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お医者様でも草津の湯でもA …………
「それで? 結局喧嘩しちゃったんだー?」
 可愛らしい小さな口を恥ずかしげもなく大きく開けてケラケラと笑っている女性を、蓮川はむくれたような表情で睨みつける。
「笑い事じゃないって。涼子さんのせいでこうなったんだろ?」
 幾ら本気で怒ってみても、蓮川が勝てる相手ではない。見た目の可愛らしさに騙されては痛い目にあう、と蓮川は実経験から十分に理解していた。だから、わざと、拗ねたような表情を演出してやる。
 相手も、そこら辺は分かっているので、それ以上、蓮川を追い詰めるような事は言わない。
「だってさ。要がらしくもなく素の顔で笑ってるじゃない? 珍しいなーと思って。しかも、隣にいた男の子・・・ユウタ君だっけ? メチャメチャ可愛くて色っぽい子なんだもん。からかいたくなっちゃったのよねー」
「裕太は店の人とは違うんだって」
「普通の大学生なんだって? 要が素人相手にしてるってのも結構驚きだったんだけどね。ねー。マジなんでしょー?」
 楽しそうな表情で、涼子は蓮川を下から上目遣いで眺める。その表情が艶めいていて、相変わらず年齢を感じさせない人だと蓮川は思わず苦笑いした。
「ノーコメント」
「まあ、別に良いんだけどね。今度、うちの店にも連れて来てよ。ユウタ君可愛いんだもん。遊んでみたい」
「駄目。涼子さんの店、一志がいるから」
「嗚呼、そうね。一志と要ってびっくりするくらいタイプが被ってるもんね。絶対ユウタ君にちょっかい出すに決まってる」
 そう言いながら、涼子はからかうようにクスクス笑った。
「でも、一志に会わせたくないなんてよっぽどなのねえ。今まで誰と付き合ってたって別に気にしてなかったのにね」
「・・・涼子さん、俺を苛めて楽しい?」
「苛めてなんていないわよ。どっちかっていうと親心で安心したってとこかな? 要って誰と恋愛中でもどこか冷めてて、ホントに好きなのかな、って思う部分があったからさ。やっぱり、それって環境が悪かったのかなーとか、私にも責任があるのかなーとか。ちょっと気にしてたんだよね」
 からかいの色を削ぎ落とした、どこか穏やかな表情で見詰められて、蓮川は思わず口を噤んでしまう。照れ隠しのように、少し乱暴に前髪をかき上げて、それから苦笑いを浮かべた。
「別に、涼子さんには何の責任もないだろ? 悪いのは親父なんだし」
「まあね。でも、結局、要にもあのワッルイオトコの血が流れてるわけだし?」
「・・・そういう事、冗談でも言わないでくれる?」
「ははは。そういう所は相変わらずなわけだ。まあ、そう言うなら早く仲直りしなさいよ? あんな可愛い子泣かせるとばちが当たるんだから」
「だから、元をただせば涼子さんの責任・・・」
 呆れたように蓮川が溜息を吐けば、涼子は、
「そうだっけー?」
 とソラとぼけてみせる。
 暖簾に腕押しの涼子を責めたところで事態は解決しない。そろそろ裕太と連絡でも取ってみるか、と携帯電話を取り出して、蓮川はしばし躊躇した。
 冷たい笑顔で「ただのセフレに嫉妬などしない」と言い切った裕太の言葉が脳裏を過ぎる。付き合い始めてからもう四ヶ月近くが経つというのに、いつまでたっても懐かないネコに蓮川は苛立ちを覚えた。
 四ヶ月の間、一度も、裕太から「好きだ」という言葉を貰った事は無い。その癖、セックスは頻繁にする。慣れれば慣れるほど裕太の体は蓮川に馴染んで、蓮川好みになっていったし、最初の頃に比べると、かなり裕太も奔放で淫乱になった。それは、蓮川に対して気持ちのほうも開きかけているからだと蓮川は信じていたのに、あんな言葉を聞かされては、どうして良いのか分からない。
 一週間ほど無視を決め込んでも、相変わらずのすまし顔で、気にしている風も無い。
 もっと簡単に、自分に夢中にさせられると思っていたのに、蓮川はほとほと手詰まりの状態だった。
 向こうから折れてくるだろうと思って放置しておいたら、どんどん気まずくなってしまい、声を掛けるのも憚られる。電話をして、「何の用?」と冷たく言われたらどうするのか、と考えると発信ボタンが押せなくなった。
 無意識のうちに大きな溜息が漏れる。どうしてあんな厄介な相手に惚れてしまったのかと思ったが、引き返すことも捨てることも出来ない。無様だな、と自嘲的な気分に陥りながら、携帯電話の画面に表示されている、見慣れたナンバーをいつまでも見続ける蓮川だった。



