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note of sigh -2 ……………

 そもそも、奏がピアノを始めたきっかけは響だった。
 いつだったか、まだ、奏が小学校に上がるか上がらないかの小さな頃、母の深雪に連れて行かれたピアノの発表会。大人びた舞台衣装に身を包んだ響が弾いた曲は確か、ショパンの「幻想即興曲」だったと思う。小学生には難易度の高い曲を難なく弾いていた響の姿に、奏は目を引かれた。

 魔法のように複雑に動く指先。
 ダイナミックな曲調。
 煌びやかで華やかな音の連続。

 幼心に、何か感じるものがあったのだろう。次の日から、奏はピアノを習いたいと深雪にしきりに強請り始めた。
 もともと、深雪は奏には声楽の方に進んで欲しかったので、酷く落胆したが、結局は奏の言うとおりピアノを習わせた。
 奏と響二人の父である二宮克征は、新鋭の天才的なピアニストだと小さな頃から、母や、梓や、あるいは父の友人達に言われて育ってきた奏だが、奏が2歳の時に事故で亡くなっているために殆ど記憶には残っていない。
 響は物心付いた時から父の演奏を聞き、父に憧れてピアノを始めたらしいが、奏は兄に影響を受け、兄に憧れてピアノを始めたのだ。
 自然と兄の演奏を真似るようにピアノを弾いていた奏に、
「響の真似をしてはいけないよ」
 と最初に注意したのは他でもない、都築基だ。初めてそう注意された時、奏は何を言われているのか分からず、ただ、きょとんとして都築を見詰めていた。響のピアノを真似ていたのはあくまでも無意識で、ただ、漠然と奏の頭の片隅には、兄のような演奏がしたい、と言う思いがあっただけだった。
「奏には奏にしかできない演奏がある。誰かを真似ては絶対にいけないよ」
 都築は、まだ小学校に上がったばかりの奏に優しくそう諭した。幼い奏には、なぜ、兄を真似ることがいけないことなのか分からずに、抵抗を感じたが、結局は都築の言うようになるべく響のことは考えないように心がけた。
 今にして思えば、都築の指導法は実に的を得ていたのだろうと奏は思う。
 小学校の間は、とにかく、都築は難しいことは言わなかった。ただ、ひたすら、伸び伸びと弾く事だけを教えた。中学校に上がった途端に、急に練習は難易度を上げた。表現、と言うものについて、難解な講釈をするようにもなった。その曲の時代背景、作曲家の育った環境、そんな直接曲を弾く上では関係の無いような話まで教え込まれた。だが、不思議と、そう言った背景を勉強した方が情感豊かな演奏が出来たので、奏はとにかく全幅の信頼を寄せて、都築に師事していた。
 堅牢な信頼関係で結ばれていた師弟関係がおかしくなり始めたのは、奏が高校に入った途端、梓の店でバイトをするのだと言い出したことがきっかけだった。
 都築は頑なに、奏が梓の店でピアノを弾く事に反対し続けた。
「お金を貰ってピアノを弾くようになってはいけない。まだ、奏はそういう段階まで成長していない」
 渋い顔で都築はそう言い続けたが、結局奏は折れなかった。母をなくした直後で、響が大学院に行くのを断念したのを見ていた奏は、自分が働いて家計を少しでも助けることを絶対に譲れなかったからだ。
 最後に、都築は、ポツリと、
「響は、それで自分の才能をダメにした。同じ道を行きたがるなんて、因果な兄弟だな」
 と、謎めいた言葉を零して溜息を吐いた。それ以来、奏が音大に行くのを決心するまでの間、定期レッスンに訪れる事は無くなっていた。
 しかし、1年半のブランクを置いて訪れた奏は都築は穏やかな笑顔で迎い入れた。とにかく一度演奏してみなさいと言われ、相当に緊張しながら奏は都築の前で久しぶりに演奏をしたが、都築は、それを聞いて嬉しそうに笑っただけで、厳しいことは言わなかった。ただ、
「来週から、週1のペースで通いなさい」
 と告げた。
 都築の指導は独特だとは思うが、やはり、今でも奏は全面的にそのピアノ講師を信頼している。だが、それはあくまでピアノの面においてだけだ。
 上手くは言えないが、都築の近くにいるのは非常に落ち着かない、居心地が悪い、と奏は思っている。郁人になどは口が裂けても言えないが、都築は奇妙な魅力があると感じるからだ。それは、奏が中学に上がったばかりの頃から薄々感じ始めていたことだった。
 だが、その魅力とは、例えばテレビに出ている俳優が格好良い、とか、スポーツ選手の均整の取れた体に憧れるとか、そう言った類の健全なものではない。
 官能的、とでも言うのだろうか。セックスと直結してしまうような、どこか背徳的で、不健全なイメージの魅力なのだ。
 都築自身は、決して男くさいタイプではなかったし、どちらかと言えば中世的な印象で雰囲気も極めて穏やかだ。であるのに、どこか人を落ち着かない気分にさせるセックスアピールがある。
 それでも、奏が必要以上に都築に惹かれ、傾倒しなかったのは本能的な恐怖が先に立ったからだった。
 一言で言うのなら「悪い男」なのだと奏は思う。もし、万が一、都築に踏み込んでしまえばボロボロにされて、自分がダメになるような気がした。
 ダメになる、と言うのはどういう事なのか説明は出来なかったが、ただ、漠然とそんな恐怖があったので、奏は無意識的に、時には意図的に、都築とプライベートではなるべく関わらないように振舞ってきた。
 だが。
 だが、兄はどうだったのだろうと、奏は突然に疑問に思ってしまった。
 ふと、一時期の響の自堕落振りと荒みようが都築の顔を連想させてしまう。
 最も兄が荒れていたのは高校の後半から大学の前半だったように奏は覚えている。響は、もともと要領の良いタイプで、浪人したり、留年したりと言うようなヘマはしなかったが、とにかく雰囲気が酷く荒んでいた。つねにピリピリとした空気を纏わりつかせていて、どこか、自虐的で投げやりだった。
 その頃の響の笑い顔、と言うのを正直言って奏は思い出すことが出来ない。覚えているのは、どこか陰の落ちた作り笑いだけだ。
 だが、外ではどんな乱行を繰り広げていても、家の中では響は「立派な兄」を演じ続けていた。その乱行と、「立派な兄」の演技がピタリと止んだのは、母の深雪が癌で亡くなってからだ。
 外ではそれなりに遊んでいたらしいし、透に言わせれば相変わらずの節操なしだったらしいが、外泊はぴたりと止んだ。何か憑き物でも落ちたかのようにピリピリとした空気が無くなった。その代わりに、今でも続いている顔に似合わぬ毒舌を振るい始めたのだ。
 容赦の無い言葉に、最初奏は戸惑ったが、響が作り笑いをしなくなったことに気がついて少しだけ安心した。それから、キツいのは言葉だけで、弟を思いやる不器用な優しさは少しも変わっていないことに気がついて、奏はそのまま、その響に馴染んでしまった。遠慮の無い物言いは、気を使いすぎているよりも余程安心できたし、兄の将来を狭めてしまったことによる負い目を薄めてもくれた。

