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正しいネコの躾け方B ………………………………
 酔っ払うとキス魔になる奴ってのは結構いる。大学時代にも結構いて、サークルとか、学科のコンパの時に誰彼構わずキスしまくってた。
 俺も何度かされたことはある。男も女も両方あった。でも、別に、取立ててそれで騒ぎ立てたことはないし、酔っ払いのすることだから、皆笑いながら見てるだけだった。
 実際、男同士や女同士でキスしたって、しょせん酒の肴っつーか、笑いのネタにしかなってなかった。
 平山さんや、古田さんが鈴木主任のあの行動を見ても大して気にしていなかった所を見ると、多分、アレが初めての行動では無いんだろう。
 酔っ払いの悪ふざけ。
 そう分かっているのに、どうして俺はこんなに動揺しまくって、いつまでもグルグルとあの時の事を思い出しているんだろう。
 もしかして、俺は、鈴木主任のことを好きになりかけてるんだろうか。一回キスされただけで、それじゃ、あんまり単純すぎるような気もするけど。
 もちろん、鈴木主任は上司としては好きだし、尊敬してる。でも、それだけかと言われると、それも違うような気がする。じゃあ、恋愛感情かと言われれば、それもはっきり肯定できなくて、何となく、中途半端な状態だった。
 気が付くと、鈴木主任の事を考えてたりするのに、自分の感情がはっきりしない。俺らしくなく、グズグズと考えているうちに、貴重な週末は終わってしまったのだった。


 週末明け、いつものように皆は普通に仕事をしていた。
 もちろん、鈴木主任もいつもと変わらない。
 俺にあれこれ指示を出して相変わらずコキ使ってくれる。
 時々、冗談を言ったりして皆が笑う。
 何もかもがいつも通りだった。
 俺も、なんとか平常心を保とうとして、何食わぬ顔で仕事をしていたんだけど、やっぱり、ふとした瞬間に思い出してしまうんだ。例えば、鈴木主任に指示を仰いでいる時とかに、はっと気が付くと唇をじっと見詰めてしまっていたり。
 なんだっつーの! 俺は初めてキスしたばっかりのチューボーかっての! と心の中で自分にツッコミを入れつつも、やっぱり気になって仕方が無い。
 それとは対照的に、鈴木主任は頭に来る位、全くいつも通りだった。
 今はもう、冷たいとは思わないけど、やっぱりあっさりしていて、どこか冷めたような態度に見える。もしかしたら、もう、あんな事は記憶にも残っていないのかもしれない。
 そう思ったら、筋違いと分かっていても鈴木主任の事が憎たらしくなってきて、それから結構ヘコんだ。俺一人が、迷路にはまり込んでグルグル考えてるみたいだと思ったら、何だか滑稽で、惨めな気分になってしまった。
 ふと、そう言えば、過去に似たような気分に陥った事があったなと思って記憶をたどる。嗚呼、そうか。学生時代に混じりっ気なしのストレートのヤツに惚れた時と似てるんだ。
 見込みの無い相手に本気になったりするのは、凄くつらいし、疲れるし、大変だ。自分の気持ちなんて到底、伝えられっこないし、変な態度を取らないように気も使わなくちゃならなかった。
 何度かそういう経験をして、段々、色んな事が煩わしく思えて、大学の後半なんかは、割といい加減な恋愛しかしてこなかった。 一晩だけの付き合いとかも何度かあったし、続いてもせいぜいが半年足らず。
 今思い出せば、誠意なんて少しも無いような付き合い方ばかりしていた。
 虚しさと背中合わせの気楽さ。
 多分、このまま、ずっとそんな感じで生きていくんだろうと思っていたのに、人生とは皮肉だ。自分の意思ではままならない感情に振り回されてる。
 社会人になって、少しは成長したと思っていたけど、何だか似たような事を繰り返してるなあ、と溜息が漏れてしまった。


「大澤? 聞いてるか?」
 思わず物思いに耽ってしまって、鈴木主任の言うことをまともに聞いていなかった。鈴木主任は、微妙に眉を顰めて、それから、俺の耳をギュッと思いっきり引っ張った。
「っテー! 何するんですか! 耳がとれたらどうするんですか!」
 スッゲ痛くて涙目になりながら文句を言うと、俺の周りで皆がゲラゲラ笑った。鈴木主任も、もちろん笑っている。 嗚呼、何でそんなに邪気の無い顔で笑うかなあ・・・。半分、憎たらしく思いながらも、やっぱり、この人の笑い顔は嫌いじゃないな、と思った。真剣な顔で仕事をしている時の顔も、隙の無い感じで悪くないんだけど、笑うと、雰囲気が柔らかくなって、また、違った印象になる。
「お前が人の話聞いてないからだろ? ここさ、他のウィンドウでも使えるから関数化して欲しいんだけど」
「あー・・・分かったっス。ここの計算ルーチン部分だけで良いっスか?」
「ああ。それ終わったら、新しいプロパティシートよろしくな」
「・・・鈴木主任・・・俺を過労死させる気ですか・・・」
「何言ってるんだよ。愛だろ、愛。可愛い子には旅をさせろって昔の人は良いこと言うよな」
 鈴木主任が何の他意も無く茶化す。
 愛・・・・愛なんて言葉使わないで欲しい・・・。今の俺には、何だか心臓に良くない言葉だった。鈴木主任は、本当に、何とも思っていないんだろう。だってのに、俺一人だけ振り回されて、バカみたいだ。一人で悶々としている自分が余りに惨めで俺はますますヘコんでしまった。

 これじゃ、イカン。とにかく平常心を取り戻さなくては。

 色々と浮かび上がってくる感情になんとか蓋をして、俺はいつも通りに仕事をしようと努めた。
 そんなに難しい事じゃない。仕事は事務的にこなして、会社での付き合いは当たり障り無く、表面上だけ適当にやり過ごしていれば良いだけだ。
 そう思いながらも、やっぱり、どこか無理をしているのが分かるのか、時々、平山さんが、心配そうに、
「最近、元気が無いね。大丈夫?」
と声を掛けてくれて、ちりちりと良心が痛んだ。
 鈴木主任は、口に出しては何も言わなかったが、時々、何か言いたそうな顔をして俺を見ている事があった。心配そうな、どこか優しそうな顔。こんな表情を見せる人を、どうして俺は冷たいとか意地悪だとか思えたのか、今になってみると不思議で仕方がなかった。
 俺は、平山さんや鈴木主任に心配を掛けたくて、無理をしているわけじゃない。逆に、皆と上手くやって行きたいからそうしているのに、それが裏目に出るなんて皮肉な話だった。
 そんな風にグズグズと調子が悪いまま過ごしているうちに日々が過ぎて行き、気が付けば暦は8月に入って、俺が入社してから既に四ヶ月が経っていた。

