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正しいネコの躾け方A ………………………………
「大澤。このダイアログとウィンドウもお前組んで」
「またっスか! 俺、このシステム、メンバーに入ってないじゃないスか」
「何。名前が入ってないのが気にいんないの? じゃ、入れとくよ」
 そう言って、鈴木主任はウキウキした様子で、これ見よがしにスケジュール表のファイルに俺の名前を入れてみせる。

 最近気が付いたんだけど、この人、結構、子供っぽい所があるんだよな。今みたいに、子供が悪戯している時の様な楽しそうな表情を浮かべて人に嫌がらせしたり。でも、ちゃんと相手は選んでいるみたいで、しかも、こう言う事をする相手ってのは鈴木主任が気に入っているヤツだけなんだ。
 一課だと鈴木主任がこういう態度を取るのは古田さんだけ。古田さんは平山さんと同期で俺の二年先輩だけど、学部卒だから年齢は一緒だ。俺と同じで情報系の学科を卒業している。眼鏡をかけていて、結構ガタイも良い。学生時代は柔道をやっていたって話だ。 二課のヤツは基本的に全員鈴木主任に気に入られているから全員、その対象にされてる。中でも平山さんがその一番の犠牲者だったらしいが、最近はそれが完全に俺にシフトしてきている。
「一番下っ端の宿命よ。がんばってね」とか平山さんにはからかわれたが、嬉しいような嬉しくないような・・・。まあ、一応、それなりに気に入られているらしいから、悪い気分はしないけど。

「いやいや、オメデトウ。これで大澤も正式開発メンバーになったな。っつー事で、この二つよろしく」
 業とらしいにこやかな笑みを浮かべて鈴木主任は俺に構成仕様書を差し出した。
 あーあ、そんな、鬼の首取ったような顔しちゃって・・・こき使われてるのに、少しも怒る気になれない。
 仕方が無いので、俺はふざけ半分で、恨めしそうな眼差しを鈴木主任に送りながら、「オニ」と言ってやる。鈴木主任は、それを聞いて楽しそうに笑って、すぐ近くにいた佐藤技師と平山さんもつられて一緒に笑った。
「大澤、お前、何今頃言ってんの? 鈴木主任が鬼なのなんて生まれた時からだって」
「人使い荒いですよねえ」
「何だと? お前ら、俺の愛の鞭が分からないのかね? かー、嘆かわしいね」
 大袈裟に鈴木主任は頭を抱えて見せて、今度は俺も一緒に笑った。


 入社して三ヶ月以上が過ぎて、俺も大分、課に馴染んできた。こんな風に冗談を言い合ったりも出来る位に。
 最初は個性的な人ばっかりで入りにくいと思っていたシス提二課だったけど、実は、ウチの課は仲が良い。仕事中にも割と世間話をしたり、皆、冗談を言い合ったりしてる。もちろん、仕事は仕事できちんとこなしてる。ただ、息を抜くところは上手に抜いている人ばかりなんだ。
 多分、それも鈴木主任のまとめ方のお陰なんだと思う。シス提一課なんて、私語をしてるとすぐ注意されたりして、細かいことに煩かったりするし。
「でも、やっぱ、大澤ってスゲエな。即戦だもんな。助かるワ」
 佐藤技師がカタカタとキーボードを打ちながら話しかけてくる。
「や、まだまだっス」
「謙遜しちゃって。お前、プログラムの組み方センス良いよ」
「はあ・・・ありがとうございます」
 褒められて、俺は複雑な気分に陥ってしまった。はっきり言って、今の段階では、俺は鈴木主任のソースコードをほとんどパクっているだけだからだ。センスが良いのは、俺じゃなくて、鈴木主任。
 学生だった時は、とにかく正常にプログラムが動けば良いや、って程度の意識で組んでたけど、会社に入ってからそれじゃダメなんだと言うことが最近やっと分かるようになってきた。
 まあ、専門的な細かいことを上げるとキリがないんだけど、簡単に表現すると他人が見ても分かりやすいようにプログラムを書かなくちゃならないって事だ。結果的に、それがバグの少ない「センスの良い」ソースになる。
 で、実際に鈴木主任のソースはセンスが良いと思う。コードの書き方って何か性格が現れるんだよな。
 平山さんのソースなんかは基本に忠実で、定石に乗っ取っている。ごくごく平均的だと言ってしまえばそれまでだが、その代わりにバグが少なくて手堅い。
 逆に、佐藤技師なんかは割とオタク系でアセンブラコード時代の人だから、玄人好みのソースを書く。その代わりに、思わぬところに落とし穴があったりして、たまにバグが出てしまったりする。
 鈴木主任のは、とにかく合理的で、分かりやすいソースを追求している感じだ。無駄をなるべく省いて処理速度を上げ、しかも奇抜すぎないように、それなりに定石は踏む。一番メンテしやすいのが鈴木主任の書いたソースだと思う。





