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note of sigh -4 ……………

 建物の中から現れた長身のシルエットを確認して、奏は腰を下ろしていたガードレールからすっと離れた。静かに、そのシルエットに近づき、
「こんばんは」
 と、声を掛ければ、少しだけ驚いたように立ち止まり、それから、奏の姿を確認した途端、いつもの穏やかな笑みを浮かべてくれる。
「こんばんは、どうしたんだい? こんな場所で?」
「透さんに話があって。待ってた」
 素直に奏が告げると、透は形の良い眉をひょいと上げて、悪戯な笑みを浮かべて見せた。
「浮気のお誘い?」
「うん。俺とデートしない?」
「それは、スリリングで楽しそうだね」
 透はクスクスと笑いながら、スマートな仕草で奏の鞄を取り上げる。
「何?」
「お姫様の荷物を持つのは紳士として当然のマナーですから」
 そう言いながら、奏を歩道側に誘い、自分が車道側に立ってエスコートを始める。その行き過ぎたふざけ方に奏は苦笑いしながらも、素直に従った。
「兄貴と一緒の時もそういうことするの?」
 嫌味ではなく、純粋な疑問から奏が尋ねると透はすっと目を細め、少しだけ険しい表情になった。
「まさか。そんなことしたら間違いなく殺されるね」
「え?」
「響は『守られる』のが嫌いだからね。自分は常に『守っている』と思っていなければ自分を保てない」
 奏には理解し難い言葉を独り言のように漏らすと、透は不意に黙り込む。
 突然に降りてきた沈黙が、居心地の悪さを感じさせて奏もつられて黙り込んでしまった。
 二人、言葉も発する事が出来ず、ただ、並んで道を歩き続ける。駅の方向ではない場所に向かっているようだったが、どこに向かっているのか奏には分からなかった。しかし、それを尋ねる事もできず、ただ大人しく透に付いて行く。
 奇妙な緊張を感じながら、奏はふと透の横顔を見上げた。
 薄いフレームの奥の目は、いつもは穏やかそうに見えるのに、今は酷く冷めた表情に見える。もしかして、普段の穏やかさよりも、この冷淡さが透の本性なのではないかと奏は漠然と思った。

 透にとっては響以外のことはどうでも良い。
 ともすれば、奏の事すら疎ましく思っているのではないかと穿ちすぎた考えを持った事もあったが、その度に、それは兄を突然に奪われ、淡い初恋のような感情に似た憧れを透に抱いていたからだと自分に言い聞かせてきた。だが、あながち、その考えも間違いではなかったのではないかと、急に奏は不安になる。
 もちろん、そう尋ねれば透は否定するに違いない。
 だが、本心は。

 冷たいものが背中を滑り落ちるのを感じていると、透は不意に表情を緩め、奏のほうに視線を落とした。
「カナちゃん、話って響のことだろ?」
「え? あ? あ、うん」
 突然に本題を振られて、奏は慌てて返事をする。透は苦笑いを浮かべると、手をあげ、一軒の店を指し示した。
「あそこ。行きつけの店だけど。入ろうか」
「あ、うん」
 促されて、少しシックな内装のレストランに入る。夕食時なのか、店の中はそこそこに賑わっていた。
 店員に適当な席に案内され、腰を下ろした途端、
「アイツ、まだ、都築さんと浮気してる?」
 と酷く軽い口調で透は奏に尋ねた。そのあまりの口調の軽さに、奏は一瞬何を聞かれたのか理解できなかった。ぽかんとした表情で透を見上げると、透は悪戯な表情を浮かべて奏を見ている。そこに深刻さの影は見当たらなかった。
「…透さん、知ってたの?」
「何を?」
 人の悪い笑みを浮かべながら、透は奏をからかうようにさらに尋ねる。
 何を。

