novelsトップへ purify-3へ purify-5へ

purify - 4 …………

 昼休みのチャイムを聞くと同時に、夏野は弁当箱を持って席を立ち上がった。視界の端で徹が不機嫌そうに自分を睨みつけているのが分かったけれど、夏野はそれを敢えて無視して急かされるように教室を後にした。
 外は雨がパラついている。暦の上では梅雨に突入しているし、つい先日、入梅したと天気予報でも言っていた。傘を持ってくるのが億劫で、そのまま夏野は雨に打たれて中庭を突っ切る。温室の中はすごい湿度で、むっとしていたが、それでも徹の近くにいるよりは余程居心地が良いと思えた。
 すっかり定位置になってしまったベンチに腰を下ろし、ガラス越し、中庭で雨に濡れている紫陽花に目をやる。真っ青な花が目に鮮やかで、夏野はとりとめもなくその光景に見惚れていた。
「七瀬がすごく不機嫌そうだったけど?」
 からかうような声が近くでして、夏野は顔を上げる。蕗原が購買部で買ったらしいパンの袋をブラブラと遊ばせながらすぐ側に立っていた。
「…茅野先輩、迎えに来てた?」
「いや。ここ2、3日来てないみたいだけど? 噂、本当なんじゃないか?」
 真理と徹が別れたと、ここ数日、噂になっていたのを夏野も知っている。けれども、それを徹には聞けずにいた。そもそも、ここ2ヶ月ほど、夏野は徹を避けまくっていた。昼食もこうしてこの温室に逃げ込んでいるし、登下校の時間もずらして、一緒には帰らない。反対に、なぜか、蕗原と一緒にいる時間が急激に増えた。
 昼休みは、こうして、大抵一緒に昼食をとっている。
 蕗原は、余計なことを言わない。夏野を詮索もしない。そのくせ、どこか鷹揚で、夏野の言動を全て肯定してくれるような寛容さがあって、夏野は自然と逃げ込むように蕗原の隣にいるようになった。
「そろそろ七瀬も切れるんじゃないか? 一度、ちゃんと話したら?」
 薄い笑みを浮かべて、眼鏡の奥、優しいローズグレイの瞳が見詰めてくる。夏野は、ふい、と顔を逸らして、じっと自分の弁当箱をにらみつけた。
 話せと言われても、一体、何を話せば良いと言うのか。真理と別れてくれと、そんな事は言いたくはない。言いたくは無いから、ずっと徹を避けているのに。
 時々、遠くから、二人が並んでいる姿を見かけたけれど、本当にお似合いの二人だと思ったのだ。真理はとても良い子だと夏野にだって十分良く分かっている。徹を純粋に、真直ぐに好きなのだと言う事も。だから、自分の醜い感情で、二人を邪魔したくなかった。
 不意に、つ、と前髪を掬われて、蕗原が
「前髪濡れてるな」
 と言う。
「傘、持ってくるの面倒だったから」
 そのまま、自分の前髪を弄んでいる大き目の手を振り払いもせず、夏野はくすぐったそうに笑った。その笑顔が随分と無防備であることに夏野は全く気が付いていない。蕗原は微かに目を細め、夏野の顔をじっと見詰めた。
「何?」
 そんな蕗原に夏野は首を傾げる。そんな表情さえも、余りに無防備で、蕗原は苦笑を禁じえなかった。
「いや、別に」
 蕗原が静かに夏野の前髪から手を離す。そのタイミングで、
「こんな場所に来てたのか」
 と、どこか尖った声が聞こえてきた。夏野ははっと顔を上げ、蕗原はゆっくりと振り返った。
 温室の入り口から徹が近づいてくるのが見える。徹の制服の白いシャツは、肩の辺りが濡れて色を変えていた。
 不機嫌なのを隠そうともせず、憮然とした表情で徹は二人が座っているベンチの前までゆくっりと近づいてくると、敢えて蕗原を無視するように夏野の前に立った。
「もしかして、最近、ずっとここにいたのか?」
 責める様な口調で尋ねられ、夏野は嫌々ながらも頷く。
「なんで?」
 問い詰められても、まさか、真理と二人でいる徹を見たくないからとは答えられずに夏野は俯いて黙り込んだ。だから、自分の上で交わされた徹と蕗原の視線には気がつかなかった。
「別に小学生じゃないんだから、いつもお昼は一緒、ってのも変なんじゃないか?」
 からかうような口調で蕗原が挑発すれば、徹はあからさまに舌打ちして面白くなさそうな顔をする。夏野はさすがに焦って、蕗原を嗜めようとその制服のシャツの裾を引っ張る。その仕草がどこか甘えているようにさえ見えて、徹はますます不機嫌そうに眉間の皺を深めた。