 そんな時に、事件は起きた。





 最初の異常は、平山さんのマシンから始まった。
 平山さんは、デスクトップの壁紙やスクリーーンセーバーを結構変えて遊んでいる。ネットからフリーの壁紙やスクリーンセーバーを、残業時間に落としてきたりするのだ。ディズニーのキャラクターとか、俳優とか、人気歌手の写真の壁紙が多くて、案外ミーハーなんだなあって思った事があったんだけど、別にそれ以上は何とも思っていなかった。
 その日も平山さんは休憩がてら新しいスクリーンセーバーを落としてきたらしく、それをプレビューで見ようとしていた。そしたら、急に奇妙な警告が出て、そのまま画面がフリーズしてしまったのだ。
「ねえねえ、大澤君、ちょっと見てくれる?」
 平山さんは、会社に入るまでは殆どパソコンを触った事が無い初心者だったせいで、プログラムの知識はあっても、案外、ハードやOSについては疎かったりする。システム開発なんてしてると、マシンがおかしくなるのなんてしょっちゅうで、時々、俺は頼られたりしていた。
 システムドライブの空き領域が少ないせいで動作がおかしくなったりとか、何かの拍子でシステムファイルが壊れていて、OSの再インストールをしなくちゃならなかったりとか、そう言う基本的なことが分からなくて教えた事があった。
 平山さんも、あんまり基本的なことで先輩や上司に聞くのは憚られるらしく、俺には聞きやすいせいで専ら俺に聞いてばかりいたので、その時も最初は大したことは無いだろうと高をくくって、
「ああ、良いっスよー」
なんて気軽に返事をした。
 ところが、一旦、OSを強制終了して再起動しようとしたら、途中でコケてしまうのだ。
 三度、同じ事を試してみたけどダメで、三回とも同じファイルでエラーが表示された。そのファイルがシステムファイルだったので、俺は眉を顰めた。
「・・・平山さん・・・これ、ヤバいかも・・・」
 なるべく他に聞こえないようにポソリと平山さんに告げる。平山さんも最初は大したことは無いと思っていたらしく、俺の深刻そうな表情に顔色を変えた。
「・・・何? 復旧しないの? 何が悪いの?」
「・・・はっきりしないけど、もしかしたら、ウィルスかも・・・」
 憶測に過ぎなかったが、この症状は他で見かけたことがあった。学生時代に、研究室で似たようなことが起こった事があったのだ。
 俺が眉を顰めながら、平山さんのマシンのディスプレイを見詰めていると、
「大澤。平山のマシンSAFEモードで立ち上げてみ」
と、鈴木主任の涼しい声が聞こえた。
 ふっと顔を上げると鈴木主任がいつもと変わらない落ち着いた表情でこちらを見ている。それで、俺も平山さんも少しだけ落ち着いた。
 こう言う異常事態に直面すると、人間の心理って言うのは浮き彫りにされてしまうんだと思う。ウィルスかもしれないって思った瞬間は頭が真っ白になって、どうしようかと一瞬うろたえたけど、鈴木主任の顔を見た瞬間にそれが大分薄らいだ。鈴木主任がいれば大丈夫だって、根拠の無い安心感があった。
 鈴木主任に言われたとおりにSAFEモードで立ち上げると、無事にOSは起動した。
「そのまま何もするな」
鈴木主任に言われたのでじっとしていたら、五分ほどして鈴木主任が軽く目を閉じて、それから立ち上がった。
「あの・・・」
 不安そうな表情で平山さんが鈴木主任を見詰めている。鈴木主任は俺たちには特に何も言わずに、
「おい。これから、全員、ウィルスチェックして。最新のウィルスパターンダウンロードしてからな」
とシステム提案のメンバー全員に指示を出した。一課の人も二課の人も、皆訝しげな表情で鈴木主任を見たが、ただならぬ空気を感じたのか、すぐに指示に従った。

 その結果。

 平山さんを入れた4人ががウィルス感染している事が発覚し、全員、真っ青になってパニックしていた。課長も例外ではなかったらしく、焦ったような表情で、
「平山さんのせいじゃないのか? 大方、下らない壁紙をWEB上からダウンロードした時にどこかで拾って来たんだろう?」
と、平山さんを責めた。
 確かに、平山さんは、そう言う事をしているし、今回、最初にウィルス感染が発覚したのは平山さんのマシンだった。でも、だからって確証も無いのにいきなり責めるか? 
 俺は、ムッとして課長に食って掛かろうとした。
 そしたら。
 鈴木主任がグイっと俺の襟首を引っ張り、それから、
「今は原因よりも早急な対処の方が先決です」
といつもと変わらず冷静な口調で言った。それから、課長には分からないように、俺に小さく、
「今は、我慢してろ」
と注意した。こんな時だって言うのに、顔を近づけて耳打ちをする鈴木主任に、俺は動揺していた。ホントに、どうしようもない。救いようが無いって自分でも思ったけど。
「古田、検査課に連絡して、至急全員最新パターンでウィルスチェックさせて。佐藤、先週、新しい版のプレス発注してたよな? 工場に電話してプレス差し止めしろ。残りの奴は感染してないマシンからネットワーク経由でウィルス駆除の作業して」
と、鈴木主任は次々に指示を出し始める。普段、普通に仕事の指示をするのと殆ど変わらない冷静な口調だった。
 分かってたつもりだけど、この人の処理能力と柔軟性ってホントに凄いんだ、と、改めて感服してしまった。そんでもって、ちょっと不純なんだけど、そのキリッした表情に思わずドキッとなった。男の俺から見ても、やっぱ、この人って格好良いんだよ。悔しいけど。
 鈴木主任のそんな落ち着いた対応に、皆もようやく少し冷静になったらしい。それぞれ指示されたように対処を始めた。

 その間中、平山さんは一番、テキパキと動いていた。
 ネットワーク経由の駆除も率先してやったし、皆が疲れた頃にはお茶を入れたりもしてくれた。そして、ウィルスの特定をしたのも彼女だった。
 結局、ウィルスはCIHっていうEXEファイル感染型の亜種だって分かった。毎月26日になるとハードディスクを破壊するウィルスで、あと三日発見が遅れてたらヤバいことになってた。
 ようやく全てが何とか丸く収まって、これ以上は感染が広がらないように出来たのは次の日の午前二時の事だった。
 課長と鈴木主任が、とりあえず何とかなったから帰って良いと言って、皆、疲れたような表情で帰っていった。
 あーあ・・・家に着くのはこりゃ三時過ぎだな・・・でもって、七時にはまた起きて出勤だよ、と思ったらどっと疲れが出た。まあ、明日・・・ってか、もう今日か、が金曜日で良かったよ。一日出勤すりゃ休みだもんな。とか考えていたら、

「・・・大澤。平山送っていって」
帰り際、鈴木主任に呼び止められた。
「あ・・・私平気です」
と、平山さんは慌てて否定したけど。そっか。平山さんだけだもんな、この課の女の人。鈴木主任って、ホント、そういうトコ、気が利くと思う。別に細かい訳でも神経質な訳でもないんだけど。肝心な所でちゃんと気を使ってくれるって言うか。
「分かったっス。送っていきます」
「おう。よろしく。あ、それと、平山」
「はい?」
「お前のお陰でウィルス発見できて助かったよ。ありがとな」
 鈴木主任は、「お疲れさん」って言うのと全く同じ、さり気ない口調で言った。
 平山さんは一瞬ビックリしたように大きく目を見開いて、それから、俯いてしまった。
「・・・お疲れ様でした。おやすみなさい」
 平山さんは静かにそれだけ言って、顔は上げなかった。
 俺には見えなかったけど、多分、この時、平山さんは泣いていたんだと思う。
 鈴木主任は、それに気が付いているのかどうか分からなかったが、穏やかに笑って、
「おう、お休み」
と言った。

