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お医者様でも草津の湯でもC …………
 連れて行かれた『裏』というのは案外まともな部屋だった。ちょっとしたビジネスホテルの一室のような雰囲気で、違うのはベッドがパイプベッドである点くらいだ。
 裕太は、そのベッドに座らされ、左にイチコ、右に楠田に立たれて見下ろされている。
 裕太は酔いの抜けきらない頭で、一生懸命この場から逃げる方法を思案していた。
 けれど、そのどれもが、頭の中でシミュレーションしてみても上手く行かない。冷や汗をたらしながら、当って砕けろとばかりに、真っ向から正直に談判する覚悟を決めた。
「お・・・俺、帰っちゃダメ?」
「何言ってんのよ。楠田とヤるんでしょ?」
「いや、だから、俺は一度もヤるなんて言ってな・・・」
「煩いわね。ガタガタ言うんじゃないわよ。だいたい、アンタ、あんなに蓮川にコケにされまくって腹が立たないワケ? あっちがその気なら、こっちだって浮気してやれば良いのよ」
 珍しく、本気でイラ付いたようにイチコは捲くし立てる。そうは言っても、この件に関して裕太は「目には目を、歯には歯を」という気持ちにはなれなかった。
「それに・・・蓮川、来ないと思うし・・・・」
「あら。来るわよ。もっとも、15分じゃ間に合わないでしょうけどね。ヤってる最中のユウタと楠田をあのクソ野郎に見せるのが目的なんだから、来てもらわなくちゃ困るわ」
 さらりととんでもない事を言うイチコに、裕太は血の気が失せるような錯覚に陥った。何を思ってイチコがそんな事をしようとしているのかは分からなかったが、そんな事をされたら甚だ困る、と思った。
「来ないよ! 蓮川来ないから俺帰るって!」
「煩いって言ってんでしょ。じゃ賭ける? 蓮川が来たら、アンタ、アタシの言う事何でも一つ聞きなさいよ!」
 必死に言い募っても、イチコは取り合おうとしない。勝手に、一方的に約束を取り付けてジロリと裕太を睨みつけた。なまじイチコは美人で、顔が整っているのでそんな風に睨みつけられると迫力がある。女性相手なのに、裕太は情けなくも、思わず怯んでしまった。助けを求めるように、今度は楠田を上目遣いで見やる。この辺りが、裕太の学習能力の無さを表しているのだが、裕太自身は気が付くはずも無い。
 楠田は、にっこり裕太に笑いかけると、
「大丈夫。俺、上手だよ。多分、要より気持ち良いと思う。そんな目で見上げちゃって、誘ってるのかな? まだ、15分経ってないけど始めちゃう?」
と、事も無げに言い放った。裕太は、それを聞いてブンブンと首を激しく横に振る。時計を見れば、既に十分が経過していた。
 本気でヤるつもりなのか、と、いよいよ裕太は焦り始める。いっそ、強引に逃げ出してしまおうかとも思ったが、失敗して掴まったなら目も当てられない。お仕置きと称して、イチコに何をされるか分かったものではなかった。
 そもそも、イチコはその外見と裏腹に、空手と柔道の有段者なのだ。運動神経も、反射神経もかなり良い。そんなイチコの横をすり抜けて、逃げられる可能性はかなり低かった。
 あとは、蓮川が15分以内に来る事を願うばかりだが、実際のところ裕太は蓮川が来るとは思っていなかった。別に、自分が誰と寝ようが、あの男は気にしないだろう、と。
 そこまで考えて、気分が塞ぎこむ。本当に、自分は救いようが無いと呆れた。
