note of sigh -3 …………… |
店内が放電している。 暖房が効きすぎている訳でもないのだが、嫌な汗を背中にかきながら奏は『仕事』を続けていた。 平常心、平常心、と心の中で唱えながらリクエストされたノクターンを弾いているが、その穏やかで甘い曲調とは似ても似つかない空気が周りを取り巻いている。しかも、局地的に。 何とか取り繕いながら曲を最後まで終え、ふうと大きな溜息を一つ吐くと後ろから 「これ、いつものリクエスト」 と、抑揚の無い声が聞こえ、リクエストカードが譜面台の脇に貼り付けられる。カードには「ラ・カンパネラ」と書かれてあった。 奏が恐る恐る振り返れば、完璧な作り笑いを浮かべている透が立っていた。 「今日は調子が良いみたいだね」 笑いかけられて、そう言われたが、正直、調子なんて最悪だった。後ろが気になって演奏どころではないので、かなり酷い仕事をしていたはずだが、おそらく、透もまともにピアノなど聞いていなかった証拠なのだろう。 「あの…透さん…」 「なんだい?」 「あの…」 言いかけて、奏はちらりと窓際の客席に視線をやる。そこには先週と同じく、都築と響が二人連れ立ってテーブルを挟み座っていた。一体、どういうつもりで兄がそんな行動を取っているのかは分からないが、いずれにしても、カウンターに座る透の周りには芳しくない空気が漂っている。なぜか、カウンターの中にいる梓まで機嫌が悪い。郁人はめずらしく、困惑したような表情で遠巻きに眺めているし、当の響はと言えば涼しい顔でそ知らぬ振りをしているという始末だ。 そして、都築だけがこの状況を楽しんでいるとしか思えない、余裕の笑みを浮かべていた。 奏は再び大きな溜息を一つ吐くと、 「なんでもない」 と答えて、譜面台に指定された曲の楽譜を開いた。なんだかなあ、と思いながら曲を弾き始める。弾き始める直前に盗み見た兄は、珍しい事に、楽しそうに笑っていた。都築と談笑する響なんて、あまりに違和感がありすぎて奏は思わず最初のタッチを間違ってしまう。慌てて振り返って、 「あ、透さんゴメン」 と謝れば、透も同じ方向を難しい顔で見ていて、ふ、と奏のほうに向き直ると苦笑いを浮かべた。薄いフレームの眼鏡の奥に隠れている目には複雑な感情が浮かんでいる。 不味いものを無理に食べているような表情には、だがしかし、嫉妬の色は見えなかった。 それが不思議で、奏は思わず尋ねてしまう。 「…透さん、良いの?」 「何が?」 「え…や、兄貴。…その、えっと…」 尋ねてはみたものの、何と表現して良いのか分からずに奏は口ごもる。透は少しだけ声を立てて笑うと奏の頭を二つだけ、ポンポンと軽く叩いた。 「信用してるからね」 比較的優しげな表情でそう言われて、奏は思わず眉を顰めてしまう。先日、響が言い捨てた冷めた言葉が思い出されたからだ。 『平気だったら続くし、平気じゃなかったら別れるだけだろ』 まるで他人事のように簡単に言っていた。 一体、この目の前の人の事を兄はどう考えているのか、と思ったら奏は少しだけ腹が立ってしまった。 「そんなの…裏切られたらどうするの? あの人、結構、いい加減だし…」 兄の不実に対する苛立ちをぶつけるように、思わず透に言ってしまうと、透はおどけたように肩をすくめて見せた。 「実の兄なのに、カナちゃんも言うね。まあ、確かに俺も、信用してるって言っても普通の意味とはちょっと違うけど…」 「普通とは違う?」 曖昧な透の言葉の意味が分からずに、ピアノの前に座ったまま奏が見上げると、透はやはり負の感情を削ぎ落とした穏やかな表情で笑った。 「まあ、良いじゃないか。早くカナちゃんのピアノ聞かせてくれないかな? 一週間に一度の楽しみなんだから」 自分を子ども扱いし、あるいは部外者とみなして外に弾き出す、そのやんわりとした拒絶に奏は微かな胸の痛みを感じつつも、言われるがままにピアノの上に指を重ねた。 