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out of order - 9 ……………
 消灯間近な寮の部屋で、僕は夏木のベッドに転がってぼんやり天井を見詰めていた。本当に、今日、夏木は帰ってくるんだろうか。
 一ヶ月近くもの間不在だったにも拘らず、ベッドからは微かに夏木の匂いがした。人の匂いなんて、そうそう覚えているものじゃない。いつのまにか、こんなにも自分の中に夏木の存在が染み付いていたんだと思ったら、少しだけ胸が痛かった。
 坂田には、きちんと夏木に気持ちを伝えると約束したけれど、いざとなると怖気づいてしまう。ダッチワイフ代わりに僕を抱いていただけの夏木。好きだなんてトチ狂ったことを突然告げられたら、きっと困るだろうなと思った。それとも、馬鹿にして鼻で笑うか、鬱陶しがるかのどれかだろう。そう考えるとどんどん気が滅入ってくる。
 一体、どんな顔で何を言えばいいんだろう。いっそ、このまま夏木が戻ってこなければいいと消極的なことをつらつらと考えていたら、だんだん眠くなってきてしまった。ここのところ、ずっと夏木の事ばかり考えていて寝不足だったから。そのまま夏木のベッドに横になってうつらうつらとしているとトントンと微かにドアをノックする音が聞こえた。僕は、慌てて体を起こす。小さな声で
「どうぞ」
と返事をした。ガチャリと音を立てて、大きなスポーツバッグを肩に下げた夏木が部屋に入ってくる。一瞬だけ、僕の顔を目に止めて、それからすぐに視線を逸らされた。
「あ…あの…お帰り」
 僕が情けない声で言えば、夏木は荷物を机の上に降ろしながら小さな溜息を一つ吐いた。それから、
「ああ」
という微かな返事。物凄く久しぶりに夏木と話をした気がして、そういえば、こんなに長い間顔をあわせなかったのも、会話をしなかったのも同室になって以来初めてのことなんだと気がついた。
 夏木は少し痩せたような気がする。あんまり日にも焼けてないみたいだから、外出していなかったのかも。そんな取りとめのない事を考えていると夏木が僕の方に近づいてきた。ああ、そういえば夏木のベッドだったと思いながら夏木の顔を見上げると、夏木はなんともきまりの悪そうな表情をしていた。
「……ベッド、勝手に借りててゴメン」
 居心地の悪さに、そんな事を咄嗟に言った。夏木は軽く首を横に振る。
「そんなのは構わない。……それより、体は?」
「え?」
「……美術室で、無理矢理あんなことしたから」
 不意にそんな事を言われて僕は慌てて首を横に振る。耳が熱くなっているような気がした。
「もう、大分時間が経ったから。……今は平気」
「…そうか」
 それだけ会話を交わしたきり、また沈黙が落ちる。僕も夏木も何を言っていいのかわからないみたいで、ぎこちなく黙り込んでいるのが酷く居心地が悪い。しばらく、向かい合って、でも視線はお互いに合わせずにそうしていたけど。
「……忍は怒ってないのか」
 沈黙に耐え切れなくなったかのように夏木は口を開いた。
「怒る?」
「……無理矢理あんなことしたから」
「…ああ、別に。怒ってはいないけど」
 怒ったんじゃない。虚しくて悲しくなっただけだ。あんな思いをするのはもうイヤだ。
「怒ってはいないけど、もう、あんなのは困る。あんな、無理矢理とかは。……もうやめろよ」
「ああ」
「……無理矢理とかでなくても、もう、あんなことはやめた方がいい」
「わかった。もうしない」
 酷くあっさりと了解されて、僕はズキズキと胸が痛んだ。僕があれだけ思い悩んだ事も夏木にはどうでもいいことなんだ。そんな簡単に納得できる、どうでもいいことなんだ。
