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Do you love me ? - 6 ……………



 カチカチと音を立てながら、波形を刻み、数値を叩き出す測定器をじっと見つめる。ピーっと音が鳴るたびに、その値をノートに移そうとして、裕太は書き損じた。小さなため息を一つついて、斜線でその部分を消し、それから、おもむろに測定器のスイッチを切った。
 どうにも、ミスが多すぎて、今日は止めようと思ったからだ。ふと、窓の外に視線を移せば、すでに日は暮れていた。日が短くなってきたから、暗くなるのは早いけれど、時刻自体は、まだ、そう遅いわけではない。別の作業に手をつけようかどうしようか迷って、結局、裕太は諦めた。あまりに集中力が散漫で、きっと、何かをしても、また失敗するだろう。
 実験用の白衣を脱ぎ、後始末をして研究室を後にする。こんなに早い時間に帰るのは久しぶりだった。週末だからだろうか。平日に比べて、研究室に残っている学生は少ない。けれども、裕太は遊びに行く気にはならなかった。
 何も予定の入っていない週末を過ごすのは、これで三回目だった。あの日、気まずい別れ方をして以来、蓮川とは会っていない。それどころか、連絡すらなかった。三度ほど電話をしたが、そのどれもが不在着信で、留守電に残したメッセージはものの見事に無視された。メールも電話の倍の回数送ったけれど、一度も返信は返ってこない。こんなことは、初めてのことだった。
 研究をさっさと引き上げたのは自分だったけれど、でも、一人の家に帰るのも嫌だった。構内を歩きながら、無意識に肩を竦める。吹き付けてくる秋の終わりの風は肌寒くて、裕太は身震いした。
 少し迷って、自宅のアパートとは反対方向の駅に向かう。もう、限界だった。基本的に、恋愛のゴタゴタを他人に持ち込むことが裕太は好きではない。けれども、誰かに聞いてもらわなければ、不安でどうにかなってしまいそうだった。
 一志の店に行くのは、蓮川と一緒に行ったとき以来だ。蓮川が決定的におかしくなったのも、あれ以来だった。その理由を一志はもしかしたら、理解しているのかもしれない。
 それが良いことだとしても悪いことだとしても、裕太は、もう、何も知らないままでいるのは嫌だった。自分は、まだ、蓮川と付き合っているのかどうなのか分からない曖昧な状態に、ケリをつけたかった。
 けれども、運の悪いときは悪いことが重なるのだろう。訪れた店に、一志は不在だった。別の店にトラブルが起こって、そちらの方に行っているのだと店のスタッフに教えられ、裕太は落胆した。
 どうしようか、と迷う。ポケットの中でチャリと音を立てたキーホルダーには、いつでも二つの鍵が付いていた。一つは自分のアパートで、一つは蓮川のマンション。大抵、蓮川が入るときにしか、蓮川の部屋には行かないから、あまり使ったことの無い鍵だけれど、別にいつ来ても構わないと蓮川は言ってくれた。
 時計を確認すると、まだ、九時前だった。仕事が忙しいならば、帰宅しているかどうか微妙な時間だ。ポケットから鍵を取り出し、しばらくそれをぼんやりと眺めていた裕太だったが、軽く首を横に振って覚悟を決めた。
 行こう、と思った。行って、蓮川と話をしようと思った。まだ帰ってきていなかったなら、部屋の中で待てば良い。蓮川が帰ってくるまで、いつまでも。
 一度決めてしまえば、迷うことは無い。使い慣れた路線電車に乗り、見慣れた風景を眺めながら、その場所に向かった。蓮川のマンションの下までたどり着いたとき、窓には灯りがともっていた。きっと、蓮川はもうすでに帰ってきているのだろう。そのことに裕太は安堵して、深く考えることなくエレベーターに乗り込んだ。目的の階数ボタンを押し、静かな建物内を歩く。部屋の前でインターフォンを押して、ドアが開く直前まで、裕太は、それを予想さえしていなかった。なぜだろう。十分にありえる可能性だったのに。
