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purify - 3 …………

 蕗原廉が初めて日向夏野に会ったのは病院の病室でだった。だが、きっと、夏野はそのことを覚えていないだろう。最初から最後まで夏野は目を閉じたままだったし、そもそも、その時の夏野は心が正常ではなかった。
 『彼』から夏野の詳しい話を初めて聞いたのは、廉がちょうど中学二年生から三年生に進級しようとしている春のことだった。『彼』もまた、心を病んで病院に入ったきりだった。
「夏野はね、とても綺麗で可愛い子なんだよ。でも、とてもいやらしい。淫乱で、男無しじゃいられない子だから、僕がいなくてとても困っていると思う」
 『彼』は、とても楽しそうに、それこそ屈託の無い無邪気な子供のような表情で廉にそう語った。事件のおおよその所を廉は既に知っていたので、その言葉にはさすがに眉を顰めた。けれども、『彼』の言う事を否定してはいけないと、医者に固く言い含められていたので、曖昧に頷いて見せた。
「多分、夏野は困ってると思う。そうだ。廉。お前、ちょっと僕の代わりに夏野の様子を見てきてくれない?」
 何の後ろめたさも無い、清々しい表情で頼まれてしまえば、廉は否とは言えなかった。だから、やっぱり曖昧に頷いた。それが実際、夏野に会いに行こうと思ったのは少しばかりの下世話な好奇心と大きな罪悪感からだった。けれども、『彼』の関係者である自分が夏野に会いに行くことが、いかに非常識極まりないことか、廉は十分に承知していたので、ほんの少し夏野を盗み見るだけのつもりだった。