 きっと、僕との関係がダメになったならいくらでも代わりはいるんだろう。夏木は女の子にももてるし、いくらでもヤらせてくれる子はいるに違いない。僕なんて、その程度の存在でしかないんだ。
 そう思ったら抑えていた感情が膨れ上がってきて、目頭の奥がだんだんと熱くなってきた。ダメだと思う端から視界が歪んでくる。
「……忍がイヤだって言ったら、いつでもやめるつもりだった」
 俯いて、必死に泣くのを堪えている僕の頭上でどこか切ないような夏木の声がする。
「でも、あの時お前に『好きじゃないヤツとはしたくない』ってはっきり拒絶されたら、自分で自分が制御できなくなっちまった。悪かったな」
 夏木は投げやりな口調でそんな事を言う。ふと顔を上げて夏木の顔を見れば、とても苦しそうな表情をしていた。どうして、夏木がそんな風に苦しそうな顔をしているのか僕にはわからない。
「本当はすぐにあんな関係はやめようと思ってた。忍は、いつもどこか気持ちを閉じていたし。でも、はっきりと拒絶されるわけじゃないから思い切れなかった。お前の意地に付け込むようなことして悪かった」
 思い切れない? 何を思い切れないんだろうと思いながら滲んだ視界の中の夏木を見詰める。夏木の言葉は僕には理解できない。ただ理解できるのは、夏木はもう僕と寝るつもりはないということだけだ。
 僕の事を好きじゃない夏木と寝続けることは辛くて、もう止めたいと思っていたはずなのに、それでも、夏木がそんな風に僕を切ろうとするのは堪らなかった。吐け口でも構わないから今までの関係を続けてくれと言いそうになって、ぐっとその言葉を飲み込む。それじゃあダメだ。同じ事を繰り返すだけ。
「…僕が辛いのは夏木が僕の事を何とも思っていないのにあんなことを続ける事だ。夏木にとってはただの遊びか…欲求の処理でしかないのかもしれないけど、僕にとってはそうじゃない。だから辛い」
 聞こえるか聞こえないかというほど小さな声。しかも震えている。最後まで言い終わる前に、最初の一粒が眦から滑り落ちた。その後は、もう、自分でも止める事ができない。後から後から頬が濡れるのを感じたけど、それを拭う気力すら、その時の僕にはなかった。
「……忍?」
 それでも夏木に泣き顔を見せるのは卑怯な気がして必死に俯く。ポタポタと落ちた涙の雫がズボンの腿の辺りに幾つも染みを作るのが見えた。
「ちょっと待てよ。お前が言ったんだろう? 『好きじゃないヤツとはしたくない』って」
「そうだよ。『僕のことを』好きじゃないヤツとはしたくない」
 完全に濡れた声で投げやりに答えると、夏木は僕の顎を掴んで強引に顔を上げさせた。それから、僕の顔を見てはっとしたように息を呑む。
「…忍、お前…」
「何だよ。泣いたよ。これで気が済んだだろう? 僕のこと泣かせたいって言ってたもんな。お前のご希望通りだろ?」
 顎を掴まれているから顔を背けることはできない。仕方がないので、視線だけを背けて僕は憎まれ口を叩いた。それでも歪んだ視界の隅に夏木の顔が入ってきて、その表情は変に切ない表情に見えた。
「……違うだろ?」
「…何が?」
「『忍が』『俺を』好きじゃないから、だから俺とはしたくないんだろう?」
「…違うよ」
 僕は夏木の手を些か乱暴に振り払って両手で顔を隠して俯いた。
「僕は夏木が好きだけど、夏木が僕のことを好きじゃないから。だから、辛い」
「ちょっと待て! 何でそうなる!」
 急に夏木は僕の肩を掴んでゆさゆさと乱暴にゆすった。首がガクガクして痛い。何をコイツはこんなに慌てているんだと、訝しげに眉を顰めると、夏木はものすごく変な顔をした。まるで照れてるのを誤魔化そうとするみたいな顔。
「……今、忍、俺のこと好きっつった?」
 コイツの耳は飾り物か?