 ドアが開く。
「はい」
と聞きなれない声とともに。顔を覗かせた人物に、裕太は、一瞬、ポカンとする。思考がまともに働かず、どこか、遠いところで、どうして蓮川の部屋なのに蓮川が出てこないのだろうかと、それだけを考えた。
「どちらさまですか?」
 ポカンとしている裕太に訝しげな表情を見せ、その女性は尋ねた。それは、自分が聞きたい。否、聞かなくても知っている。この人は『菜理子』だ。
 何も答えることが出来ずに玄関先に立ち尽くしている裕太を、しばらく菜理子は見つめ、それから、アッと声を掛けた。
「要のお友達だよね? 一度、海で会った」
 それにうんとも、いいえとも答えられずに、裕太は菜理子をぼんやりと観察していた。分からなくて良いことばかりが目に付く。菜理子は、完全に寛いでいる様子だった。以前見たときは無かったのに、今は眼鏡をかけている。きっと普段はコンタクトをしているのだろう。顔は化粧っ気が無く素顔のようだった。着ているのは、完全な部屋着で、しかも、その上に着ているパーカーには見覚えがある。これは、蓮川の服だ。
 まるで、この部屋が菜理子の部屋であるかのような寛ぎように、裕太は肩の力がストンと抜け落ちた。なんだ、と思った。今の自分の状況があまりに間抜けで、笑い出したくなる。実際、薄ら笑いを浮かべてしまっていたかもしれない。
「菜理子さん?」
 部屋の奥から菜理子の名前を呼びながら出てきた本来の家主は、裕太の顔を見た途端、顔をこわばらせたようだったけれど。それも一瞬の事で、事も無げに、
「裕太? どうした? 何か用?」
と尋ねてきた。何か用、とはどういうつもりだと裕太は呆れ果てる。もっと、何か別の言うことがあるだろうに。
「……これ、どういうこと?」
 吐き出した声はみっともないほど震えていた。きっと、それは蓮川にも分かっていただろう。けれども、蓮川は気が付かない振りで、どこか皮肉な笑みを浮かべて見せた。
「見ての通りだけど?」
 何の言い訳も申し開きもしない蓮川に感じたのは、失望と、落胆で、そして、それ以上に裕太は奇妙に納得していた。ああ、やっぱり、と小さな声で呟く。どこかで、いつも、裕太はそれを予想していたのかもしれない。それから、ふと、気が付いた。今、この場面で、怒るでもなく、泣くでもなく、『やっぱり』と思ってしまう自分だったから、上手くいかなかったのだろうかと。
「そっか」
 答えた声は、自分でも驚いてしまうほど淡々としたそれだった。それ以上は、何も言う言葉が見つからず、裕太はそのまま踵を返して立ち去ろうとした。けれども、すぐに、
「裕太!」
と苛立った声で呼び止められる。蓮川は、どこか怒ったような、苛立った顔で裕太をにらみつけていた。怒りたいのは自分のほうだと、どこか冷めた頭の片隅で思う。
「何?」
「どうすんの?」
 曖昧な問いかけに裕太は一瞬黙り込み、それから口を開いた。
「三日三晩泣いて、その次の日から普通に大学に行くんじゃないの?」
 自嘲の笑みを浮かべながら答えると、蓮川の顔は不意に歪んだようだった。まるで、泣きたいのを我慢しているようにも見えて裕太は、それを不思議に思う。
 ただ、裕太は蓮川と同じことをしただけだ。蓮川の目の前でシャッターを下ろした。ただ、それだけ。
 どこかカラカラに乾いて麻痺した心のまま、裕太はもう一度、踵を返して歩き始める。決して後ろは振り返らなかったし、エレベーターに乗り込むまで、もう一度呼び止められることも無かった。
 一人きり、エレベータの中で裕太は小さなため息を一つ落とす。不思議なほど、何も感じていなかった。あるのは、虚脱感だけ。あまりに呆気ない。別れというのは、こういうものなのだろうかと思いながら、エレベータを降りる。
 マンションから出たときに吹いてきた風は、すでに、初冬のそれだった。

