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note of sigh -1 ……………

 ポォンと、最後の一音の弾き終え、余韻を残して奏が鍵盤から手を離すと、
「ふむ。大分良くなったね。今日はここまでにしよう」
 と、傍らに立つ都築が納得したように頷いた。その表情を見て、奏はほっとしたように
「ありがとうございました」
 と、頭を下げる。
 一ヶ月ほど前から、再び都築のレッスンに通うようになったが、相変わらずその内容は厳しい。大学受験の為に再びレッスンを受けることにしたのだと奏が告げてからは尚更のこと厳しくなった。ただ趣味でピアノを習うのとは訳が違う。厳しくするから覚悟するようにと言われていても、あまりに辛辣な言葉を投げつけられるとさすがに、奏もへこんでしまう。都築は、その穏やかそうな物腰と同じく、決して言葉を荒げて注意をしたりしない。非常に淡々とした冷静な口調で痛いところをズケズケと突いてくる。激しく叱責されるよりも、そういう淡々とした態度の方が時としてダメージが大きい事もあるが、それでも、奏はピアノに関しては都築には全幅の信頼を置いていた。
 都築は、物腰の穏やかさからは想像も出来ないようなエキセントリックな演奏をする。技術の高さも然ることながら、それ以上に誰かに何かを訴える力が都築の演奏は突出していると思う。奏がそう言えば、都築は笑いながら、
「君達の父親はこんなものじゃ無かったよ。実に素晴らしかった」
 と、語る。そんな時の都築の目はどこか優しくて少年の抱く憧憬のようなものが滲んでいる。実際、過去の二宮克征(にのみやかつゆき)の演奏を知っている人間は、都築基(つづきはじめ)の演奏は二宮にかなり傾倒しているという評価を下す。
 けれども、それは奏にはあずかり知らぬ遠い過去の話だ。奏の父は奏が二歳の時に不慮の事故で亡くなってしまったのだから。父の演奏がどうだったのかなど、覚えているはずも無い。
 ただ、漠然と兄の響が目指していたのは父のような演奏家だったのではないかと想像している。今では響は殆どピアノを人前では演奏しないが、響のピアノと都築のピアノは、なるほど、どこか共通するものがあるように思えた。

「しかし、奏も随分と音に艶が出るようになったね。恋人でも出来たのかい?」
 不意に、からかうような口調で尋ねられて、奏は思わず顔を赤くしてしまう。言葉ではなく、顔で返事をした奏に都築はカラカラと声を上げて笑った。
「なるほどね。まあ、良い傾向だよ。芸術と恋愛は切って切れない関係だからね」
 などと気障な台詞を吐いても、都築だと様になってしまうから怖い、と奏は肩をすくめた。
「俺のことより、先生はどうなの? もう30過ぎなんだから、結婚とかしないワケ?」
 話の矛先を変えようと逆に質問すると、都築は何も答えずに曖昧に笑った。
「それより、時間が遅くなってしまったね。電車の時間は大丈夫かい?」
「あ、うん。大丈夫だと思うけど…ダメだったら迎えに来てもらう…」
 答えながら、奏は慌てて帰り支度を済ませる。都築にはそう答えたものの、終電を逃して響に迎えに来てもらうのは非常に気が重かったからだ。
 何が気に入らないのか分からないが、響は都築と顔を合わせるのを非常に嫌がる。何度かレッスンの後に迎えに来てもらったことがあったが、その時も決して車から降りようとはせず、徹底的に都築を避けていた。しかも、どうしてそんな態度を取るのかと聞けば、非常に機嫌の悪い様子で
「別に避けてなんかいねえよ」
 と答えるので、それ以上は何も聞けなくなってしまう。大体、大学受験の為にもう一度都築のレッスンを受けろと言い出したのは件の兄の癖に、保護者として一度も挨拶をしないのはどう言う事だ、と奏は言いたくて仕方が無い。


