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お医者様でも草津の湯でもB …………
 離れていく整った顔をじっと見詰める。裕太は呆然としたまま、やっぱり、何が起こったのかよく分かっていなかった。楠田にキスをされたのだ、という事実は分かる。けれど、それが意味するもっと深い何かについては、脳が考える事を拒否しているようだった。
「俺じゃダメ?」
 ひどく優しそうな笑みを浮かべながら楠田が尋ねてくる。少し高めのテナーボイスが甘く響く。

 オレジャ、ダメ?

 頭の中で言葉を繰り返してみても、やっぱり意味が分からなかった。
「オレだったら、ユウタをセフレだなんて言わないよ? ユウタだけを恋人にして大事にする」
 耳に息を吹きかけるように言われて、裕太は無意識にふるり、と体を振るわせた。不安げな眼差しを楠田に向けて、その優しげな瞳の中の真意を探ろうとする。
「え・・・と・・・冗談、なんだよね?」
 戸惑ったまま裕太が問えば、楠田は何がおかしいのか、ははは、と声を上げて笑った。
「そこが裕太の魅力なんだね。鈍感というか、無防備というか。要も大変だろうに」
 そうして、裕太には良く分からない事を言う。
「冗談じゃないよ。本気で口説いてるんだけどな。実は、要が店にユウタを連れてきたときに一目惚れしたんだって言ったら信じる?」
 イタズラな表情で尋ねられて、裕太はブンブンと首を横に振った。多分、自分はからかわれているのだろうと思ったら、少しだけ腹が立った。
「そんなの信じるワケ無いじゃん」
 怒ったように、拗ねたように言い返せば、不意に、素早い仕草でもう一度顎を取られてキスされた。
 掠め取るような手際の良いキスに裕太は呆気に取られ、唇が緩む。その隙を逃さずに入り込んできた舌は、やっぱり塩の味がした。
 嗚呼、そうか。さっきまで飲んでいたカクテルのせいか、と悠長な事を考えながら、意識が四散する。口の中を這い回るその潮の香りのする舌は、酷く器用だった。
 上顎を微妙な強さでくすぐったかと思うと、痛いくらいに強く舌を吸う。それに驚いていると、今度はねっとりと舌を絡み合わされて、飲み込みきれない唾液が口の端を伝って零れ落ちた。
 頭の芯がじんと痺れる。
 ぐるぐると世界が回っているような気がして、裕太は、その時になってようやく、自分が飲みすぎていたことに気が付いた。
 どうやら、逃げなくてはならない状況なのだと何となくは分かるのだが、体に力が入らない。脳が一生懸命に指令を送っているのに、体が言う事を聞かなかった。
 必死に鼻から息を吸っているのに息がどんどん苦しくなって、呼吸が荒くなる。
 こんな風に頭がくらくらするのは、酔いのせいなのか、空気が足りないせいなのか、それとも楠田のキスが非常に上手いからなのか、裕太にはもう判断がつかなかった。
 はあ、と大きく息を吸い込んで胸を仰がせる。急に呼吸が楽になって初めて、やっと唇が開放されたのだと、裕太は気が付いた。
「これで信じてもらえた? 俺、結構本気なんだけどな」
 楠田の顔には優しげだけれど、どこかタチの悪い色気に満ちた笑顔が浮かんでいる。どこか、蓮川に似ている、と裕太はぼんやりと考えた。
「ね、俺とセックスしてみない?」
 耳元で囁かれて、裕太は、ようやく目が覚めたようにパチパチと目を瞬かせた。
「・・・え?」
「俺と、セックスしてみない? って言ったんだよ」
 もう一度囁かれて、耳たぶを舐められる。慌てて逃げようとして体を後ろに引いたが、残念な事に、裕太の後ろには動かしようも無い壁があり、結局、壁際に追い詰められる羽目になった。
「ダメなの? 俺のこと嫌い?」
「き・・・嫌いも何も、楠田さんの事、俺、良く知らないし」
 必死で覆いかぶさってくる楠田の体を押し返しながら、裕太はしどろもどろに答える。
「じゃ、良く知ってもらうためにセックスしようよ」
 どんどんと追い詰められて、裕太は途方に暮れてしまった。何と断って良いのか、かわして良いのか裕太には全く分からなかった。そもそも、さっきのキスからしても、楠田の方が相当に経験値が上だ。上手に裕太の先へ先へと周り退路を塞いでいく。
 自分一人で切り抜けることが困難だと判断した裕太は必死で、楠田の後ろに眼を向ける。イチコの姿を今になって探したが、カウンターに座っているはずの彼女は、どこにも見当たらなかった。
「ちょ・・・ちょっと待って。俺・・・俺・・・困ります」
 泣きそうになりながらそれでも強く言い返せないのはなぜなのか。
 優しげな表情を浮かべているくせに、楠田にはなぜだか、隙が無い。有無を言わせぬ空気に裕太は気圧されて、頭の中で、どうしよう、どうしよう、と困惑するだけだ。
「こ・・・こんな場所じゃ無理だよ! ほら、周りに人もいるし!」