「茅野がいるのがイヤだったのか?」
 徹の口から真理の名前が出たことで、夏野の心臓はドキリと跳ね上がる。だが、そんな夏野の動揺を他所に、徹は酷く淡々とした口調で、
「だったら、最初からそう言えよ。もう茅野とは別れたから。もう拗ねて避けたりするな」
 と告げた。徹の口から知らされた別れに、夏野は喜べば良いのか苦しめば良いのか分からなかった。そもそも、自分は拗ねていたわけではないのだ。だが、徹にはそれが分からない。いや、分かっていながらわざとそんな言い方を選んでいるのかもしれなかった。
「…別に茅野先輩のせいじゃない。この場所が気に入ってるから…それに、蕗原とは気が合うし、蕗原の隣は居心地が良いし…俺は、昼はずっと蕗原とここで食べるよ」
 蕗原の存在を利用することに、幾ばくかの後ろめたさを感じつつも夏野はボソボソとそんな事を言う。蕗原は微かな苦笑を浮かべ、徹は顔を顰めたが、俯いている夏野には二人の表情は見えなかった。
「話にならない。今日の夜、お前んち行くから」
 徹はそれだけを言い捨てると、そのまま踵を返して温室から出て行ってしまった。その背中が雨の中に消えていくのを夏野は、ぼんやりと見送る。
「良いのか?」
 と、蕗原が心配げに見詰めてきたけれど。
 夏野は力なく首を横に振った。何だか、ひどく疲れていた。今日の夜、徹は来るといったけれど。
 夏野には笑顔を作る自信も、嘘をつく自信も、自分を偽る自信もなかった。もう、何もかもを投げやりにぶちまけてしまいそうな、そんな気がした。心許ない気持ちのまま、ふと蕗原を見上げると、どこか心配げな、自分を慈しむかのような眼差しにぶつかった。
 どうして、蕗原はいつだって、こんな風に優しい目で自分を見つめてくるのだろう。それが不思議だった。
「…蕗原、ゴメン」
「何が?」
「蕗原のこと、引き合いに出したりして…」
「ああ。……それって、つまり、さっきのは嘘ってコト?」
 蕗原の顔が少しだけ悪戯なからかうような色を帯びる。
「さっきの?」
「俺の隣は居心地が良い、って言ったの」
 夏野はフルフルと、どこか子供っぽい仕草で首を横に振った。
「それは嘘じゃないけど」
 夏野が真剣な表情で否定すると、蕗原は困ったように苦笑した。
「俺、少しだけ七瀬の気持ちが分かった。今まで、イマイチ理解できなかったんだけど。さっき分かった」
「徹の気持ち?」
「そう。日向は、すごく厄介な存在なんだよ」
 『厄介』という言葉に夏野の胸はズキリと痛む。厄介。まさに、自分はそれなのだろうと思う。邪魔にしかならない荷物。夏野は自虐的にそう思ったが、蕗原の意図は別のところにあるらしかった。
「二つの相反する感情を、酷く刺激されるから、精神的に揺さぶられる」
「え? 二つ…? 刺激?」
 唐突な言葉の意味が分からずに蕗原の顔を夏野が見上げると、蕗原は薄い笑みを浮かべた意味深な視線で夏野を見つめてきた。それから、スッと中指の背で夏野の白い頬を撫でる。
「守ってやりたいとか、笑っていて欲しいとか、そう言う庇護欲と、逆に、メチャクチャに汚してしまいたいって言う嗜虐心と。その両方」
 頬を撫でていた指が夏野の顎を捉えた。見詰めてくるローズグレイの瞳は、今まで見たことの無い色を浮かべている。それは明らかに『欲』を感じさせる色だったけれども、夏野は嫌悪感を感じなかった。逃げようとも思わなかった。
 何度か触れた唇が、夏野の唇に落ちてくる。けれども、それは今までのような慈しむような、あるいは素っ気無い意味を持たない触れ合いとは明らかに違った。
「ンッ」
 と、意図せぬ声が夏野の喉から漏れた。やんわりと入り込んでくる舌も、酷く巧みで簡単に夏野を攫う。結構な時間を掛けて蕗原は夏野の口腔を犯し、唇がようやく離れると、唆すような笑みを浮かべた。
「知ってたか?」
「え?」
 キスの余韻覚めやらぬ、潤んだ瞳で夏野が見上げると蕗原は親指の腹で、夏野の目尻の下辺りを優しく撫でた。どこか寂しげに見える、奇妙な艶を浮かべた夏野の目尻の下を。
「俺は、ずっと日向が好きだったよ?」
 激しさを感じさせない、どこか厳かな空気さえ感じさせるその告白は、いつの間にか強まった雨音に混じって、夏野の中にゆっくりと染み込んできた。