「じゃあ、ありがとうございました。また、来週お願いします」
 そう挨拶して、玄関で靴を履いているとピンポンとインターフォンが鳴るのが聞こえた。すぐ目の前のドアがガチャリと開き、そこには響が立っていた。
 驚いて奏は響をじっと見詰めてしまったが、響の視線は奏を通り過ぎて、その後ろにいる都築に注がれているようだった。
「…珍しい事もあるもんだ」
 不意に後ろから都築の声がして、何とはなしに奏は振り返ってしまう。見上げた都築の顔は今まで自分が見た事の無いような不思議な表情をしていて、奏は一瞬呆気に取られてしまった。
「…弟がお世話になっているのにご挨拶が遅れまして、申し訳ありません」
 言葉は非常に丁寧だが、無表情のぶっきらぼうな口調で響は都築に挨拶する。『慇懃無礼』という言葉が奏の頭の中に浮かんだが、都築は別段気を害した風も無く悠然と笑みを浮かべている。
「せっかくだから、お茶でも飲んでいきなさい」
「いえ…時間も遅いですし」
 そう言いながら前髪を無造作にかきあげる兄の表情が、どこか意地を張っている子供のように見えて、奏はますます呆気にとられてしまった。
「それは残念だね。仕方が無い。また別の機会にでも」
 そう言う都築の言葉は穏やかで、表情も笑顔を浮かべているのに、視線だけがどこか鋭いように思えて奏は何故だかぞっとしてしまう。その視線が向けられているのは自分ではないはずなのに。
「いえ…いや、そうですね…また別の機会に」
 そう言いながら響が視線を逸らすと、都築はおや、と言うように器用に片方の眉だけを上げて見せた。
「どう言う風の吹き回しか知らないが。まあ、私はいつでも歓迎するよ」
「…それでは失礼します」
 響は最後の方は等閑に挨拶して、奏の腕を掴むと引っ張るように玄関を出ようとする。その瞬間、
「響」
 と、都築が呼び止めて、大袈裟なくらい響は体をビクリと反応させて振り返った。
「また悪い病気が出たかい?」
 猫が鼠をいたぶるような非常に性質(たち)のよろしくない視線を響に送りながら、嘲るように都築は言ったが、響は一瞬唇を噛み締めただけで何も答えなかった。くるりと勢い良く踵を返すと、玄関のドアを無造作に閉める。そのまま、奏の腕を引っ張りながら車の止めてある場所まで行き、乱暴な態度で奏を助手席に突っ込むと、さっさと車を発進させた。

 別に大した出来事ではなかったはずだった。自分を迎えに来た兄が、保護者としてピアノの先生に挨拶をしただけ。それなのに、急にピリピリとしてしまった兄に、奏は何も言えなくなってしまう。
 元々、響は都築を嫌っていた。奏が小さな頃は響も都築にピアノを習っていたが、いつの間にかそれもやめてしまった。一体何時頃から兄はあのピアニストを嫌うようになったのだろうと奏は記憶を辿る。そして、不意に、一つの疑問が浮かんできた。
 (…あれ? もしかして、郁人がいなくなった頃だっけ? )
 確かな記憶ではないが、それは奏の胸の中に小さな小石を落とし、それは波紋のように徐々に広がっていく。モヤモヤとしたはっきりとしないわだかまりが胸に残って奏は気持ちが悪かった。
 何かを尋ねようと盗み見た兄の横顔は、やはりどこかピリピリとしていて全てを拒絶しているようにさえ見える。結局、何も言う事が出来ずに奏が黙り込むと、不意に、
「奏。お前、郁人とうまくいってんの?」
 と尋ねられた。
「あ…うん。一応。結構、アイツ独占欲強くて鬱陶しい時とかあるけど…まあ、何とか」
 突然の質問に取り繕うことも出来ず、正直に答えれば響は苦笑する。
「贅沢言ってるな。……・・まあ、大事にしろよ」
 ぽつりと呟くように付け足された言葉に違和感を覚えて奏はもう一度兄の横顔を盗み見る。


