Do you love me ? - 3 …………… |
裕太は、店のドアの前で躊躇していた。何度か来た事のある店だが、いつも蓮川と一緒だった。一人で来たのは初めてだ。そもそも、ここに一人で来ると蓮川は良い顔をしないのだ。だから、よほどの事がなければ、裕太はこの店に一人では来なかったのだけれど。 小さなため息を一つつく。大学で一通り研究を終わらせてきたから、遅い時間帯だった。だが、この眠らない街は人通りの途絶えることが無い。きらびやかなネオンと喧騒。行きかう人々は、普段、裕太が付き合っている人種とは少しばかり異なるような気がした。 ドアノブにそっと手をかける。目的の人物はいるだろうか。多分、いるだろう。蓮川がどうしても嫌だと言って逃げたものを、彼が引き受けたと聞いたのはいつだったか。 ゆっくりとドアを開ける。たった一枚、ドアを隔てただけの向こう側はまるで別世界だった。青を基調としたライト。邪魔にならない程度の、ジャズ音楽。人の声が途絶えることは無いが、それでも、うるさいとは感じない。落ち着いた店内。時折、笑い声や歓声が上がったりもするけれど、それも耳障りだとは思わなかった。 入り口付近でぼんやりと店内を見回していると、すぐに、店員が寄ってくる。裕太の知らない顔だから、恐らく、新しいスタッフなのだろう。彼は、裕太の姿を上から下まで眺めるなり、あからさまに、訝しげな表情をした。それもそうだろうなと、裕太は苦笑いを零す。シャツにジーンズのラフな格好。裕太は、あまりに、この場所に不釣合いだ。 「失礼ですが」 と慇懃無礼に話しかけられて、裕太が返事をするよりも先に、 「ユータ?」 と奥から声を掛けられた。裕太はホッとして、こちらに早足で近づいてくる人物に笑いかける。 「一志」 その名を呼ぶと、彼は少しだけ照れたような、困ったような表情を裕太に見せた。 「あの……」 すっかり追い出すつもりでいただろう、新人スタッフが困惑した表情で自分の上司と裕太を交互に見比べる。 「俺の愛人だから。VIP扱いしろよ」 と、一志が脅すように言ったから、裕太はやっと声を立てて笑った。一志は調子に乗って裕太の腰を抱く。普段なら、大抵、ここで蓮川が一志に蹴りを入れるのだが今は、その蓮川もいない。新人スタッフの青年が目を丸くして見ているのがおかしくて、裕太もつい、調子に乗ってしまった。 「よろしくねー。一志が浮気したら教えて?」 裕太が言えば、今度は、一志が楽しそうに声を立てて笑った。 固まったままの青年を放ったらかしで、一志に誘われるまま店内の奥まで進む。週末の夜だからか、ほぼ満席の状態で、店は盛況のようだった。 「……はやってンな」 感心したように裕太は漏らす。確か、開店してまだ二ヶ月のはずだ。 「まあな、なんとかやってるよ。赤字出した時点で潰すとか脅されてるから、こっちも必死」 だが、言葉の割に一志は飄々としている。この年にしては驚くほど一志は肝が据わっているし、落ち着いた安定感があった。だから、時々、裕太はこうして一志に頼ってしまうのだ。それを、蓮川が快く思っていないことを知っていても。 「でも、店をまるまる一つ任されるなんてスゲーよ」 本気で裕太が褒めると一志は照れの混じった苦笑いを零し、裕太の髪をグシャグシャとかき回した。店内の一番奥のボックス席に誘われて、そこに座る。恐ろしくすわり心地の良いソファーだった。それだけでも、いかに金が使われている店なのかが分かる。 「今日は、お袋来る日だから、裕太がいると喜ぶぜ、きっと」 何も言わなくても用意されたカクテルを受け取りながら、裕太は頷く。 「涼子さん、元気?」 「元気も元気。俺がポカしねーか見張ってて、スッゲーうるせえ」 「涼子さんも母親なんだろ。心配なんだよ」 フォローするように裕太が言えば、一志は肩を竦めて、 「それが余計なお世話なんだよ。大体、この店持つ前から、実質俺が仕切ってる店だって何件かあるんだから」 とブツクサ文句を言っていた。 