・・・多分、この時だと思う。俺が自分の気持ちを認めたのは。

 何つーか、この人はホントに格好良いと思った。押し付けがましく無く、ホントにさり気なく人の気持ちを救い上げてくれるんだ。色んな意味で尊敬できるし、ああ、この人好きだ、と思った。もう良いや、好きなモンは好きなんだから仕方ない、とも。
「お疲れ様っした」
 そう言って、平山さんと並んで部署を後にする。
 ビルを出たら、街中にしては珍しく、結構星が見えたりして、何となく疲れとは正反対に気分が晴れ晴れとしていた。隣を歩く平山さんは、まだ、落ち着かないのか顔を上げてくれない。
「・・・平山さん。多分、アレ、平山さんのせいじゃないっスよ」
「・・・え?」
「ウィルス。ファイル感染型だったっしょ? しかも、実行型。壁紙をダウンロードした位じゃ多分、感染しないと思います」
「そうなの?」
「確かなことは言えないっスけど。でも、平山さんのお陰でウィルス発見できたのは事実なんだし、結果オーライじゃないっスか」
 俺が軽い口調で言ったら平山さんはやっと顔を上げてくれた。目尻が少し腫れぼったい。やっぱ、泣いてたんかな。つーか、鈴木主任も女泣かすなっつーの。
 平山さんは歩きながら、俺の顔をじっと見上げ、それから急にクスって笑った。
「大澤君のそう言う所、好きだなあ」
「ありがとうございます。惚れちゃだめっスよ」
「あはは。惚れないってー」
 今度は、声を出してゲラゲラ笑う。笑ってもらえたのは嬉しいけど、本気で笑い転げるってのはどうなんだろう。さすがに、プライドちょっと傷ついたりして。
「でも、鈴木主任ってスゲー人っスね」
「ふふふ。スゲー人なんですよ。ちょっとは私の気持ち分かった?」
「分かりました。俺も、今日は、『鈴木主任の為に働くぜ!』って思いました」
「でしょー。でも、惚れちゃだめっスよ?」
と、平山さんはふざけて返した。俺はその言葉にちょっとドキッとしながらも何とか平静を装う。
「惚れませんよー」
と返事をしながら、心の中では、
(もう、惚れちゃってるんスけど。)
とか、思っていた。
 面倒な相手に惚れてしまったってのは十分、分かっていた。報われる確率もかなり低いって事も。でも、一旦、好きだと認めてしまうとかえって気分はスッキリして、今までグズグズと考えていたのが馬鹿馬鹿しいような気がした。
 相思相愛になれるかどうか、とか、そんな事よりも、鈴木主任と一緒に仕事をして、認められるような一人前の男になりたいと思った。それで良いじゃないかって。
 そう発想の転換をしたら、俄然、仕事に対してやる気が出て来た。入社したばっかりの頃は、特に何とも思ってなかったけど、今は、この仕事が好きなんだと素直に思えた。仕事のオニ集団の二課に染まりつつあるってことなんかな。でも、そう言うのも悪くないと思った。
「平山さん、俺、明日・・・ってか、もう、今日か。今日から、仕事がんばるっス。最近、心配かけてすみませんでした」
 俺が唐突に告げると、平山さんは俺の顔を不思議そうに見上げて、それから、不意にニコニコと笑った。
「何か、ふっきれた? やっと、大澤君らしくなったみたい」
「はあ、何か、考えてもしょうがないって分かったんで」
「ふうん。じゃ、今日からガンバロ」
 詳しい事情は何も知らないのに平山さんは力強く頷いてくれた。それで、二人で酔っ払いみたいにオー! とかって腕を振り上げた。夜中だったから、まあ、近所迷惑にならない程度に小さくだったけど。
 そんな風にして、自分の気持ちが整理できて、やっと少し落ち着いたかと思いきや。

 急転直下の展開がすぐそこに待ち受けているなんて、その時の俺は予想だにしていなかった。





 そして次の日。
 社内フォーラムに、重要マークつきでウィルス対策の徹底についてっていう記事が掲載されていた。対策方法のガイドラインも一緒に。つーか、ソフト会社なのに、今までそれを徹底してなかった方が問題あるんじゃねえの? って言ったら、鈴木主任は苦笑いしながら、
「やってる奴はきちんとやってたんだよ。まあ、個人のモラルに任せてたっつーか。でも、最近はあんまりそういう常識とか知らない奴も多いからな。今回の件で、結果的に、社員の意識が上がって良かったんじゃないのか?」
と、言っていた。・・・まあ、割と古参の社員の人たちはウィルス対策なんて当たり前だと思って、ちゃんとやってる人が確かに多いんだけど。
「うちの会社は、インターネットとかパソコンの普及で最近急に大きくなったトコあるから、管理体制がまだ不十分なんだよ」
「まあ、そうかもしれないっスけど。・・・・で、結局、原因分かったんスか?」
「原因?」
「ウィルスの出所っス」
 残業時間に、喫煙所でたまたま鈴木主任と二人きりになったんで聞いてみた。ちなみに、ウチの社は禁煙で、喫煙したかったら、喫煙ブースに来なくてはならない。ちょっと面倒だけど、休憩しにここに来ると、別の課の人の話とかも聞けて情報収集できるから案外悪くなかった。自分の課だけにいると、営業や事務の内情とか、伝わりにくかったりするんだよな。
「ああ・・・」
 鈴木主任はフウッと煙草の煙を吐き出すと、ガシガシと頭を掻いた。何だか、少しだけ苛々している様子だ。そう言えば、今日、どっかに電話して割とキツイ感じで言い合ってたから、その件で苛立っているのかもしれない。
「大体は分かったけど・・・まあ、でも、うやむやになっちまうんだろうな」
 やりきれない、と言ったような様子で鈴木主任は言い捨てた。鈴木主任は滅多にこんな風に投げやりになったりしない。もしかしたら、余程、腹に据えかねる事があったんだろうか。
「うやむやって?」
「・・・・」
 俺が聞き返しても鈴木主任は煙草をふかすばかりで答えてくれない。俺みたいなペーペーの平社員には言えないって事なんだろうか。
「・・・俺、気になるっス」
 それでも、しつこく尋ねてみたら、鈴木主任はチラッと俺の顔を横目で見上げた。鈴木主任と俺だと、俺のほうが5センチ位背が高いから、鈴木主任が俺のことを見上げる感じになる。何か、含みがあるような視線を送られて、俺はドキッとした。
 鈴木主任に対する感情を完全に自覚してしまった今、ほんの些細な事でも敏感に反応してしまう。ホントに、俺、この目には弱い。こんな風に下から見上げられて『お願い』とかされたら、何でも聞いてしまうような気がする。つっても、鈴木主任が俺に『お願い』なんてする訳無いんだけど。『命令』はしょうちゅうされるけどな。
「・・・お前、今日、暇?」
 どこか躊躇しているのか、窺うような視線を俺に向けて鈴木主任は尋ねてきた。だから、こう言う表情されると妙な気分になるんだって。でも、鈴木主任は全然、自覚してねえんだろうな。まあ、そうだよな。普通は男が男に妙な気分になるなんて思わないわな。
「えっと・・・これからって事っスよね?」
「ああ」
「今やってるダイアログをケリ付けたいんで、それが終わったあとなら・・・」
「ふうん・・・・じゃ、ちょっと付き合えよ。飲みに行こうぜ。奢ってやる」
 そう言って鈴木主任は煙草を灰皿に押し付けて火を消した。
 俺は一瞬自分の耳を疑った。今、この人、何て言った? 一緒に飲みに行こうって言ったか? 空耳じゃ無いよな? これって、もしかして個人的に誘われたって思って良いんかな。
「・・・あの・・・二人で、ですか?」
「なんだよ。俺と二人だと何か都合悪いのか?」
 鈴木主任はムッとしたように俺を睨み上げてくる。
 いや、都合は全く良いんだけど・・・いや、ある意味悪いのか? や、でも、せっかくのチャンスなんだし・・・あ、でも、鈴木主任はそんなつもりじゃないからチャンスって事でも無いのかも・・・・。とか、動揺していると鈴木主任は、
「何心配してんだよ? 取って食ったりしねえよ?」
と今度は少しだけ表情を緩めていった。うあ、小首を傾げて見上げないでくれ! 可愛いとか、血迷った事考えてしまう。
 いや、取って食われるとは思ってないんスけど、俺が取って食ったらどうしようとか・・・・。俺、空回りしすぎ? 
 でも、鈴木主任と二人で飲みに行くなんて滅多に出来ないと思ったら、咄嗟に答えていた。
「あ・・・喜んでお供させてもらいます」
 俺がしどろもどろで答えたら、鈴木主任は
「何だ、そりゃ?」
って笑っていた。
 イカン。あばたもえくぼじゃないけど、鈴木主任の笑顔が可愛く見えてしまう・・・。七つも年上の人だってのに・・・。笑う時、目、細めるんだよな、この人。そのせいで、雰囲気が柔らかく見えて、ちょっと幼い感じになる。
 以前は意地悪そうだとか、冷たそうだとか思っていた猫目ですら、こう言う時に見ると色っぽく見えてしまうんだから終わっている。
 俺、大丈夫なんか? 酔って襲ったりしねえよな? とか、アホな心配してたら。
「何、そんな心配そうな顔してるんだよ? 潰れたら、俺んち泊まらしてやるよ」
と、鈴木主任に言われて、さすがにそれは遠慮すると断った。いくらなんでも、俺は自分の自制心にそこまで自信は持てない。一晩、二人きりになんてなったら何をしでかすか分からなくて怖いっつーの。
 ああ、知らない事とは言え、罪作りな人だよ、この人は・・・。