 夏野の内側に入ってくる。何かが。それは、奇妙に心地の良い感覚で、夏野は抗うことも出来ずに、再び落ちてきた唇に目を閉じた。







 中学二年生の冬のことだった。夏野の父がヨーロッパへ海外出張に行かなくてはならなくなったのだ。その時、父が、母と夏野にも一緒に行かないかと提案したのだ。今まで一度も母は海外旅行をしたことが無かったから、一度くらい連れて行ってやりたいと思ったのだろう。だが、夏野は学校があったし、期末テストだって近かったから自分は行けないと言ったのだ。そうしたら、母は、夏野が心配だから自分も行かないと言った。
 夏野の父と母は学生結婚で、結婚式もしていない。新婚旅行もしていない。二人なりに色々な事情があったかららしいが、夏野は、たまには二人で旅行に行くのも良いのではないかと思った。まだ三十歳にもならないうちに五歳の夏野を引き取って、それからは夏野が中心といっていいほど、夏野を大事に育ててきてくれた両親だった。
 だから、夏野は、母に行って来いと行ったのだ。たまには二人きりで旅行もいいだろうと。行けなかった新婚旅行の代わりになるだろうと思った。その上、その時、母はとてもイタリアに行きたがっていたのだ。自分の好きな声楽家のオペラがどうしても聞きたいと、夏野に漏らしていたいたのを夏野はしっかりと覚えていた。
 夏野はしっかりしていて、学校でも優等生だったし、働いている母の手伝いもして炊事洗濯、なんでも一通り出来たから、ほんの一週間かそこらの間なら一人で留守番ができると思った。
 けれども、やはり母は行くのを渋って、そうしたら徹が夏野の保護者を買って出てくれたのだ。
「おばさん、俺がちゃんと夏野のこと面倒見てやるから行って来てください」
 そう言って、徹は笑った。小さな頃から徹は夏野と仲良くしてきて、夏野がいじめられた時だって救ってくれた。だから、徹は夏野の両親には絶大なる信頼を得ていたのだ。
「一週間くらい大丈夫ですよ。何かあっても、俺がちゃんと夏野を守りますから」
 そう大袈裟に言って徹はカラカラと明るく笑った。

 多分、その時の言葉が徹を縛り付けているのだろう。今の今まで。

 夏野が失踪したのは両親が出発してから二日後のことだった。すぐに、心配した徹と徹の両親は警察に届けたし、夏野の両親も、仕事を途中で切り上げて急いで帰国した。だが、夏野から電話があったのが仇になった。
「そのうち帰るから、探さないで」
 それだけを言って切れた電話。警察は、手の平を返したようにそれを誘拐事件からただの家出に切り替えてしまった。誘拐の捜査と家出の捜査では、その対処の仕方が天と地ほども違う。それを『彼』は知っていたのだろうか。だから、夏野にそう電話を掛けさせたのだろうか。
 今更しても詮無い想像の話だ。
 夏野は、自分の家から驚くほど近い場所にいた。眼と鼻の先の距離と言ってもいい。だが、家出ではなかった。誘拐でもなかったのかもしれない。別段、夏野の両親は金銭を要求されたわけでもないし、何かの条件を要求されたわけでもなかったのだから。
 結局、夏野を発見したのは徹だった。それでも、夏野が失踪してから一ヶ月以上の時間が経過していた。夏野を発見した時のことを思い出すと、徹は鳥肌が立ったように全身が総毛立つ。だが、それは憤りからでも、嫌悪からでもない。

