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purify - 1 …………

 ふわりと鼻先をくすぐる緑の匂いに、ふ、と日向 夏野(ひなた なつの)は目を覚ました。はっと顔を上げるとがらんとした人気の無い教室の光景が目に入る。いつのまにか、うたた寝をしてしまっていたのだろう。黒板の上の時計は1時を少し過ぎた時刻を示している。待ち合わせの時間は確か12時半だったはずだ。何か、予定でも狂ったのだろうかとクルリと首を回して、それから、夏野はハッとして息を呑んだ。自分のすぐ後ろに一人の少年が立っていたからだ。
「起きた?」
 夏野を見下ろしている眼鏡越しの深い瞳。印象的なその顔を、夏野は始業式に一度見ただけで完全に覚えてしまっていた。脳裏に焼きついたのは、その整った顔よりも、何もかもを見透かしてしまうような目の方だった。ローズグレイの虹彩が夏野の大事な人ととても似ている。
「えっと…蕗原、だよな?」
 けれども、その顔と共に名前までもすっかり覚えてしまっていることを知られてしまうのが何となく嫌だったので、夏野はそんなふうに、確認するような言い方を選んだ。
「うん? そう。名前覚えてたんだ? 一応、委員長だし?」
 そんな夏野の何かを見抜いたかのように、蕗原 廉(ふきはら れん)は揶揄するような口調で夏野の前髪をスッと気軽に掬った。節ばった、男らしい手が視界の端を掠める。蕗原はそこそこ背は高いが、だからといって厳つい体格をしているわけではない。だが、その手が意外と大きいことに夏野はその時初めて気がついた。一瞬、その手に何かを連想しかけ、だが、非常ベルのような甲高い警鐘が頭の中で鳴り響いた。反射的に夏野は体を引く。
「な…何?」
「いや、これって地毛? 脱色とかじゃなくて?」
 唐突に夏野が離れたことを、だがしかし蕗原は気にした風も無く、ただ、感心したように夏野の髪をじっと見詰めた。夏野は小さな頃から全体的に色素が薄い。瞳も淡い栗色だし、髪の毛も似たような色だった。肌もかなり色白だ。中学生の頃は、脱色をしているのではないかと生活指導の教師に目をつけられたこともある。だが、正真正銘、生まれつきその目と髪の色だった。
「あ、うん。地毛…だけど」
 脈絡の無い会話に戸惑いながらも夏野は聞かれた事に素直に答えた。蕗原は「ふーん」と気があるのか無いのか分からない相槌を打つ。その自然体が夏野にはなぜか居心地が悪く、知らず、視線を別の方向に泳がせてしまう。ぎこちない表情で、
「…何か、用事でもあった? もうみんな帰ってるけど?」
 と尋ねれば、蕗原は少し上のほうに視線をやった。
「ああ。担任に呼び出されたから職員室に行ったんだ。でも岡路先生、職員室じゃなくて数学準備室に机があるって言われてさ。数学準備室ってどこか分からなくて。誰かに聞こうかと思って教室に戻ってきたら日向が寝てた」
「ああ、そうだったんだ」
 中高大とエスカレーター式で上がっていくこの私立高校に、蕗原は2年になってから編入してきた。だから、まだ、構内のことが分かっていないのだろう。新しい学年が始まってから日が浅く、まだ一週間しか経っていない。
「起こしてくれれば良かったのに」
 そう言いながら夏野が立ち上がると、蕗原は眼鏡の奥の目を細め、意味深な笑みを浮かべた。
「うん。でも、もったいなかったから」
「? もったいない?」
「日向って項と首が綺麗なのな。ずっと見てた」
 そう言いながら、蕗原はすっと触れるか触れないかの微妙なタッチで夏野の首筋に触れた。その感触に夏野の背があわ立つ。反射的に身をすくめると、蕗原は押し殺したような笑い声を上げた。
「ゴメン。もしかして首弱い?」
「…くすぐったいのダメだから」
「悪い」
