purify - 2 ………… |
夏野は一人でポツンと暗闇の中に立っていた。いつもの夢だ。ああ、またこの夢を見るのか、と夏野は自覚しながらその夢の中にいた。夏野の手には刃物が握られている。これもいつもと同じ。 少し離れた場所に、何かがぼんやりと浮き上がってくる。白い肌を晒している獣だ。裸のまま首輪につながれ、四つん這いで這い蹲って前から後ろから男に犯されている。人間の形をしているけれども、それは人間ではなくて獣なのだ。 暗闇に浮き上がっている白い尻がユラユラと揺れては男を誘い、強請る。その姿は酷く浅ましく、卑しく、醜くて、汚らしい。夏野は吐き気がする、と思った。なんておぞましい。 喜悦に慄く嬌声が聞こえる。それはあくまでも声で、言葉をなさない。獣なのだから言葉など知っているはずも無い。こんな汚物を放ってはおけない。殺してしまわなくては、と夏野は強迫観念にとらわれて刃物を振り上げる。何度も何度もその獣を刺し、切り付け、処分しようとした。けれども、何度刃物で切り刻んでも、体中血まみれになってもその獣は決して死なない。その、あまりの生命力の強さに夏野は怯える。早く殺してしまわなければいけない。死んでくれ、と悲鳴のように懇願しながら刃物を振り上げる。それでも獣は死なない。 『なぜ? 』 と、声を上げたのは獣だった。 『なぜ、そんなことをするの? 』 と。そうしてゆっくりと血まみれの顔を上げる。その顔は夏野と同じ顔。毎日鏡で見る顔と全く同じ顔だった。夏野は分からなくなる。本当の自分はどっちなのか。刃物を振り上げているのが自分なのか、血まみれのおぞまし獣が自分なのか。夏野は狂ったような悲鳴を上げて腕を伸ばす。 そこで目が覚めた。 ぐっしょりと寝汗をかいて、パジャマが湿っている。悪夢にうなされて目が覚めたせいか、いつも起きる時間よりも若干早い時刻だった。それでも寝なおす気にはならないので夏野はそろりとベッドから降りる。目がチカチカとして立ちくらみを起こしたが、なんとかそれをやり過ごした。 分かっている。あれはただの夢だ。夏野の世界はこんなにも明るいではないか。きちんと、こうして、何度だって朝が来る。だから闇に引きずり込まれて出られなくなったりしないはずなのだ。 誰でも良いから誰かの顔が見たい、と夏野は急かされて自室を出る。階下からはトントンという包丁の音が聞こえ、微かに味噌汁の匂いが漂ってきていた。夏野はその人の気配にほっとして階段を下る。 ジャラリと音を立て、木の玉を連ねた簾を掻き分け台所に入ると母が振り返ってくれた。 「夏野? 早いわね? もう起きたの?」 そう言いながら母は慌てたように目玉焼きを皿に盛り付けようとする。テーブルの上には作りかけのお弁当が置かれていた。その日常に夏野は安堵のため息を零す。 「ん。何だか夢見が悪くて目が覚めた」 緊張感が欠けてしまっていたのだろう。思わず正直にそうばらすと、母の肩が微妙に揺れた。夏野はそれを目の端に捉え、しまったと後悔する。慌てて、 「昨日、夜遅くまでホラー映画見てたせいだと思う。母さん知ってる? 呪怨って映画。すっげー怖いの」 と夏野が誤魔化すと、母はあからさまにほっと肩をなでおろしたようだった。 「名前は聞いたことあるけど。私、怖い映画嫌いだもの。夏野も良く見るわね?」 「うーん。怖いもの見たさっていうの?」 夏野がおどけたように言えば、母は楽しそうに、 「男の子ねえ」 と笑った。これで良いのだ、と夏野はほっとする。母に余計な心配を掛けてはいけない。何もかもを完全な形に保っておかなければ夏野は怖いのだ。この場所からはじき出されたならば、夏野は簡単に闇にとらわれてしまうだろう。胸の奥底にじっと形(なり)を潜めて夏野を侵食する機会を待っている闇に。 だから夏野は綺麗に笑う。もう何もかも忘れてしまったのだと明るい、屈託の無い笑顔で。 夏野と夏野の両親は正確には本当の親子ではない。だが、血の繋がりが無いわけでもなかった。わずか六歳にして交通遺児になってしまった夏野を、今の両親が引き取ってくれたのだ。夏野の本当の母と、今の父が姉弟だった。 夏野はいわゆる私生児で、父親は分からなかった。母はとにかく美しい人だったと夏野は記憶している。数少ない残された写真を見ても、やはり美人だと思う。その写真を見る限り、夏野は母親似だと思われた。色素の薄い髪や瞳、白い肌、顔立ちが似ている。けれども、一番似ているのはどこか頼りない、寂しげな目元だった。