 盗み見たその表情は、何故だかどこか寂しそうで、泣くのを我慢している子供のように見えた。



 **********



 ガヤガヤと騒がしい店内で、奏がピアノの前に座るとその喧騒がピタリと止む。
 店の全部が全部、と言う訳ではないが、ピアノに近い席は比較的その傾向が強い。最近は何人か見知った顔があって、多分、常連なのだろう。常に、一曲か二曲リクエストをくれる人も少なくは無い。時にはチップをくれたりもする。別段、チップを貰うことを禁止されているわけではないので、奏は自分の演奏への報酬だと思って簡単に受け取ってしまうが、郁人はあまり良い顔をしない。特に、若い女性や男性からのそれはあからさまに嫌そうな顔をしてみせる。
「何か、最近、郁人は俺のことを束縛したがって鬱陶しい」
 と透に愚痴れば、
「カナちゃんにノロケを聞かされる日が来るとは思わなかった」
 と笑って軽くあしらわれてしまった。束縛したがるのも、束縛を疎ましく思うのも若さゆえの傲慢だと透は知っているが、それを敢えて指摘したりはしない。それは二人が学んでいけば良いことだと思っているので、無粋な口出しはしないのだ。

 奏が郁人と付き合い始めて三ヶ月ほどが経った。里佳は
「3の倍数の期間は倦怠期なんだよ。カナちゃん、ユキと別れたら教えてね」
 と、意地悪な事を無邪気な笑顔で言っていた。別に倦怠期だとは思わないが、確かに今まで見えていなかったアレコレが目に付き始める時期ではある、と奏も思う。けれども、結局はそのどれもこれもが些細なことで、二人の関係の根幹を揺るがすような事ではないと奏は思っている。
 一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど良いところも悪いところも見えてくるのは当たり前の事。沢山の話をしているうちに、価値観の違いに気が付いたりもするけれど、それはそれで、奏に新しい視点を与えてくれたり、視野を広げてくれたりするもので、決してマイナスだとは思わない。
「って事で、郁人の意見を聞きたいんだけど」
 休憩時間にコーヒーを啜りながら尋ねると、郁人は腕を組んだまま「うーん」と視線を上に泳がせる。
「単にそりが合わない先生だったって事じゃないワケ?」
「それにしては雰囲気が変だったんだよな…」
「じゃ、アレじゃないの?」
「アレって?」
「響ちゃんの昔のオトコ」
 郁人に指摘されて、奏は一瞬黙り込む。頭の中でその可能性をシミュレーションしてみて、なぜだかドキンとしてしまった。何と言うか、他人の寝室を覗いてしまったような罪悪感と、居心地の悪さと、微かな好奇心を感じてしまったからだ。
「…うー…有り得そうで洒落にならない」
「だよなあ…でも、少なくとも俺がこっちにいた時はそう言う感じじゃなかったような気がするけど…」
「何で分かるんだよ?」
「俺がいた頃って、俺、響ちゃんの恋人って女の人しか知らなかったし」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ。性別問わなくなったのは俺がいなくなってからだって、母さんに聞いたけどなあ?」
「そうなの! ? ってか、何で梓さんが兄貴のそんな事知ってるんだよ?」
「…そりゃ、深雪さんにそういう話出来なかったからだろ。深雪さんってどっか浮世離れした少女じみた人だったしさあ…。その点、ウチの母さんはさばけてたし」
 そう言われてみれば、確かに自分の母は、子供だった自分から見てもどこか幼くて、危なっかしいような人だったと奏は思う。それを庇うように、守るようにしていたのが梓だったのだと。