 寒いな、と体を竦めながら裕太は歩く。寒いのは風が冷たいからだ。ただ、それだけだと自分に言い聞かせながら。



***



「一宮先輩! 今日の中間報告打ち上げコンパ出ますよね?」
「うん。出る」
「場所、半蔵に変わったんで、よろしくお願いします」
「了解ー」
 ヒラヒラと片手を上げて振り、背を向けたまま裕太は返事をした。パタパタと元気良く次の研究室メンバーに連絡しに行ったのは学部生の永作だ。幹事体質らしく、何かの飲み会があるたびに、ああやって雑用を引き受けてくれる。そういえば、四年前はあれは自分たちの仕事だったなと、裕太はとりとめもなく考えた。裕太の所属する研究室には博士課程の学生は四人いる。その内、二人は先輩だけれど一人は同学年だから、いつの間にか裕太は研究室で上から三番目の先輩になっていた。
 時間が経つのは早いなと、苦笑い混じりにキーボードを叩く。一週間後に論文の提出を控えて、今は追い込みの時期だ。特に年末は、年明けの学会の論文提出が重なっていて忙しい。それでも、今年はその忙しさがありがたかった。何かに没頭していれば、余計なことを考えなくて済むからだ。
 蓮川と別れてから、どれくらいの時間が経ったのか数えるのは、三日目で止めた。結局、三日三晩どころか、一晩も裕太は泣くことなく、いつもと同じ生活を続けている。朝起きて、大学に行って、研究を続けて、夜は眠る。食欲が無くなる事もないし、眠れないことも無い。研究だって特別滞ったりしない。誰からも、落ち込んでいるとか、何かあったかと指摘だってされなかった。
 何も変わらない。蓮川に言った言葉通りだ。
 恋人と別れたくらいで人は死なないし、時間通りに朝は毎日やってくる。面白いことがあれば、笑えるし、楽しい事だってある。ただ、時折、酷く感覚が曖昧になる瞬間があるだけ。一枚、何かのフィルターを挟んでいるかのように、自分の周りの世界が遠く感じることがある。それさえやり過ごせば、特に不都合など見つからなかった。
 お前はそういう奴だと、一度、蓮川に言われたことがある。その通りかもしれないけれど、だったら、蓮川自身はどうだというのだろう。思考の迷路にはまりかけていることに気が付き、裕太はハッと首を横に振った。
 考えても無駄なことを考えている時間がもったいない。今するべきことはそれではないのだと、裕太は傍らの資料をパラリとめくった。不意に吹き付けた突風に研究室の窓ガラスがガタガタと音を立て、裕太はぼんやりとそれを眺めた。汚れて煤けたガラス越しに見える空は、薄い灰色だ。朝からすっきりとしない天気は冬の訪れを感じさせる。
 ほら、やっぱり、と裕太は思った。
 何も変わらない。恋人と別れても、季節は移り変わっていくし、時間は誰にも等しく流れていくものなのだ。ただ、それだけのこと、と裕太は再び、キーボードを叩き始めた。