「逃げたくならない?」 思わず聞いてしまったのは、裕太自身が、いつもより弱っていたからかもしれない。しまった、と思ったときには遅かった。一志はその一言を聞き逃してはくれなかった。すっと表情を消して裕太の顔を見つめてくる。それは、いつもの裕太が知っている一志の顔ではなかった。 一志と蓮川は対照的だ。半分だけ血の繋がった兄弟のはずだけれど、あまりにも似ていない。外見だけなら蓮川の方があっさりとした顔立ちで、一志はどちらかというと野生的で精悍な顔だから、蓮川の方が穏やかそうに見えるが、その本質は逆だと裕太は思う。硬軟でいうならむしろ蓮川が硬質で、一志の方が柔軟。けれども、時々、一志ははっとするような一面も見せる。何かを切って捨てるときの潔さが、怖いと思ったことが裕太は何度かあった。だが、それが自分に向けられたことは無い。一志は、大抵、裕太を甘やかす。まるで自分が飼っている猫か何かと勘違いしているのではないかと思うくらい。蓮川はそれを嫌っているけれど、実は、正直、裕太はそれが心地よかった。恋愛感情は全く無いけれど、好きか嫌いかで言えば、裕太は一志が好きなのだ。それでも、一志にだって触れられたくない場所はある。その場所に、今、自分は触れてしまったのだと裕太は後悔したけれど。 「要となんかあった?」 ふっと表情を和らげて、一志は話を変えるように尋ねる。急な変化に戸惑いながらも、裕太は素直に首を縦に振った。気持ちを整理しようと、目の前のカクテルに口をつける。グラスの縁の塩が、舌に痛みに近い刺激を与えた。 「……別に何かって程じゃない。喧嘩したわけでもないし。ただ……」 上手く説明できずに顔を上げると、存外、真面目な顔で自分を見つめている一志の視線とぶつかった。 「ただ?」 「……一志。菜理子って名前、知ってる?」 迷いながら裕太がその名前を口にすると、一志は眉を顰めた。 「……なんで、その名前をユータが知ってんだ?」 一志が返した反応は、裕太が心のどこかで期待していたものとは正反対だった。知らない、誰、それ、と一志が答えてくれたなら。きっと、裕太は、それ以上、気にしたりしなかっただろう。 「……この間、蓮川と出かけたときに、偶然会った」 「ふーん……要はなんつってたの?」 「昔……高校生の頃に付き合ってた人だって。今は、もう忘れてた人だって、言ってたけど」 言いづらそうに裕太が答えると、一志は不意に黙り込み、じっと手元にあったグラスを見つめたまま動かなかった。視線はグラスにあるけれど、本当は、もっと別の遠いものを見ているような目。ふ、と裕太は初めて一志と蓮川が似ている、と思った。ごくまれに、蓮川も、こんな目をすることがある。 「ユータ。俺は断言するけどな」 グラスを見つめ続けたまま、一志は不意に話し始める。優しくも冷たくも聞こえる、その不思議な口調に裕太はうんと相槌を打った。 「絶対、俺の方が要よりセックスは上手いと思う」 「…………………………は?」 だが、続いた言葉を聞いた途端、裕太は間抜けにもポカンと口を開いた。真面目な話だと身構えていたから、余計に、拍子抜けしたのだ。 「男だからな。そりゃ、もちろん、突っ込んで出すのは気持ち良いけど、俺はそれよりも、相手を気持ちよくするのが好きだ」 一体、何の話を始めたのだろうと呆気に取られている裕太をよそに、一志は一人でうんうんと頷きながら勝手に話を進める。 「でも、要は違う。何が一番セックスで良いかって聞いたら、アイツは、相手が全部自分に明け渡して、さらけ出して、許してって泣くのが良いって言ったんだ。俺は、それを聞いたとき、コイツはサドなのかと思ったが、そうじゃない」 ふざけた話なのかと思えば、ことのほか一志は真面目な表情で話していた。一旦言葉を切り、それから、ふ、と裕太に視線を移す。じっと見つめてくる真っ直ぐな視線は、ともすれば、裕太の何かを試しているようにも見えた。 