Do you love me ? - 4 …………… |
蓮川から連絡が来たのは、それからすぐのことだった。一緒にドライブに出かけてから一週間後の週末。平日は仕事が忙しくてそれどころではないのだろう。それでも週末は自分と一緒に過ごしたいと思ってくれているのかと裕太は、嬉しかった。 金曜日の夜に落ち合って、夕食を食べて蓮川のマンションに行く。くつろいだ時間を過ごして、セックスをして、ベッドで一緒に眠った。とりたてて、何も変わらない。一志は警告めいたことを裕太に伝えたけれど、その日の蓮川は、いつもと同じように見えた。ただ、少しだけ、いつもより優しいような気がする。けれども、それは、蓮川が先に社会人になってからずっとそうだった部分で、今、初めてそう感じたわけではない。 だから、裕太はほっとした。何も変わらない、穏やかな関係。それが続いていくと思っていた。 初夏を過ぎ、梅雨に入っても、一週間に一度会うペースが続いて、時折、他愛の無いことで喧嘩をすることもあったけれど、大概が上手くいっていた。蓮川に、初めてその場所に誘われたのは、梅雨が明けた七月の始めの事だった。 付いてきて欲しい、と言葉少なに連れて行かれたのは、郊外にあるお寺だった。用事があったのは、その寺に近接している墓地だ。その中の、小さな、どちらかというと粗末な墓の前に連れて行かれて、裕太はすぐに分かった。書いてあるのは『蓮川』の姓と、その下には女性の名前。 「もしかして、お母さんの?」 その時ばかりは、裕太のほうには顔を向けず、ただ少しだけ遠い目でその小さなお墓を見つめながら蓮川は、 「ああ」 と短く答えた。蓮川は手馴れた様子で、墓を掃除し、花を供え、ろうそくと線香に火をつけた。からりと晴れ上がった空に、細い線香の煙がゆらゆらと立ち上っていく。穏やかなその香りに、裕太は無意識に小さな息を吐き出した。 「俺の家、ちょっと複雑でさ」 裕太の目を見ることなく、ただ、じっと前を向いたまま蓮川は独り言のように話す。珍しく、少しだけ戸惑いを含んでいるかのような声音だった。裕太はハッとする。今まで聞いたことの無いその口調に、にわかに緊張した。 「涼子さんとかに、ちょっと聞いたことあるんだっけ?」 「……あ、うん。ほんとに、ちょとだけだけど」 「そうか」 蓮川はそこで一旦、言葉を切り、視線を上に上げる。何も無い、青い空をしばらく見上げて、やはり、何かに逡巡しているようだった。 「俺の母親は十八で俺を生んだんだ」 「……早いね」 「だろうな。結局、高校は中退しちまったし。そのせいで、オヤとの関係は劣悪になったし」 「……そう、なんだ」 「母親の父親ってのが、これまた、昭和時代の化石みたいな人で、ホント、最悪だったらしいよ」 苦笑いを零しながら蓮川は話しているけれど、その目は決して笑ってはいない。苦いとも、辛いとも取れない、複雑な瞳の色だった。 「俺には厳しい祖父だったけど、それでも優しかった。俺が剣道やってたのは、祖父が、剣道の師範代だったからなんだけどな。母親も、ずっと同じように剣道を続けてて、高校で全国大会上位に行くくらい強かったらしい。祖父は、かなり母親に期待してたらしいけど、だから、余計にそういうのが許せなかったんだろうな。 俺、小さい頃は、母親とボロいアパートに二人暮らしだったんだぜ? あんまりよく覚えてないけど」 口調は淡々としている。けれども、その表情は、どこか、まだ、何かをふっ切れていないように見えて、裕太は胸が痛んだ。無意識にそっと手を伸ばし、蓮川の手を取る。それに気が付いた蓮川は、フッと裕太に視線を移し、それから、気持ち表情を和らげた。 