 響が以前、都築と付き合っていたこと。
 最近、おかしな雰囲気になっていたこと。

 その両方だったが、恐らく、その両方ともを透は知っていたのだろうと奏は直感的に悟った。それを敢えて尋ねる透は、やはり、人が悪いと思う。どんな状況でも、透は透なのだと思ったら、奏は少しだけ安堵した。
「浮気はしてないみたい」
「そう? 一度くらいは寝たかなと思ってたけど」
 奏が答えれば、今度は、あっさりと際どい事を透は言ってのける。何と返答して良いのか皆目見当もつかずに、奏は思わず口をつぐんでしまった。
 そんな奏の様子を見ながら透は苦笑いを零す。
「ゴメン、ゴメン。嫌味じゃなくて。響が他のヤツと寝ても、それって浮気じゃないんだよな」
「どういう意味? 付き合ってる人がいるのに、他の人とそういう事したら、立派な浮気だろ? 俺は絶対に許せないけど」
「…カナちゃんの精神は健全だね。見ていて安心するよ」
「…兄貴は健全じゃないの?」
 響の方が精神的に不安定で脆弱。
 都築が言っていた言葉が、透の曖昧な言葉と重なって聞こえ、奏は思わず尋ねてしまう。透は奏の質問に、おや、と言うように少しだけ眉を上げ、それから穏やかに笑った。
「そうだね。健全ではないね。男とのセックスは響にとっては自傷行為と同義だからね」
 穏やかな表情から飛び出した言葉は、ぎょっとするようなもので、思わず、奏は料理に付けようとしていた箸をピタリと止めてしまった。
 男とのセックス、だとか、自傷行為、だとか。
 人に聞かれたらどうするのだろうか、と思って周りを見回したが、他の客達は皆、自分達の会話に没頭しているようで、こちらに関心を寄越している人間はいないようだった。
「…透さんとするのも、そうなの?」
 戸惑いがちに尋ねると透はふざけたように肩をすくめて見せる。
「カナちゃんがそんなこと聞くなんてなあ。大人になったよね」
 しみじみと言われて奏は、自分が不躾に二人の体の関係に踏み込んでしまったのだと気が付く。顔を赤くして、ごめんなさいと謝れば、透は声を立てて楽しそうに笑った。
「どうなんだろう。ただ、自己嫌悪に陥っている時は、響は相変わらず馬鹿みたいにセックスしたがる傾向はあるけどね」
 あっけらかんと答えられてしまい、奏はますます顔を赤くする。だが、透はさして気にした風もなく、器用な手つきで運ばれてきた料理を奏の皿に切り分けてやった。
「…で、結局、カナちゃんの方の用事は何だったのかな?」
 改めて尋ねられて、奏は言葉に詰まってしまった。自分は一体、何がしたかったのか、実は奏自身にも良く分かってはいなかった。ただ、何となくこのままではいけないと思ったのだ。
 兄のために、何かをしたいと思って、勢いあまって透の職場まで来てしまったが、何を言って良いのか、今の奏には余りに漠然としすぎていて言葉にならない。
 仕方なく、
「透さん、本当にヨーロッパ行くの?」
 と尋ねる。
「多分ね」
「一年も兄貴と離れていて平気なの?」
