out of order - 3 …………… |
「五回目」 不意に後ろから声を掛けられて、僕は振り返る。 放課後、いつものように美術室でキャンバスに向かっている時のことだった。振り返れば、そこには同じ美術部員の久住玲子が立っていて僕のキャンバスを覗き込んでいた。 「五回目って?」 「忍の溜息の回数。今日部活に来てから、今ので五回目」 「…人の溜息なんて数えるもんじゃないよ」 「だって、何回もするから気になるんだもん」 「…悪かったな」 「別に悪くはないけどさ。……何か悩み事? 最近、体重も減ったんじゃないの? 腕とか、細くなったみたい」 油絵の具を使う時には制服のシャツの袖を捲り上げているから、そういうことがすぐわかってしまうらしい。僕は苦笑しながら、今日は殆ど使っていなかった筆とパレットを下に置いた。 「悩み事ねえ…」 固い椅子の背凭れに背中をだらしなく預けながら僕は久住の顔を見上げる。久住は、普段はふざけて僕をからかったりすることが多いやつだけど、今は心配そうな表情をしている。特別に仲のいい友人が殆どいない僕にとって、久住は貴重な部活仲間だった。愛想もそう良いほうじゃないし、人見知りするせいで初対面の人にはどうしてもぶっきらぼうな態度を取ってしまう僕に、久住はよくちょっかいをかけてきてくれて、今では一番仲の良い友人になっている。 「悩み事なんてないんだけど」 「じゃあ、恋煩い?」 少しだけ表情をほころばせて久住が尋ねてくる。僕は思わず苦笑を漏らした。 「ますますあり得ない」 「そうかなあ?」 疑わしそうに久住が僕の表情を探ろうとして顔を少しだけ近づける。サラリと茶色の髪の毛が僕の肩の辺りをくすぐった。とても綺麗な整った顔がすぐ目の前にある。久住は屈託の無い美人で結構人気があるみたいだけど、僕は不思議と恋愛感情というものを持った事がなかった。 見た目に反してというか、見た目どおりというか久住はサバサバとした性格でとても付き合いやすいから、僕にとっては大事な友人という距離の方が居心地がいい。 「僕は恋愛ごとには向いてないって前に言ったのは久住じゃないか」 「うん? 恋愛ごとに向いてないんじゃなくて、淡白で潔癖症に見えるから恋愛とかに興味無さそうって言ったの。でも、最近の忍みてると前言撤回したくなるけどね」 「最近の僕って何だよ?」 「憂い顔がイロっぽいって話よ」 「バカ言ってる」 僕が肩を竦めて笑うと、久住もそれ以上は追求してこなかった。 恋煩いだなんてありえない。絶対に。 夏木の顔がちらついて、ザリザリとガラスを削るような不快な感覚が胸の中に侵食してくる。あんなのはただの意地の張り合いで、恋愛なんて純粋なものじゃない。恋愛はしてなくてもセックスはできるんだと言ったなら、久住はどんな顔をするんだろうか。 僕は、不意に意地悪な衝動に駆られて口を開いてしまった。 「…あのさ、久住は好きじゃないヤツとセックスできる?」 そう尋ねれば、久住はものすごくびっくりしたような顔をした。目が真ん丸く開いている。久住がこんな風に驚いた顔をするなんて初めて見たから少しだけ楽しかった。 久住は暫くの間まじまじと僕のことを見詰めて何も言わない。沈黙に少し居心地が悪くなってしまって僕は咄嗟に謝った。 「あーゴメン。女の子にこんなこと言うのってセクハラ発言?」 「…別に忍に言われてもセクハラなんて思わないけど。ただ、忍の口から『セックス』なんて言葉が出たのに驚いただけ」 「…なんだよ。僕だって年頃の男だよ?」 「まあねえ。それに、童貞じゃないしねえ」 久住はからかうみたいにクスクスと笑っている。僕が中学生の時につきあっていた女の子が久住の友達だから、別に弱味だとは思わないけど、そういうことも知られていて少しだけバツが悪い。 