 夏野は隔離されるように、一般の病棟から離された人気の少ない病室に入院していた。恐らく身内以外の見舞いを禁じているのだろう。極端に人影が少なかった。途中で咎められるかと思ったが、意外なことに誰からも気が付かれることなく廉は夏野の病室までたどり着く事ができた。
 病室の前の『日向夏野』という名前のプレートを確認する。漢字のつづりが、どこか美しく、字の通り明るさを感じさせる名前だと廉は思った。ふと、その時、小さな子供のような悲鳴が聞こえた。
「ゴメンナサイ! ゴメンナサイ! 許して! 許して!」
 続いて聞こえてきたのは尋常ではない錯乱した調子で泣き喚いている声だった。その声は、ただひたすら何かに向かって謝罪の言葉を繰り返す。その声の痛ましさに、廉の心は掻き毟られるような気がした。
 開いている病室のドアから、そっと中を覗き見る。ベッドの上で病衣を着た華奢な少年が、もう一人、こちらは私服の少年に抱きすくめられているのが見えた。その傍らには、比較的若く見える女性が涙を浮かべて佇んでいる。
「夏野! 夏野!」
 と、私服の少年は必死に病衣の少年の名前を呼んでいた。暴れようとする夏野という少年を必死に押さえ込み、強く抱きしめている。少年は、夏野に比べて体格がよく、背も高いようだった。多分、自分と同じくらいだ、と廉は思った。
「夏野は悪くない、夏野は間違ってない。夏野は綺麗なままだから、謝らなくていい。謝らなくて良いんだ」
 少年は、何度も何度もその同じ言葉を諦めずに繰り返していた。随分と長い間、そんなことをしていたように思う。暴れる夏野の爪が少年の頬を引掻いて、少年の頬から血が滲んでいたようだったが少年は頓着していなかった。ただ夏野の体をぎゅっと抱きしめて、同じ言葉を優しい調子で繰り返す。そして、トントンと夏野の背中を慈しむように叩き続けた。
 どれだけの時間が経過したのだろうか。ようやく夏野は暴れることをやめ、ストンと落ちるように眠ってしまったようだった。傍らの女性のすすり泣く声が病室の外まで聞こえる。
「おばさん、夏野、寝たみたいだから。俺、一回帰ってきます」
 だが、そんな女性とは対照的に少年は落ち着いた穏やかな声でそう告げた。
「…ええ、ええ。そうね。ごめんなさい。徹君にまで迷惑をかけて」
 泣きながら女性が答える。少年の名前は徹と言うのだと廉はその時知った。
「いいえ。迷惑なんかじゃありません。俺がしたいからしてるだけ。だから、おばさん、謝らないで」
 徹は凛とした声でそう言いきると、出口に向かって近づいて来た。廉は慌てて、隣の空き病室に逃げ込む。幸いなことに徹にも、徹に付き添って外に向かったらしい女性にも見つからずにすんだ。
 廉はしばし迷う。このまま帰ったほうが良いのだろうか、恐らく、その方が良いのだろうと思った。だが、一目で良い。夏野を見てみたいという誘惑に勝てなかったのだ。
 ほんの少しだけ。少しだけ寝顔を見たらすぐに帰ろう。そう決めて蕗原は夏野しかいなくなった病室に静かに足を踏み入れた。夏野は死んだように眠っているようだった。足音を殺して、そっとベッドの近くまで歩み寄る。初めて見た夏野の顔に、廉はハッと息を飲んだ。