***

「一宮先輩! 飲んでますか!」
 真っ赤な顔をした二つ下の院生に絡まれて、裕太は苦笑いを零す。
「飲んでるよー」
と適当にあしらうと、
「だめっスよ! そんなに冷静じゃ! ビール飲んで飲んで!」
と、ビールのビンを差し出された。
「てか、箕輪、お前なってない。先輩に注ぐときは、まず自分が飲んでからだろう、グラスもってこい」
 裕太の隣で比較的、おとなしく飲んでいた、同期の谷畑が箕輪をどつくと、随分とよっぱらっているのだろう、はいっ! と敬礼しながら箕輪はフリスビーを取って戻る犬のようにグラスを取ってきた。裕太から一杯、谷畑から一杯ビールを注がれて、それを飲み干し、途端に、
「ギブギブ、ちょっと休憩」
と箕輪はトイレに逃げていってしまう。自分が注ぎに来たことなど、すっかり忘れているようだった。それを見ながら裕太は谷畑と笑う。
「若いなあ」
「一宮、二つしか違わないのにそういうこと言うなよ〜」
と、情けない声で谷畑が言うから、裕太は尚更、声を立てて笑った。飲み会は嫌いじゃない。この賑やかな雰囲気が、研究室に入ったときから裕太は気に入っていた。
「まあ、でも、ウチの研究室の飲み会も、随分大人しくなったよな」
 以前は、もっと無茶な飲み方をしていたような気がする、と裕太が独り言のように零すと、谷畑はどこか寂しそうにも見える笑みを浮かべながら、
「イチコとかいたしな、酒に強い人多かったよな」
と答えた。そんな所に時間の経過を覚え、懐かしさを感じること自体、年を取った証拠なのかなとも思う。
「自分で決めたことだけど、最後まで研究室に残るのって、なんか、置いてきぼりにされた感じしねえ?」
 谷畑がぼやくように言った言葉に、裕太は少しだけ驚いた。
「あ、やっぱり、タニもそう感じることあるんだ」
「思うよ。結局、一宮と俺だけだろ、残ってんの」
「まあ、就職するほうが多いのは当たり前だけど」
 そうなんだけどよーと、ボヤいて谷畑は手酌でビールをグラスに注いだ。今が悪いとは言わない。谷畑が言ったように自分で決めたことだし、研究自体には不満など無い。それでも、時々、見えないところに刺さった小さな棘のように感じることがある。学部生、院生だったときは楽しかったな、と。けれども、裕太はそこで思考を止めた。それ以上、考えることは、今の裕太には芳しくないことだからだ。
「俺、向こうのテーブル行ってビール注いで来る」
「お、がんばるね。返り討ちにあうなよ?」
 それ、を振り切るように裕太は立ち上がった。明るい、楽しい雰囲気だ。この雰囲気が、自分は好きなはずだ。楽しいはずだと、まるで言い聞かせるようにして裕太は笑いを浮かべた。いつもと同じ、何も変わらない。呪文のように、心の中で繰り返しながら。



***


 ほどほどに盛り上がって、打ち上げはお開きになった。ガヤガヤと騒がしく店の入り口に固まったまま、やれ、二次会はどうする、帰る奴は一緒に駅にだとか話している。裕太は少しだけ迷って、帰ることに決めた。誰かと一緒に帰る気分でもなかったので、適当に挨拶を済ませて、一人で歩き始める。
 週末の繁華街を歩きながら、煌びやかに光っているネオンを取り留めなく見上げた。冷たい風が、不意に吹き抜けて、裕太は身震いする。あ、と思ったときにはコップから水が溢れるようにそれが不意打ちで襲ってきた。
 何も今に始まったことではない。時々、こんな風に感じることは以前からあった。飲み会の後に家へ帰るとき、言いようの無い寂しさがこみ上げてくることがある。けれども、今裕太が感じているのは、いつものそれとは、比べ物にならないほど強烈だった。

 飲み会の帰りに、裕太が一人になることはあまりなかった。大抵、隣には誰かがいて、そして、大抵、そのまま同じ場所へ帰っていた。もしかしたら、隣の彼も、裕太と同じような寂しさを感じていて、だから、無意識に一緒にいたのかもしれない。酔った振りをして、人通りのある場所で手を繋いだり、肩を抱かれたこともある。その熱を、不意に思い出して、裕太は、グウと喉の奥を鳴らした。
 俺と別れたらどうなると思う、と蓮川は裕太に聞いた。裕太は、三日三晩泣いて、それから普通に大学に行くといった。何も変わらないと。確かにその通りだ。恋人と別れても、毎日朝は来る。大学にも行くし、普通に食べて、寝て、適当に遊んで、笑っている。それは嘘ではない。当然、死んだりもしないし、呼吸が止まるわけでもない。
 蓮川と別れた後、裕太は、自分でも不思議なほど何も感じていなかった。感じていなかったというと嘘になるかもしれない。ある種の虚脱感は、常に付きまとっていたから。それでも、辛いだとか、悲しいだとか、あまり感じなかったような気がするのだ。だから、自分はさしてダメージを受けていないとさえ裕太は思った。けれど、それは大きな思い違いだ。
 寂しさは、遅効性の毒のようなものだ。ジワジワと少しずつ、少しずつ、胸の裡を浸蝕していく。
 涙だけは零すまいと、裕太は奥歯に力を入れて必死に堪える。それでも、喉の奥が嫌な音を立てて痙攣するように震えた。
 恋人と別れても、死んだりもしないし、呼吸が止まったりもしない。それは本当だけれど。









 死んでしまうかと思うほど苦しくて、呼吸が止まりそうなほど寂しい。





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