「そうなんだよな。俺も、二課の助っ人で鈴木主任の書いたソースをメンテしたことあるけど、すっげスッキリしてて分かりやすいんだよな」
 暑気払いと称して一課二課合同の飲み会をしていた時に、たまたま隣になった古田さんにその話をしてみたら同意してくれた。
「しかも、あの顔であの性格だろ? なんか、人生負け無し、みてえでよ、隙がねえっつーか。憎たらしいよな」
 古田さんは、悪気の無い表情でそう言うと笑った。鈴木主任は一つテーブルを挟んだ隣の席に座っているから、多分聞こえていないだろうけど少しだけヒヤヒヤしてしまった。
「古田さんは、鈴木主任、嫌いなんスか?」
 控えめに聞いてみると、古田さんは驚いたようにキョトンとした。それから、煙草を一口吸って、人好きのする笑顔を浮かべた。
「いんや? 鈴木さん好きだよ? バーカ、何マジに取ってんだよ。男のちょっとした嫉妬でしょ。俺も出来るなら二課で仕事してえよ。大澤、お前良いよな。結構、鈴木さんに面倒見てもらってるだろ」
「あー・・・そうなんかな・・・こき使われてはいますけど」
 ほんのちょっとしたニュアンスを汲み取れなかったのが何となく恥ずかしくて、頭を掻きながら答えたら、まあ、飲め、とビールを注がれた。
「そのお陰で結構スキル上がったろ? 新人に二ヶ月目から商品触らせてくれんのなんて、鈴木主任だけだぜ? 俺なんか、半年間、ファイル整理と雑用ばっか。宅配便出すのなんて総務にやらせろって感じだったけどな」
 酔いが回り始めているせいか、古田さんはポロっと本音を漏らしたみたいだった。
 近くに一課の課長もいるんだけど、大丈夫なんかな。大丈夫か。課長は平山さんに絡んでるみたいだ。あーあ、平山さん苦笑い浮かべてるわ。可哀想に。
「俺はさー結構マジで鈴木さんのこと尊敬してるんだけどさ、あの人ってクールっつーかなんつーか人に弱味見せないんだよな。愚痴とかも絶対に言わないし。でも、俺としてはさー、仕事の話とか会社の方針とか熱く語りたいわけよ。大澤聞いてる?」
 あらら、この人語り上戸だよ・・・と苦笑いしながら相槌を打つ。
「なのに鈴木さんはさー、いっつも涼しい顔して距離を置いてるっつーか・・・寂しいよな? な? 大澤もそう思うだろ?」
 肩をバンバン叩かれて、ますます困ってしまった。
 要するに鈴木主任が本音で語ってくれないのが寂しいって事だ。好きの裏返し? 
 まあ、でも、鈴木主任が男にも慕われるってのは分かるような気がした。男として尊敬できる人なんだよな。最初は誤解してたけど。
 そんな事を考えていたら、噂をすればなんとやら。で、ビール瓶を持った鈴木主任が俺の隣にやってきた。
「何話してるんだよ? 俺の悪口じゃねえだろうな?」
 笑いながら、鈴木主任は俺にビール瓶を傾ける。俺は、グラスを差し出しながら、
「言ってないっス。鈴木主任は良い男だーって褒めてたんスよ」
とふざけた口調で答えた。すると、鈴木主任は意外そうに片方の眉だけ上げて、おや、という顔をした。
「そりゃどーも。大澤も良い男だよ?」
 軽い口調で鈴木主任は言ったけれど、なぜか、その言葉を聞いて俺の心臓は跳ね上がった。いや、酒の席でのお世辞なんだろうけど、なんだろ。この人に褒められると無駄に喜び過ぎてしまう気がする。
 何とか舞い上がりそうになった気分を押さえ込んで自分もビール瓶を差し出すと、鈴木主任は、「おう、サンキュ」と言ってグラスを開けてくれた。
 ちゃんと部下からのお酌でも空けてくれるんだよな、この人。そんな些細な事でも何だか嬉しかった。
 鈴木主任は胸ポケットから煙草を取り出し、銜えてから、体のあちこちをパタパタ叩いて首を傾げた。
「ライターっスか?」
「あ、うん。どっか置いてきたかな?」
 探しても見つからなそうだったので、俺は自分のライターを取り出し火をつけて、鈴木主任の煙草の方に近づけた。鈴木主任は、