曲を弾き始める前に、最後にもう一度だけ窓際に視線をやる。響はいつの間にか都築との談笑を止め、こちらの方を見ているようだった。 その表情には何の後ろめたさも読み取れない。言葉の足りない不器用な、いつもの「弟を見守る兄の眼」で響は奏を見詰めている。 その眼差しを見た途端、もどかしさの原因は、微かな嫉妬の原因は、透ではないのだと奏は悟った。 ただ、知りたいのは兄の苦しみなのだ。 過去に何に苦しみ、何を犠牲にして自分を自由に泳がせてくれたのか。 そして、今は一体何に悩み、何から逃げようとしているのか。 ただ、それが知りたいだけだ。 だが、実際の兄は決して弟に弱みを見せようとはしない。何も無いのだと嘯き、赤の他人にその弱さを露呈しているらしい。 それが酷く悔しかった。 奏が早く大人になりたいと思うのはこういう時だ。 苛立ちと焦燥と。 小さな嵐をその胸の内に抱えながら演奏した曲は、些か乱暴で未熟だったが、不思議な魅力のあるそれだった。 ********** 「この部分は、もう少し情感を込めて弾いた方が良い。やりすぎるくらい引っ張って、その代わりに、この小節からは対比的に淡々と引くように」 「はい」 相槌を打ちながら、奏はぼんやりと都築の横顔を眺める。楽譜に赤鉛筆で印を入れながら楽曲について説明している時は本当に真剣そのもので、同じ男でありながら、奏もうっかりと「格好良い」と思ってしまいそうになった。 「…で、この二つのテーマの対比がこの曲の面白さだ。奏は少し冷静に演奏しすぎるきらいがあるから、やり過ぎるくらいが丁度良い…奏?」 不意に楽譜から視線を外し、奏のほうに顔を向けた途端、都築は訝しげに眉を顰めた。奏が人の話を聞いていないようなぼやけた表情で、都築を見詰めていたからだ。 「聞いてなかったな?」 「…スミマセン」 咎められて奏は素直に謝ったが、何となくすっきりとしないものを胸に抱えていたので、視線を逸らして俯いてしまった。鍵盤の上に置いたままの自分の指を見詰めて、少しの間逡巡していると、頭の上でクスリと笑う声が聞こえる。 「どうも、今日は集中力が無いね。気になることでも?」 からかうように指摘されて、奏は思わず小さな溜息を零してしまう。きっと、このピアノ講師は自分が何を気にしているのか分かっていて、わざと尋ねているのだろう。下手に繕っても、何もかもが筒抜けになるに違いない。 奏は、ふっと顔を上げると、都築の顔を見詰めた。 普段は、手厳しいピアノ講師としてしか認識していないので特に考えた事は無いが、やはり、整った顔をしている。フワリと滲み出るような不思議な艶が、都築の周りには纏わりついているような気がした。 だが、その根底にはあまり質の宜しくないものが潜んでいるのだと、本能的な危機感が告げているのも事実で、なぜ、こんな男と関係を持ったのかと、我が兄ながら響の事を恨みたくなってしまった。 「何が気になってるのか、先生には分かってるんだろ?」 投げやりに問いかければ、都築は声を殺し、肩を揺らしながら笑った。 「まあね。で? 何か言いたい事があるのかい?」 「単刀直入に聞くけど。先生、兄貴とよりを戻したの?」 よりを戻した、と言うのは以前関係があった二人に対して使う表現で、果たしてこの言い方が正しいものなのか奏は疑問に思いながらも、結局はそう尋ねた。 都築の言い分はともかく、兄の言い分を聞いただけなら、この二人の関係は「恋人」と呼ばれるものではなかったはずだ。けれども、そんな奏の疑問になど全く頓着せずに、都築は、 「耳が早いね。響からやり直したいと言って来たので、つい最近ね」 と、さらりと答える。奏は、予想していなかった答えに思わずあんぐりと口を開き、穴が開くほど都築の顔を見詰めてしまった。 都築は、暫く、奏のそんな間の抜けた顔を楽しんだ後、不意に破顔した。