「どうだろうね? まあ、いずれにしても平気なら続くし、平気じゃなかったら終わるだけだよ」
「…兄貴と同じ事言うんだね」
「大人だからね」
 からかうように透に言われて奏はむっとしてしまう。上目遣いで睨むように透を見れば、透は手にしていたナイフとフォークを一旦置いて、不思議な笑みを浮かべた。
「もっとも。別れる事が出来るかと言うのは別問題だけどね」
「どういう意味?」
「カナちゃんはイイコ過ぎて、時々罪悪感に苛まれるって事」
「? 全然分からないんだけど」
 透の謎掛けのような言葉に、奏は首を傾げる。透は珍しく次の言葉を言い淀むと、ふと視線を奏から逸らし、窓の方に向けた。
「…実を言うと、俺は、カナちゃんが郁人君と付き合うことになった時、すごく喜んだんだよね」
「え…な…なんで…?」
「カナちゃんが響から離れていってくれると思ったから」
 残酷な言葉は、酷く淡々とした言葉で綴られた。奏の中で、衝撃と納得が同時に生まれる。それは、どこかで薄々と感づいていた事実だった。透は、自分を疎ましく思っていたのではないかという。
「そう…なんだ…・」
「うん。俺は、カナちゃんが思ってるような優しい良い奴じゃないからね。あんまり、無防備に信用されると良心が痛んだ」
「…俺、邪魔? どっか行った方が良い?」
「それは困るな。カナちゃんがいなくなっちゃうと響がぶっ壊れるから。…それに、いい訳じみてるかもしれないけど、カナちゃんが弟みたいに可愛いって感情があるのも本当」
 苦笑いを浮かべながらそう言う透の言葉も、確かに嘘ではないのだと、奏は直感的に感じた。恐らく、奏を疎ましいと思うのも、可愛いと思うのも透にとっては真実なのだろう。
 ただ、兄が不安定になるのと同じように、その比重が危うく揺れ動いてしまうと言うだけで。
「…透さんが邪魔だって言うなら、俺、遠くの大学に行っても良いよ。だから、兄貴のこと、見捨てないで、ちゃんと見張ってて」
 奏が悲壮な決意でそう告げると、透は酷く優しい眼差しを奏に向け、それからテーブル越しに、奏の髪の毛をクシャリと撫でた。
「やっぱり、カナちゃんはイイコすぎるんだよなあ…残念ながら、俺から響を見捨てるって事は有り得ないから安心してください」
 そう言いながら、透はスッと奏から手を離す。それから、
「本当は、一年前にちゃんと言わなくちゃだった事なんだよな。カナちゃん、お兄さん、取っちゃってゴメン」
 そう、穏やかな口調で付け足した。
 奏は、思わず俯いてしまう。一年前、透と響が付き合い始めたことを知った時に感じた寂寥感は、透に対する憧れが壊れたせいというよりは、圧倒的に兄を誰かに取られてしまった喪失感によるところが大きかった。
 今になって、それを自覚して、思わず泣きそうになってしまう。
 だが、過ぎた感傷を振り切って奏は顔を上げた。それから、しゃんとした態度で、
「悪いと思うなら、ちゃんと兄貴と話してケリつけてよ」
 と文句をつけた。
「う〜ん。カナちゃんに言われたら、聞くしかないよなあ」
 透はワザとらしく、困ったような顔でそう答えたが。