 口で言っている割に、少しも悪いと持っていないような表情で蕗原は夏野の横に立つ。いつも隣に立つ人間とほとんど同じ身長の蕗原に、夏野は違和感を拭えなかった。その場所はただ一人のためだけに空けてある場所のはずなのに、と、珍しく感情的な稚拙なことを考えた。それに気がついたわけでもないのだろうが、蕗原は微かな苦笑をその顔に浮かべる。そんな表情を浮かべると、少しばかりイメージが変わるのだと夏野は意外に思った。
 蕗原は決して浮いていると言うわけではないが、どこか独特の雰囲気を持っている。積極的に人の輪の中に入るのを好まないのかもしれない。だからといって協調性が無いわけでもない。必要があれば不思議とクラスにも溶け込んでいる。この学校にはエスカレーター式にありがちな排他的な空気が存在することは否めない。外部編入の生徒は最初中々この空気になじめなかったりするが、蕗原にはそれはあてはまっていないようだった。
 じっと自分の横顔に視線を送ってくる蕗原に居心地の悪さを感じながらも夏野はそれを敢えて無視した。苦手なのはその瞳なのだ。顔立ちはさして似ているとも思わないが瞳が似ている。あまりに良く似ている。
 夏野の何もかもを見透かしているかのような揺らぎの無い瞳。それが恐ろしかった。
「数学準備室、図書室の中にあるんだ。分かりづらい場所だから……案内する」
 居心地の悪さを誤魔化すように、夏野がそう申し出れば蕗原は短く礼を言った。
 人気の少ない土曜日の午後の校舎内を蕗原と並んで歩く。今まで、蕗原とまともな会話をした事は無かったので夏野は何を話して良いのか分からずに口を噤みがちだったが、蕗原は別段沈黙が嫌だとは思っていないようだった。
 昼食を取り終えた運動部の生徒達がそろそろ活動を開始しているのだろう。キンというバットがボールを弾く音や、掛け声、靴の裏が体育館の床を蹴るキュッキュと言う音が聞こえてきた。校舎内に人気が少ないので、尚更、音がよく聞こえる。この静けさが夏野は割と好きだった。
「そういえば、日向はなんで教室に残ってたの?」
 ぼんやりと前を見て、取り留めの無いことを考えていたので、夏野はハッと顔を上げ蕗原の顔を見てしまう。真正面から捉えたそのローズグレイの瞳は、やはり夏野の何かを見抜いているような真っ直ぐなそれだった。
「…ああ。人を待ってた」
「七瀬(ななせ)?」
 間髪入れず問われて夏野は絶句する。まだ蕗原がこの学校に来て一週間だ。これが、小学校時代からずっと一緒だった幼馴染に言われたのなら夏野は驚かない。誰から見ても分かるほど、夏野は七瀬 徹(ななせ とおる)といつでもつるんでいるからだ。けれども蕗原がすぐに徹の名前を出すのは夏野には不自然に思えた。考えられるのは二つ。
 蕗原が非常に人間観察に優れた人間であるか。もしくは。もしくは夏野だけを特に観察していると言う事だ。どちらが正解だろうとも、夏野にとってはありがたくない。もやもやとした不安を感じながらも夏野は口を引き結んで頷いた。
「ふーん。ちょっと前に空き教室で見かけたけど」
「空き教室?」
 なぜそんな場所にいるのだろうかと夏野が無防備な表情で首を傾げると、蕗原は苦笑混じりに答えをくれた。
「女と一緒だったぜ? なんか、告られてるっぽかったけど? その後抱き合ってキスでもしそうな勢いだったからさすがに逃げてきた」
 予期せぬタイミングでの予期せぬ言葉に夏野の胸はいともたやすくザックリと切り裂かれる。今までだって何度も同じ思いをしてきたはずなのに、どうして、その度に襲ってくる痛みは衰えもせず、褪せもしないのか。いっそ、それが不思議で滑稽だった。
 腹の奥底で目を覚ましかける醜くて卑しくて恐ろしい汚い獣を夏野は理性でもって抑えつける。いつもやっていることなのだから手馴れたものだ。いっそ不自然なほど鮮やかな、綺麗な笑顔を浮かべて夏野は蕗原を見上げた。