「サンキュ」
と言って、俺のほうに顔を近づける。煙草が少し湿ってたのか、中々火がつかなくて、結構長い間、同じ姿勢で俺たちは接近していた。
 火が付く間、する事も無いんで、すぐ近くにある顔を斜め上から見詰めていたら、妙な気分になった。
 鈴木主任は結構睫毛が長い。目も割と大きめなんだけど、どっちかってーと釣り目だからあんまり幼くは見えないんだよな。ホント、印象的な目だ。目力とか最近テレビで見たけど、こういう目を目力のある目って言うんかな。じっと見詰められたら金縛りにでもあいそうな感じ。この目で見詰められたら、女も溜まったもんじゃないだろう。
 知らず知らずの内に、鈴木主任の顔をじっと見詰めていたら、顔を離す瞬間にちらっと見上げられて、バッチリ目が合ってしまった。慌てて、視線を逸らしたけど、なんとなくバツが悪かった。
 でも、鈴木主任は大して気にしてないらしく、
「大澤。仕事、どう? 慣れたか?」
と、さり気なく話しかけてきた。
「はあ、まあ、大分。どっかの誰かさんがコキ使ってくれますけど」
 バツの悪さを誤魔化す為に、態と憎まれ口を叩くと、鈴木主任は、
「ああ? この口が言うのか?」
と、俺の頬っぺたを思いっきり抓った。
「イッテー」
 俺が大袈裟に痛がると、鈴木主任は声を出して笑った。ホント、この人は容赦がねえな。
「ま、なんにしろ、上手くはやってるみたいだな。お前、きっと、俺の第一印象悪かっただろうから、ちょっと心配してたんだよ、実は」
 笑いながら言われたんで、最初は気に留めなかったんだけど、ふと、それが入社試験の面接の時の事だと分かって、俺は思わず言葉に詰まってしまった。鈴木主任に言われたとおり、確かに、その事はずっとどこかに引っかかっていたのだ。
「・・・あー・・・面接の時の事っスか? 俺、スゲエ、暴言はいてましたよね」
 話しにくいことを切り出すのが居心地悪くて、苦笑しながらビールを呷ると、鈴木主任も苦笑いみたいに薄く笑った。
「や、俺のが態度悪かったからよ。半分、お前に八つ当たりしてたし」
 そう言って鈴木主任は潔く謝った。鈴木主任が謝った事も驚いたけど、それよりも、言われた内容があまりに意外だったので、俺は更に驚いていた。
「え? アレ、八つ当たりだったんスか?」
「・・・半分な。俺、本当は面接官の予定じゃ無かったんだけどよ、突然、常務に引っ張り出されたんだよ、あの時。しかも、抱えてた受注ソフトの納期の三日前だったんだぜ、アレ。普通、するか? そんなこと?」
 鈴木主任は、忌々しそうに吐き出した。確かに、仕事が大分、分かってきた今ならば、鈴木主任が頭に来るのも頷けた。そんな切羽詰った状態の人間を呼び出すなんて、やっぱり内情を分かってない幹部のやる事だなあ、と思わず鈴木主任に同情してしまった。
 そもそも、鈴木主任は役職的には幹部じゃないんだし(まあ、実質は一つの課を管理してるから幹部みたいなもんだけど)、そういう場所に呼び出すのはお門違いって気がする。そう言えば、チラッと、常務が鈴木主任を気に入ってるって聞いた事があるけど、それと何か関係があるんかな。
 いずれにしても、会社のしがらみで引っ張り出されたんだろうなと容易に想像は付いた。
「あー・・・それで、苛々してたんスか?」
「まあな。あと、お前の前にいた院卒のヤツがとんでもないヤツで、そのトラウマもあったんだよな・・・」
「え? 俺の前って・・・去年、入社した人っスよね? 院卒の人いましたっけ?」
「もう、いねえ。辞めた」
「はあ、そうなんスか。でも、とんでも無いヤツって?」
「んー・・・ちょっとPCオタクっぽいヤツで、薀蓄はメチャクチャ垂れるくせに、挨拶もまともに出来ないわ、人の話はきちんと聞かねえわ、平山の事あごで使うわ、サイアクだったんだよ」