 鈴木主任に連れて行かれた店は、会社から出て十分ほど歩いた場所にあった。駅とは反対方向にある店だったから、俺は全く知らなかったけど、こじんまりとしていて、ちょっと良い感じだ。飲み屋と小料理屋の中間みたいな店で、普通の定食とかも出してくれるらしい。
「時々、夕飯、ここで食ってんだよ」
と、鈴木主任は教えてくれた。
 何か、二人でそんな風に行きつけの店に行くのって友達同士みたいで、くすぐったい気分になる。会社に入ってからの付き合いって言うのはやっぱり学生時代とは違うし「友達」ってのとは大分違う関係だから尚更変な感じがした。
 もちろん鈴木主任と二人きりで飲めるなんて嬉しくないわけがない。表面上はなるべく冷静を装っていたが、内心は、正直、浮かれまくっていた。好きな人と二人きりだったら浮かれるのは普通だろう。
「おう。匡。お疲れ」
 店の暖簾を潜ったらカウンターの中のオッサンが声を掛けてきた。ここの店主なんかな? 
 カウンターの中にいる女の人は、多分、年齢的に言ってその奥さんなんだろう。
 匡って・・・そっか。鈴木主任って匡って名前だったんだっけ。普段、全然呼ぶ機会ないし、聞く機会もないから殆ど忘れてた。何か新鮮だな。
「マスター、ビール。あと、取りあえず腹に溜まるもん二つ」
 俺が変な所で余韻に浸っていたら、鈴木主任は勝手に注文してくれた。ホント、行きつけの店みたいで、きっと、鈴木主任に深い意味なんか無いんだろうけど、そう言う所に俺を連れてきてくれたってのが何か嬉しかった。こんな事で喜んでるなんて、俺も大概いじましいよな。
「メシ食ってねえのか?」
「そう。今まで残業」
「相変わらず人使いの荒い会社だあな。連れは同じ会社の奴か?」
「ああ。可愛い部下なんだよ。美味いもん食わせてやって」
「そうかそうか。お前が誰か連れてくるの珍しいな。おう、兄ちゃん、これから、ウチ、贔屓にしてやってよ」
 そう言ってマスターはガハガハ笑う。ビールを置いてから、俺の肩を叩いた。スゲエ豪快な人だ。そう言えば、大学の近くの飲み屋の店長がこんな感じだったっけなあ。何か懐かしい。
 鈴木主任は俺にビールを注いでから、自分のグラスにも勝手に注いだ。
「あ、すんません」
 手酌させてしまったんで、恐縮して謝ったら、
「んなこと気にすんな、バーカ。手酌で良いよ。二人しかいねえんだし」
と笑われた。
 今日の鈴木主任は変だ。いつもよりさばけてるっつーか、会社での冷めたイメージが嘘みたいに親しげに接してくれる。社内じゃないって言う開放感がそうさせているんだろうか。