突然、声を上げて楽しそうに笑い出した都築に、奏はますます呆気に取られたような表情をする。 「冗談だよ。あのプライドの高い男が自分から言ってくるわけ無いじゃないか」 そう言いながら、都築は優しく奏の髪の毛をくしゃりと掻き混ぜた。 自分が、からかわれたのだとようやく気がついた奏は思い切り憮然とした表情を作り、都築を睨み上げた。 「先生、人が悪いよ」 「すまないね。奏があんまり、兄の心弟知らずな事を言うものだからね」 含みのある口調で、穏やかに言われて奏はふっと表情を緩める。口調と同じく、穏やかな笑みを浮かべている都築の瞳には不思議な色が浮かんでいた。 「兄の心弟知らず?」 都築は微かに息を吐き出すと、奏の髪の毛を掴んだままの手をそのままスイッと流して、その黒くてサラサラの髪の毛を梳いて見せた。 「奏の才能を、私に裏付けて欲しかったそうだよ」 「え?」 「プロの音楽家としてやっていけるだけの資質があるか。自分はあると思っているけれど、身内びいきのせいで盲目的になっているかもしれなくて不安だったそうだ。 私に、客観的に判断して欲しいと言ってきた。 それで、あの店まで奏の演奏を聞きに行ったんだ。レッスンだけでは分からない部分があるからね。実際に人前で演奏しているところを聞かなければ判断出来ないといって響に店まで案内させたんだ」 「そんな…」 思いもよらぬ事実を告げられ、奏は言葉を失ってしまう。兄の気遣いが嬉しいと言うよりも、なぜか悔しく、もどかしい気持ちになった。 いつもいつも、肝心な事は何も言わない。毒舌を振るって人の事を辟易させるくせに、影ではこんな風に、自分の事よりも奏の事を優先して動いたりする。 その不器用で分かりにくい優しさが、一方的にだけ与えられるもののように思えて、やりきれなかった。 だが、そんな奏の葛藤など露知らず、都築は、暢気な声で、更に、 「もっとも、そんなものは半分は口実で、あと半分は下心だったんだがねえ。相変わらず、鈍感な男でね。少しも気づいていなかったのには呆れたよ」 と続ける。 奏は、今度は別の意味で絶句してしまった。 「一度聞いただけじゃ分からないから、もう一度付き合えと言ったら、あっさりOKするじゃないか。てっきり、向こうもその気があるんだと思ったら、そ知らぬ顔でさっさと帰ってしまうしね。 奏からも一言、言っておいてくれないか」 至極真面目な顔で頼まれて、奏は思い切り脱力してしまった。 「…先生、今、つきあってる女の人いるんじゃなかった?」 「うん? 彼女はただの『お友達』だよ」 いけしゃあしゃあと答える都築に奏は深々と溜息を吐く。こんな男、別れて正解だったと兄の顔を思い浮かべて安堵した。 「まあ、それは冗談だがね」 しかし、都築は不意に悪戯な笑みを浮かべて自分の言葉を混ぜっ返す。一体、どこまでが冗談なのか判断がつかずに奏は眩暈すら覚えてしまった。次々に、冗談なのか本気なのか分からない言葉を並べ立てられて、奏は疲れ切って都築の顔を面倒くさそうに見上げた。 都築は冗談が過ぎたと自分でも思ったのか、奏の表情を見て苦笑を浮かべる。それから、不意に優しげな穏やかな笑みを浮かべて奏を見下ろした。 「奏が思うよりね、響は『家族』というものに囚われているんだよ。恐らく、奏と天秤にかけて、奏よりも重い人物は決していない位に」 「…どういう意味ですか?」 「言葉の通りの意味だ。奏よりも響のほうが精神的にずっと不安定で脆弱だ。まあ、兄孝行だと思って、ゆっくりと大人になってやることだね」 都築はそれだけ言うと、話は終わりだと言わんばかりに一方的に会話を中断した。 都築の言葉の真意を図りかねて、奏は困惑したまま、結局、その日のレッスンを終え、都築の家を後にした。 帰り道、一人、電車に揺られながら奏は、ずっと都築の言葉を考え続けた。 自分よりも兄のほうが精神的に不安定で脆弱。 