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out of order - 6 ……………
 ふと目を開くと見慣れない天井が見えた。白いコンクリートの天井は寮とはちがう。慣れない薬と消毒液の混ざったような匂い。ふと横を見ると空っぽのベッドと白い布が張られた衝立が目に入った。
 保健室か、と思っていると小さな衣擦れの音が聞こえて、すぐ近くに人の気配がした。
「目が覚めたのか」
 そう声を掛けてきたのは白衣の校医ではなく、なぜかネクタイに半そでシャツの教師だった。数学の教師、坂田だった。僕も数学を持たれている。なぜ保健室に数学の教師がいるんだろうと僕はベッドに横たわったまま坂田をぼんやりと見上げる。
「まだ、具合、悪いか?」
「…はあ」
 僕は気の抜けた返事をしながら体を起こそうとして、力が入らずに失敗した。
「傷は大した事なかったけどな。精神的な疲労と寝不足がたたってるんだろ」
 坂田はメガネのフレームを軽く押し上げながら何気なく言った。そうか、大した事なくて良かった、トイレが大変だもんな、と暢気な事を考えて、はた、と気が付いた。
「せ…先生」
「何だ?」
「き…傷って…あの…」
 僕は真っ青になって坂田から視線を逸らす。体の向きを変えて、坂田に背を向けたけど坂田は気にしていないようだった。
「訴えるか?」
「え?」
「夏木司」
 不意に夏木の名前を出されて、僕は慌てて起き上がる。起き上がった拍子に体のあちこちに鈍痛が走った。
「……い…っつ……訴えるって…?」
「男同士だと強姦の罪は問えないけどな。傷害罪にはなる。学校も停学か…悪けりゃ退学にできるけど?」
 淡々とした口調で坂田はどうする? と尋ねてきた。僕は、突然の展開についていけずに混乱する。うろうろと視線を泳がすと、消毒液の入った洗面器や、薬棚、ワゴンが目に入った。
 夏木が退学? 僕のせいで?
 そんなことは思いつきもしなかった。あんな酷い事をされても尚、僕は夏木を憎んだり、嫌ったりする事ができない。感じるのはやりきれない虚しさや、寂しさのような感情だけだ。
「……あの」
「何だ?」
「なんで保健婦の先生じゃなくて、坂田先生がいるんですか?」
 戸惑った僕は、何を話せばいいのかわからずそんなあさってな質問をした。
「今日は俺が当直だったから。加賀先生は今日は休み」
「それじゃ…あの……ええと……」
「何だよ?」
「て…手当て、先生がしたんですか?」
 僕は真っ赤になりながら、やっとの思いでそれだけを聞いた。首や背中の辺りに冷や汗がどっと出てくる。
「まあ、大半は夏木がやったけどな」
 それもどうかと思いながら、僕はいたたまれない気持ちでベッドの端に腰掛けたままじっと自分の爪先を見詰める。他人に、夏木としている事を知られてしまったというのが、とてつもなく恥ずかしくて嫌な気持ちになった。けれども、坂田はそんなことにはお構いなしで、再び、
「で? どうするんだ?」
と尋ねてきた。
「夏木は、おまえがそうしたいなら別に退学になってもいいって言ってたけどな」
 あくまで淡々とした口調で坂田はそう告げた。
 夏木が? 退学になってもいいって?
 一体、どういうつもりで夏木がそんな事を言ったのかちっともわからない。それなら、最初からあんなことはしなければいいのに。そもそも、どうして夏木があんな衝動的なことをしたのかも僕にはわからなかった。僕の何かが夏木の逆鱗にふれてしまったのだろうか。
「……別に。訴えるつもりなんてないです。騒ぎ立てる気も…」
 僕がそう答えると、坂田は不意に口調を変えて、
「ふーん」
と相槌を打った。なんだろうと思って坂田の顔を上げると、なぜか面白そうな顔をしていた。メガネの奥の目が少しだけ笑っているようにも見える。
 坂田は若いし、結構ハンサムで女の子にも人気があるけど、普段はあまり愛想が良くない。そこがクールでいいんだっていう子もいるけど。授業中も冗談を言ったりしないし、正直、僕は坂田の笑顔を思い出すことができない。なのに、今は子供っぽいような顔をしているから(もしかしたらこれが素なのかもしれないけど)それが意外で驚いてしまった。
「じゃ、あれは合意の上のことなんだな。だったら、学校でするのは感心しないな」
 からかうように言われて、かっと顔に血が上るのがわかった。
「同意なんかじゃありません! アレは夏木が無理矢理……」
「でも、訴えないんだろ?」
「そ……それはそうだけど…」
 僕は言葉につまり、言い淀んでしまった。何と言って誤魔化せばいいのかわからない。美術室での事は確かに無理矢理だったけれど、だからといって夏木を訴えるなんて考えられなかった。それじゃ、まるで責任の転嫁だ。そんなことはしたくない。
「それじゃ、そういう関係って事だろ?」
 坂田はやっぱり面白そうな表情を浮かべてそんなことを聞いてくる。そういう関係って何だろう。付き合ってるとか、恋人同士とかそういう意味なんだろうか。それなら、夏木と僕の関係は全くそういうものとは違う。
「…そういうワケじゃないです」
「遊びみたいなもんか?」
「そういうワケでも……」
 夏木の方はもしかしたら遊びのつもりかもしれないけど。僕はそういうつもりはなかったのでやっぱり否定するしかない。
「じゃあ、何だよ? 無理矢理関係を迫られて脅されているとか?」
「それも、違います」
 夏木は時々強引だったり、自分勝手だったりしたけど、一度も脅された事なんかない。いつだって、僕は納得して夏木と寝ていた。だったら、僕達の関係は一体何なんだろう。いわゆるセフレ? それが一番近い言葉なんだろうけど、どうしても僕は何かが引っ掛かってそう説明する事ができなかった。
 だって、僕は一度だって遊びだとか、性欲処理だと思って夏木と寝たことなんてなかったからだ。
 いつからなんだろう。最初は確かにただの意地だった。でも、途中から夏木と寝るたびにどうしようもなく切なくなって、体だけの快感じゃ説明できないような甘い痺れが体中に走るようになった。そして、ヤったあとはいつだって虚しくて悲しくてどうしようもなく泣きたくなった。僕は、今までそれを見ない振りで絶対に認めようとしなかったけど。
 もう、今は疲れ切って意地や虚勢を張る気力もない。ボロボロだった。
 取りとめもなくそんなことを考えていると、大きな溜息を吐く音が頭の上で聞こえた。
「…泣くなよ。こう見えても俺は、女子供に泣かれるのは弱いんだよ」
 そう言って坂田は僕の頭を子供にそうするみたいにクシャクシャと優しく撫でた。
 泣くなって? 誰が泣いてる? と思ったときにはリネンのシーツの上にポタポタと小さな染みが幾つもできていた。目の前がぼんやりとしている。視界がおぼつかないのは、思考に気を取られていたからではなく、涙が溢れているからだとその時ようやく気がついた。
 何で泣いているんだろう、泣くつもりなんてないのに、と思っていても涙腺が壊れてしまったみたいに後から後から涙が零れてくる。
 嗚呼、今ここに夏木がいれば僕の泣き顔が見れて気が済んだのにな、と思ったらますます涙が止まらなくなって困った。
 坂田は困ったように溜息をもう一つ吐くと僕の頭を抱き寄せて、胸を貸してくれた。みっともないと思うようなプライドはその時の僕には残ってなくて、僕は坂田の胸に顔を埋めたままずっと泣き続けていた。