「…・あの人に聞いてみれば何か知ってるかもな」
 奏がぼんやりと思い出に浸っていると、どこか面白く無さそうな、苦虫を噛み潰したような表情の郁人がそう言った。
「あの人って?」
 屈託無く奏が尋ねれば、郁人は肩をすくめながら、
「…佐原透」
 と、その名を呼ぶのも疎ましいと言うように答えた。透に対して抱いていた感情はただの憧れだったのだと何度奏が言っても郁人は納得しない。未だに、奏と透が楽しそうに話をしていると機嫌が悪くなる。例えその話の内容が、専門的な音楽の話だったり、響の話だったとしてもだ。
 しつこいなあ、と思いながらも奏はカウンターの下のほうで、誰にも見えないように郁人の手をキュッと握ってみせる。そうすると郁人の機嫌は簡単に直るので、そんな所が憎めない、可愛いと奏は思ってしまうのだ。何だかんだと言いながら、結局は奏もまだ恋愛初期の浮かれた気分が抜け切ってはいないのだった。
「奏、そろそろ時間」
 郁人に促されて奏は再びピアノの方に向かう。何気なく店内を見渡してみたが、件の透の姿は見当たらなかった。奏のバイトしている金曜日には必ずと言って良いほど店に訪れ、ラカンパネラをリクエストしていた透だったが、ここ二週間ほどその姿は見ていない。兄の奇妙な態度と透の不在は何か関係があるのだろうかと思いながらピアノの前に座る。
 兄の事が気に掛かり胸に残っていたが、ピアノを弾き始めた途端、奏は演奏に集中してしまい、それはどこか遠くへ追いやられてしまったのだった。






「お疲れ様でした〜」
 挨拶をしながら、店の裏口から外に出る。春先とは言え、やはり夜中ともなると空気は冷たく、ハアと吐き出す息は白かった。
 金曜日のアルバイトを終えると、いつでも午前1時過ぎになってしまう。男なんだから一人で帰れると何度言っても郁人は必ず、奏を送って行きたがった。しかも、響が不在の時などは、そのまま奏のマンションに上がりこんで泊まって行ったりするので少しばかりバツが悪い。
 そうは言っても、玄関先でキスをしているうちに何となく別れ難くなり、奏から郁人を誘うこともあるので、文句など言えなかった。

 その日も、郁人が裏口で待っていたので、二人並んで帰ろうと歩き始めた。が、数歩行ったところで車のクラクションに呼び止められて、二人は立ち止まる。不意に車のライトで照らされて、目を眇めながら奏がそちらを見ると、車の中から透が現れて、
「今晩は。カナちゃん、お久しぶり。ちょっと良いかな?」
 とにこやかに声を掛けられた。突然の透の登場に奏は一瞬呆気に取られ、無意識に振り返って郁人の顔を見上げる。郁人は眩しいのか、機嫌が悪いのか、眉を顰めて車のほうを睨みつけていた。
 そんな郁人の表情を見て、透は苦笑いする。
「郁人君もこんばんは…申し訳ないんだけど、カナちゃんちょっとだけ借りても良いかな?」
 珍しく、郁人に気兼ねをするように低姿勢で透が尋ねたが郁人は眉を顰めたまま返事をしない。透はますます苦笑いを深めて、
「カナちゃんは俺が責任持って車で送るから。ダメかな?」
 と再び尋ねる。郁人はそれにも首を縦には振らずに、不機嫌な態度もあらわに、
「俺も一緒に行く」
 と答えた。
 奏は、郁人のその様子を見ながら、あーあと肩をすくめる。せっかくの週末、映画を見に行く約束をしていたが、下手をすれば一日中ベッドの中で郁人のご機嫌取りをしなくてはならないのかもしれない。