「途中から、祖父母の家に連れ戻されたけど。やっぱり、母親と祖父の関係は悪いままだったな」 「……どんなお母さんだったの?」 「……綺麗な人だったよ。潔くて強い人だった。いつでも背筋をピンと伸ばしていて、横顔の凛とした人ってイメージが一番強い。でも、馬鹿だった。いつまでも、ずっと、あのロクデナシのクズを待ってるような」 そこまで言って、蓮川は何を思ったのか、スッとさりげなく裕太の手を離した。裕太は一瞬だけ、ヒヤリとする。とりたてて意味など無い行動のはずだ。それなのに、何かを拒絶された、そんな気がした。 「……裕太は俺の事、どう思ってんだか知らねーけど。俺は、ちゃんと誰かと付き合ってる時は、浮気したこと無いよ。二股も絶対しない。自分じゃ意識してなかったけど、きっと、母親をずっと見てきたから、自分が誰かに、そんな思いをさせるのが嫌だったんだな」 ジジジ、と不意に蝉が鳴き始める。裕太が所在無く見上げた空は、どこまでも青くて高かった。 そのことを、裕太はどこかで知っていたような気がする。確かに蓮川はいつでも飄々としているし、駆け引きめいた意地悪を仕掛けることもある。見せ付けるように裕太が見ていると知っていながら女と絡んだりもするけれど、本当に決定的な何かを裕太が見つけたことは、四年付き合ってきて一度も無かった。裕太が鈍いから見つけられなかったのだとは思わない。多分、きっと、今、蓮川が言っていることは真実なのだろう。それなのに、裕太は、それが嬉しいとは思えなかった。何かが胸の中にわだかまって、解けない。それは一体、何なのだろう。 蓮川を信じるとか信じないとかいう次元の話ではなく、裕太は、蓮川と付き合ってきて、常に、安心できなかった。それは、蓮川自身のせいではなくて、自分の中の何かが原因なのではないかと、裕太はようやく思い当たった。けれども、その先の答えを考える前に、蓮川が続けた言葉に、思考を中断させられる。 「……でも、そう思っていながら、俺は、どこかで母親のようにはなりたくないとも思っていたのかもしれない」 「え?」 遠い目をして、独り言のように蓮川は呟いた。その意味を図りかねて、裕太はじっと蓮川の横顔を見つめる。けれども、やはり、蓮川は裕太のほうに視線を寄越しはしなかった。 「誰かを本気で好きになって、あんな風にいつまでも待ち続けるのは悲しすぎる。俺は、あんな風になりたくなかった」 だから、どこかで冷めた状態のまま、割り切りの良い恋愛ばかりをしてきたのだろうか。そんなニュアンスの事を、裕太は、涼子から聞いたことがあった。 でも、今は? そう思って、裕太は焦れた気持ちで蓮川の言葉の続きを待った。今は違うのだと、はっきりとした言葉でなくても良い。ほんの少しで良いから、今は違うのだと否定して欲しかった。けれども、いつまで待っても、蓮川は、裕太の欲しかった言葉をくれない。ただ、二人黙り込んだまま立ち尽くし、いい加減、沈黙に耐え切れなくなった頃に、 「そろそろ帰ろう」 と蓮川に促されて、結局、その会話は、そのままで終わってしまった。 ジワリと紙にインクが広がるように、裕太の中に言い様の無い不安が広がる。普段と変わらないと思っていた蓮川が、もしかしたら、何かの変化を兆しているのだろうかと、ようやく気が付いたのは、この時だった。 「蓮川」 車に乗り込む直前に、思わず、裕太は蓮川を呼び止める。何、と振り返った蓮川の顔は、いつもと同じようにも見えたけれど。裕太は、何も続きの言葉が言えなかった。簡単な言葉だ。お前がどう思っていようと、俺はお前が好きなのだと、ただ伝えようとしただけなのに、その言葉が出ない。