 暫く、二人で見詰め合った後、思わず噴出してしまった透と奏だった。



 **********



 少し離れた場所で、聞き慣れた電子音がする。ああ、携帯電話が鳴っているのだと思ったが、すっかり疲れ切ってしまった体は、起きることを拒否していた。それを見越してなのか、隣の体温がするりと自分の傍を抜け出して、勝手に奏の携帯に出てしまった。
 人の電話なのに、と文句を言いたくても声を出すのすら億劫で、結局、ベッドの上に突っ伏したまま郁人の好きにさせてしまった。
「…はい…うん。そう。ここにいる。…あー、うん。…いや、分かってるって。あーはいはい」
 気安い態度で話しているところを見ると、恐らく相手は兄だろう。そう考えたら、少しだけバツの悪い気分になってしまった。郁人は、時折、頷いたり苦笑を浮かべたりして会話を続けている。そうして、最後まで奏に代わることなくそのまま電話を切ってしまった。
 勝手に人の電話に出て勝手に切るなと文句を言おうと思ったが、微かに漏れた声は完全に掠れていて、そんな気もあっさりと消えうせてしまった。
「誰?」
 半ば分かっている答えを、それでも聞いてしまう。掠れた奏の声に、郁人は含み笑いを漏らすと、
「響ちゃん」
 と、予想通りの答えを返した。
「何だって?」
「外泊する時は、ちゃんと連絡しろって」
「俺は外泊する気なんて無かったんだよ」
 不貞腐れた気分で言ってやっても、郁人はそ知らぬ顔だ。
 一体、どういう経路で漏れたのかは謎だが、透と二人きりで出会っていた事が郁人にバレ、当たり前のように週末の午後から拉致されてしまった。その後は、殆どベッドの中というお決まりのパターンで、しかもそれを受け入れてしまっている自分に我ながら呆れてしまう奏だ。
「どっちにしても帰らないほうが良いと思うよ」
「なんでだよ?」
「佐原透が来てたみたい」
「…あっ、そう」
 半ば、馬鹿馬鹿しい気持ちで返事をすると郁人は声を立てて笑い、毛布の上から奏の体を抱きしめた。ひょこんと飛び出している奏の黒髪を、楽しそうに梳きながら、もう片方の手を毛布の下に潜り込ませる。
「おまっ! ちょっ…もう、無理!」
 郁人の体力に半ば感心し、半ば呆れながらも奏は悪戯な手を一生懸命押し返そうとする。
「もうしないって。触ってるだけ」
 笑いを押し殺しながら、郁人は微妙な手つきで奏の体に触れた。
 そもそも、奏だってそう体力の無い方では無い。自分だけがこんなにヘトヘトなのは、お仕置きのつもりなのか何なのか、それはもう、ねちっこい意地悪な抱かれ方をしたからだ。自分が何遍イったのか思い出すのも恥ずかしい。
 たかだか、二人で会っていただけ(しかも用件は至極真面目なものだった)で、毎回こんな風にされるのは堪ったもんじゃない。そう思いながらも、まともな抵抗をしないのも自分なのだから、本当に恋愛なんて馬鹿馬鹿しいと思わざるを得ない。
 奏が無意識に小さな溜息を吐くと、郁人はそれをどう取ったのか、不意に悪戯な手を止めて、奏の体を優しくやんわりと抱きしめた。
「そういえば、響ちゃんから伝言」
「え?」
 奏が反射的に顔を上げて、郁人の顔を見れば、何が嬉しいのか郁人はふにゃりと顔を緩ませて奏の額に軽いキスを落とす。
「おせっかい」
「え?」
「だから。響ちゃんからの伝言。『奏のおせっかい』だってさ」
 何を指差してそう言われたのか、心当たりのある奏は思わず黙り込んでしまう。恐らく、郁人にもその言葉の意味が分かっているのだろう。からかうような笑いを浮かべて、そんな奏を見詰めている。
「相変わらず、兄離れ出来ないんだよなあ」
「煩いな。放っておけよ」
 ブスッとした顔で答えると郁人は軽く声を立てて笑った。
「…兄貴、透さんと仲直りしたのかなあ…」
「さあね? 最初から喧嘩してたわけじゃ無いと思うけどね」
「…悪かったな、お節介で」
「いや、まあ、それが奏だし」
 クシャリと髪の毛をかき混ぜられて、まるで子ども扱いされているようで、奏は複雑な心境に陥る。胸の奥がくすぐったい様な、それでいてシャクに触るような。
 結局、どう反応を返して良いのか分からずに、そのまま黙って郁人に抱かれていた。

 透と一緒にいたということは、何らかの話し合いはしたのだろう。
 そこから、二人がどうするのかは二人だけの問題で、奏が口を出せる領域の問題ではない。
 そう思っても、今は、それが寂しいとは思わなかった。奏が響に言えない事があるように、響にも奏に言えないことがあるのだろう。それでも構わない。一人で自暴自棄になるのではなく、きちんと透に吐き出すことができるのならそれで良いのだと素直に思えた。