男好きしそうな、ともすれば媚びているようにも見える目元だ。夏野はそんな自分の顔があまり好きではない。綺麗だと良く大人からも友人からも褒められてきたけれど、やはり好きではなかった。 夏野が今の両親に引き取られて間もない頃は、編入した幼稚園でよくいじめられた。夏野の顔が変に綺麗だったせいで、尚更、他の幼児の興味を引いてしまったのもいじめられた一因だったのだろうが、幼い夏野にそれが分かるはずも無い。 『バカ』だの『マヌケ』だの『変な顔』だの『不細工』だの散々な言われようだったが、それよりももっと夏野を傷つけたのは『バイタの子』『アバズレの子』と言う中傷のほうだった。まだ幼稚園に通う子供がそんな言葉を知っているはずが無い。その言葉の意味など尚更だ。彼らは恐らく、自分の親が口さがなく話していた噂からその言葉を拾い上げてきて夏野にぶつけただけなのだろう。夏野だって、その言葉の意味など良く分からなかった。ただ、そこにはただの悪意以外のものが含まれていることだけは分かった。『侮蔑』と『嘲笑』。それが含まれているのだと。夏野は、だからその言葉を恐れた。必要以上に萎縮した。そんな夏野に救いの手を差し伸べてくれたのが徹だったのだ。 徹は小さな頃はとにかく真っ直ぐで、素直な子供だった。夏野の綺麗な容姿に興味をひかれれば素直に夏野を構った。夏野が好き、と屈託なく言っては夏野の手を引いて一緒に遊びたがった。夏野をいじめる子供達に憤り、夏野を庇ったり、仕返しをしたりした。 「夏野が泣いているのを見るの嫌いだ」 と徹は言った。 「僕が夏野を守ってやるから、夏野は泣いちゃダメ」 とも言った。他に拠り所の無い夏野にとって、徹は絶対的な存在で庇護者だったから、素直に頷き、指きりまでした。徹が守ってくれるのなら怖くない。徹が嫌いなことをしてはいけない。そう思って夏野は泣くのを我慢することを覚えた。徹が、 「夏野の笑った顔を見るのが好きだ」 と言えば、殊更笑顔でいようと努力した。そして、それは今でも続いている。 夏野の両親は、本当の子供ではなくとも夏野をわが子のように可愛がり愛してくれた。それは今でもそうだ。母は、どうやら不妊症の気があるらしく、結婚して十三年経つ今まで一度も妊娠したことが無い。だが、夫婦仲は夏野から見ても恥ずかしくなるほど良かった。だから尚更子供を欲しがり、夏野がこの家に来た時には二人とも踊らんばかりの喜びようで、戸惑ってしまうほどの歓迎振りだった。それは酷くありがたい話で、夏野は感謝してもしきれない。実に幸運で、幸福なことなのだと思う。両親のことを大好きだと思っているし、本当の親のように愛してもいると思う。だから、この暖かく安全な場所を失いたくないのだ。 両親を心配させてはいけない。悲しませてはいけない。引き取った子供は素晴らしい子供だったと思われたい。夏野が完璧な良い子でいようとするのは、それも理由の一つだった。 夏野は一度、この両親を悲しませている。もしかしたら、失望させてしまったかもしれない。こんな汚らしい子供はいらないと、本心では思っているのかもしれないと、時折、夏野は恐怖に駆られる。もちろん、両親から、そんな気配を一度でも感じ取ったことなどなかったけれど。 だから、夏野は尚更完璧を目指す。それは、もはや無意識の強迫観念のようなものだった。 勉強が出来て、性格も良くて、顔も綺麗で、いつもニコニコ笑っている。 そんな子供でいる限り、両親を悲しませることはないはずだ。きっと。 ………たとえ、本当の夏野が醜くて卑しくて恐ろしい汚い獣だったとしても。 いつもより早い時間に学校へ向かおうと玄関を出ると、家の門の辺りに背中を凭れ、手持ち無沙汰にしている徹の姿が目に入った。夏野は小さなため息を一つ吐く。良きにしろ悪きにしろ、付き合いが長いと行動パターンを簡単に読まれてしまうらしい。幼馴染という関係は、こう言うところが厄介だと夏野はげんなりした気持ちになった。 「はよ」 短く挨拶をして、徹の横をそのまま通り過ぎようとしたが、そうはいかなかった。腕を強く捕まれて引き止められてしまった。 「何で、昨日先に帰ったんだよ」 咎めるような口調で問い詰められる。やっぱりその話かと思ったら夏野はやはりため息が零れた。 「用事があったから」 「嘘つけよ。何の用事だか言ってみろ。お昼だって、途中でどっかに行ってどういうつもりだよ?」 「どういうつもりもなにも。俺がいる方が変だって」 「なんで変なんだよ?」 