 だが、響の胸の内で起こった様々な変化が奏には全く分からなかった。何が原因で、何に悩み、どんな気持ちで響が葛藤していたのかも。だが、透に一度だけ相談した時に、透は不思議に落ち着いた表情で、
「それは、カナちゃんが知らなくて良い事なんだよ。響が見せたくないと、知られたくないと思ったことなら気がつかない振りをしてやるのも思いやり」
 と言っただけだった。
 一体、透はどんなつもりでその言葉を言ったのだろう、と奏はピアノを弾きながら考える。曲の合間にふと顔を上げれば、カウンターに座ってコーヒーを飲みながら、梓と談笑している件の透が目に入った。
 コツンと後ろから頭を軽く叩かれて振り返れば郁人が立っている。
「余所見してる。そろそろ休憩にしろよ」
「あ、うん」
 促されて立ち上がり、カウンターに向かおうとした瞬間、チリリンと店のドアのベルが鳴った。新しい客が入ってきたのだろう、と、何気なくそちらに視線をやり、奏は思わず固まってしまった。
 店に入ってきたのは、響と都築の二人だったからだ。
 なぜ、その組み合わせをこの場所で見なくてはならないのかと驚いたまま二人を見詰めていると、響は奏のほうではなく、カウンターに座っている透にちらりと一瞬だけ目をやった。だが、それは本当に一瞬だけの事で、二人は窓際の席を選び、向かい合って座ってしまった。
「やな感じ」
 後ろで、ポツリと郁人が呟く。
「え?」
 と振り返れば、郁人は釈然としない複雑そうな表情で立っていた。
「あの男。響ちゃんの事完全に女扱いしてるからさ」
「そうだっけ?」
「普通、男が男に椅子を引かないって」
 そう言いながら郁人が苦笑する。指摘されて初めて、奏はその行為に違和感を覚えた。あまりに、都築の仕草が手馴れていて、響自身もそうされることに物慣れているようで、あまり疑問を感じなかったのだ。
「ま、別にいいけど。カウンター行ってコーヒー飲もう」
 促されて、奏は上の空で頷く。ぼんやりと窓際の二人を眺めながらカウンターに向かっていると、不意に都築がこちらを見て、微かに笑いかけた。そして、響に何かを話しかけ席を立つ。カウンターに向かって歩いて来たので、奏はてっきり自分に挨拶をしに来るのかと思っていたが、そうではなく、意外なことに、都築は透に向かって話しかけた。
「やあ、佐原君」
「どうも、ご無沙汰しております。前回の取材の時には大変お世話になりました」
「いやいや。こちらこそ。最近、忙しいらしいね?」
 穏やかに都築が問いかけると、透は眼鏡の奥の眉を微かに動かした。
「ええ、お陰さまで」
 答える透の声は確かに穏やかだったが、その目には剣呑な光りが浮かんでいる。どこか、いつもと違う、と思いながら奏は二人の会話を聞いていた。そもそも、この二人が知り合いだったという事も意外で、奏は少しばかり驚いてもいた。
「栄転らしいじゃないか」
 都築はふっと口元を緩ませて、人の悪い笑みを浮かべる。まるで、勝ち誇ったような表情で、
「1年間、ヨーロッパだって? ウィーンフィルの新しい常任指揮者の取材を任されたらしいじゃないか」
 と更に続けた。
「え?」
 と、言葉の意味が分からずに、思わず奏が声を上げてしまう。だが、透はそんな奏には構うことなく、感情を読み取らせない無表情を浮かべていた。
「残念ながら、本決まりじゃないですがね」
「だが、長期で日本を離れる事になるのは確実なんだろう? 恋人が寂しがらなければ良いがね」
 くつくつと嫌味なほど屈託の無い笑いを浮かべながら、都築は透をからかった。だが、それにも透は一切表情を変えずに、
「いえ、連れて行くつもりですので」
 とあっさりと答える。