 坂田の体の匂いは、少しだけ夏木に似ているような気がした。


*
*
*


「とりあえず、今回の事は不問にしておいてやるけど、二度目があったら夏木には何らかの処分を下すからな」
 まあ、アイツもそこまで馬鹿だとは思わないけどな、と言いながら坂田は自分の車で僕を寮の入り口まで送ってくれた。寮までは大した距離はないんだけど、僕が歩くのがつらかったから。
「それから、伊織も何かあった時は一人で溜め込むなよ。俺でよければ話位聞いてやる。……突然自殺未遂とかはやめてくれよ」
「そんなことしませんよ」
 坂田の大袈裟な言い方に少しだけ笑って僕がそう言うと、坂田はおどけたように肩を竦めて見せた。
「どうだかな。伊織は一人で思いつめるタイプに見えるけど?」
「そんなことありません。……今日は、色々ありがとうございました」
 そう言って助手席のドアを開ける。
「……伊織」
 そのまま車を降りようとしたら坂田に呼び止められて、体半分だけ外に出た状態で僕は「え?」と振り返った。坂田は不思議な、今まで見た事がないような優しそうな笑顔を浮かべて僕を見ている。
「お前、夏木が好きなの?」
 僕の内側に踏み込んでくる質問はあまりに突然で、僕は何の警戒心を抱く事もなく無防備な状態のまま反射的に、
「はい」
と答えてしまっていた。本当にそんなに馬鹿正直に答えることはなかったんだけど。でも、自分の気持ちを坂田に吐き出したら、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。
 坂田は僕の返事を茶化すことなく、やっぱり「ふーん」と面白そうに相槌を打っただけでそれ以上は、それについて何も言わなかった。
「まあ、若いうちは色々あるからな。辛い事もあるだろうけど、そのうち良いこともあるさ」
 ただ最後にそれだけ言って坂田は車を発進させた。
 坂田は、何だか不思議な話し方をする人だなと思った。何もかもをわかっていて傍観しているんだろうか、と思わせるような。今まで、あんな人だって知らなかった。少しだけ坂田に対する印象が変わったな、と思いながら寮の入り口の前で立ち止まった。

 夏木は帰っているんだろうか。

 酷く顔があわせづらくて僕の足はしばらくそこで止まっていたけど。
 いつまでもそうしていても仕方がない。僕は覚悟を決めてノロノロと寮の中に足を踏み入れた。
 夏木に会ったら、一体何を言えばいいのか。どんな顔をすればいいのか。
 やっぱりわからないまま、自室のドアを開けた。けれども、そこに夏木の姿は見えなかった。そして、僕の心配は全くの杞憂に終わった。
 夏木はその夜、結局、寮には戻ってこなかった。その次の日も、さらに次の日も。
 寮監の先生に問い合わせたら、長期外出の届けが出ていて夏休みの終わりまでは帰ってこないという話だった。


 夏木は、もう、僕の事を抱かないつもりなんじゃないか。
 漠然とそんな予感がしていた。



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