 そう考えたらゲンナリしてしまった奏だった。




 **********



 透が助手席のドアを開けて待っているのに、郁人はわざと後部座席のドアを開き、先に奏を押し込んでから自分もその隣に乗り込んだ。
 その様子を見ながら透はやっぱり苦笑いする。
「若いなあ」
 と小さな声で独り言を漏らすと、運転席に座りエンジンが温まるまで暫くそうして待っていた。
「透さん、何かあったの? 最近店にも来なかったし」
 後ろの席から奏が身を乗り出して尋ねれば、ミラー越しに奏の顔をチラリと覗いて透は困ったような笑い方をした。
「仕事が忙しくてね」
「そうなの? 大丈夫?」
「それが、あんまり大丈夫じゃなさそうなんだなあ…。そろそろ良いかな? 出発するよ」
 そう言いながら、静かに車を発進させる。
「どこか行きたい場所あるかい? ドライブがてら少し遠いところまで行ってみる?」
 そう尋ねられて、奏は横に座る郁人を窺うようにちらりと見やる。郁人は相変わらず憮然とした表情で助手席のヘッドの部分を睨みつけて、奏のほうを見ようとはしなかった。
「郁人、行きたい場所とか無いの?」
「別に」
 にべも無い返事を返されて、奏は思わず小さな溜息を吐く。郁人は、普段は比較的落ち着いていて、どこか大人びた態度を見せるくせに、奏と二人きりだったり、透が絡んだりすると途端に子供じみた態度を取ってみせる。多分、素のままの自分を見せてくれているせいだとは思うが、時々、甘えられているようで複雑な心境に陥ってしまう。
「透さんは行きたいところ無いの?」
 奏が仕方なく透に話を振ると、透は暫く沈黙して、それから、
「…海でも見に行こうか」
 と答えた。



 車は国道に出て、追い越し車線を結構なスピードで進んでいく。通り過ぎていくオレンジ色の街灯を何気なく見遣りながら奏は透が何か話を切り出すのを待っていた。けれども、透は何も言わずに、ただ、黙って車を運転している。三十分ほど気詰まりな沈黙が続いた。
 車は緩やかな勾配を上り、カーブを描いて小高い丘の上に出る。そこまで行くと、視界に海が入ってきた。真っ暗な、空と判別の付きにくい海。
 少しだけ窓を開ければ、潮の香りが微かに漂ってきて、それで、海が近いのだとようやく分かった。丘を下っていくと、微かに波の音も聞こえ始める。車は海岸沿いの道に出てから暫くの間走り続けたが、広い駐車場を発見して、透はそこに車を止めた。
 奇妙な沈黙が車内に降りる。奏は少しばかり居心地が悪くて、チラリとミラー越しに透に目をやったが、透は前方の真っ暗な海に視線をやり、何か考え事をしているようだった。が、ふいに、視線をずらしミラーを覗き込む。
 奏はタイミングよく鏡の中の透と目があって、ドキッとしてしまった。
「最近、響変じゃないかい?」
 不意に切り出されて、奏は動揺する。変といえば変だが、なんと説明して良いのか分からずに口ごもっていると、透は鏡越しに郁人に目をやり、悪戯な笑みを浮かべた。
「ところで、カナちゃん、郁人君と別れる予定なんて無いよね?」
 突拍子も無い質問をされて、奏は思わず目を丸くする。郁人は思い切り眉を寄せて、訝しげな表情で透を睨みつけた。
「ねえよ。アンタ、喧嘩売ってんの?」
 奏よりも郁人が先に、剣呑な声で答える。が、透は気にした風もなく、
「そうだよなあ」
 と声を立てて笑った。それからその後に、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、
「せめて、郁人君が帰ってくるのがあと一年後だったらなあ…」
 と呟いた。
「兄貴、何かあったの?」
 それでも、どこかいつもの透よりも弱って見える言動に奏は心配になってしまった。先日の兄のおかしな行動といい、喧嘩でもしてしまったのかと疑った。
「どうなのかな。あったと言えばあった、無かったと言えば無かったって感じだけど」
「…この間兄貴変だったんだ。俺のピアノの先生と妙な雰囲気だったし」
 奏が戸惑いながら伝えると、透はほんの一瞬だけ、微かに眉を顰めた。だが、それはほんの一瞬の事で奏には見て取れなかった。
「カナちゃんのピアノの先生って、都築基?」
「あ、うん。透さん知ってる?」
「知ってるよ。新鋭のピアニストだろ。最近アメリカの方からもお声が掛かってて、注目されてる」
 奏が尋ねたのは、そんな客観的な事実ではなかったのだが、透は巧みに会話を逸らして、そう答えた。
「それより、カナちゃん、最近、外泊多いの?」
 不意に話題をすりかえられて奏は思わず赤面してしまう。外泊イコール郁人との体の関係について突っ込んで聞かれたと思ったからだ。だが、透の方は別段、奏をからかうような表情でもなく、あくまでも淡々としている。奏はしどろもどろになりながら、
「あ…えっと…平日はしてない、けど、週末は結構…」
 と答える。
「そう」
 透は静かに答えると再び物思いにふけり始める。声を掛け難い雰囲気に奏は戸惑い、隣の郁人を思わず見上げてしまった。郁人は相変わらず不機嫌な表情で、肩をすくめて見せただけで何も言わない。
「…響が寂しがってたよ」
 ぽつりと独り言のように透が呟き、奏は耳を疑った。