 何度も自分に言い聞かせて、分かっているつもりになっているのに、いつだって同じところで躓いて、同じところで傷ついてしまう。蓮川なんてロクデナシを好きになった時から、見返りだとか、同じだけの気持ちだとかそんなものは諦めているはずなのに。
 考えれば考えるほど情けなくなって、惨めになって、段々と涙が眦に溜まってくる。自分はこんな泣き虫じゃなかったはずなのに、蓮川と知り合ってからは泣いてばかりだと、ますます情けなくなった。
「何よ? アンタ泣いてるの?」
 先程よりも剣を引っ込めた声でイチコに尋ねられ、裕太は首を横に振る。こんなことで泣くなんて馬鹿馬鹿しい、と思いながらも視界はどんどん歪んでいった。
「・・・困ったなあ・・・泣いてる顔も可愛いんだ。俺、本気になりそう」
 楠田が茶化すように、けれども優しい口調で言って、裕太の目線まで降りてくる。そして、すっと親指で裕太の涙を拭った。
「蓮川は、絶対来ないよ。俺のことなんて、どうでも良いんだもん。俺が誰と何しようと、アイツは気にしない」
 鼻声になりながら小さく呟けば、イチコは呆れたように深々と溜息を吐いた。
「そう言うなら、別に楠田とヤっても問題ないでしょ?」
「俺、好きじゃない奴とセックスしたくない」
 つまり、蓮川の事が好きなのだと馬鹿正直に白状してしまったという事に裕太は気がついていない。酔いがまだ残っていたし、感情的になっていたせいだ。
「じゃ、蓮川が別の奴とヤるのは良いの?」
「良いわけない。良いわけないけど、するななんて言えない」
「何でよ?」
「だって・・・」
 そこまで言うと、もう、何もかもが抑えきれなくて裕太はボロボロと涙を零してしまう。
「だって、蓮川は俺のこと、セフレだって言ってるし。嫉妬したりして、みっともないこと言って、鬱陶しがられたり、嫌がられたら困る」
 まるで意地っ張りの子供がそうするように、裕太は乱暴に自分の腕で涙を拭った。今更、イチコと楠田の前で体裁もへったくれもありはしなかったが、それでも、人前で泣くなどみっともないと思った。
 イチコはそんな裕太の姿を、呆れたように、けれどもどこか優しさを含んだ目で見詰めていたが。
「ですってよ。信じられないくらいケナゲな奴だわね。これ聞いて、何か言うことないの?」
 不意に、怒りのこもった声でそう言うと、踵を返して部屋の入り口の方を振り返る。裕太もつられて顔を上げて、息を呑んだ。
 らしくもなく、髪を乱して少し頬を上気させ、息を切らせている蓮川がいつの間にかそこに立っていたからだ。
「言っとくけどね。アタシは人の誠意だの一途さだのを平気で踏みにじる奴は大ッ嫌いなのよ。遊びを遊びだって割り切れる奴が相手なら良いわ。色ボケすんのもアンタの勝手だけどね」
 蓮川を真正面から睨みつけてイチコはそこまで捲くし立てる。それから、一旦言葉を切り、深く息を吸い込むと、蓮川の胸倉をグイと掴み上げた。
「あんまり、アタシを怒らせるんじゃ無いわよ?」
 恫喝するように言われて蓮川はその整った顔を歪め、眉根を寄せた。
「お前には関係の無い事だろ?」
「そうね。関係無いわ。でも、腹が立って我慢がならないのよ。言っておくけど、15分過ぎてるんだからね?」
 ふとイチコに指摘されてユウタは泣き腫らした目でぼんやりと時計を見やる。確かに、時間は17分経過しており、2分の遅刻だった。
「でも、何でこんなに早く来れたの?」
 裕太は思わず暢気にそんな事を聞いてしまった。蓮川の家からは、どんなに頑張っても30分は掛かるはずだ。蓮川は、緊迫した空気に似合わない間の抜けた質問をした裕太をきっと睨みつける。