 ***


 結局、日曜日の夕方まで郁人に拘束されるハメになった奏が、こっそりと家に入ると、案外、響はいつもと同じで、
「随分とお早いお帰りで」
 と嫌味を言ったりもした。返す言葉も無く、心の中で郁人に悪態を吐きつつ、プカプカと煙草をふかしている兄をぼんやりと見遣る。どこか気だるげな雰囲気を纏っているように見えるのは奏の気のせいなのか。もしかして、自分と似たような目に合わされたのでは、と下世話な想像をしてしまった自分に軽い自己嫌悪を覚えつつ、奏はテーブルの兄の向かいに座った。
「…で? どうすんの?」
「…何が?」
 遠慮がちに奏が尋ねれば、訝しげな表情で響は読んでいた雑誌から目を上げた。
「…だから…透さんについて行く事にしたの?」
 機嫌を伺いながら奏が尋ねれば、響は呆れ果てたような顔をして雑誌を持ち上げ、決して軽くは無いそれでバシンと奏の頭を叩いた。
「って! 暴力反対!」
「あんま、アホなこと言うんじゃねえよ。行かねえつったら行かねえんだよ」
「でも…」
「でももへったくれもないんだよ。ったく、余計な気を回しやがって」
 いつもの毒舌を振るいながら、響は再び雑誌を開き、目を落とす。けれども、本気で怒っていないことは、その表情から奏にも分かった。何が、と言うわけでは無いが、どこか落ち着いたように見えて、先日まで纏わり付いていた危うさがすっかり消えている。
 とりあえず、響の中では何かが解決したらしい。
 奏はそれに気が付いて、ほっとした。
 すっかりいつものペースに戻ってしまった響に、それ以上何かを言えば、薮蛇にもなりかねない。
 賢明な奏は、そこで口を噤み、ぶっきらぼうに差し出された、入れたてのコーヒーに口をつけた。


 **********


 いつもの店で、いつものようにピアノを弾く。カウンターの指定席では透がお酒を軽く飲みながら、それを聞いていた。リクエストの曲も、いつもと同じ「ラカンパネラ」で、今夜は別段、動揺する事も無く、いつもと同じように弾けたと思う。
 響と都築の姿は、今日は見えない。
 一体、透と響の間でどういう話し合いがなされたのか、結局奏が知ることは無かったが、この一週間の間、響はいつもと何ら変わらなかった。精神的にピリピリしている様子も無ければ荒んだ空気も感じられない。下手に、突っ込んで薮蛇になるのも嫌なので、詳しい事情など聞かないが、一応、落ち着いたのかな、と奏は見ている。
 ただ、夏から透が日本を離れた時の事を考えると少しばかり憂鬱だ。また、兄の、あの悪癖がぶり返さなければ良いと奏は心配している。郁人には悪いが、そうなったら兄にへばりついて見張っているしかないと半ば覚悟していた。

 カランと入り口のドアのベルがなり、新しい客が入ってくる。
 ハイドンのセレナーデを弾きながらふと奏が目をやれば、都築が店の中に入ってくるのが見えて、一瞬だけドキッとしてしまった。けれども、その後ろには響の姿は見えない。どうやら、都築一人で店を訪れたようだった。都築は店の中をぐるりと見回し、それからそのまま迷うことなくカウンターに向かう。そして、少しばかり意外そうな顔をしている透の隣にごく自然に腰を下ろした。
 剣呑な空気を予測して、奏は思わずそちらに気を取られてしまう。集中力に欠け、そぞろな演奏をしたまま、チラチラとカウンターに目をやっていたら、コツンと後ろから郁人に頭を小突かれた。
「仕事中」
 ぶっきらぼうに言われて、奏は思わず肩を竦めてしまう。それでもやっぱり無意識にカウンターの方を見てしまい、今度は、郁人に苦笑されてしまった。
「あと三十分で休憩だろ? それまで、ちゃんと弾けよ」
 それ以上は咎めもせず、あっさりとそう言い残して郁人はカウンターの席、都築と透が並んで座っている場所から少し離れた場所にに戻ってしまった。
 奏は小さな溜息を一つ落とすと、スコアに目を移す。気を取り直して、リクエストされている曲を弾き始めれば、視界の片隅で透と都築が談笑しているのが写った。
 何だかなあ、と思いながらショパンの曲を流し弾く。
 とても、楽しげに話をするような組み合わせではないはずなのに、そしらぬ顔で笑いあっている。大人って、ちっとも分からない、と思いながら、ピアノを弾き続ける奏だった。