「でも、忍って性欲とかなさそうなんだもん。ストイックな感じして」 そんな事…と言いかけて僕は自嘲気味に笑った。夏木じゃないけど、ストイックが聞いて呆れる。僕が夏木としていることを教えたら久住はどんな顔をするんだろうか。もちろん、本当に教えたりなんかできるわけないけど。 「…まあ、そういうことできる人もいるだろうし、場合によっちゃアリだとは思うけど。忍はそういうのできないでしょ?」 それができるんです。してるんですとはさすがに言えずに曖昧に笑ったら、久住は眉間に皺を寄せて顔を顰めた。 「忍、やっぱり何かあった?」 「……何で?」 「前は、そんな笑い方しなかった」 「…そんなって…どんな笑い方だよ?」 「つらいのを我慢しているような顔。綺麗なんだけど、イタイよ」 静かに、労わるように言われて僕は言葉を失う。久住にはなぜか感情を上手に隠せない。他のヤツには幾らでも隠せる。特に夏木に対してなんて完璧に演技できるのに。 「苦しい恋でもしてるみたいよ?」 そう言って久住は僕を茶化す。僕が何も言えないことを知っているから。だから、冗談にしてそのままさらりと流してくれた。 苦しい恋でもしているみたい。 久住の言葉が頭にこびりついて離れない。さっきの不快な感覚がさらに僕の中に広がっていく。ザリザリとガラスを削るような不快感。 見たくないものがすぐ目の前に転がっている。それから必死に目を背けている感じ。 * * * 「何で、そんなに残してるんだよ」 寮の食堂で不意に話しかけられて、はっとした。いつの間にかぼんやりとしていたらしい。目の前には箸でつつかれ遊ばれて、無残にもボロボロに分解されたエビフライがあった。食欲がなくて、口に入れることができず、なんとなく箸で弄り回していたらしい。 「…食べ物、粗末にするなよ」 「…僕の勝手だろ」 すぐそばに立っていた夏木に憎まれ口を叩くと、夏木は仕方無さそうに溜息を一つ零した。珍しく、今日の夕食は一人で食べていたようだった。周りに女の子の影は見えない。 「お前、最近、ちゃんと食ってないだろ?」 「…食ってる」 「嘘つけよ。明らかに腰まわりとか腕とか細くなってるだろうが」 そんな事に気が付いていたなんて意外で、僕は思わずぼうっと夏木の顔を見上げてしまった。でも、夏木にはしょっちゅう抱かれているから、そういう事にはもしかしたら僕よりも敏感に気が付くのかもしれない。だからといって、食堂で出すような話題でもないだろう。僕は、だんだんと苛々しながら夏木のことを睨みつけた。すると、夏木は困ったような表情で僕から目を逸らした。 「とにかく。もともと細いんだから、ちゃんと食べろよ」 「…だから、夏木には関係ないだろ?」 僕がつっけんどんに言い返すと、夏木はムッとしたように僕を睨みつけてきた。 「関係はあるだろ。それ以上ガリガリになると抱き心地が悪くなるから困るんだよ」 どうして夏木が困るのか。抱き心地が悪くてイヤなら別のヤツを抱けばいいだけのことだ。そもそも夏木は女の子にももてるし、相手には不自由しないだろうに。 そう考えたら、ギリと胃の辺りが痛んだような気がした。でも気のせいだ。夏木が別のヤツの所に行ってくれれば僕は清々するだけなんだから。 「…イヤならやめれば」 淡々とした冷たい口調で僕が言うと、夏木は僕をじっと見詰めたまま、 「…お前が泣いたらな」 と呟くように言った。 僕が泣いたらやめる? それじゃあ、僕が泣かない限り夏木はこの不毛な関係を続けるつもりなのか。そう考えたら、ゾワリと背筋をワケのわからない震えが走った。 奇妙な甘い痺れ。 傷口を自分で抉るような、自虐的な快感。 僕は、どこか壊れているのかもしれない。そう思いながらも、夏木から目を逸らすことができなかった。 |