「それは・・・酷いっスね・・・」
「ホント、酷かったんだよ。その上、学歴に変なプライドだけはあってよ、人の事、見下すっつーか。ホント感じ悪かったんだわ。で、院卒ってみんなプライド高くて使えねえ、みたいな偏見あって。ホント悪かったな」
 そう言って、鈴木主任は自分の膝を片方だけ抱えながら、らしくもなく不安そうに俺を見上げた。まあ、確かに鈴木主任のやった事は大人気無い事なのかもしれないけど、でも、俺の態度だって褒められたモンじゃ無かった。こんな風に、きちんと謝ってくれただけで、俺はスッキリした気分にはなったんだけど。
 それよりも問題は、鈴木主任が今まで見た事の無いような表情で俺を見上げてくるのに、俺がなぜか動揺しまくってる事だった。いつもは気が強そうに見える猫目が、今は縋って来るみたいに見えて、俺は心拍数が一気に上がった。
 やめてくれ! そんな目で俺を見ないでくれ! と訳も分からず叫びたい衝動に駆られていたら、助けの船なのかどうか分からないけど、古田さんが、急に、横から、
「鈴木主任、平山、ヤバくないですか?」
と、声を掛けてきてくれた。
 平山さんは、ずっと課長に捕まっていたみたいだけど、古田さんに言われて見てみたら、大分課長は酔いが回っているらしく、タチの悪い絡まれ方をしているみたいだった。
 おいおい、それじゃセクハラだろうが。と思って、救出に立ち上がった。で、平山さんと課長の間に割って入って課長に勺でもしようかと思ったら、鈴木主任に先を越された。
「課長、お疲れ様です」
 そう言って、サラっと課長にビールを注ぐ。鈴木主任は仕事だけじゃなくて、そんな所までスマートでさり気なく気が利いて、同じ男としてちょっとだけ憎たらしくなった。
 そうか。古田さんも、こんな風に感じてたんだな。
 平山さんは鈴木主任に助けられて、あからさまにほっとした顔をしたが、すっかり酔っ払っているらしい課長は、それには気が付かなかったみたいだ。
 課長は急にターゲットを鈴木主任に変えて、二課の方針は甘すぎるだとか、仕事のやり方がまずいだとか文句を言い始めた。それを聞いてたらスッゲ、ムカついたんだけど横から口出しする訳にも行かず、所在無くウロウロしてた。嗚呼、格好悪ぃ・・・。
「大澤君。ここ座ったら?」
 平山さんが、そんな俺の間抜けな行動に気が付いて、自分の隣の席をちょっと開けてくれる。何となくバツが悪くて頭を掻きながら隣に座ったら、
「グラスはー?」
って、早速、文句を言われた。
 また、俺に飲ます気だよ、この人は。
 仕方が無いので一回自分の席に戻ってグラスを取って来る。ビールを注がれて、注いで、二人で小さくお疲れ様ーと乾杯した。
「・・・大澤君、もしかして助けに来ようとしてくれてた?」
 延々、鈴木主任に文句をたれている課長をチラッと見て平山さんは小さな声で言った。やっぱ、この人、洞察力凄いわ。もちろん、鈴木主任が、態と助けに入ったのも気が付いてるんだろうな。
「あー、出遅れたっスけど。格好悪いっス」
「ううん、どうもありがとう」
そう言って平山さんはうふふと笑った。
「あ、煙草すっても良いっスか?」
「どうぞ」
「・・・鈴木主任、大変そうっスね」
「うん・・・でも、いつものことなのよ。特別昇進とかしちゃったから、上の人には結構風当たり強いみたい」
 どこの世界でも、そう言う事あるんだな。でも、要するにそんなのただのやっかみだろうに、と、なぜか自分のことのように腹が立ってしまった。
「そうなんスか。でも、仕事できるんだから、昇進するの当たり前っス」
 新人の俺が見ても分かるくらい、技術的にも出来るし、人をまとめるのも上手い。尊敬に値する上司だと、今は素直に思った。
「ね、そう思うんだけどね」
 平山さんも同じ事を感じているらしく、そう言って肩を竦めて苦笑いした。