 夏野の顔は死んだように真っ白だった。あまり健康的な白さではない。眉間の少し下や鼻の下、皮膚の少し薄い部分には青い血管が透けて見えるほどの白さだった。真っ白な枕の上に散らばる髪は色が薄く、サラサラとしていた。睫は驚くほど長い。目を閉じた状態でも、夏野がとても綺麗な顔をしているのだと廉にも分かった。
 『彼』は夏野を綺麗で可愛いといつでも褒めちぎっていたが、誇張でも思い込みでもなかったのだと、その時廉は知った。だが、ひどくあどけない。迷子になって泣き疲れたような心許ない顔で夏野は眠っていた。その寝顔からは『彼』が言っていたような『いやらしい』だとか『淫乱』だとか言う言葉は全く連想できなかった。目じりに涙の後が残っているのが痛ましい。知らず廉は顔を歪めて、宥めるように、慰めるように、優しく夏野の色素の薄い髪をすっと梳いた。すると、夏野の体は廉が驚くほど激しく跳ね上がる。
「ゴメンナサイ! ゴメンナサッ…! ちゃん…ちゃんとっ! ちゃんと舐めるから!」
 目を固く閉じたまま夏野は錯乱したように叫び、髪を梳いていた廉の手を取って、その指にむしゃぶりついた。夏野の形の良いピンクの唇から、赤い舌が覗く。それが廉の指を必死に舐めしゃぶったのだ。
 まるで、男の性器に舌を這わせているかのような夏野の仕草に、廉は混乱する。
「ンッ、ンッ、ンゥッ!」
 甘いというには程遠い、聞いているほうが切なくなるような悲壮なうめき声をあげ、夏野は廉の指に必死に舌を這わせ続けた。廉の頭は混乱のピークを迎える。
 驚きと、憤りと、悲しさと、やり切れなさと、否定できない興奮と、その全てが混じり合って廉はすぐに指を引くことが出来なかった。しばらくして、ようやくハッとしたように廉は夏野から手を引く。すると、今度は夏野は雷に打たれたかのようにヒッと悲鳴を上げて体をすくめた。両腕で自分を庇うように頭を覆う。
「ゴメンナサイ! ゴメンナサイ! ちゃんと、ちゃんとする! ちゃんとするから許して!」
 そして、そんな悲鳴を上げたのだ。廉は抑えきれない衝動のまま、夏野の体を抱きすくめた。夏野の体をきつくきつく抱きしめたまま、さっき徹がしていたようにその背中をトントンとリズムよく叩く。耳元に、
「夏野は悪くない、夏野は間違っていない、夏野は綺麗なままだから」
 と囁きかけながら。
 夏野はしばらく廉の腕の中で暴れていたが、先ほども暴れたせいで疲れていたのだろう。さほど時間をかけないうちに大人しくなり、コトリと死んだようにまた寝入ってしまった。
 静かな寝息を立て始めた夏野の顔をじっと見下ろしながら、廉は知らずのうちに泣いていた。いつの間にか頬が濡れていた。ただ、痛ましいと思った。どうして、と、うねりの様な憤りが胸を突き上げてきたが、それを『彼』に向けようとは思わなかった。やり切れない、ただやり切れないと、逃げ出すように病室を後にした。
 もう二度と夏野には会うまいと、その時、廉は心に決めたはずだった。