「それはね。バイクですっ飛ばしてきたからです。一宮ユウタ君? うわ。エロい顔してんね、君」
 不意に、蓮川の後ろから声がして、裕太は驚いてしまった。ヒョイと、蓮川の脇から顔を出した男は、酷く男前だったが、眉毛が太く、彫りも深くてまるで蓮川とは対照的だ。一体、誰なのかと訝しげに裕太がその男を見ていると、蓮川は忌々しげに舌打ちをして、その男を乱暴に押しやる。
「一志は引っ込んでろよ。話がややこしくなる」
「へいへい。ま、どうでも良いけど、貸し一個な。あとで、ユウタ貸せよ」
「誰が貸すかよ!」
「バーカ。昔ッから兄のものは兄のもの、弟のものも兄のものって決まってんだよ」
「うるせえ! お前なんか、兄じゃねえ! 同い年の癖に何言ってやがる!」
 らしくもなく、柄の悪い口調で毒づく蓮川に裕太は驚いてしまった。こんな乱暴な口をきく蓮川を裕太は今まで一度も見た事が無かった。目をきょときょとさせて二人のやり取りを見ていたが、一志は、じゃあな、と背中を向けたまま手を振り、そのまま行ってしまった。

「ふん。涼子さんの店にいたってワケ。盲点だったわ」
「ユウタ、行くぞ」
 イチコの存在などはなから無視して、蓮川は強引に裕太の腕を掴み、引っ張ろうとする。イチコは、その手をピシャリと叩き落し、するりと、二人の間に体を滑り込ませた。
「15分過ぎてるって言ったでしょ? アンタにはユウタを連れて行く権利なんて無いっつーの」
「そもそも、勝手にコイツを連れ出したのはお前らだろ? 権利もへったくれもあるか」
「よく言うわね? 一週間もユウタのこと放ったらかしにして泣かせてたくせに。そんなに心配なら、ちゃんと首輪付けて目を光らせてろっての!」
「こんな危なっかしくて、フラフラしてる奴に首輪なんて付けられるわけないだろうが。付けられるなら、とっくに付けてる」

 裕太を無視して、激しく言い争いを始めてしまった二人に、裕太は困惑してしまう。何とか止めようと思ったが、ライオンと虎が喧嘩している間に割って入る勇気は、残念ながら裕太には無かった。
 楠田は、少し離れた場所で壁に背中を預け、腕を組んで楽しそうに二人のやり取りを見ている。完全に傍観を決め込んでいるようで、頼りにはならない。
 どうしたものか、と思って、裕太が目の前に仁王立ちしているイチコの背中に目をやると、イチコは不意に顔だけ振り返って、チラリと意味深な視線を裕太に投げた。
 それから、再び、蓮川のほうに向き直り、ゆっくりと口を開く。その顔には、人の悪い、いつもの笑顔が浮かんでいた。



「何言ってるのよ。ユウタに首輪を付けるのなんて、馬鹿馬鹿しいくらい簡単じゃないのよ」
 そう言って、蓮川を馬鹿にするように鼻で笑う。蓮川は、そのイチコの余裕たっぷりの表情に、訝しげな顔をした。



「『俺はユウタが好きだから、他の奴と遊ぶと面白くない、他の奴とは絶対遊ぶな。』って言えば良いだけよ。それだけで、この阿呆は馬鹿正直に、素直に言う事聞くわよ」






 イチコの言葉に、裕太は一瞬呆けたようにポカンとし、蓮川は逆に、カッと頬に血を上らせた。

 蓮川はいつだって、冷静で、顔色を変えない。
 動じない。

 そう思い込んでいたので、裕太はイチコの言葉よりも、蓮川の態度の方に酷く驚いてしまう。
 まるで、怒っているような、それでいて照れているような表情。
 蓮川の動揺した表情とは対照的に、イチコはしてやったりの顔をしている。蓮川は面白く無さそうに、チッと舌打ちをすると、イチコの横をすり抜けて裕太の前に立った。じっと、裕太を見下ろしているその顔は、まだ、少し赤味を帯びているようで、バツの悪い、悪戯が見つかった子供のように見えた。
「ユウタ。行くぞ」
 そう言って裕太に手を差し出す。先程のように強引な仕草ではなく、裕太が自分から手を取るのを待っている。ふと、裕太は、ベッド以外で蓮川に「一宮」ではなく「裕太」と呼ばれたのが初めてだということに気がついた。
 ぼんやりと、蓮川の顔を見上げながら、条件反射で手を差し出してしまう。
 蓮川はその手を強く握り締めると、裕太をベッドから引っ張り上げ、そのまま手を引いてイチコの脇を通り抜けた。今度は、イチコも、何も言わなかった。
 部屋を出る直前に、
「ユウタ」
と、静かに呼びかける。裕太が立ち止まってイチコの方を見れば、イチコは不思議な嬉しそうな顔で裕太を見ていた。
「賭け、アタシの勝ちだからね。あとで、ひとつ、何でもいうこと聞きなさいよ」
 何の話か分からない蓮川が後ろで訝しげに眉を顰めていたが。
 裕太は狐につままれたような表情で、コクリと頷いてそのまま手を引かれ、部屋を出て行った。



* * *


「案外、おせっかいなんだな。イチコも」
「別に」
「まあ、裕太が相手だと分からなくも無いけど」
 そう言いながら、楠田はからかうように笑っている。
 今度は、イチコが照れたように、少しだけ頬を紅く染め、
「悪かったわね。こんな茶番につき合わせて」
とぶっきらぼうに謝った。楠田は、相変わらず楽しそうに笑っている。
「いえいえ、役得だったからな。ま、また何かあったら呼んでよ」
「アタシも人の事言えた義理じゃないけど、アンタも大概節操ナシよね」
「そう? でも、人生楽しまないと損だろ?」
 そう言いながら、鼻歌でも歌い出しかねない楠田を見て、イチコは思わず溜息を一つ漏らす。


 相変わらず、食えない、読めない奴だと肩をすくめた。



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