 発見した時、夏野の体には案外と目立った外傷は無かった。体よりも、心の方がずっと酷く痛めつけられ、ボロボロに傷つけられていた。徹が、あんな風に泣きじゃくっている夏野を見たのは、後にも先にも、あの時期だけだ。『彼』は、実に的確に夏野の心をズタズタに切り裂いた。それは『彼』が夏野の真直ぐで綺麗な心の在り様を熟知していた証なのかもしれないし、あるいは、歪んでいても、あれも一つの『愛』というものの形だったのかもしれない。だが、どんな理由があったにせよ、夏野の心を切り裂く権利など誰にも無いのだ。徹は決してあの時のことを許せない。
 だが、それよりも、もっと徹が許せないのは自分のことだった。
 怯えて小さく蹲り、ガタガタと震えていた可哀想な夏野。ただ泣きじゃくり、頭の天辺から足の爪先まで完全に自分を否定して、ただ謝罪の言葉だけを繰り返していた。


 ──────────あの時、あの場所で、徹は一体、何を一番強く感じていたというのだろう。










「何で、俺を避けてた?」
 夜分に夏野の家に訪れてきた徹の第一声はそれだった。夏野はうんざりとした気分で俯く。ベッドに腰掛けたまま、あさっての方向を向いて、徹の顔は見ない。
 徹の顔を見たら、何もかもを吐き出してしまいそうだった。それだけ、夏野は疲れきっていた。
 自分の感情を押し殺すのに。
 作った笑顔を見せ続けることに。
「……だから、別に避けてないって」
 目を合わせないまま夏野は小さな声で答えた。
「嘘付けよ。だったら、ちゃんと俺の目を見ろよ」
 咎められても夏野は徹の目を見ることが出来ない。ローズグレーの真直ぐな瞳を見てしまったら、抑えてきた何かが勢い良く流れ出してしまうだろうから。堰を切ったように狂ったように何もかもを叩き壊してしまう奔流となって。
 だから、夏野は目を逸らしたまま徹の胸元辺りをじっと見詰める。
「嘘なんて…ついてない」
 否定する言葉はじつに白々しい響きだった。
「茅野とは別れたって言っただろう?」
「だから、茅野先輩は関係ないって。だいたい、何で別れたんだよ?」
「夏野が俺を避けるからだ」
 あっさりと徹が答えた言葉に、夏野は湧きあがる感情を抑え切れなかった。
「そんなこと頼んでない! ! 俺のせいにするな! !」
 らしくもなく荒げた声で叫ぶのを、だが、徹は冷静さを失わない冷めた表情で見詰めた。それが、さらに夏野の悋気を誘う。
「俺が、いつ、茅野先輩と別れてくれなんて言ったよ! ? だいたい、お前、どういうつもりで人と付き合っているんだ! 少しでも…少しでも、茅野先輩の気持ちを考えたことあるのかよ! ?」
 あの日、凛とした声で徹が好きだと言っていた真理を思い出し、夏野はどうしようもなく、やり切れない気持ちになってしまった。徹が真理と付き合うのはつらい。酷い嫉妬に苛まされるし、さっさと別れろと言ってしまいたくなる。だが、それと同時に、嫉妬などしたくない、別れろだなんて、そんな事を言いたくは無いと思う夏野がいるのも事実なのだ。夏野をより酷く苛むのはどちらかと聞かれれば、間違いなく自己嫌悪のほうだろう。