 それなのに、廉が再び夏野に近づいたのには理由がある。
 どうしても、夏野に伝えなくてはならない事があったからだ。






 ………それは、夏野の作ったような綺麗な笑顔を見るたびに言えなくなってしまい、未だに伝えていないことだけれど。








 なぜ、聞きたくないことというのは偶然にしろ耳に入ってきてしまうのだろうか。
 夏野は気配を押し殺しながら、ずっとそんな事を考え続けていた。担任の教師にたまたま頼まれて受験資料を探しに来た資料室でのことだった。隣は生徒会室で、その会話は薄いドア越しに聞きたくなくても聞こえてきてしまったのだ。
 放課後の遅い時間だったし、恐らく、隣には誰もいないと思っていたのだろう。ほんの少しだけ扉が開いていたせいもあって、余計によく聞こえてしまった。
 最初は誰か人が会話しているんだな、としか夏野は思わなかった。その会話の内容も取り立てて注意して聞いていたわけではない。けれども、『七瀬徹』という名前が会話に出てきたせいで、夏野の耳は敏感に反応してしまったのだ。
「そう言えば、真理、七瀬徹とはどうなの? 上手くいってるの?」
 女生徒らしき声が聞こえて、聞き覚えのある声が、
「うーん。まあ、一応」
 と答えた。こちらは茅野真理の声だった。盗み聞きなんて良くないと思いながらも夏野は思わず身を潜めて、聞き耳を立ててしまった。
「でも、真理が年下と付き合うなんて、ちょっと意外だったなあ」
「そう? 徹は大人びてるからあんまり年下って感じしないけど」
「ああ。まあ、それはそうかもね。私達の学年の中でも結構もてるみたいだし」
「そうなの?」
「うん。でも、真理と張り合おうって女はいないと思うけど…」
「なあに? それ?」
 声に苦笑が混じり、謙遜ではなく心底真理がそんな風には思っていないことが声だけで伝わってきた。本当に性格の良い人なんだなと、夏野はぼんやり考える。徹が好きになってもおかしくない女の子なんだなと思ったら、夏野の胸は酷く痛んだ。湧き上がってくるどす黒い感情を夏野は力ずくで抑え込む。難しいことなど何も無い。いつもやっていることだから。
「でも七瀬って手が早そう。もうエッチした?」
 からかうような軽い声で真理と会話している女は尋ねる。真理はやっぱり苦笑を滲ませた声で、
「うん、まあ」
 と答えた。夏野の胸は鋭利な刃物で突き刺されたような激しい痛みを訴える。見えない傷からドクドクと血が流れているような錯覚に陥った。それ以上は聞いていたくないと、夏野のどこかが悲鳴を上げている。踵を返して逃げればいいはずなのに、けれども、夏野の足は凍り付いてしまったかのように動かなかった。
「ふーん。付き合って二ヶ月経ってないんだっけ? やっぱり早いなー」
「そうなの? 早いのかな? 私、初めてだったから分からないけど」
 普段の大人びた真理の様子からは意外とも思える、素直であどけなさを感じさせるような声だった。その声もそうだったし、その答えの内容も夏野を驚かせるには十分だった。そして、それは真理の会話相手も同じだったらしい。
「えっ! ?」
 と、驚いたような声が聞こえて暫しの沈黙が落ちる。それから、恐る恐るといったように、
「初めて…って、えっと…エッチするのが初めてだったってことだよね?」
 と相手は尋ねた。
「うん。そうよ。何? そんなに意外? 私って、そんなに遊んでるように見えるのかなあ。ちょっとショックかも」
「あ、ううん。遊んでるようになんか見えないよ? でも、真理って大人っぽいし、モテるから意外だったって言うか…」
「そんなにモテないってば」
「えー、でも良く告られてるじゃない? それに、今まで男の子とつきあったこと何度かあったよね?」
「うん。あったけど、エッチはしなかったよ」
「そうなの? 何で?」
「うーん。何となく。したいと思うほど好きじゃなかったのかも」
「はあ。でも、七瀬とはオッケーだったんだ?」
「うん。好きだから」
 凛としたはっきりとした声で真理はそれを肯定した。夏野はその答えを聞いて、一瞬息が止まった。呼吸の仕方を忘れてしまったように、息を詰め、それからぐっと自分の口を抑えてしゃがみこんだ。そうでなければ、大きな悲鳴を上げるか、あるいはあまりの気持ちの悪さに嘔吐してしまうかと思ったからだ。
 酷く、惨めだった。激しい嵐のような感情が、胸の中をグルグルと渦巻いている。どんなに抑え込もうとしても自分で制御できない激しさだった。
 真理の『好き』は美しい。真っ直ぐで、純粋で、汚れていないと思った。そこにセックスが介在していようとも、その純粋さは損なわれていない。
 妬ましいのか、憎らしいのか、それとも死ぬほど羨ましいのか。夏野には分からなかった。
 ガンガンと頭の奥で耳鳴りが聞こえる。それは、夏野の胸の中に微かに灯っていた希望の灯を簡単にかき消してしまった。

