげな表情を更に深くして、眉間に皺を寄せた。いつも飄々とした表情を崩さない蕗原が、こんな顔をするのは珍しいと夏野は意外に思う。
「この間、日向が俺に相談したのって七瀬のことだよな?」
「相談? って、何だっけ?」
「普通、付き合ってどれくらいでセックスするのかって。好きだったらセックスしたいと思うのは普通だよねって聞いてただろ?」
「あ……き、聞いたけど……忘れて良いよ……」
 時間を置いて蒸し返されると、酷く恥ずかしいような気がして夏野は頬を微かに染める。だが、蕗原はふざけた様子など一切無く、ただ、真剣に何かを考えているようだった。
「いや。もしかして、日向が悩んでたのって、七瀬とセックスしてないとか、そう言う事だった?」
 ずばりそのものを真剣な表情で尋ねられて、夏野は、今度こそ耳まで真っ赤になる。ただでさえ男同士の話で、しかも夏野は自分が抱かれる側の人間だという負い目があるから、羞恥と居た堪れなさに消えたくなった。
「ゴメン。良く考えたら気持ち悪い話だった。忘れて」
 蚊の鳴くような声で夏野がそう否定すると、蕗原は少しだけ表情をゆるめて、夏野を穏やかな眼差しで見つめる。
「俺は冗談じゃなく、日向を抱けるなら抱きたいと思ってる人間なんだけど。そこでそういう風に謝られると、どうしていいか分からなくなる。お前、本当に自覚薄いな? この場で押し倒されて犯される可能性とか、全然考えて無いだろ?」
 不意に物騒なことを言われて、夏野は驚いて顔を上げた。だが、蕗原の瞳には不思議な艶は浮かんでいても、やはり激しさや熱といったものが全く無い。だから、夏野は警戒心を無くしてしまうのだ。陳腐な表現をするなら、悟りを開いた修行僧に口説かれている、そんな違和感さえあるというのに。
「でも…蕗原のは冗談だろ?」
 夏野が思わずそう言ってしまうと、蕗原は大袈裟に肩をすくめて見せて、それからおもむろに夏野の体をベンチの上に押し倒した。だが、その仕草さえどこか優しくて、夏野がベンチに頭を打ち付けないように手を差し入れて庇う余裕さえある。だから、夏野は抗うこともせずに、落ちてくる唇にも目を閉じた。
 蕗原は、心の中に一本の線を引いている。そして、その線を乗り越えて夏野に近づこうとは決してしない。夏野にはなぜか、それが分かった。だから、ただ、そのまま蕗原のキスを受け入れる。夏野には何の心の揺れも無い。恋情の欠片も。だが、蕗原と接触すると心が凪いだ。息苦しさが嘘のように消失して楽になった。ただそれだけだった。けれども。
「蕗原。夏野から離れろ」
 押し殺した、獣が敵を威嚇するような低い声が聞こえて、夏野は驚いて蕗原の体を押し退ける。だが、蕗原は微塵の動揺も見せずに、ゆっくりと夏野から体を離した。
「とお……徹」
 顔を真っ青にして、夏野は、いつのまにかすぐ近くにいた徹を見つめたが、徹の視線は夏野ではなく蕗原に向けられていた。視線で人が殺せるのならきっと殺していただろうと言うほど鋭く、殺気のこもった視線。
 だが、蕗原はそれを平然と受け止め、飄々とした表情で夏野の方を振り返った。
「日向。さっきの相談の続きだけど」
 そして、徹をあっさりと無視して夏野に話しかける。夏野は、蕗原の神経を疑い目を見開いたが、蕗原は気にした風もなく、淡々と言葉を続けた。
「七瀬が男と付き合えるようなヤツじゃ無いってのは、日向の勘違いだと思うよ」
「え?」
「七瀬は男ともセックスできる人間だから」
「……何?」
 唐突に告げられた事実に、夏野の脳は理解を拒絶する。蕗原の言葉の意味が頭に入ってこない。だが、蕗原は非情にも更に言葉を続けた。夏野に向かって話しているようで、それでいて半分以上は徹に向かって言っていたのだろう。だが、その事に夏野は気が付くことが出来なかった。
「だって、俺、何度も見たけど? 七瀬が男とホテルに入っていくトコ。日向は三ヶ月前から七瀬と付き合ってるって言ったけど、その間も、先週だって七瀬が男とホテルに入って行くのを見かけた。アレは、俺の見間違いか? なあ、七瀬?」
 そこまで言って、ようやく蕗原は視線を徹に向ける。だが、徹に向けた視線は夏野に向けるそれとは明らかに違う。徹に負けないほど殺気に満ちた鋭い視線。

 それは、夏野が初めて見た蕗原の激しい一面だった。




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