「へえ。アイツもてるからなあ。手も早いし」
 そう言って大袈裟に肩をすくめて見せる。仲の良い幼馴染の所業に呆れている親友の図を上手に演じる。これに騙されない人間はいない。いるとすれば、それは徹本人だけのはずだった。だが、蕗原はそんな夏野を目を眇めて眺めた。それからフッとどこか皮肉を含んだような笑いを漏らす。
「俺、悪いこと言った?」
「え?」
「だって、日向、泣きそうな顔してるからさ」
 夏野はそれにはぐうの音も出ないほど言葉を失ってしまった。
 老若男女を問わず、夏野の全開の笑顔には誰だって籠絡される。夏野の顔は実に造作が整っているし、その纏う雰囲気も清潔感溢れる好ましいものだった。更にそれが笑顔になったりするとそこに鮮やかさと艶が加わる。天使の微笑だなどと夏野本人は笑い転げてしまうような形容詞をつけられてしまったことさえあるのに。
 そもそも夏野は泣いたことが無い。徹が夏野の泣き顔を見るのが嫌いだからだ。俺が守ってやるから泣くな、と生意気なナイトぶりを発揮して徹が言ったのは、まだ二人とも六歳になるかならないかの小さな頃の話だ。けれども、夏野はそれを忠実に守り、今まで殆ど泣いたことが無い。たった一度の例外を除いては。
 だから、夏野の笑顔は時々泣き顔の代わりだったりするけれど、それに気がついているのは多分何人かのごく近しい人間だけのはずだ。だのに蕗原は気がついた。たったの一瞬で。
 この人間は危険だと夏野の本能が警鐘を鳴らす。近づいてはいけない。そうでなければ何もかもを暴かれてしまう。そんな気がした。
「何の話? 変な事言うんだね?」
 作り物の完璧な笑顔を浮かべたまま夏野が問えば、蕗原は少しだけ鼻白んだように眉を上げた。だが、それ以上は何も言わなかった。そうこうしているうちに図書室の中にある数学準備室にたどり着いてしまう。夏野は
「ここだよ。じゃあね」
 と短く言ってそのまま踵を返そうとした。
「待てよ」
 だが後ろから蕗原に腕を引かれる。蕗原は振り返った夏野に嘲笑のような笑いを向けると、
「頭も良くて、性格も良くて、顔も綺麗で、いつもニコニコ笑っている人間なんて嘘だと思わないか?」
 と挑発的な口調で言った。明らかに夏野の評判に対する当て擦りだった。だが、夏野は一分の動揺も見せない。誰からも綺麗だと言われるとっておきの笑顔を浮かべて蕗原の目を真っ直ぐに見返した。
「俺は人の努力を否定するような人間は大嫌いだよ」
 普段の夏野らしからぬ棘のある嫌味を吐き出すと、蕗原はいくらか表情をゆるめて、今度は苦笑に見える笑いを浮かべた。
「なるほど。完璧主義か、でなければ極度の潔癖症と見た」
「そんなことないよ」
 即座に否定したことが、逆に嘘臭く感じられて自分で答えた言葉に夏野はげんなりしてしまう。そんな夏野にさえ気がついたように蕗原は面白そうに笑った。
「たまには肩の力抜いたら?」
 それだけを言い残し、ポンと軽く夏野の肩を叩くと、蕗原は夏野の言葉を待たずに数学準備室に消えてしまった。
 夏野は閉まった扉をぼんやりと眺める。
 完璧主義か極度の潔癖症。
 言い得て妙だと思う。敢えて言い表すならまさに自分はそれなのだろう。だが蕗原は気がついているのだろうか。本当の夏野が人間の屑だから完璧であろうと努力するのだと。潔癖症なのは、醜く薄汚れている自分を知っているからだと。
 考えても詮無いことと夏野はフッと暗い笑みを零す。教室に戻らなくてはならない。きっと徹が待っているから。








 戻った教室で、徹は椅子に腰掛け文庫本を何気なく読んでいた。
「待った?」