「人間って、必ず誰かと関わって生きてるよな。恋愛にしたって、相手がいて、何かを与えたり、与えられたりして一緒にいる。でも、バランスの良い人間なんてそうそういるもんじゃない。俺は、極端な話、二種類の人間がいると思う。与えるのが幸せだと思う人間と、与えられるのがそうだと思う人間と。要は、後者なんだよ。本人が気が付いているかどうかは分からないけど。だから、セックスに対してのスタンスが、そうなんだ。常に、相手から与えられたがってる。無理に奪おうとする」 そこまで聞いて、裕太はようやく気が付く。一志は、何かの示唆を裕太に与えようとしているのだと。けれども、なぜ、そういう話の流れになったのかが分からない。少しだけ、さかのぼって、ふ、と思いついた。 「………菜理子さんは?」 それを聞くのは酷く怖かった。その証拠に裕太の声は明らかに震えていた。一志は、じっと裕太の目を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。 「言っておくけど。俺は、あの女は好きじゃない。あの女は……菜理子は、偽善ではなく聖母みたいな所があった。与えて、与えて、与え尽くして。自分が満足したら、次の子羊を探しにいくような」 言いづらそうに言葉を繋げる一志をぼんやりと眺めながら、裕太はその意味を咀嚼する。与えられたがりの蓮川と、与えつくす菜理子。それは、一体、どういう組み合わせだったのだろうか。 「ぞっとしないだろ? 俺だったら、絶対に嫌だね。そんな女と付き合ったら、トラウマになる」 茶化すように一志は笑ったけれど、裕太は手の震えを抑えられなかった。右手で左手を覆うように手を握り締める。ぼんやりと目の前においてあるグラスを眺めながら、小さな声で聞いた。 「……一志は、蓮川が菜理子さんとヨリを戻すって言いたいの?」 「いや、それは無いだろ」 「え?」 意を決して聞いたはずの質問に、けれども、一志はあっけらかんとした口調で否と答えた。 「過去の話だって要は言ったんだろ? それは嘘じゃないと思うぜ。それに、多分、裕太が思ってるより要は裕太にベタ惚れだしな」 一志の言葉に裕太は混乱する。 「……それじゃあ、一志は俺に何を言いたいんだよ?」 「うん? うーん。要ってスッゲー猫被りだろ? ポーカーフェイスも得意だし、いつも淡々としてるし。でも、じゃあ、本当に本当の内側も安定してるかっていったら、俺は、そうじゃないと思う。案外、あいつって精神的にはヤワだぜ。だから、菜理子とヨリを戻すとかそういう話じゃなくて、過去をほじくり返されたせいで精神バランスを崩すんじゃないかってこと。 俺はさ、ちゃらんぽらんでいい加減な男だけど、それでも一応、きょーだい愛とかある訳よ。要はどうだか知らねーけどな。だから、どんなにユータが美味そうでも、本気で手は出さないし、親父の仕事も、俺が引き継ぐことにした。 でも、ユータは他人だ。切って捨てようと思ったら、要の事は捨てられる。それでも、俺は、要のそういう部分をユータが理解して、捨てないでくれたら良いと思ってる」 そこまで言い切ると、一志は照れくさそうに笑った。明るい、ほっとするような笑顔だった。裕太は、ようやく握り締めていた手の力を緩めて、小さく肩を竦める。 「……捨てないと思うよ。多分、一志が思ってるより、俺は蓮川にベタ惚れだと思うし」 わざとのろけるような言葉を選んで裕太が告げると、一志は尚更笑って、 「ごちそーさん」 と、裕太の頭をグシャグシャとかき回した。 「ちなみに、参考までに一志に聞きたいんだけど」 「何だ?」 「俺って、どっちに見える? 与えるのが幸せな人間? 与えられるのが幸せな人間?」 軽いノリで尋ねたけれど、案外、裕太は本気だった。一志は顎に手を当てて、しばらく考える振りをしていたけれど。 「お前と出会ってから、ずっと考えてるけど、イマイチ、分からん」 返ってきたのは、そんな曖昧な言葉だった。 |