「で、結局、ウィルスの件ってどうだったんっスか?」
 飯をつつきながら俺が尋ねると、鈴木主任は上目遣いにちらっと俺を見て、それから、まあ飲め、と言ってビールを注いだ。うう・・・その上目遣いやめて欲しいんだよな。誘ってるように見えて、いちいち心臓が跳ね上がるんで、何でもない振りをするのに苦労してしまう。
「多分な、外注。平山以外で感染してたの全員水管理のプロジェクトの奴らだろ?」
「・・・ああ、そう言えばそうっスね」
「で、水管理システムのファイルバージョン辿ってみたらな、ウィルスに感染したバージョンと外注からファイル受け取った時期とぴったり一致すんだよ」
「外注って、ベータシステムでしたっけ?」
「そ」
「問い合わせとかしないんっスか?」
「したよ。したけど、ばっくれるに決まってるだろうが。認めれば契約打ち切られるに決まってるし、下手すりゃ損害賠償請求されるからな」
 鈴木主任はふうと、疲れたように溜息を吐くとビールを呷った。
「でも・・・下手すればウチの課が危なかったじゃないですか。幸い、クライアントに渡す前に発見できたから良かったものの」
「まあな。でも仕方ないんだよ。決定的な証拠があるわけでもないし、これ以上、糾弾するのは難しい。それに、うちの落ち度もあるしな。外部から来たファイルは全てウィルスチェックするのは常識なんだけど」
「・・・一課はそう言うの徹底してないっスよね」
「まあなあ・・・課長がなあ・・・もともと技術畑の人じゃないしなあ・・・難しいんだよ、色々と」
 苦笑いしながら煙草をふかす。俺みたいな下のヤツには分からないけど、上は上で色々と軋轢とかあるんだろうな。この若さで、開発の責任者をやりながら、そう言う事も処理してんだから、やっぱ大変なんだろう。
「あ、大澤、分かってると思うけど、今の話、全部オフレコな」
「分かってるっス。誰にも言いません」
 返事をしながら、俺は、ふと以前の飲み会で古田さんが言ってた言葉を思い出していた。鈴木主任は、どこか冷めていて、あんまり弱みを見せたり、愚痴を言ったりしてくれないってヤツ。俺にこんな話をしてくれるってことは、少しは俺の事信用してくれてるって事だろうか。
「・・・あれ? でも、何で平山さんのマシンは感染したんでしょうね?」
 ふと疑問に思って俺は鈴木主任の顔を見た。平山さんだけが二課で感染したけど、水管理システムには関係していないはずだ。
「あー、平山のマシンだけOSが98だろ? OS別のインストールテストでいつも使われるんだよ、あのマシン。多分、水管理システムのインストールテストした時に感染したんだろうな」
「じゃあ、平山さんには何の落ち度も無いじゃないですか。課長、ムカつく」
「だからって、正面から楯突くなよ。お前分かり易過ぎ」
 そう言って鈴木主任は上目遣いに俺を見て笑った。
 その瞬間だった。あれ? と、思ったのは。
 何が、とか、どこが、とか言うんじゃなくて本当に直感的なものなんだけど。
 秋波っつーの? 学生時代とか、一番、適当に遊んでた時期によくハッテン場とか行ってたんだけど、そこで、気があるヤツが送ってきたような視線と似たような視線っつーか。
 そういうのを、鈴木主任から感じたような気がして、俺は動揺した。え? 何で? と思って、ついつい鈴木主任の顔を見詰めてしまった。鈴木主任は、一瞬、俺の目を見詰めて、それから、ふっと視線をはずす。はずしながら、
「まあ、お前のそう言う所、俺は好きだけどな」
なんて小さく呟くから、俺は更に混乱してしまった。
 急に酔いが回ったみたいに、心臓が音を立てている音が耳に響く。
 きっと、別の状況で、もっと違う場面で言われていたのなら気にも留めなかっただろう。いや、好きだといわれた事自体は素直に喜ぶだろうけど。
 でも、今の鈴木主任の視線や、微妙な仕草には意図的な「何か」が漂っているような気がした。その「何か」の正体を捕まえようとして、思わず鈴木主任を凝視してしまう。
 鈴木主任は、追加注文した料理をつつきながら、ビールを飲んでいる。ふっと視線だけ上げて、また、俺のことを上目遣いで見た。意味深な視線にどうしても見えてしまう眼差し。
「何? 俺の顔、何かついてる?」
「や・・・別に・・・」
 慌てて顔を逸らしてしまったけど、不自然だったろうか。
 好きな相手の行動を、自分にとって都合よく解釈してしまうのは、恋する人間の常だ。でも、俺は自分で言うのもなんだけど、そう言う事に関しては割りと敏感っつーか。男でも女でも、見てると大体誰が好きなのか分かってしまうような所があった。
 でも、事が自分に関してだと、どうだったろう。やっぱり勘違いが多かったような気もする。期待してはダメだ、と自分に言い聞かせつつも、変に動悸が早くなるのを止められなかった。

 そしたら。

「話変わるけど、大澤って恋人とかいねえの?」
 鈴木主任は急に俺に聞いた。聞きながら、さっきと同じ視線を、やっぱり上目遣いで送ってくる。
 あまりに意味深だと思うのは俺の深読みしすぎなんだろうか。
「・・・いないっス」
「そうなの? お前程の男を放っておくなんて女も見る目ねえな」
「そう言う鈴木主任はいないんスか?」
「俺? いねえよ。いたら、あんなに残業してねえっての」
「はあ・・・でも、何で、そんな事聞くんスか?」
「・・・や、別に、深い意味は無いけど・・・」
とか言って視線を逸らす。何だ、その意味深な仕草は? と思って俺はますます動揺した。
 何なんだろう、この人。カマかけてんのか? それとも遠まわしに誘ってんの? まさかな。
 疑心暗鬼に陥っていると、今度は、
「平山とか、どうなの? アイツ、良いヤツだけど」
と聞いてくる。
 何を聞き出したいのか図りかねて俺は戸惑った。さっきまで気持ちよく仕事の話とかしてたはずなのに、いつの間にか変な駆け引きが始まってしまっていて、俺は少し気分が悪くなってきた。期待しちゃいけないと自分に歯止めを掛けたり、鈴木主任の真意を測りかねて戸惑ったり、それに加えて酔いが回り始めてるせいで、頭の中はグチャグチャだった。
 それが、だんだん、考えるのが面倒くさくなってきて、ヤケクソの気分で思わず答えていた。
「平山さんのことは尊敬しているし、凄く良い人だと思いますけど、俺、女ダメなんで」

 物凄い爆弾発言だったと思う。でも、俺は鈴木主任が好きなんですって叫ばなかっただけマシか。
 もし、鈴木主任がノンケでしかもゲイとかに偏見持ってる人だったら、下手すりゃ会社にいられなくなる。でも、その時は俺は追い詰められているような気分になっていて、多分、半分キレかけてた。
 文句があるなら言ってみろ、って勢いで言い切った。
 鈴木主任は、俺の言葉を聞いても、さして動揺も見せずに、
「ふうん」
と言って、やっぱり俺の顔を上目遣いで流し見ただけだった。
 その目に、やっぱり俺は秋波みたいなのを感じる。俺のさっきの言葉に、この反応って事は薄々気が付いてたって事なのか? でもって、まさか、鈴木主任が好きだってのも感付いていたとか? 
 この人、一体、何のつもりなんだろう、と訝しげに見ていたら。
「匡。あと十分で看板だぞ」
と、マスターがカウンターの中から声を掛けてきた。
 気がつけば、客は俺たち二人だけになっている。そう言えば、残業終わってから来たんで、店に入った時間自体が結構遅かったんだ。
 俺は、こんな中途半端に会話が終わった状態で別れるのが何だか気持ち悪くて、次の店に誘おうかどうか迷っていた。でも、何て言って誘って良いか分からない。さっきの会話の流れで、次の店、なんて誘ったら鈴木主任が変な風に思うんじゃないかと不安にもなっていた。
 どうしようか思案に暮れていたら。
「大澤。何か飲み足りねえ。ウチ来て飲み直さねえ?」
と、軽い口調で鈴木主任に誘われた。
 俺は一瞬ポカンと口を開けて鈴木主任を眺めてしまった。だって、さっきの話聞いて、普通、自分ちに誘うか? 正直、この人バカ? とか思った。でなければ、誘っているかのどっちかだ。
 それとも、もしかして、別に俺がゲイでもどうでも良くて、自分には何にも関係無い話だと思ってるのかも。・・・それが一番あり得そうな話だな。鈴木主任って、仕事でもドライで冷めてるし、他人のプライベートに関してもそうなんだろう。
 そう思ったら、ガックリと肩の力が抜けてしまった。
「・・・鈴木主任のウチ、近いんスか?」
「んー。こっから歩いて十分位」
「あー。じゃあ、お邪魔させてもらいます」
 もう、どうでも良いや、とヤケっぱちな気分で俺は了承した。
 俺も出すって言ったんだけど、結局、その店の払いは最初言ってった通り、鈴木主任が全部出してくれた。しかも、途中の店で買出しした酒だのツマミだのも、全部、鈴木主任持ち。
「俺のが上司なんだから、んなこと気にすんなよ、バーカ」
と、頭を小突かれた。
 酔ってるせいなのか、今日の鈴木主任はかなり気安い感じだ。見ようによっては浮かれているようにさえ見える。つーか、もしかして、これが素なんかな。分からん。他人の言ったことに対して無関心なのかなと思えば、変な風に気安かったり。