「……言ったよ。笑いたきゃ笑えよ。夏木は僕が男で妊娠する心配もないし、便利だから寝てたんだろうケド。僕は違った」
 顔を背けて、なるべく夏木の顔を見ないようにしてそう言うと、夏木は不意に黙り込んでしまった。
 なんだろう。ウザイって思ってるんだろうか。それとも、何て言って拒絶しようか困ってる? 困る必要なんてないのに。
「別に、だからどうこうしろなんて言わないよ。夏木が気持ち悪いなら、部屋変えてもらうから。……坂田先生、お兄さんなんだろ? 先生が、部屋変えてくれるって言ってたし」
「…だから、ちょっと待てつってんだろうが。お前、俺がお前のこと便利だから寝てたって、ずーっと思ってたのか?」
「思ってたよ。それ以外なんの理由があってあんなこと続けるっていうんだよ?」
 僕がつっけんどんに返すと夏木は僕の両肩を掴んだまま、ハアと大きな溜息を吐いて、それから僕の右肩に倒れこむように顔を埋めた。
「……お前、勘弁してくれよ。セックスすんのなんて好きだからに決まってんだろうがよ」
「…………ナニ?」
 セックスするのなんて、好きだからに、決まってる?
 じゃ、何か? 夏木は僕が好きだとでも言いたいのか? そんなワケはないだろう。
 第一。
「お前、ずっと僕のこと泣けって親の仇みたいに言ってたよな?」
「ああ」
「僕のこと憎いから言ってたんじゃないの?」
「………忍、マジで頼むって。ほんっとに」
 呆れ果てたようにズルズルと僕の体に縋りながら夏木はだんだん落ちて行って、僕の腿の辺りに突っ伏してしまった。
「オトコゴコロのわからないヤツだな。好きだから泣かせたいっていう天邪鬼な心情くらい理解しろよ。それと……」
 夏木は不意に僕の顔を下から覗き込んで、人が悪そうな、スケベ面で笑った。
「忍の泣き顔ってエロいだろうなーって思ってたから見たかったのも否定はしない」
「……あのさ。何が言いたいの? 夏木の話聞いてると、僕のこと好きって言ってるみたいに聞こえるけど」
「みたいに聞こえるんじゃなくて、好きだって言ってんだよ。あんまり恥ずかしいこと面と向かって言わせんなよ」
 焦れたように夏木は僕を睨みつけてきたけど、やっぱり、僕には夏木の言いたいことが理解できない。傷つかないように、何の期待もしないで最悪のパターンを考える癖がついていたせいかもしれないけど。
「……それって、嘘だよね?」
 思わず否定するようなことを言うと、夏木は眉間に皺を寄せて物凄く情けない顔をした。
「……はあ。俺、今、モーレツに反省したわ。やっぱり、面倒くさがって手順すっとばすと痛い目見るんだな」
 そう言いながら、するりと僕の肩から手を滑らせて僕の両手を掴む。それから顔を上げて、真剣な表情で僕の顔を見詰めた。
「忍が好きだよ。付き合って?」
 どう疑っても、歪曲して取っても誤解しようのない言葉を告げられて、僕の思考は完全に機能を停止した。何を言ってるんだろ? この男は。
「……はあ。マジ告白なんてさせんなよー恥ずかしい」
 そう言って、夏木はグシャグシャと自分の髪の毛を掻き混ぜた。何だか、そういう仕草は坂田と似てるなあと、ぼんやり考えていると夏木が変に真面目くさった顔で詰め寄ってくる。
「忍の返事は?」
 返事? 返事って何の返事?
 つーか、頭がぼんやりして、物凄く眠い。眠くて仕方がない。てか、コレって夢だろう? そうに違いない。
 そう思ったので僕は寝ることにした。
「……眠い。寝る」
 そしてそのままベッドに転がって目を閉じた。




 コレは夢なんだから。



 明日になったら、きっと夏木はどこにもいなくなっているに違いない。



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