喉でつっかえたまま、結局、外に吐き出せなかった言葉は、不安と混ざり合って、裕太の胸の奥のほうに、濁った澱として沈んでいく。そして、そのままだった。 結局、裕太が言ったのは。 「いや。なんでもない」 という、意味の無い一言、それだけだった。 *** 黒い画面に緑の波形が動いている。点滅する数値をぼんやりと眺めながら、裕太の手は少し前に止まったばかりだった。特に行き着く先があるわけではない思考は、あちこちをさまよう。思い出すのは、不安を掻き立てるあれこればかりだった。 「まだ使う?」 少しばかり苛立ったような声が聞こえて、裕太はようやくハッと我にかえる。 「測定器、次使いたいんだけど?」 振り返ると実験用の白衣を身に着けたイチコが立っていた。 「ああ、久しぶり。今日、来る日だっけ?」 「違うんだけど。澤田先生が、どうしてもこの日しか空けられないって予定変更したのよ。こっちにしかソレないから、測定していかなくちゃなんだけど。まだ、終わらない?」 「いや。もう終わった。今、代わる」 裕太が筆記用具をまとめながら椅子を立ち上がると、イチコは、何か含みのあるような笑みをクスリともらした。 「相変わらず、顔に全部出るヤツね。裕太。アンタ、今夜暇なの?」 「あと一つ測定終わらせたら、一応、何も予定無いけど」 「そ。じゃ、飲みに行きましょ。付き合いなさい」 有無を言わせぬ口調で言われて、裕太はしぶしぶ首を縦に振った。正直に言えば、あまり外に出たい気分ではなかった。それでも、鬱々と一人でいるよりはましなのかもしれない。平日はどのみち、蓮川と会う予定もないし、イチコと会うのも数週間ぶりだ。 「明日、報告会あるから、あんまり遅くまでは無理だぞ」 「構わないわよ」 すでに測定器の設定を始め、裕太に背を向けたままイチコはひらひらと手を振る。あまりに、いつもと変わらぬ態度のイチコに裕太はふっと肩の力が抜け、思わず苦笑いを漏らした。 「じゃあ、また後でな」 そういい残して測定室を後にした。 「どこに行く?」 「居酒屋? バーの方が良ければ、そっちでも良いけど」 「そうね。日本酒飲みたい気分だから、居酒屋が良いわ」 二人で大学を出たのは、夜の七時を少し回った時刻だった。それでも、外はムッとする熱気が立ち込めている。熱帯夜になりそうな、そんな空気だった。 「で?」 並んで歩きながら、店に向かっている途中でイチコは唐突に切り出した。 「え?」 「何かあった? って、アンタが、そういう顔するのって十中八九、蓮川が原因なんだろうけど?」 尋ねられて、裕太は黙り込んでしまう。答えたくないわけではなく、何と答えて良いのか分からない、というのが正直なところだった。実際、蓮川とは何があったわけではない。喧嘩をしたわけでもなければ、重大な事件が起こったわけでもない。ただ、上手く説明できないもやもやとしたものが、ずっと胸の奥のほうに巣食っている。 「めーずらしい」 茶化すようにイチコは言うと、ころころと軽い声で笑った。 「何が?」 「うん? いつもだったら、蓮川がどーした、こーしたってプンスカ文句言う裕太が黙り込むから。もしかして、深刻なことになってる?」 「いや、そういう訳じゃないけど」 「じゃ、何よ?」 どうしても、イチコに理路整然と説明できる気がしなくて、やはり裕太は黙り込む。ふと、自分は、一体、どれだけ蓮川の事を理解しているのだろうかと疑問に思った。 「……蓮川って、時々、何考えてるか分からなくなる」 ぽつりと零してしまった言葉は、自分でも焦ってしまうくらい、心細い口調に聞こえた。恐らく、イチコもそれに気が付いたのだろう。心持ち、表情を緩めて、裕太の顔を見つめる。 