 夏野が声を掛ければふいと視線を上げる。見詰めてくるローズグレイの虹彩が、先ほどまで話していた蕗原と重なった。何もかもを見透かすような瞳。だが、徹は決して夏野を問い詰めない。追い詰めない。その代わり、徹のポーカーフェイスは何年も付き合っている夏野でさえ全ては読み取れないものだった。
「いや。お前こそ待ってたんじゃないのか?」
「ああ、うん。でも、ちょっと蕗原につかまってた」
 隠し立てすることも無い。素直に夏野が告げると徹は訝しげに眉を顰めた。
「蕗原…?」
「二年から編入してきた外部生」
「…ああ、あの眼鏡」
 蕗原の顔は客観的に見たらそれなりにいい男だろうし、女受けもしそうだが徹にかかれば『眼鏡』の一言で表されてしまうらしい。それがおかしくて夏野は思わず噴出した。朗らかに笑いながら、その勢いのまま尋ねる。
「蕗原が偶然見たって言ってたけど。また告られたって?」
「……ああ」
「付き合うの?」
「まあな。今、誰とも付き合ってなかったからな」
「ふうん。珍しいね。同じ学校の人と付き合うの」
 徹は普段、同年代の女とは付き合わない。大抵5つは年上の女、それも社会人の女を選んで付き合っている。恋愛に依存しすぎる人間は嫌いだ、というのが徹の言い分で、高校生位の年代の女は例外なく恋愛にのめりこむので鬱陶しいという持論だった。実に傲慢で、フェミニスト団体から訴えられそうなポリシーだが徹に言い寄ってくる女は後を絶たない。その傲慢さも徹の魅力になってしまっているのだろう。
 だからと言って、徹が全てのことに対して傲慢かと言うと決してそうではないのだ。女よりもむしろ男に支持されているのは友達づきあいに関して決していい加減ではないからだろう。それは、幼い頃からの夏野に対しての誠実な態度にも現れていた。その上、妙なカリスマ性があって統率力があると来ている。それを本人が鬱陶しいと本気で思っている所まで徹の人気に拍車を掛けていた。
「茅野はバカな女じゃないからな」
「茅野? 茅野って、まさか、茅野真理先輩?」
「ああ」
 徹の口からこぼれた名前に夏野は驚く。学校きっての才女と誉れも高い才色兼備の一つ先輩の女生徒。10年ぶりの女生徒会長を見事にこなしている彼女には親派も多いので、それはそれで大変だろうなと夏野は苦笑いを零した。だが、真理なら頷ける。徹と並んでも遜色ないだろう。
「…それじゃ、これからはお昼一緒に食べたり、帰ったり出来ないな」
 苦笑混じりに夏野が言えば、徹は訳が分からないといった風に眉を顰めた。
「何で?」
「え? だって…彼女と一緒にお昼食べたり、帰ったりするだろ?」
「夏野が都合の悪い時はするかもな。でも、基本的には女を優先させる気なんかない」
 はっきりと言い切った徹に夏野は絶句する。普通は付き合い始めたばかりの彼女の方を友人より優先するだろう。そもそも、そんな付き合い方をしたら真理に愛想をつかされるのではないかと思った。
「徹…いくらなんでも、それ酷いだろ? 茅野先輩を優先しろよ」
 呆れたような口調で夏野が諌めると徹はフッと表情を改めて夏野を真正面から見据えた。何もかもを見透かすような深い瞳が夏野の深層を探り当てようとする。だが、夏野はそれをさせなかった。すっと慣れたように自然な仕草で視線を逸らす。
「今までだって夏野より女を優先させたことなんてないだろ?」
 少しばかり鋭さを感じさせる口調で徹は言う。そして、その言葉は事実だった。だからこそ、それが夏野を雁字搦めにして身動き出来なくしていると言うのに。
 新しい彼女が出来たと聞くよりも、彼女とのセックスを匂わせられるよりも、平気で夏野が一番大事なのだと嘯くその言葉が何よりも夏野を傷つける。むしろ、夏野の一番痛い場所を知り尽くしてわざと傷つけようとしているのではないかと思えるくらい。
 息が苦しい、と夏野は思った。
 呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。一体、いつからこんな風にギクシャクとした空気が漂うようになってしまったのか。行き着く答えは一つだけだ。
 あの時から夏野は作り笑いばかりを浮かべている。徹は完璧なポーカーフェイスを覚えてしまった。だが、どうしようもない。狂い掛けている歯車をこれ以上動かしてはいけない。それだけが二人をかろうじて支えている不文律なのだから。




「お邪魔しても良いかな?」
 柔らかな遠慮がちな声が聞こえて、夏野はふいと顔を上げた。そして、そのまま、視界に入ってきた綺麗な笑顔に、あ、と固まる。玉子焼きを挟んだまま宙に止まった箸が間抜けで、クスクスと鈴が鳴るような軽やかな笑い声が零れた。
「邪魔すんなよ」
 不機嫌を隠そうともしない徹の声が夏野の耳を刺す。だが、目の前にいる茅野真理はさして気にもしていない風だった。
「ひどいなあ。それが付き合ってる彼女にいう台詞?」
 苦笑を零しながら真理は首を傾げ、それから夏野に視線を移した。わざとらしくない、自然な仕草が可愛らしい、と夏野は素直に思った。もともと真理は美人だと評判だったし、遠目に見かけたこともある。けれども、近くで見るとその綺麗さが尚良く分かった。
 真理は酷く自然体なのだ。無理が無い。自分の容姿を鼻に掛けた雰囲気もなければ、男に媚びる風でもない。それが魅力的だと夏野は思った。
「日向君、良いかな?」
「あ、良いですよ。俺、席を外しましょうか?」
 押し付けがましくならぬよう、なるべく柔らかな口調と表情で夏野が言うと、真理は慌てたようにブンブンと首を横に振った。
「せっかく日向君とお近づきになれるんだから、それはダメ」
「いや、でも、どう考えても俺、邪魔者だし」
 夏野は苦笑を零してちらりと徹に目をやったが、徹はフォローするつもりなど毛頭ないらしく、不機嫌そうな表情でパンに噛り付いていた。昼休みの屋上で、少し離れた場所にいる他の生徒達が興味深そうにこちらの様子を伺っている。真理と徹が付き合い始めて、まだ数日しか経っていないはずだが随分と噂は広がっているようだった。
「邪魔じゃないってば。日向君が行っちゃうなら私も一緒にいく」
「ふざけんなよ」
「ふざけてないわよ。いつまでも日向君を紹介してくれない徹が悪いんでしょ?」
「なんでお前に夏野を紹介しなくちゃならないんだ」
「ひど…仮にも一つ先輩なんだからお前って言い方は無いんじゃない?」
「煩い。とにかく邪魔だ。どこかに行け。最初からそういう約束だったろ? 夏野と一緒にいる時は邪魔すんな」
 夏野本人を抜きにして繰り広げられる会話に、夏野は酷く戸惑ってしまう。それと同時に、付き合って数日なのにまるで何年も一緒にいるような二人の気軽さが夏野を簡単に傷つけた。真理はあっさりと『徹』と名前を呼び捨てにしている。先輩なのだし、付き合っているのだから別段おかしなことではないのだろう。けれども、やはり、徹とその彼女が一緒にいる場所に居合わせるのはとても居心地が悪かった。
 こんな時が一番困る。夏野の中の例の獣が目を覚ましそうになるからだ。胸の痛みより、苦しさより、それに対する嫌悪感と恐怖のほうが夏野にとっては、むしろ重要だった。
 食べかけのお弁当箱をパタリと閉じる。すばやくそれを袋にしまいこんでしまうと夏野は立ち上がった。
「俺、先生に用事頼まれてたんだった。すみませんけど失礼します」
 必死に笑顔だけを取り繕い、夏野はその場所を立ち去ろうとする。
「夏野!」
 怒ったような表情で徹が呼び止めたけれど、そのきつい眼差しも夏野を止めることは出来なかった。
 早くこの場所から立ち去らなくては。