 ツレテイクツモリデスノデ。

 奏の頭の中で、その言葉が意味も無くぐるぐると回る。

 連れて行くつもりって、誰を?
 恋人を?
 恋人って?

 (恋人って兄貴? )

 ようやくそこまで考えが至り、奏がポカンと口をあけたままカウンターの前で立ち尽くしていると、
「俺は行かねえよ」
 と、酷く機嫌の悪い声が、真上から降ってきた。

 嵐の予感の前に、郁人がジーザスとふざけて十字を切るのが、視界の端に写った奏だった。



 **********



「だから、俺は、アイツになんかついていかねえっつーの。第一、仕事もあるのに1年もヨーロッパになんか行ける訳ないだろうが」
 苛々と煙草をふかしながら響は言い捨てる。その言葉を聞き、奏は食卓の向かいの席で、憮然とした表情をしてみせた。
「1年くらい、仕事なんて休めば良いじゃないか」
「その間、俺とお前は誰が養うんだよ」
 辛辣な言葉を投げられて、奏は言葉に詰まる。感情的に兄を責め立ててはみたものの、結局、そう切り返されては返す言葉も無かった。
「そ…そんなの。俺、俺はアルバイトとかすれば…」
 それでも、しどろもどろに言い返せば、話にならないとばかりに響は鼻で奏を笑った。
「世の中、そんなに甘く無いんだよ」
「何だよ! じゃあ、兄貴は透さんと1年も離れてて平気なのかよ!」
 自分は、きっと耐えられない。郁人と1年も離れているなんて。それは、未だ幼い、走り始めたばかりの恋愛に身を任せている奏故の感覚だったが、今の奏にはそれが唯一正しい答えだとしか思えなかった。
「別に」
 フーッとこれみよがしに深く煙草の煙を吐き出しながら、淡々とした口調で響は答える。
「平気だったら続くし、平気じゃなかったら別れるだけだろ。何、お前が熱くなってるんだよ」
 余りに冷め切った表情で言われて、奏はカッと頭に血が上る。

 透は、今までの相手とは違う。
 響にとっては特別な相手なのだと奏は信じて疑っていなかった。あれほど恋愛にいい加減だった兄が、透に対してだけは誠実に接しているのだと思っていたのに。
 勝手に裏切られたような気持ちになって、奏は目の前のテーブルを力任せにダンっと叩き付けた。
「…手、怪我するぞ。商売道具だろ」
 それでも、響は意に介さない。涼しい顔で、そんな頭に来る事をサラリと言う。
「大体、兄貴は不誠実過ぎるんだよ! 透さんとちゃんと話もしてないのに、都築先生と二人で店に来たりして! 大体、先生とどういう関係なんだかはっきり言ってみろよ!」
 頭にきた勢いで奏が思わず言ってしまうと、響は煙草を灰皿にギュッと押し付けてから、ゆっくりと奏の目を覗き込んだ。それから、相変わらずの冷めた無表情で、
「客」
 と答える。奏は、言葉の意味が分からずに、一瞬、呆けたような顔で兄を見詰め返した。
「え?」
「だから、あの男は客」
「は?」
「金に困ってた時に、あの男に体売って金貰ってたんだよ、分かったか、カナちゃん?」
 実に皮肉じみた口調で響は奏に告げると、意地悪な笑みをその顔に浮かべた。
 奏は、今度こそ本当に言葉を失う。顎が外れてしまったかのように、あんぐりと口を大きく開いたまま、間抜けな表情で兄を見続けていたが、兄は、それが楽しくて仕方が無い、と言うように突然腹を抱えて笑い出してしまった。