「お疲れ様」
 休憩時間にカウンターに戻れば、透と都築に声を揃えて言われてしまい、奏は苦笑いを浮かべながら、
「どうも」
 と返事を返した。どこに腰掛けようかと暫く戸惑い、結局、二人が座っている席から二つだけ椅子を空けた場所に腰を下ろした。すると、すぐに、郁人が隣に移動してくる。
「ほら」
 と、コーヒーを差し出され、何となくほっとした気分でそれを受け取った。
「あの二人、何の話してんの?」
 どうしても気になって郁人にこっそり尋ねれば、郁人はおどけたように眉を上げ肩を竦めて見せる。
「別に。何か、音楽雑誌の事とか、ヨーロッパのオーケストラの傾向とか、そんな話してただけみたいだけど?」
「…兄貴の話とかしてなかった?」
「…お前、本当に最近、響ちゃんの事しか考えてねーな」
「しょうがないだろ? 俺に取っちゃ死活問題なんだよ!」
 何で、それが死活問題なんだよ、とブツクサ文句を言いながら、郁人は残っていたらしいコーヒーを呷る。ソーサーに幾らか乱暴にカップを下ろすと、
「気になるなら聞けば良いだろ?」
 と投げやりに言って席を立ち上がった。
「都築さん」
 唐突に、郁人が都築に話しかけたので奏はぎょっとして、思わず椅子から腰を浮かしてしまう。都築と、その向こうにいた透は、予期せぬ人物に話しかけられたのが意外なのか、不思議そうな顔でこちらに振り返った。
「ええと、君は梓さんの息子だったかな?」
「はい。今日は、響ちゃんと一緒じゃないんですか?」
 余りに不躾で直球な質問を郁人が投げかけるので、奏は泡を食って立ち上がる。けれども、都築は、おや、と言うような楽しそうな表情を見せただけで、別段、気に障った様子も見せなかった。むしろ、透の方が、都築の後ろで微かに眉を顰めたが、もちろん慌てふためいている奏に、そんな微妙な変化に気がつける余裕はなかった。
 都築は、楽しそうな、それでいてどこか飄々とした表情のまま、
「ああ、響には振られてしまってね。どうやら、彼の恋人が酷く心が狭いらしくて。二人で出かけると五月蝿いそうだよ」
 と答える。すぐ後ろに、その「件の恋人」がいるのにと奏は更に慌てたが、逆に透はにこやかな笑みを浮かべたまま、
「ははは、それはまた、狭量な男もいたもんですね」
 と茶々を入れた。表面はなごやかな、けれども実は棘だらけの会話に気が付いて、奏は背筋が思わず寒くなる。大人って、一体…と思いかけている所に、さらに都築は続けた。
「しかも、その恋人と来たら彼を一年間一人で置いていくのが心配で仕方ないらしくてね。大事な仕事を蹴ったらしいよ」
 奏と郁人に向かって言っているはずなのに、都築は体の向きを変え、横目でちらりと透を見たまま、くつくつと声を立てて笑った。
「…蹴ったって…透さん、あの仕事蹴ったの?」
 驚いたように、奏が馬鹿正直に尋ねてしまうと、透はバツが悪そうに苦笑いを浮かべて肩を竦めて見せた。
「蹴ってはいませんよ。ヨーロッパには行きます」
「だが、無理矢理期間を三ヶ月に縮めさせたらしいじゃないか? デスクの岡田君が泣いてたぞ?」
「それは、まあ…これからの仕事できちんと返しますから」
 困りきったような表情で透が答えるのを、奏は呆然と見詰めていた。こんな風にやりこめられて、下手に出ている透を見るのは初めてだったからだ。
 だが、都築は自分が優位に立つのは当然と言った顔で、そんな透を面白そうに眺めている。
「まあ、思ったより、君も若かったって事だね。ある意味安心したよ」
 そう言いながら都築は内ポケットから財布を取り出す。カウンターに、飲んだ酒より多目の金額を置くと、
「梓さん、ご馳走様」
 とカウンター奥の梓に声をかけて席を立ち上がった。
 そのまま、カウンターを離れようと一歩二歩歩き出してから、不意に、ピタリと立ち止まる。
「ああ、そう言えば」
 何かを思い出したように都築は振り返り、穏やかな表情で透に目をやった。
「響にとって、私は弱かった頃の自分の象徴なんだそうだよ」
 凪いだ口調で都築が告げた言葉に、透は眉を寄せる。奏には、一体何のことなのか、抽象的な言葉からは理解できなかったが、透には何ら思うところがあるらしかった。
「もう一度、私と会って自分の弱さを確認したかったと言っていたよ。実に、色気の無い無神経な男だと文句を言っておいてくれ」
 最後にそれだけを言い残すと、都築は踵を返し、店を出て行く。出口の扉を開け、店を出て行くまで、決して一度も振り返らなかった。
 けれども、透は都築の背中に軽く会釈をする。
 その透の真摯な表情に、奏は言葉を失い結局、何も尋ねる事は出来なかった。