 焦燥感に駆られ、夏野は小走りに階段を駆け下りる。昼休みの校舎内はどこもかしこも生徒で溢れかえっていて人気が途絶えない。誰か人のいない場所に行きたい。夏野は一気に一階まで降りて通用口から中庭に出た。だが、中庭にもちらほらと人影が見える。人気の少ないほう、少ないほうへと夏野は必死に足を動かした。今は使われていない旧校舎、その手前にある温室が目に入る。確かこの場所は園芸部と生物部がたまに使っているだけの場所のはずだ。そう思って夏野はそっとその入り口のドアを開けた。
 ふわりと中から緑の匂いが漂ってくる。中の空気はかなり暖かい。夏野は後ろ手にドアを閉め、様々な植物が勢い良く生い茂る温室の中を、奥へと向かって歩いた。あまり手入れをしていないせいなのだろう。雑草なのか、それとも意図的に生育されているのか分からないような木々が伸び放題に枝を伸ばしている。
 その中の一つ、雪柳が綺麗に小さな花を咲かせていた。その名前の通り、雪の一房のような枝を夏野は何気なく手に取る。その弾みで小さな花がパラパラと細雪のように散るのを夏野は目を細めて眺めた。指先にも幾枚かの白い花びらが残っている。じっと、その指先を眺めていると、
「花愛でる姫君って光景だな。実に眼福」
 と、冷やかすような声が近くから聞こえた。すぐそばにベンチがあって、そこに蕗原が座っている。生い茂った枝の影になって見えなかったのだろう。こんな場所にまで人がいたのか、と夏野は思ったが、すでに限界で、許容範囲を超えてしまっていたらしい。表情を作ることも出来ず、ただぼんやりと蕗原の顔を見詰めると、なぜか蕗原は苦笑いをもらしてベンチから立ち上がった。
「何かあった?」
 尋ねられても答えられない。別段、特別なことがあったわけではないのだから。
「別に…何も…」
 答えはあまりにも小さい声で、最後は微かに聞こえてくる鳥の声と共に溶けてしまった。
「そう? 仮面が取れてる。そんな無防備な顔晒してると危ないんじゃないか?」
 指摘されても夏野はいつもの笑顔を作ることができなかった。ただ、ぼんやりと、迷子になった子供のように心許ない表情で蕗原を見上げる。すると、蕗原の顔が次第に近づいて、しまいには唇が触れてしまった。
 キスしたのだ、とは夏野は思わなかった。ただ、唇が触れただけだ。肩がぶつかったのと同じ。深い意味などないのだと思った。
 ただ、鼻先を掠める緑の匂いが酷く印象的だった。グリーンノートのコロンでもつけているのかと思っていたが、そうではないらしい。蕗原はきっとこの場所に時々来るのだろう。だから、緑の匂いがするのだ。そう思った。
「変なヤツ」
 笑いを含んだ蕗原の低めの声が耳元で聞こえる。
「すれっからしみたいな作り笑いをしているかと思えば、小さな子供みたいなそんな顔を見せるし。どっちが、本物の日向?」
 どっちが本物なのか。
 夏野にも分からなかった。ただ、いつでも笑っていなければならないと思っただけ。笑っていなければ泣いてしまうから。泣いてはいけないのだ。徹が泣くなと言ったのだから。夏野を守れなかったと苦しむ徹を、もう見たくはない。
「…人の顔、じろじろと見るなよ」
 見詰めてくるローズグレイの深い瞳に耐え切れず、夏野は顔を逸らす。だが、蕗原は怒ったりはしなかった。面白そうに片方の眉だけを上げ、それから夏野の手を引いてベンチに座らせようとする。抵抗する気力もなく夏野の体はストンとその場所に腰を落とした。蕗原はクルリと体の向きを変え、夏野に背を向ける。
「背凭れにして良いよ」
 そして、酷く優しい声でそう言った。今まで聞いた蕗原のどの声よりも優しい、と夏野は思った。だから、そのまま体重を蕗原に預ける。背中から伝わる微かな体温に、夏野は少しだけ心が凪いだ気がした。





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