 鈴木主任の家は、結構新しめのワンルームマンションの二階の角部屋だった。俺なんか、もっと安っちいボロアパートに住んでるのに・・・やっぱり給料が違うんだな・・・。
「んじゃ、お邪魔します」
 遠慮がちに部屋を覗き込む。部屋の中は、多少、服とか雑誌が散らかってるけど、男にしては小奇麗にしてるって感じだった。あとは、物が少ない。
 ふと、基本的に鈴木主任って何に対しても執着が薄い人なのかな、と部屋を見た印象で思った。
「今、エアコンつけるな。あ、先、シャワー浴びる? 汗かいたろ? 服貸すよ」
 まるで、友人に対して接してるみたいに何気なく鈴木主任は俺に半そでのTシャツとスウェットパンツ、封の切ってない下着を投げてよこした。昔から知ってる友達みたいな態度に面食らいつつも、確かに汗をかいてて気持ち悪かったから言葉に甘えてシャワーを借りた。入れ違いで鈴木主任も入って、二人でまた缶ビールを飲み始める。
「そういや、俺、最近気になってた事があったんだけど」
 缶ビールを片手に煙草をふかしながらポツリと鈴木主任が言った。
「気になってた事? なんスか?」
「あー・・・」
 鈴木主任は言いにくそうに頭をガシガシと乱暴に掻いた。シャワーを浴びたばっかりで、ふわっと石鹸の匂いがして、俺はドキッとしてしまう。大体、スーツ姿じゃない鈴木主任なんて初めて見て、しかもそれがパジャマ姿だったりするから、俺は、無駄に動揺しまくってるってのに。
 洗いっぱなしのバサバサした髪も、変な風に無防備に見えてホントに困った。
「あのよ、お前、最近、俺の事避けてねえ?」
「避けて・・・ない・・・ス」
 ベッタベタのコントのように、嘘つきまくりなのが分かる返事をしてしまって、ヤバ、と思ったけど、誤魔化そうとして笑いながらビールを呷ると、鈴木主任も苦笑いみたいに薄く笑った。何か、髪の毛をセットして無いと、この人、ちょっと幼く見える。七つも年上にははっきり言って見えない。
「俺、何か、お前の気にいらねえことした?」
 いつものクールな印象が嘘みたいに、不安そうな表情を浮かべてテーブルの向かいから俺を見上げてくる。・・・それは反則だって。誘ってるって言われても文句言えないっつーの。
「だから、そんなことないっス」
「・・・飲み会ん時からだろ?」
 ズバリ指摘されて、ギクっとしてしまった。全然気が付いていないと思ってた。嗚呼、でも、時々、何か言いたそうな顔して俺のほう見てる事があったっけか・・・。
「面接試験の時の話とか聞いて、幻滅したんじゃねえかと思って」
 そう言って、鈴木主任は自分の膝を片方だけ抱えながら不安そうに俺を見上げた。いつもは気が強そうに見える猫目が、今は縋って来るみたいに見えて、俺は心拍数が一気に上がった。ホント、マジでこの人誘ってるんじゃねえの? と突っ込みを入れたくなる。
「してないっスよ! そんなこと絶対に無いっス! それに、鈴木主任、ちゃんと謝ってくれたじゃないっスか。潔い人だとは思ったけど、幻滅なんてしてないっス」
 してないから、そんな誘っているとしか思えない不安そうな眼差しで俺を見詰めるのはやめてくれ。さっきから、理性がギシギシと音を立てて揺さぶられている気がする・・・。
「じゃ、何で、避けてたんだよ? もしかして、帰り際に悪ふざけしたの怒ってる訳?」
 う・・・ある意味鋭いが、ある意味、全く間違っている。原因は正解だけど、避けた理由は正反対。つーか、こんな危うい状況でそんな話題出すなんて、この人、ホント、誘ってんじゃねえの? 
「あれくらいで怒りません」
「だよな。どうってことねえよな」
 鈴木主任はあっさり頷いたが、それが俺の癇に障った。そりゃ、あんなの大した事じゃないかもしれないけど、鈴木主任の事を好きな俺に対しては、余りに配慮に欠ける言葉だ。もっとも、鈴木主任は俺の気持ちなんて全く知らないわけだから配慮もへったくれも無いんだけど。分かってても、何か、ムッとした。
「どうって事無いっスけど」
 ぶっきらぼうに言って言葉を切る。そしたら、鈴木主任は、少しだけ驚いたような顔をして、それから、テーブルを横に避けて、俺のほうににじり寄ってきた。
 うわ、あんま近寄んないで欲しい。ホントにヤバいってのに。
 さりげなく視線を逸らしたのに、鈴木主任は体を乗り出して来て、俺の顔を下から覗き込んだ。
「ホントか? やっぱり怒ってねえ?」
「・・・怒って無いっス。怒ってないけど・・・鈴木主任、ああ言う事、良くするんですか?」
 頼むから、それ以上、顔を近づけないでくれ。ってか、酔ってる? この人、酔ってるのか? でも、今日は、この前の飲み会に比べると全然、酒の量は少ないはずだけど。
 さり気なく、体を後ろに逸らしたら、ベッドの端に背中が当たった。もう、それ以上、後ろには逃げられなくて困っているってのに、鈴木主任は、更に俺に体を近づけてきて、口の端をふっと上げた。
「そんなことねえよ? 会社じゃ、お前にしたのが初めてだって」
 とか言って、下から媚びる様な視線で俺を見上げる。
 この角度で、この視線をよこして、しかもこの台詞を言われたら、普通は、誘われてるって思うだろう。もちろん、その時の俺もそうだった。
 駄目押しのように、鈴木主任は俺の膝に手を置く。いや、もしかしたら、酔っ払って、体制崩してたまたま手がそこに落ちただけなのかもしれないけど、そんな事はその時の俺には瑣末な事だった。
「大澤?」
 急に黙り込んだ俺を不思議に思ったのか、無防備な猫目が上目遣いに見上げてくる。



 その瞬間に、俺の理性はプツンと音を立てて焼き切れた。



 衝動的に押し倒してキスしたのに、頭の片隅は変に客観的で、
(ああ、鈴木主任の髪の毛って案外、柔らかいんだ)
とか、
(煙草とビールの混ざった香りがする)
とか、
(デスクワークの割りに、結構、筋肉付いてんだ)
とか考えていた。
 その癖、とんでもない事をしてしまったとか、この後、どうしようとか、どう誤魔化せば良いんだろうとか。現実的な心配は全くしていなかったから、やっぱり、俺も、多少は酔っ払っていたんだろう。

 鈴木主任の舌のザラついた感触がして、
「ん・・・」
と、鼻を抜けるような声が聞こえた。
 いつもとは違う、どこか、甘えたように聞こえる声。
 拒絶の色は含まれていない。
 俺の背中を抱いた腕は、クシャリとTシャツを掴んだだけで、決して突き飛ばそうとはしていなかった。それに安心して、勢いが付いてしまった俺は、そのまま唇を離して、今度は鈴木主任の耳の付け根の辺りをキツク吸い上げる。
「ちょっ! ・・・うあっ・・・」
 鈴木主任は体を捩って、少しだけ俺の体を押し返した。下から、潤んだ目で睨み上げてくる。
 冷たそうだとか、キツそうだとか散々思っていた筈の猫目は、こういう状況下で見下ろすと、とんでもなく色っぽく見えた。鈴木主任の怒ったような表情が、俺を煽って止まらない状態にしつつあった。だってのに。