 寂しがる?
 誰が?

 訝しげな表情で透の顔を窺ったが、その顔は無表情で何も読み取らせてはくれない。
「…でも、最近は兄貴の方が外泊多いよ? 透さんとこに泊まってるんじゃないの?」
 透の言葉に違和感を感じて、ついつい奏は尋ねてしまう。

 確かに、最近の響は外泊が多い。
 しかし、響は今まで一切外泊をしたことは無かった。どんな用事が入ろうとも、どんなに遅くなろうとも必ず奏のいるマンションに帰ってきた。朝まで、奏を一人にするということは絶対無かった。
 透と付き合う前の響は非常に恋愛関係にだらしなかったが、それでも、家に誰かと連れ込むことと、朝帰りだけは決してしなかったのに。
 透と付き合い始めてからも、滅多に透が二人のマンションに訪ねてくることは無かったし、外泊も有り得なかったが、奏と郁人が付き合い始めるようになってから、響は突然頻繁に外泊するようになった。
 それは、奏が郁人と付き合うことになったから遠慮がなくなったせいと、ある程度、二人にさせてやろうと言う響なりの配慮だと奏は今まで信じていた。
 だが、透の口から告げられた言葉はそれとは違い、奏にとって意外なものだった。

「…うちに泊まってるけどね。なんでも、カナちゃんがいないかもしれないマンションに帰るのが嫌だかららしいよ。ホントにアイツは重度のブラコンだよな」
 苦笑混じりに透は言ったが、奏は酷く驚いてしまった。あの兄が寂しがる、だなんて想像も出来なかった。
「透さん、冗談だよね?」
 奏が首を傾げながら尋ねると、透は更に苦笑を深めた。
「…カナちゃんが思ってるより、響は『家族』って枠にこだわってるんだよ」
「…そんな素振り見たこと無い」
「だろうね、アイツはそういうの見せないようにしてきたからね。カナちゃんには自分みたいな窮屈な思いをさせたくないってのもあっただろうし」
 淡々とした口調で告げられた言葉は、しかし、微かに奏を咎める色を含んでいた。奏はそれを敏感に感じ取り、思わず口を噤んでしまう。
「奏だって、好きで弟に生まれてきたわけじゃない」
 だが、不意に、郁人が横から口を出し、そっと奏の手を握った。
「…ああ、ゴメンゴメン。別にカナちゃんを責めるつもりなんてちっとも無いんだ。悪かったね。俺も大分疲れが溜まってるみたいだな」
 透にしては実に珍しく、困ったような、それでいてどこか自嘲的な笑いを浮かべながら言った。
「そろそろ帰ろうか。こんな夜遅くにすまなかったね」
 唐突に透は話を切り上げて、車を動かし始める。
 透が話したかったのは結局何だったのか、奏には計りかねて、何か尋ねようかとも思ったが、その横顔をみた瞬簡にそれは止めた。
 斜め前のガラスに写った透の横顔は、無表情だったが、どこか痛々しいように見えた。それは奏の勘違いだったのかもしれない。
 けれども、やはり、犯し難い空気を纏っていて、到底何か聞ける雰囲気ではなかった。





 一体、兄との間に何が起こっているのだろうかと不安に思いながら、奏は無意識に郁人の手を強く握った。




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