 『人を好きになると言う事は、それがどんな形であれ、とても純粋で尊いことだと俺は思うよ』

 蕗原が優しく穏やかに言った言葉が胸の中に去来する。嘘だ、と夏野は思った。それは嘘なのだ、と。
 それが証拠に、真理の『好き』と、夏野の『好き』はこんなにも違う。
 今、徹の顔を見たならば、夏野はきっと叫んでしまうだろう。今すぐに真理と別れろと。そして、夏野がそう訴えたならば、徹はすぐにでもその通りにするのだ。だが、それは愛情でも、恋でも、ましてや同情でもない。ただの罪悪感なのだ。そして、そんなどうしようもない徹の罪悪感に夏野はいつまでも縋り付いている。
 余りに惨めだ、と夏野は思った。惨めで、情けなくて、苦しくて、辛くて、悲しい。それなのに、夏野の涙腺は決して緩むことは無かった。泣き方など忘れてしまった。泣いてはいけないと、ずっと長い間、余りにも強く自分に言い聞かせてきたから。
 徹が、泣くなと、夏野が泣くのが嫌いだと言ったから。
 そんな子供の頃の約束にしがみついている、醜い自分。決して抜け出すことのできない呪縛のようだった。

 一体、自分の何が悪かったのか夏野にはさっぱり分からなかった。徹を好きになってしまったことが悪かったのだろうか。それとも。
 答えなど出るはずも無い。

 夏野はじっと蹲り、身動きすることもできなかった。
 隣の部屋から人の気配が消え去っても。






 初めて夏野と出会ったときのことを、徹は今でも鮮やかに覚えている。通りを二本挟んだ、すぐ近所の家に夏野は貰われてきた。血の繋がりはあるのだけれど、夏野の両親は本当の両親ではないのだと徹の親は教えてくれた。本当のお母さんは交通事故で死んでしまったらしい。寂しくて心細い思いをしているだろうから、優しくしてやりなさいと徹の両親は徹に言って聞かせた。徹は比較的、真っ直ぐで正義感の強い子に育っていたため、両親の言いつけには深く頷いた。可哀想な子なのだから、守ってやらなくてはならないと思った。
 実際、徹は他の子供達の心無いいじめや中傷から夏野を守り続けた。だが、それは今にしてみると、正義感というよりも、完全な独占欲からの行為でしかなかったように思う。
 初めて夏野のその綺麗な顔を見たときから、徹は夏野に夢中になった。夏野は、強烈に『守ってやらなくてはならない』と思わせる、男の庇護欲を酷く刺激する存在だったのだ。目元が寂しそうで、構ってやらなくてはならないと徹は思いこんで、とにかく夏野にまとわり付いた。
 夏野の笑顔を見ると、とても浮き立って、ふわふわとした気持ちになるから、正直に夏野の笑顔が好きだと言った。逆に、夏野の泣き顔を見ると胸が掻き毟られるような、いてもたってもいられない気持ちになるので、夏野の泣き顔を見るのは嫌いだ、自分が守ってやるから泣くなと傲慢なことも言った。そんな風に、圧倒的な勢いで徹が夏野を囲ってしまわなければ、もしかしたら、夏野は今のように徹に雁字搦めに縛られて苦しむことも無かったのかもしれない。だが、徹はそれを哀れだと思いこそすれ、開放してやるつもりなど毛頭なかった。
 夏野が自分に恋愛感情に近い感情を抱いているのも知っていたし、自分は決して夏野を抱くことは出来ないだろうと言う事も分かっていた。けれども、徹は夏野を手放すつもりは無かった。たとえ、それが夏野に途方もない痛みを与えることになったとしても。
 夏野は徹のことをホモフォビアだと思っているらしいが、実際は違う。同性愛に対して、さして抵抗も感じないし、嫌悪感もない。そもそも徹の初恋は夏野だったし、恋愛感情ということで言えば、夏野がそれを自覚するよりもずっと前に徹は夏野へのその感情を自覚していた。あまりにどうしようもなく、耐え切れない時に、何度か男とセックスしたことさえある。だから、夏野を抱けないのは夏野が男だからではない。夏野だから抱けない。けれども、その理由は夏野が信じ込んでいる理由とは全く違う。夏野は自分が同性愛者で他者に汚された穢れた人間だから、徹に拒絶されているのだと思いこんでいる。夏野が自分の気持ちを徹に打ち明けることが出来ないように、そう思い込ませているのは他でもない、徹自身なのだから当然だ。