 咄嗟に言った自分の言葉に、裕太は自分で安堵した。酔っ払い、あせっていたから気が付かなかったが、よくよく考えれば、こんな店の中で、そんな行為に及べるはずが無い。取りあえず、この場を凌げば、その後はさっさと逃げれば良い、と裕太は安直に考えた。自分の言った言葉がいかに迂闊で、ツッコミどころが満載だという事には全く気が付かずに。
「へえ」
 楠田は、裕太を壁際に追い詰めたまま、面白そうに相槌を打つ。
「こんな場所じゃなければいい訳だ。じゃ、裏行こうか?」
「う・・・裏?」
「ここ、そういう店」
「そういう店って?」
 楠田が何を言っているのか分からずに裕太はぽかんとした表情で、楠田を見上げてしまう。その表情を見て、楠田は、楽しくてしょうがないといった風に噴出した。
「ホントに、ユウタは可愛いな。全然スレてないんだね。凄くイイよ」
 笑いながらそう言って、ユウタの頬に手を当てる。ひんやりとした手が、酔いと焦りの為に火照った頬には心地よくて、一瞬だけ裕太は意識を取られてしまった。
 楠田はそのまま優しく手を滑らせて、裕太の髪の流れに沿って髪を梳く。そんな他愛の無い仕草なのに、奇妙な官能の匂いを感じて、裕太は背筋を震わせてしまった。
「ハッテンバって知ってる? 知らないかな。まあ、知らなくても良いけど。この店、裏に連れ込み部屋があって、意気投合してセックスしたくなったカップルが使えるようになってるんだ」
「・・・・え?」
「そこなら二人きりになれるし、ベッドもあるし。そこに行けば良いんだろ?」
 余裕たっぷりの表情で言う楠田に、半ばからかわれているのかもしれないと疑いつつも、裕太は必死でフルフルと首を横に振る。
「ダメ! ダメだよ・・・えっと・・・あ! そう! 蓮川に悪いから!」
 咄嗟に出てきた言葉の阿呆さ加減に、言った途端に落ち込みながら裕太はそれでも逃げを試みる。だが、どう足掻いても楠田のほうが上手なのだろう。子猫の抵抗を微笑ましく見詰めるように、ふ、と鼻で笑うと楠田は、
「良いよ。じゃ、要に聞いて良いって言ったらヤろうよ」
と、とんでもない事を言い出した。
「アラ。それは面白そうね」
 不意に、後ろから女の声がする。
 一体、いつの間に近づいてきたのか、イチコが楠田の真後ろに立って、窮地に立った裕太を面白そうに眺めているのだった。
 イチコは、悪魔。女帝。逆らってはいけない恐ろしい鬼だと、いつもは思っている裕太でも、この時ばかりは、天使か、女神様に見えた。きっと、助け舟を出してくれるだろうと思い、縋るような視線を向ければ、イチコは人の悪い笑みを浮かべて、楠田の体をべりっと裕太から引き剥がした。
 それから、二人の間に割って入る。
「ユウタ、携帯貸して」
 そう言いながら手を差し出されて、裕太は訳も分からずに反射的に携帯を差し出してしまった。
「蓮川んちから、この店までって何分くらい?」
「え? 何で?」
「良いから、聞かれたことに答えなさい」
 ピシャリと撥ね付けられて、裕太は恐る恐る、
「えと・・・多分、電車で30分くらい。車だともう少し早い」
と答える。
「そ。じゃ、15分ね」
「15分って、何が?」
 裕太が首を傾げて尋ねると、イチコは裕太の顔を見詰めたまま、にっこりと笑った。けれども、質問には答えずに、携帯でどこかに電話を掛ける。
 不意に、
「あ、蓮川? アタシだけど」
と、イチコが言ったので裕太は仰天してしまった。更に、イチコは、
「今、ノーマジーンにいるんだけど。楠田とユウタと一緒。それで、楠田がユウタとヤりたいんだって。一応、蓮川に許可を取っておこうかと思ってさ。15分以内にこの店に来なければ、蓮川はオッケーしたんだと見なすから。それじゃ」
と捲くし立て、さっさと電話を切ると、あっという間に電源まで切ってしまった。
 それから、呆然と成り行きを見詰めていた裕太に、
「はい」
と、可愛らしく、わざとらしい笑顔を向けて携帯を返す。
「じゃ、裏行こうか。大丈夫。15分経つまでは入れないから」
 後ろから楠田が裕太の肩に、ポンと手を掛けた。

 ・・・入れないって、ナニを?

 呆けたままそんな阿呆なことを考える。
「嗚呼、大丈夫よ。15分経つまではアタシも同じ部屋にいて、入れないか見張っててあげるから」

 ・・・だから、入れないってナニを?

 考える事を拒否した頭で、無駄にグルグルと裕太は考える。

「じゃ、一緒に裏に行こうか」
 楽しそうに楠田に告げられた言葉は、裕太には死刑宣告のように思えた。



 一体、どうしてこんな状況になってしまったのか。
 前門の虎、後門の狼。
 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。


 だがしかし。


 自分の両脇にいる人間が、決して自分の味方などでは無いということに気が付くのが遅すぎた、経験値不足の迂闊な一宮裕太、二十一歳だった。



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