それは、いつの頃からか、奏も薄っすらと気がつき始めていた事だった。ポーカーフェイスが巧みで、人にあまり感情を読ませないくせに、響にはどこか危なっかしいイメージが付きまとっている。けれども、その核の部分に奏が触れたことは一度としてなかった。 透や、あるいは都築には響の胸の奥の暗い部分が見えているのだろうか。響が囚われていると言う「家族」である奏には、決してそれを見せようとはしないのに。 都築は、ゆっくりと大人になってやれと言ったが、奏は今すぐにでも大人になりたかった。響が安心して、何もかも曝け出せるような『大人』に。 そんな詮無い事を考えながら、車窓の景色に目をやる。 深夜の暗闇の中を走る電車。 遠くに、オレンジ色の街灯が真っ直ぐに続いているのを眺めながら、なぜだか、奏は泣きたくて仕方が無かった。 ********** 初めて、奏が透に出会ったのは奏が9歳の頃だった。 確か、いつものように郁人と奏の家で遊んでいた時だ。滅多に家に友人など招かない響が、家に透を連れてきて、奏が不思議そうに透を見ていると、透は酷く優しげな顔でにっこりと笑った。 「響そっくりだな。犯罪的に可愛い」 そう言って、奏の頭を撫でようとした透の手を響が叩き落した。 「ちょっかい出すなよ」 「何? 嫉妬?」 ふざけたように透が問えば、響は、奏でさえ震え上がるような酷く冷たい視線を向け、それから皮肉な笑みを浮かべた。 「そう。嫉妬」 そう肯定しながらも、決して響の目は笑っておらず、透は自分の失言を悟ったように肩をすくめ、 「俺が悪かった」 と短く謝った。その時の奇妙な空気を、なぜか、未だに奏ははっきりと覚えている。 あれは一体何だったのだろうか、と時折思い出すが、その答えは分からなかった。 「この人、誰?」 と奏が尋ねると、響は、素っ気無く、 「ただのクラスメイト」 と答えたが、後にも先にも、響が「ただのクラスメイト」を家に呼んだのは、透ただ一人だった。だから、奏は、透が響にとっては「特別」な人間だったのだろうと、暗に察していたのだ。 それなのに、その「特別」が恋愛感情とは全く別物だと思い込んでいたのは、やはり、響の恋愛に対する姿勢のせいだった。とにかく、相手の変わるサイクルが早い。二股三股も頻繁にかけていたようで、相手は男だったり、女だったりしたけれど、奏が知る限りでは年上の、手馴れたタイプが多いようだった。 いずれにしても、響は決して恋人を家に連れ込むことをしなかったので、外で偶然見かけるか、響を車で送ってきたのを家の中から見るかするしか、相手を知る由は無かった。 それでも、普段の生活ぶりを見れば兄の乱れた性生活は窺い知れる。奏が無神経に、その事を透に相談した事は、一度や二度ではなかったはずだ。けれども、そのどの時も透は嫉妬や苛立ちを表面に出す事は無かった。 「困ったヤツだね。俺からも言ってみるよ」 と、苦笑いしているだけだったが、その裏側では奏には分からない葛藤があったのかもしれない。 それが気になって、透と響が付き合うようになった後で一度だけ奏は透に尋ねた事があったけれど、透は、 「嫉妬はしないと言ったら嘘になる。でも、独占欲をむき出しにしたり、束縛しようとするのは響を追い詰めるだけなんだよ。昔、俺はそれで失敗しているから二の轍は踏みたくないだけ」 と、曖昧な答えをくれただけだった。 今でも、時々、響と透の関係が奏には分からなくなる。本当に恋人同士なのかと思うくらい、素っ気無く、あっさりした会話をしているかと思えば、奏には分からない、奇妙な執着の様なものを感じさせる態度をお互いに取り合ったりする。その関係は、友人とも、恋人とも、ましてや家族とも、言い表しようの無いものだ。 十六の歳からおよそ九年。付かず離れずの付き合いを続けてきた二人には、奏には理解しようの無い絆のようなものがあるのかもしれなかった。 |