 確か、中学三年生の終わり、卒業式直前のことだった。ほとんどの生徒は進路が決まっていて、夏野と徹も同じ高校に進学することが決まっていた。同じ中学校で学んだ仲間達と離れ離れになる時期が近づいているせいで、どこか感傷的な空気が蔓延していた。卒業前に、自分の気持ちを打ち明けたいという人間も少なからずいて、徹も何度か告白された。だが、それは別に取り立てて気にする問題ではなかった。
 例の事件のことを知っていた人間は殆どいない。学校の教師にすら知らされていなかった。夏野の両親と、徹と、徹の両親。恐らく、それ以外の人間は知らなかっただろう。心の病から、夏野は半年近く学校に通うことができなかったけれど、表向きは大きな病気をして手術をしたため、リハビリが必要だったから、と思われていた。だから、その男子生徒が夏野に告白したのは、純粋に、淡い感情を抱いていたからなのだろう。そもそも、その生徒とは進学先も違っていたし、二度と会わないと彼も思っていたから、男同士だというハードルを越えて告白したに違いない。だが、徹はそれさえも我慢できなかった。
 徹は基本的には随分と沸点の高い少年だった。ちょっとやそっとじゃ決して揺らがない、動揺しない、感情の起伏も少ない。それが夏野のことになった途端、嘘のように自制が効かなくなるのだ。その時もそうだった。
 夏野が驚いている前で、夏野に告白したその男子生徒を殴ってしまった。
「夏野は、お前みたいなホモ野郎じゃない! 夏野をバカにするな!」
 と夏野の目の前で言い放ってしまった。きっと、その生徒は酷く傷ついただろう。だが、徹は自分を抑えられなかった。そして、その生徒以上に夏野の方が傷ついた顔をしていた。青ざめた顔で、唇を震わせていた。だが、夏野は泣かなかった。
「徹。そんな風に、人を差別するようなことを言っちゃダメだよ。俺は、そういうのは嫌いだ」
 そう気丈に言い放つと、その男子生徒に向かって、
「徹が失礼なこと言ってゴメン。でも、ありがとう。気持ちは凄く嬉しかった。でも、俺は君の事、そう言う風には見れない。ごめんなさい」
 と、実に誠実な答えを返した。その時の夏野の顔はとても綺麗だった。あんなことがあっても、夏野は真っ直ぐなままだ。どこも汚れてなどいない。けれども、きっと、あの時、夏野は誤解しただろう。徹が心の奥底では夏野を汚れていると思っているのだ、と。
 徹はその誤解を敢えて解かなかった。むしろ、時折、言葉の端々に棘を含ませて夏野の誤解を深くした。そうでなければ、夏野を自分の隣に置き続けることが出来なかったからだ。
 夏野に恋情を告白されたなら、徹には拒絶するしか出来ない。そうすれば、夏野は徹から離れていくだろう。もしくは、夏野が徹に対する恋を諦めてしまったら、やっぱり徹から離れていってしまうかもしれない。そんな事はとても耐えられないと思った。夏野が自分から離れていくなど我慢ならない。自分以外の人間に心を許すなど、あってはならないのだ。だから、徹は、夏野が一番苦しむ方法を取るしか無かった。
 夏野の恋心を、まるで無いもののように綺麗さっぱり無視する。その癖、自分にとって一番大切な存在で優先するべきなのは夏野しかいないのだと、まるで呪詛の言葉のように囁き続けた。
 だから、夏野は徹への恋情を諦めることも、打ち明けることも出来ず、こうして徹の隣にあり続けている。
 だが、それが、最近、バランスを崩し始めているのを徹はひしひしと感じていた。

 蕗原廉。

 徹が真理と付き合い始めた頃から、妙に夏野の周りをうろつくようになった編入生だった。
 徹が女と付き合うのは、所詮は夏野に対するアピールでしかなかった。自分は完全なノーマルで、同性愛なんて受け入れられないと思っているように演じるための手段でしかなかった。
 だから、その相手はいつだって、ドライで割り切りのいい、後腐れの無い年上の女ばかりだったのだ。恋人というよりも、むしろセフレと言った方が良い、そんな相手ばかりだった。
 茅野真理もそんなタイプの女だと踏んだから、付き合うことを了承したのだが、初めてセックスしたときに、それが誤算だったことを知り、徹は酷く後悔した。
「別に、徹が罪悪感を持つ必要なんて無いわよ? ちゃんと最初に約束したとおり、三ヶ月経ったら別れてあげるから」
 と、真理はカラカラと笑っていたけれど。
「徹が本当に好きな人って、日向君なんでしょ?」
 真理に、真剣に問い詰められた時、徹は、
「そりゃ、一番仲の良い幼馴染なんだから、嫌いじゃない」
 と曖昧に答えた。真理は、何もかも分かったような苦笑いを浮かべて、
「そうじゃないでしょ、恋愛感情で好きってコト」
 と言ったが、やはり徹は否定した。
「恋愛感情なんかじゃない。俺は夏野を抱きたいとは思わない」
 きっぱりとそう言った徹を真理は笑い飛ばした。その瞳に、微かな寂しさを浮かべながら。
「自分が、今、凄く不自然なコト言ってるって自覚ある? 抱きたいと思わないんじゃないでしょ? 抱きたいと思うのに抱けない、の間違いじゃないの?」
 真理のその言葉を徹はさすがに否定できなかった。自覚はあるからだ。
 いずれにしても、徹は夏野を抱けない。夏野の気持ちを受け入れることは出来ない。


 ……なぜなら、徹は自分のことをどうしても許せないからだ。





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