「徹と徹の彼女が一緒にいるのに俺がいたら邪魔だろう」 「どうして? 茅野には夏野の方を優先させるって最初に言ってある。お前が気にする必要なんて無い」 「だから、それが変だって言ってるんだろう! ? どこに彼女よりただの幼馴染を優先するバカがいるんだよ!」 らしくもなく夏野は苛々とした口調で言い捨てたが、やはり徹は引く気はないようだった。 「バカで悪かったな。俺は、女より夏野の方を優先するよ」 人を小馬鹿にしたようにあっさり言う徹に、夏野は脳が沸騰するかと思った。だから、どうして、こんな馬鹿げたことを徹は言い続けるのか。こんな茶番を演じ続けるのか。そもそも、徹が夏野を大事だと言えば言うほど、夏野と一緒にいようとすればするほど、夏野は監視されているような窮屈な閉塞感に追い詰められると言うのに。 耐えられない。もう、徹の顔を見ていられない。作り笑いさえ作れない、と夏野は徹の顔を睨み上げた。ローズグレイの徹の瞳がじっと夏野を見詰めてくる。その瞳が蕗原のそれと微かに重なった。まるで、夏野の何もかもを見透かすようで。 徹は何もかも分かっているはずだ。夏野が徹に抱いている感情さえも。けれども、それを綺麗に無視して無かったことにする。いっそ、それを暴いて拒絶してくれたほうが夏野にとっては救いがあったのかもしれない。夏野の醜さや汚さを突きつけて、徹から離れてくれれば。それは身を切るような痛みを伴うかもしれないけれど、それでも、今、夏野がはまり込んでいるような、前にも後ろにも進めない、身じろぎさえ出来ない状態よりはましなような気がした。だが、徹はそれを許さないのだ。 夏野の感情も許さない。二人の距離が変わることも許さない。だた、夏野に清廉潔癖であれと無言の強要をするだけ。それが夏野のバランスを酷く危ういものにしているというのに。 以前は徹の隣が一番居心地のいい場所だった。当たり前のようにそこが自分の場所だと夏野は思い込んでいた。徹が夏野を大事だと思ってくれるように、夏野だって徹が大事だと思っていた。けれども、それはいつのまにか変質してしまったのだ。あの出来事が無理やり変質させてしまったのかもしれない。いや、むしろ、それ以前から変質していたのを、あの事件が審らかにしただけなのだといった方が正確だったろう。 「…もう…もういい加減にしてくれよ。とにかく、俺はもう徹とは昼も一緒に食わないし、帰りも別にするから。……お前は、茅野先輩と一緒にいた方が良い。それがちゃんとした形だと思うよ」 徹の目を真っ直ぐに見ていられず夏野は顔をそむけて、力ない口調でそれだけを告げる。そして、そのまま徹を無視するように学校に向かって歩き始めた。徹は何も言わず、ただ、すっと夏野の横に並ぶ。だが、夏野はそのまま学校にたどり着くまで一切口を開くことは無かった。今、自分は一人ぼっちなのだと必死に言い聞かせる。隣には誰もいない。誰もいないはずなのだと。 何となく予感がして、昼休み、温室の同じ場所に夏野が行くと、やはり蕗原がベンチに寝そべり、ぼんやりと天井を見詰めていた。何か言いたげな徹を撒いたは良いが、どこに行けばいいのか途方に暮れて、気がつけば夏野の足はここに向いていた。夏野がベンチに近づくと、枝を踏みしめるような足音がして、蕗原は、ふっと顔を夏野のほうに向けた。それから薄い笑みを浮かべる。 「座ったら?」 そう言いながら、自分の隣の場所を空けた。夏野はフラフラと近づき、促されるままその場所に腰を下ろす。 「今日は、七瀬と一緒じゃないのか?」 からかうような口調で蕗原は尋ねてきたけれど、夏野には反論する力も残っていなかった。フワリと力の抜けた笑いを零す。 「徹は彼女と一緒にいるんじゃない?」 無防備に夏野が答えると、蕗原はそれ以上からかうようなことは言わなかった。ただ、夏野の頭をその大きな手で押しやると、自分の足の上に半ば強引に倒す。 「弱ってる?」 真上から夏野を覗き込んでくる、眼鏡越しのその眼差しは、どこか柔らかで優しさを含んでいるようだった。疲れている心がそれに寄りかかることを望んで、夏野は思わず素直に頷いてしまう。 「……小さい頃からさ、よく大人は言っただろ? 一生懸命がんばりなさい。良い子にしなさい。って。…でも、一生懸命、必死にがんばっても、どうしても報われないことって、あるよね」 夏野が取り留めの無い口調でそんなことを言うと、蕗原はサラリとした夏野の色素の薄い髪をやんわり梳いた。それが何だか心地よくて、夏野はすっと目を閉じる。 「歴史でも習っただろ。