「で、結局何だったんだよ! あの三人は!」
 立ち寄った郁人のマンションで、釈然としない鬱憤を晴らすかのように奏は喚きたてている。それを呆れた様に見ながら郁人は雑誌をめくった。
「大人の事情に子供が首を突っ込むもんじゃないって事だろ」
「郁人は、自分の身内じゃ無いからそういう事言うんだよ。俺が、どれだけ兄貴の心配してたか、全然分かってねーんだもん!」
 半ば八つ当たりのように騒がれて、郁人はふざけて耳を塞ぐ真似をする。
「あーうるせー」
 奏は、そんな郁人に膨れ面を見せてプイッと他所を向いた。そんな子供っぽい仕草に、思わず笑いを零しながら郁人は眺めているだけだった雑誌を放り投げる。それから、奏の肩を捕まえてそのままソファに押し倒した。
「やめろよ! 俺は怒ってんだよ! そんな気にならない!」
「まあまあ、大人は大人、子供は子供って事で」
「うるさい! 俺は、子供じゃない!」
 奏がむくれたまま、言い返した言葉に郁人は目を丸くして、それから、急に腹を抱えてゲラゲラと笑い出した。
「何だよ! 何笑ってるんだよ!」
「いや。昔ッから変わってないな〜と思ってさ」
「何が」
「奏、お前、気が付いてない? 響ちゃんに仲間はずれにされてさ『子供はあっちにいってろ』って言われるたんびに『俺は子供じゃない! 』って怒ってたの。いや、変わってないな、お前」
 楽しそうに郁人が笑っているのを見ながら、奏は思わず顔を真っ赤にしてしまう。思わぬところで、自分でも気が付いていなかったブラコンぶりを暴露され、悔しいやら、恥ずかしいやらで言葉を失う。
「二人きりの家族だしなあ。まあ、愛すべき兄弟って事で」
 ふざけたように言いながら、再び奏の体を押し倒してくる郁人に抵抗する気力はすっかり奪われていた。
 兄も兄なら、弟も弟。
 馬鹿馬鹿しい気分のまま、郁人の背中に腕を回す。
 きっと、あの兄を理解する事は死ぬまでありえないのだろうと思いながら、奏は大きな溜息を一つ零した。
 結局、奏が今回の件でやきもきしていたのは、骨折り損のくたびれもうけになりそうで、精神的にぐったりと疲れが襲ってきてしまう。
「ヤってる最中に、溜息つくなよ。集中しろよ」
 郁人に咎められて、
「ハイハイ」
 と投げやりに返事を返す。

 まあ、別にそれでも良いかと、奏はぼんやり兄の顔を思い出した。
 誰から見ても、そっくりな、兄弟だとしか思えない自分と似た顔。
 理解なんて出来ても出来なくても。

 奏と響が兄弟であることは疑いも無いのだから、どうでも良いやと放り投げてしまった奏だった。



 ------ end.



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