 二人きりのダイニングキッチンで、響の明るい笑い声が響いている。実に異様な光景だった。




 ***




「で? 奏はショックで立ち直れないってか?」
「煩い。放っとけ」
 昼休みの教室で、奏は机に突っ伏したまま、顔を上げようとはしない。その様子を半ば呆れたような表情で見下ろしながら、郁人はそれでも、奏のサラサラの黒髪を弄っている。
 普段は、そんなベタベタした態度を人前で取る事を決して許さない奏だが、今は、その手を跳ね除ける気力も無いらしい。
「冗談じゃないの? 響ちゃん、そういうタチの悪い冗談、しょっちゅう言うじゃん」
「…都築先生に聞いたら肯定された…」
「うわー、最悪。つか、奏聞いたわけ?」
「だって…冗談だって答えると思ったし」
 冗談だと都築が答えて、奏はそれで安心するはずだった。それなのに、レッスンの合間に聞いた答えは、
「ああ、お小遣いを欲しがっていたから上げてた時期はあったよ」
 だった。
 それを聞いた日、奏は撃沈して一日中浮上することが出来なかった。
 別に、恋愛関係にだらしがないのは構わない。いや、本当は構うが、所詮は他人事(血は繋がっていても)だし、口を出すなんて無粋な事だと経験値の少ない奏にも分かっている。だが、売春まがいの事をしていたとなると話は別だ。その動機が母子家庭で細々と暮らしていた我が家の家計を助けるためだったりしたら、目も当てられない。
 そもそも、母、深雪の生前も家計を仕切っていたのは大分前から響だった。深雪はとにかくおっとりしていて、浮世離れしていて、放っておけば、全財産を街頭募金に注ぎ込みかねないような危なっかしい人だった。その分、響がしっかりせざるを得なかったらしく、奏が物心ついた頃からの記憶の響は、とにかく大人びて、優等生で、決してハメをはずしたりしない子供だった。ある意味、子供らしさの無い可愛げの無い子供だったかもしれない。それを思うと奏の胸は時折痛む。
 自分が響とは対照的に、何の不安も無く、伸び伸びと子供らしく育ってこられたのは、響の犠牲があったからなのではないかと不必要な負い目を感じてしまうのだ。

「でも、微妙にニュアンスが違わないか?」
 奏が一人物思いにふけっていると、あさっての方向に視線をやりながら郁人も何かを考えているようだった。
「ニュアンス?」
「言い方に温度差があるというか。響ちゃんは『客』だって言ってたらしいけど、その先生は『お小遣い』って言ってたんだろ?」
「あ、うん」
「やっぱり、単につきあってたってだけなんじゃないかな」
 そう言いながら、郁人は視線を奏に移して顔を近づける。
「まあ、どういう付き合い方だったのかまでは分からないけど。響ちゃんがああいう露悪的な物言いをするのは今に始まったことじゃないし。付き合ってる時に不本意な金を貰ったって事じゃないの?」
「…何で郁人、そんな事分かるんだよ」
 弟の自分が分からない事が、他人の郁人に推察出来るのが少しだけ面白くない。奏は憮然とした表情で、郁人を上目遣いで睨みつけた。そんな奏の表情を見て郁人は苦笑いする。
「奏は響ちゃんの事になると冷静な判断が出来なくなるだけだろ。つーか、ブラコン直せよ」
 からかうように言われて、奏はますます面白くない。ぷーっとワザとらしく頬を膨らませると、郁人は今度は楽しそうに笑った。
「いずれにしても、響ちゃんと佐原透の事は放っておくしかないんじゃないの?」
「…でも。放っておくと、兄貴、また、いい加減な事しそうだし…」
「…つか、奏は響ちゃんの心配してんのか、佐原透の心配してんのかどっちなんだよ?」
 眉を顰めた郁人に気がつき、奏は慌てて体を起こす。ここで機嫌を損ねられると後が大変なのだと、
「そんなの、兄貴に決まってるだろ!」
 と少し大袈裟に訴えた。けれども、郁人は疑わしそうな目で奏を見たままだ。
「どうだか」
 立場が逆転したように、拗ねた表情を見せる郁人に奏は小さな溜息を一つ吐いた。郁人は本当に独占欲が強くて、すぐにつまらないことで嫉妬する。透の事に関しては特に敏感だ。

 それが少しばかり鬱陶しくもあり、嬉しくもある複雑な奏だった。



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