「あのさあ・・・大澤。お前、ゲイなの?」
 鈴木主任は不意に表情を緩め、のほほんとした口調で尋ねた。今更、この状況で、そんな事を聞くか? しかも、子供が素朴な疑問を尋ねるような、そんな口調で。
 俺は余りの出来事に、毒気を抜かれてガックリと肩を落としそうになった。何なんだよ、この人は。
「・・・鈴木主任・・・さっきの飲み屋での話、聞いてなかったんスか?」
「や。聞いてたけど、聞き間違いかも、とか思ってたし・・・」
 ちょっと待ってくれ。聞き間違いかと思い込んで俺を家に呼んだワケ? 今までの散々投げかけられてた誘うような視線は全部、俺の勘違いだったって事? もしかして、ここで寸止め? こんな状態で止まれってか? とか物凄く切迫した状態で鈴木主任を見下ろしたまま、取りあえず、押さえつけた腕は離さなかった。や、多分、腕を放しても鈴木主任は逃げなかっただろうけど。それだけ、俺の下半身は切羽詰った状態だったって事で。
「ここまで来て、間違えました、とか・・・言うつもりじゃ無いでしょうね?」
 半分、泣きたい気分で、縋るように下に組み敷かれている鈴木主任を見下ろすと、バツが悪そうにウロウロと視線を泳がせた。
 マジで? 寸止め? 俺、死ぬって! 
「あー・・・いや、それは言わないけど・・・」
「つーか。鈴木主任もそうなんじゃないんスか?」
「俺? まあ、男もオッケーだけど」
「も?」
「あ、女もヘーキだから」
「・・・でも、今、散々、誘ってましたよね?」
 それも俺の勘違いだったって言うのか? あんな目で見られたら、普通、勘違いするだろうが。絶対、この人にも責任はあるぞ! と思って睨みつけてやった。鈴木主任も、思い当たる節があったらしく、さり気なく顔を逸らす。そのせいで目の前に無防備な鈴木主任の首筋が晒されて、更に、俺の下半身は直撃を受けてしまった。
 知らなかった・・・鈴木主任って、首筋、結構、キレイなんだ。色も白い方だしな。まあ、室内の仕事だからあんま日焼けもしないんだろうけど。噛み付いたら怒られるだろうか・・・。
「誘ってたっつーか・・・半分、カマかけてたっつーか・・・」
 鈴木主任は、顔を背けたまま、らしくない自信の無さそうな声でボソボソと答えた。
「カマかけてた!?」
 なんだ、それは! 俺がホントにゲイかどうか確かめる為に、あんな思わせぶりな態度を取ってたって言うのか? 
 何だか、凄く侮辱されたような気分になって自然と眉間に皺が寄っていたらしい。
「俺を試したって事? それ・・・酷くないっスか?」
 意図した訳ではないが、怒ったような低い声が出てしまって、鈴木主任は、俺の下でビクッとした。
「あ、違う。そうじゃなくて・・・ゴメン。いや、ヤって良いから。続けて」
 そのまま、仕事を続けろ、とでも言うような軽い口調で言われて俺は眩暈を感じてしまった。・・・もしかして、この人、天然? 天然なのか? 
「・・・そんなこと言われても・・・」
 本当に続けて良いものかどうか迷っていたら、鈴木主任はふっと顔を元に戻した。真正面から俺の事を見上げて、
「『ヤって良い』ってのも、何か、違うか。恩着せがましいな」
とかぶつぶつ呟いた。それから、スルッと俺の腕をはずして、俺の首に腕を回した。
「俺もヤりたい、ヤろうぜ」
 そう言って、ふっと笑った。
 ねっとりと絡み付いてくる視線。今度は、絶対に勘違いなんかじゃ無い。明らかに意図的な、誘っている視線だった。
 このままヤってホントに大丈夫なんか? と頭の片隅で問いかけてくる自分もいたんだけど、結局、その目に勝てるはずも無く。
「ホント、ヤって良いんだな? ホントにヤるからな?」
 もう、言葉を選ぶ余裕も無ければ、返事を聞く余裕も無くて、そのまま、もう一回キスした。鈴木主任は、その時も全然、抵抗とかしなくて、俺はそれを勝手に了承の証と思って先に進んだ。

 その後も、鈴木主任は俺が戸惑ってしまうほど協力的で、それが、今までの鈴木主任のクールなイメージとはギャップがあって、尚更、夢中になってしまった。
 ホント、こんなにガッツいたのは久しぶりっつーか。セックス覚えたての中学生みたいになってた。
 途中で、ベッドに上がろうって言われて、ベッドに移動して。
 仕事でのドライさが嘘のように、ベッドでの鈴木主任は享楽的というか、純粋に楽しむ、みたいな所があって、終わってから冷静に考えると、結構、俺のほうが翻弄されていたような気がする。
 でも、鈴木主任は他は割と慣れてたのに、後ろの方は慣れて無いんか久しぶりだったんか、結構、入れるまで時間が掛かった。でも、入れてからは、俺のほうが調子に乗ってしまって。
 三回やって、しかも三回目に中出ししたら、もの凄く怒られた。
 や、もう、その時は、怒ってても怖いとか思わなくて、本気で感情を表に出して怒ってる鈴木主任が嬉しかったっつーか。