「そうね。基本的に、アンタ達って人種が違うって感じだしね。裕太が分からなくても仕方ないと思うけど。でも、それでも好きだから一緒にいるんでしょ?」 普段なら面白がって、裕太と蓮川の中が更に拗れるようなことを煽るイチコだったが、今日は違った。もしかしたら、それだけ、裕太が不安そうに見えたのかもしれない。 「そうなんだけど……でも、あんまり分からないと、不安になる」 「……まあねえ、分からなくもないけど。それでなくても、蓮川はアンタに弱味見せようとしない奴だしね」 イチコの言葉に、ふ、と裕太は疑問が浮かぶ。確かに、蓮川はあまり裕太に弱味を見せようとはしない。一志などは、アイツはええかっこしぃだからだ、と言うけれど、それならば、蓮川は誰かに弱味を見せることがあるのだろうか、と。 基本的に、蓮川は猫被りだ。よほど気を許していなければ、その本性を見せようとはしない。そつなく、当たり障り無く、穏和で、飄々とした態度を誰にでも取っている。蓮川が誰かに甘えたり、頼ったりしているところを、裕太は殆ど見たことが無い。そこまで考えて、思考がクズリと歪む。そして、タイミングの悪いことというのは、大抵、重なって起こるものなのだ。 「あら?」 と、先に、それに気が付いたのはイチコだった。裕太は考え事をしていたせいで、あまり、周囲に気を配っていなかった。だから、少し、遅れた。イチコの声に反射的に視線を上げたその先には、見慣れた背中がある。相変わらず、背筋の伸びた綺麗な姿勢だと、裕太はどこか他人事のようにぼんやり思う。その背中に、酷く自然に寄り添う人。小さな華奢な体なのに、その人の背中もピンと伸びていて、嫌でも、裕太はそれが誰なのか分かってしまった。たった一度しか、会ったことの無い人なのに。 「良いの? 蓮川、浮気してるわよ?」 からかうように笑ってイチコは言ったけれど、裕太の顔を見たとたんに、スッとその笑いを消した。そして、裕太のように、もう一度、並んで歩いている蓮川とその人を見つめる。 裕太は、ただ、呆然と立ち尽くしたまま二人を見つめ続けた。次第に遠ざかっていく背中。駆け寄って声を掛ければ良いのに、足が石になってしまったかのように動かない。知らず、喉がからからに乾いて、呼吸が不快に感じた。 「声掛けないの? 行っちゃうけど?」 いつものイチコらしからぬ、どこか冷たさを感じる声で言われても、やはり、裕太は動くことが出来なかった。 「……良い。別に、今日は約束してたわけじゃないし」 そうだ。平日は仕事が忙しいと思って、約束をしていなかった。週末にだけ会う生活が続いていたから、そもそも、裕太には平日に蓮川に会うという選択肢さえ思い浮かばなかったのだ。約束をしていない日に、蓮川が何をしていようと、誰と会っていようと、それは、蓮川の勝手だ。そう自分に言い聞かせようとしているのに。 「そういう問題じゃないでしょ。前から気になってたけど……ホントに肝心なことになると口を噤むのは裕太も同じね」 「……そんなこと……」 「無かったら、すぐに走って行って蓮川をとっ捕まえて問い詰めるわよね? アンタの顔、どう見たって納得してるようには見えない。もしかして、知ってる女?」 イチコの鋭さに閉口して、裕太は立ち止まったまま俯く。その態度こそが肯定だとイチコには簡単に伝わってしまっただろう。それでも、裕太はしばらく、何も言うことができなかった。 偶然会っただけかもしれない。たまたま、今日、偶然に。そう思い込もうとしても上手くいかなかった。ついさっき、遠目に見えた蓮川の表情は。 裕太が、今まで一度も見たことの無い、どこか安心した無防備な少年のようなそれだった。 |