 平山さんと世間話をしながら飲んでいても、何となく、鈴木主任の方が気になってしまって、後ろの方に聞き耳を立ててしまう。今度は、課長は、やっぱり経験不足だと細かいトコまで目が届かないだとか、若いから配慮に欠けるとか言い始めた。
 年齢は関係無いだろうが、このクソオヤジ! と怒鳴りつけてやりたい気持ちになってしまったけど、ガバっとビールを煽ることでそれを誤魔化した。
 鈴木主任、辛くないんだろうか。俺だったらとっくに切れてる、と思ってチラッと見てみたら、鈴木主任は穏やかな表情で、そうですね、と頷いていた。ちっとも怒った様子も無ければ、苛々している様子も無い。我慢して無理に抑えているようにも見えなかった。
 あんな事言われて、なんで怒らねえんだよ、と思ってじっと見てたら、ふっと鈴木主任が視線をこちらに向けた。目が合って、ヤベ、と思ったけど鈴木主任は俺と視線を合わせたまま一瞬、ふわって笑った。
 何ていうか、困った奴だなあ、って言ってるみたいな表情で。
 それが、すげえ優しそうに見えて、俺は困惑してしまった。

 急に動悸が早くなる。
「大澤君? どうしたの? 顔赤いよ?」
「や、酔いが回ってきたみたいっス」
「嘘だー。強いくせに」
「平山さんには負けるっス。て言うか平山さん、人に飲ませすぎ」
 平山さんに突っ込まれて、あせりながらも何とか誤魔化したけど動悸は治まりそうに無かった。鈴木主任は、もう、俺のほうは見ていない。涼しい顔をして課長の話を聞き続けていた。
 なんだよ。なんで、あんな顔で笑うんだよ。反則だろ? と、心の中で突っ込んでみても一向に動揺は収まらない。さっきの不安げな表情と言い、今の笑顔と言い、何だか今まで見てきた鈴木主任とは違うような気がする。それとも俺の気のせいなんだろうか。
 会社の中じゃ絶対に見せないような、どこか無防備な表情。
 もしかしたらアレが素なのかもしれない、と思ったら、以前、感じていた興味が、またムクムクと持ち上がって来た。プライベートの鈴木主任は、どんな感じなんだろうとか、恋人に対してとか、どんな顔を見せるんだろうとか、そういう興味。
 その反面、鈴木主任と接していると、自分の中のどこかがコントロールできなくなる様な不安も感じていた。変な風に動揺して、平静が保てなかったり、余計な事で腹を立ててしまったり。
 少し落ち着くためにも、鈴木主任とは暫く距離を置いた方が良いかもな、と漠然と思った。