『白川の清き流れに魚住まず、濁れる田沼今は恋しき』って」 だが、唐突に蕗原が脈絡の無いことを言い始めたので、何かと思いもう一度目を開いた。キョトンとした不思議そうな表情で、蕗原の言葉を待っていると、蕗原は今まで見たことの無いような、少しだけ困ったような苦笑をこぼした。 「綺麗なだけじゃ人間は生きていけないんだよ。潔癖症なのも良いけどな。弱かったり、醜かったりする自分も認めてやれよ」 夏野がもがいている場所を的確に指摘するような言葉に夏野は目を見開く。驚いたような顔で、じっと真っ直ぐに蕗原の顔を見詰めていると次第にその顔が降りてきて、前回と同じく、唇が軽く触れ合った。だが、そこに性的なものは感じられない。それが夏野には不思議だった。けれども、性的なものが感じられなかったからこそ夏野は無用心にも体の力を抜く。抜いて目を閉じた。 「一度許してしまうと、日向は危なっかしいほど無防備だな」 「…そうかな?」 「そうだろ。俺がキスしても怒らないのはなぜ?」 蕗原に尋ねられて、夏野は今更のように、やっぱりあれはキスだったのかと思う。夏野が想像していたキスというものに比べて、あまりに自然で、それでいて素っ気無かったのでそれがキスだとは思えなかったのだ。 「…嫌じゃなかったから」 答えとしては完全なものではなかっただろうが、その時の一番近いと思われる回答を夏野は口にした。蕗原は、困ったように笑う。 「日向は七瀬が好きなのか?」 心が弱っているまま、上手に嘘をつくことも出来ずに夏野は、 「うん。好きだ」 と答えた。 「好き」にはいくつも種類がある。幼馴染としてや、友人としての「好き」もあるだろうが、蕗原が尋ねているのは明らかに『恋情』を含んだ「好き」のことだと夏野には分かっていた。分かっていたけれども、正直にそれを肯定した。夏野が予想していた通り、蕗原はそれを否定するような言葉は一切口にしなかった。 「そうか」 とだけ相槌を打つ。 「軽蔑したり、気持ち悪かったりしないの?」 蕗原の穏やかさが不思議で、そして少しだけ救われたいという期待で夏野は疑問を口にした。蕗原は夏野の髪を優しく梳いたまま、 「しないな」 と短く答えた。 「なぜ? 俺は男なのに、男の徹が好きだって言ってるのに。しかも、しかも、俺は徹に女みたいに……」 抱かれたがっているのだ、とは最後まで言えなかった。蕗原からは決して拒絶の空気は漂っていない。それどころか、夏野をありのまま受け入れてくれるような穏やかさがあると言うのに、それでも夏野は言えなかった。何かが胸に痞えているように息苦しくなる。こんな自分は異常だし、おかしい。浅ましくて卑しくて汚らしい。 いつでも夏野を解放することの無い闇がジワジワと広がっていくのはこんな時だ。 夏野はおかしくなどない。間違っていない。汚れてもいない。綺麗なままなのだと、何度も徹は夏野に言い聞かせた。夏野はただの被害者で、何の落ち度もないのだと。 けれども夏野には分かっていた。あんなことがあるずっと以前から薄々と気がついていたのだ。自分が一度だって女の子を好きになったことが無かったことに。少しずつ芽生えてくる性的な興味の対象は、幾ら否定しても徹しかなかったことに。 本当に、完全な被害者だったのだろうかと夏野は今でも疑問にとらわれる。無意識に夏野が誘っていたことを完全に否定できるのだろうか。第一、何度も『彼』だって言っていたはずだ。お前が誘ったんだ、お前が悪いんだ、と。 そもそも、こんな風に自分自身を被害者から加害者へ転化させようとすることこそが、夏野の心に深く残った後遺症の証だったけれど、夏野自身がそれを理解することは無かった。 だから、夏野は気がつけば自分を責めている。自分は人間の屑なのだと不必要に自分を貶める。自分で自分の心にザクザクと傷を付けると少しだけ安心するからだった。 「人を好きになると言う事は、それがどんな形であれ、とても純粋で尊いことだと俺は思うよ」 深みに沈みかけていた夏野の思考を、すいっと容易く掬い上げたのは蕗原のそんな言葉だった。ハッと目を開けば、どこか慈しみを感じさせるような眼差しと出会う。 人を好きになると言う事は、とても純粋で尊いこと。 蕗原の言葉は、夏野の中に驚いてしまうほどすんなりと落ちてきた。そして、そのまま夏野の心の中に住み着いてしまう。暗闇の中、微かな灯のように、夏野の救いのように。 緑の匂いの中、夏野は少しだけ癒されたような気がして、静かに目を閉じた。 |