 夏野は真理を憎いとは思わない。羨ましいとは思うけれど。あの真直ぐな『好き』という感情をいとも簡単に捨ててしまえる徹が夏野には許せなかった。それは、ともすれば、夏野自身にも降りかかってくる痛みなのだから。
 だが、徹の答えは夏野の理解の範疇をとうに超えていた。
「俺にとって、付き合ってるヤツは夏野程の比重を持っていない。夏野に避けられてまで付き合うつもりなんてない。最初から、そう言ってる。夏野が俺を避けるくらいなら、別れる。茅野と別れたのは夏野が俺を避けたからだ」
 平気で投げつけられる言葉のナイフに、徹自身は気が付いているのだろうか。口で別れろと言わなくても、結局、結果的には夏野が二人を別れさせたことになっている。何もない顔で、親友のスタンスで、徹に邪な感情を持つなと、暗に責められている様な気がした。好きでいることさえ許されないのかと、思った。
 だが、恋だの愛だのというのは自分で制御できる類の感情ではないのだ。捨てられるものなら、夏野だって捨ててしまいたかった。こんな浅ましい恋情は。
 もう、自分自身でバランスを取ることが出来ない。夏野の天秤は、もう振り切れてしまうほど、壊れてしまうほど傾いてしまっているのだ。もう一度、上手に均衡を保つことなど出来ないと思った。
 だから、夏野は投げやりに、刹那的に、それを手放して捨ててしまいたいという衝動に駆られた。そして、その衝動に負けて、とうとう口にした。ずっと、長い間、胸の奥底に押し殺して眠らせていたそれを。
「じゃあ、俺と付き合ってよ。俺は、ずっと徹が好きだった。ずっと、ずっと好きだった。おれが一番大事だって言うなら、おれを恋人にしてよ。………茅野先輩をそうしてたみたいに」
 激しい思いの丈をぶつけたつもりだったのに、夏野の口から出た言葉は、その情熱的な内容に反して実に淡々とした口調で綴られた。まるで、棒読みの台本のように。自分を冷たく嘲る罵声のように。
 だが、徹は、その口調よりも内容のほうに、より注意を取られていたらしい。ハッとしたように目を見開くと、夏野の顔を真直ぐに見詰めた。
 徹の表情に浮かんでいる真実を、夏野はなんとかして読み取ろうとする。一分の嘘も見逃すまいと、同じように真直ぐに徹の顔を見詰め返した。徹をこんな風に見詰めるのはこれが最後かもしれないと、どこかで覚悟を決めて。
 だが、徹の表情には嫌悪や拒絶の色は見られなかった。夏野の希望的観測ではない。あらかじめ、予想していた告白だったかのように徹の表情は冷静だった。けれども、微かにその瞳が揺れている。その揺れのわけを悟れるほど、徹のポーカーフェイスは容易くはなかった。
 ただ、徹は、
「良いよ」
 と短く答えた。夏野が自分の耳を疑ってしまうほど、あっさりとした口調で。
「良いよ」
 と、徹は重ねて答えた。
「じゃあ、そうしよう。最初からそうすれば良かったんだな。俺の一番は夏野だったのに。他のヤツと付き合ってたことが不自然で間違いだった」
 淡々とした言葉の意味が夏野には理解できない。
 今まで、無言の圧力を掛け、夏野の気持ちを吐露することを拒絶していたのは徹ではないのか。それとも、徹にはそんなつもりは無かったのだろうか。自分の気のせいだったのだろうかと、夏野は混乱する。
 だが、そんな夏野の混乱さえも予想のうちだったかのように、徹は夏野の肩にそっと手を置き、自分の方に引き寄せる。そして、そのまま、何の躊躇も見せずに徹は触れるだけのキスを夏野の唇に、そっと落とした。
 触れた唇は、酷く冷たい。まるで、徹の冷めた心情をそのまま表しているようだと夏野は思った。
 初めて意識して徹としたキスだったけれど、夏野の心に歓喜が訪れることは一切無かった。あるのは、腹の底からジワジワと嫌な感じに湧き上がって来る不安と、違和感だけ。
 夏野は何を言って良いのか分からずに、ただ徹の顔を不安げに見上げた。
 夏野の淡い色の瞳が艶を湛えて揺れている。その目元は寂しげで、徹の情欲を酷く刺激したが、徹はそれを完璧に押し殺した。だから、夏野がそれに気が付くことは最後までなかった。

 隠し切れない、無視しきれない違和感。
 そこにはめるべきでないパズルのピースを無理矢理に押し込んだような。

 だが、夏野はそれを見ない振りで、二度目に落ちてきた冷たいキスにそっと目を閉じた。





novelsトップへ purify-3へ purify-5へ