 俺も大概バカだと思うけど。
 ま、恋は盲目って言うし。



 結局、二人で寝たのは明け方近くになってしまった。目が覚めたのは昼近く。



 目が覚めて、ぼーっとした頭で、横を見ると隣には鈴木主任の寝顔が見えた。寝癖で髪の毛がクシャクシャになってるのが可愛い。体、丸めて寝てたりして、ホント、この人、猫みてえ。目だけじゃなくて、全体的な印象が猫みたいなんだよな。
 会社じゃ絶対に見る事の出来ない、無防備な姿を思う存分眺められて、俺は多分、自分でも意識しないうちに浮かれていたんだと思う。
 鈴木主任の髪の毛に顔を埋めて、クシャクシャと掻き混ぜる。ふわりと、シャンプーの匂いがして、あー、幸せだーとか暢気に考えてたら、
「ん・・・」
って鈴木主任が身じろいで、目を覚ました。
「おはようございます」
 挨拶して、頬っぺたに音を立ててキスをすると、鈴木主任はぼーっとした顔のまま、
「オハヨ」
と返事をする。嗚呼、なんか、恋人同士の朝みたいだーと能天気に鈴木主任の体を抱きしめた。
「鈴木主任、好きです、大事にします」
 鼻の下伸びた状態で、浮かれまくってそんな馬鹿みたいな事を言っていたら鈴木主任は、急にぱっと目を開いて、がばっと体を起こした。
「え? なに? 大澤、そうなの? 俺の事好きなの?」
 本気で驚いた様子で俺の顔をまじまじと見詰めている。
 そんな驚くような事言ったか? 俺? っていうか、昨日、好きだって言ってなかったけ? アレ? 
 何となく嫌な予感がして、眉を顰めた。
「・・・・好きですけど・・・って、鈴木主任、じゃ、何で、昨日、俺があんなことしたと思ってたんスか?」
「え・・・? や、溜まってたから純粋にヤりたかっただけだったんかと思ってた」
 鈴木主任はいとも簡単に、ケロリと答えた。
 冷水をぶっかけられるような気分とはこういう事を言うのだろう。鈴木主任の言葉を聞いて、俺は、幸せな気分から、いきなり奈落のどん底へ叩き落された。
「・・・鈴木主任は、溜まってたから、昨日、ヤらしてくれたんですか?」
 ウソだろ? と、半ば縋る様な気持ちで鈴木主任をじっとりと睨みつける。
 鈴木主任は否定も肯定もせずに、ただ、曖昧に「まあ、そんな事、どうでも良いじゃないか」と笑った。どうでも良くねえっつの! 図星か!? 図星なんか!? 
「・・・鈴木主任、俺、マジです。付き合ってください」
勢い込んで、鈴木主任の手をバッと取って言ったら。
「ヤダ」
 即答で断られた。ひでえ。酷すぎる。あまりのダメージにベッドに突っ伏しそうになるのを堪えて、鈴木主任の肩をガッと掴んだ。
「やだって・・・何で!? 何がダメなの!? 俺、セックス下手だった!?」
「別に、悪くは無かったけど・・・付き合ったりするの面倒くさい」
 あまりと言えばあまりだが、鈴木主任らしいと言えば、鈴木主任らしい言葉に俺は全身の力がしおしおと抜けていくのを感じた。
 ぐったりとベッドの上で項垂れる。ひでえ・・・弄ばれた・・・。俺が一人で落ち込んでいるってのに、鈴木主任は、いけしゃあしゃあと煙草を吸い始める。
「まあ、いいじゃん。昨日は、お互い楽しかったんだし」
 そう言って、屈託の無い笑顔を俺に向けた。そういう問題じゃねえだろ! アンタには情緒ってモンが無いのか! と思わず突っ込みたくなる。
 翻弄されている俺とは対照的な鈴木主任の冷静な顔を見ていたら、何だかだんだんと腹が立ってきてしまった。

「・・・辞めてやる・・・」
「は?」
「アンタが付き合ってくれないんだったら、俺、会社辞める」

 俺は正直言って短気だ。そこを直せと親父にも、お袋にも、友人にも、大学の教授にも、果ては別れた恋人にも言われた事はあった。
「子供の癇癪じゃないんだからさあ。衝動的に行動したらどうなるか、ちょっとは考えろよ」
 そう言われた事もあったが、残念ながら、未だに改善されていないらしい。だが、そんな事は知ったこっちゃない。

 鈴木主任は、ポカンとした顔で俺の顔を眺めていたが、ようやく意味が掴めたらしく、眉を顰めて俺を睨みつけた。猫目が、いつものキツイ印象に戻っている。
「お前・・・何言ってるのか分かってんのか?」
「分かってるよ! どうするんだよ? 本気で俺辞めるよ?」
「・・・お前、そう言うの公私混同って言うんだよ? 知ってるか?」
 幼稚園児を諭すように言われて、ますます腹が立った。年下だと思って、軽くあしらおうとしているように見えて、悲しいんだか、悔しいんだか訳が分からなくなる。
「知らねえよ! アンタが、俺の事弄んだのが悪いんだろ? 俺は本気なのに」
 段々と、子供の駄々のようになってきて、自分で自分が情けなくなったが、勢いで言い始めてしまったものは止められない。
 鈴木主任は、じっと俺の事を見詰めていたけど、ふうと大きな溜息を突いて、枕元に置いてあった灰皿に煙草を押し付けた。
「・・・弄んだってなあ・・・・お前、そんな情けない顔するなって。男前が台無しだっつーの」
「情けない顔させてんのは、アンタだろ?」
 鈴木主任はもう一つ溜息を吐いて、ボソボソと「人の気も知らないで・・・・」とか何とか言ってたけど、あんまり小さな声だったから良く分からなかった。
 俯いたまま、暫く何か考えていたみたいだったけど、鈴木主任はガシガシと乱暴に髪の毛を掻き回して顔を上げた。髪の毛がちょっと乱れてて、ツンとした表情で見上げてくるのが、本物のネコみたいだった。気性が荒くて懐きにくいシャムネコみてえ。
「・・・分かったよ。但し条件付きな」
 半ばヤケクソ、と言ったような口調で鈴木主任ははき捨てるように言った。
「条件付き?」
 ふっと顔を上げて怪訝な表情で鈴木主任を見ると、鈴木主任は一呼吸置いてから、優しそうににっこり笑った。

 いつだったか、どこだったかで見たような凄く優しそうな表情。俺の好きな顔の一つだ。
 その癖、出てきた言葉は。

「ソース三本に付き一回ヤらしてやる」
 オニとしか言いようの無い言葉だった。

「・・・・ちょっ・・・・マジで!? マジで言ってんの?」
「大マジだって」
「アンタ、そう言うの公私混同って言うんだぞ!? 知ってるか!?」
「そうだよ。良かったな。『公私混同』。覚えられて、一つ利口になったぞ」
 そう言って鈴木主任はニコニコと笑いやがった。人の揚げ足取りやがって、ホント、ムカつく! と、思ったが。
 鈴木主任は、四つん這いで俺ににじり寄ると、すっと軽く俺の唇に自分の唇を合わせた。それから、例の媚びたような誘うような視線で俺を見上げてくる。挑発的なその猫目に、俺は思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまった。
「嫌なら、やめても良いんだぜ?」
 余裕たっぷりの表情で、俺の額を人差し指でトンと突付いた。
 卑怯だ! 卑怯すぎる! と思ったが、その瞬間に、俺は経験値の違いを痛感してしまった。悔しくて仕方が無かったが、白旗を振るしか道が無い。
「・・・うう・・・クソ・・・分かったよ。やりゃ良いんだろ? やりゃ! ソース三本位、どうってことねえよ!」
 ヤケクソで叫ぶと、鈴木主任はそれはそれは楽しそうに笑った。
「そりゃ頼もしいな。いや、ホント、使えるよ、お前。ずーっと、お前みたいに出来るパシリが欲しかったんだよな、俺」
とか、浮かれた口調で独り言を言ってる。

 オニだ。やっぱり、この人は仕事のオニだ。俺よりも仕事の方が大事に違いない。
 喜んでいいんだか、落ち込んで良いんだか分からないで、ベッドの上で呆然としていると。

「あ、大澤。お前、料理得意? 朝食作ってくれよ」
と、鈴木主任が暢気な声で命令してくる。さっそくパシリか? つーか、奴隷? そういや、恋愛は惚れたモンの負け、とか、何かの雑誌に書いてあったのを読んだことがあるような・・・。
 ふと、そんな事を思い出しながら、ひょっとして、自分はとんでもなくタチの悪い人間に惚れてしまったのではなかろうかと不安になってしまったが。



「あ、卵とハムが冷蔵庫に入ってるぞ」
 鈴木主任は、さっさと着替えて今朝二本目の煙草を吸いながら新聞を読み始めてしまった。



 時既に遅し。
 後悔先に立たず? 
 腹を立てながらも、すっかりハマっている俺にとっては、何もかも、後の祭りという気分だった。







--- END.



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