 ところがだ。

 二次会に若い面子が流れていくことになって、店の外でワイワイ騒いでいる時だった。
 俺は、二次会には鈴木主任も行くって聞いたんでさりげなく二次会は断ろうとした。なのに、ちっとも酔っ払っているように見えない平山さんと、すっかり酔っ払っている古田さんに引き止められて、ちょっと困っていた。
 誘ってくれるのは、もちろん嬉しいんだけど、皆と騒ぎたい気分にどうしてもなれなくて、出来れば一人になって少し落ち着きたかった。それで、何となくグズグズ言っていたら、よりにもよって鈴木主任が助け舟を出してくれる始末。
「おい、平山、古田、あんま無理言うなって」
「でもー、大澤君も一緒の方が良いですー」
 平山さんが名残惜しそうに言うのを聞いたら、良心が痛んだ。気持ちは嬉しいんだけど、やっぱり鈴木主任の顔を見ていると動揺してしまう。そんなんで、一緒に飲んだりしてヘマをやらかすのは御免だ。
「仕方が無いだろうが。大澤はネンネのお時間なんだよ」
 そう言って鈴木主任は俺をタクシー乗り場の方向に押した。
 何だか、その口調が人を馬鹿にしてるように聞こえて俺は思わずムッとしてしまう。鈴木主任の方を振り返り、嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったのに、彼の顔を見た途端にやっぱり心臓が跳ね上がって、思わず口を噤んでしまった。
 鈴木主任のいつもは少し冷めたように見える表情が何となく緩んでいる。ホワンとした雰囲気になっていて、目元が少し赤くなっていた。どこか視点が定まらないようなトロンとした目で見上げられると、妙な気分になって、ホント困った。
 何か、こう、その気のあるヤツに誘われてるような気分っつーか。もちろん、こんな場所で、鈴木主任がそんなことをする訳ないから、俺が勝手にそんな気になってるだけなんだけど。
「・・・もしかして鈴木主任、大分酔ってます?」
 眉を顰めて俺が尋ねると、鈴木主任は片目を擦りながら、
「んー・・・課長がしつこくてなあ・・・」
と素直に答えた。
 こんな素直な反応は変だ。酔っている。これは完全に酔っ払っている。案の定、平山さんが。
「課長に凄く飲まされてましたもんねえ。二合瓶が5、6本空いてましたよ?」
 ゲ。ってことは一升近く? 日本酒って少し時間が経ってからクルんだよな。
「んー、まだ大丈夫な範囲だけど・・・少し眠いかな・・・」
と言いながら、やっぱり目を擦って見せた。それが何か凄く子供っぽくて無防備で、またもや俺を困惑させる。 そんな表情見せんなよ! と心の中でツッコミつつ、慌てて目をそらしてしまった。
「む・・・無理しないでくださいね・・・とにかく俺は帰りますんで・・・」
 そう言って、そのままタクシーの方へ逃げようとしたら、不意にグイっと腕を引かれた。

 突然の事に、何だ、と思う暇も無く、ガツンと唇に何かが当たる。

「ってー・・・歯が当たっちゃった、ま、いっか。んー・・・大澤、お休みー」
 と言いながら鈴木主任はフワンと笑った。何の警戒心も無い、多分、ホントの素のままの笑顔で。その顔を見た瞬間に、俺は完全に思考が停止する。頭が真っ白になって、自分が何をされたのかとか、何が起こったのかとか、全く考える事は出来なかった。
 鈴木主任は、そんな俺にはお構いなしで、子供っぽい仕草で手を振る。ヒラヒラと動いている鈴木主任の手のひらを見ているうちに、ようやく、俺の頭は徐々に動き始める。動き始めたが、やはり、未だに正常に動いてはくれなかった。
 何? 今のは何だ? と思ってグルグルしていると、平山さんが、
「あー! 主任ずるい! 私も! 私にもチュー」
って鈴木主任の腕を掴んでいた。
 チューって何? もしかして、今、俺がされたこと? やっぱり、そうなの? 唇と唇がぶつかったら、やっぱりそれはチューなのか? と、ホント、頭悪い事を考えていたら、
「平山にしたらセクハラになっちゃうだろ。ダメです」
と鈴木主任は悪戯っぽい顔で笑った。何だ、その可愛い顔は! っつーか、鈴木主任は男だっつーの! しかも上司だっつーの! 何、血迷ってるんだ、俺は! 
 それに、ちょっと待て。平山さんにするのはダメで俺にするのは良いのか? 大丈夫なのか? セクハラじゃないのか? や、俺は嫌じゃなかったからやっぱりセクハラにはならねえか。って、そんな事はどうでも良くて。っつーか、この人は男ならチューをするのか?  ここ何年かで一番の困惑に更にグルグル思考を空転させていると、鈴木主任はトンと俺の背中を押した。で、その勢いで俺はタクシーに乗り込んでしまう。
「じゃな、気をつけて帰れよ。お疲れー」
と、やっぱりヒラヒラと手を振る。
 隣の平山さんも、少し後ろにいた古田さんもニコニコしながら同じように手を振っていた。
 俺は困惑しつつも、反射的にタクシーの中から手を振り返す。
 酔っ払いにはすっかり馴れているだろうタクシーの運ちゃんは、何も言わずに車を発進させた。
 次第に遠くなる三人の影。
 暫く走って車は左に折れて、完全に皆の姿は見えなくなったけど。

 最後に見た鈴木主任の顔は、何だか、とても優しそうに見えて、その表情が、いつまでも瞼の奥に焼きついて離れなかった。



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