* * *


「それじゃあ、カンパーイ!」
 妙にハイテンションなイチコの号令で、仕方なくグラスを上げる。カチン、カチンとグラスを合わせると、目の前の男と目があって、なぜだか優しく笑いかけられた。その表情が、何となく艶めいて見えて、裕太は少しだけ困ってしまう。蓮川も大概整った顔をしているけど、この目の前の楠田という男も、方向は蓮川と違えど随分と綺麗な顔をしているなと思った。
 もともと、裕太は社交的な方ではない。人見知り、とまでは行かなくとも初対面の人に対しては口数が少なくなってしまう。何となく手持ち無沙汰で水割りに口をつけると、やっぱり、楠田ににっこりと笑いかけられた。
「結構、大人しいんだね、裕太って」
 初対面(実際には初対面ではないらしいが)で、いきなり名前を呼び捨てられ、その馴れ馴れしさに裕太は戸惑ってしまう。視線をウロウロと泳がせながら縋るようにイチコに目をやれば、イチコは気づく風もなく豪快に水割りを空けている。
「あ・・・ごめん。突然名前呼んだりして馴れ馴れしかったかな? でも、俺、苗字知らないんだよ。イチコはいっつも『ユウタ』って言ってるし。嫌だったら苗字呼ぶから教えて?」
 申し訳無さそうに楠田が言うを聞いて、裕太は少しだけ安心する。知らなかったのなら仕方が無い事だし、逆に、馴れ馴れしいと訝しげな目を向けたのを申し訳なく思った。
「あ、えと。苗字は一宮だけど・・・裕太で良いです」
 すこしぎこちなく裕太が答えると、楠田は嬉しそうに笑った。それを見て、裕太の警戒心が緩む。楠田はニコニコと笑ったまま、
「敬語使わなくて良いよ」
と言った。
「え? でも・・・楠田さんって年上じゃないんですか?」
「うん。二つだけ。でも、タメ口でいいって。イチコも平気でタメ口きくし」
「あ、はい。じゃ」
 遠慮がちに頷くと、何が楽しいのか楠田は楽しそうにクスクスと笑った。
「ホントに大人しいね。借りてきた猫って感じ。要と一緒にいる時は、結構ポンポン言ってた気がするけど?」
 突然、蓮川の名前を出され、裕太は思わず口を噤んでしまう。そんな子供っぽい態度をとる裕太を見て、イチコは楽しそうにニヤニヤした。
「蓮川の名前出しちゃ駄目よ。今、喧嘩の真っ最中なんだから」
「イチコ、余計な事言うなよ」
「何よ。ホントの事じゃない。ってことで、楠田、狙い時は今だから」
「あ、そうなんだ。でも大丈夫なわけ? イチコは要とも仲が良いんじゃなかった?」
「別に仲なんて良くないわよ。それに、ちょっと蓮川には腹立ててるから、良いの」
「要、何かしたのかい?」
「お気に入りのネコを泣かされたの。ベッドで啼かせるなら言う事ないんだけどさ。ちょっと灸を据えてやらないと気がすまないの」
「酷いな、俺は当て馬なのか」
「役得でしょ?」
「まあ、そうだけど。当て馬が本命になるってのもアリ?」
「それは楠田次第。アタシは別にどっちでも良いから」
 楠田とイチコが分からない会話を続けているので、手持ち無沙汰になり裕太は自然と水割りに口をつける回数が多くなる。それでなくとも、初対面の楠田がいるだけで何となく居心地が悪く、無意識のうちにグラスに手をやってしまうのに。
 気がつかないうちにアルコールの量が増えていく。
 段々と頭がぼんやりとしてきて、裕太は次第に、無闇やたらとニコニコ笑うようになり始めた。

 裕太はアルコールが増えていくと笑い上戸になり、それを過ぎると泣き上戸になるという案外厄介なタイプなのだ。



 酔っ払って判断力が低下し、緊張感が解けてくると、次第に楠田は楽しい飲み相手だと思えるようになってきた。
 普段はバーテンをしているせいなのか、話し上手だし聞き上手だ。適度に相手を上げてくれるので、裕太も気分は悪くない。そして、よくよく見れば、目の辺りが蓮川に似ているような気がして、益々警戒心が薄れて、裕太にしては珍しく、初対面の人間を相手にベラベラとしゃべっているのだった。
 大学での話をすれば、きちんと相槌を打ちながら興味深げに聞いてくれる。楠田の店に来た様々な客の話を面白おかしく教えてくれる。
 いつの間にか、裕太は鬱屈していた気分も忘れ、楠田との会話を楽しんでいた。イチコは席を外したままカウンターで店のマスターと話しこんでおり、ボックス席の狭い場所には裕太と楠田の二人だけになっている。けれども、酔いの回っている裕太は、そんな事は全く気にしなかった。



「そんなの嘘だよ」
「ホントホント。で、そのお客さんの忘れて行ったヅラをね、誰が渡すかで揉めてさ」
 酔っ払った客がトイレでヅラをはずして忘れて帰ったという嘘の様な話を聞いて、裕太は機嫌よくケラケラと笑い続けている。目元は赤く染まり、瞳もトロンとして危なっかしい雰囲気この上ないのだが、もともとが鈍感で無防備な裕太は自分でそんな事に気がつくはずも無い。
 楠田は、そんな裕太の姿を目を細めてじっと眺めているのだった。
「で、結局どうしたの?」
「んー? たまたま居合わせた別の店のママに頼み込んで、トイレにもう一回連れ込んでもらって渡したんだよ」
「あはは、でも、そのお客さん可哀想だね。もう、楠田さんのお店恥ずかしくて来れないんじゃないの?」
「いや? そんなことも無いみたい。一緒に来てた女の子がね、これがまた珍しいんだけどさ、ハゲ専だったみたいで。上手くいったとかって喜んでた」
「ウッソだー」
「ホントホント。その女の子、ニコラス=ケイジのファンだって言ってたから嘘じゃないって」
 楠田がおどけたように言うと、裕太は楽しそうに声を立てて笑って、涙の浮かんだ眦を擦る。その仕草はどこか幼くてあどけない。楠田は何気なく、すっと裕太の膝に手を置いたが、裕太は全く気にした風もなく、更に水割りに手を伸ばそうとした。
「そろそろ別の飲む?」
「あ? えと・・・そうだなあ。楠田さんは?」
「カクテルとか頼もうか?」
「あ、うん。甘いの飲みたい」
 無意識に甘えたように裕太が強請れば、楠田は慣れた態度で注文してくれた。運ばれてきたカクテルに、裕太は不思議そうな顔をする。
「コレ何?」
「知らない? アレキサンダーっていうの。生クリーム使ってるからちょっと色は悪いけど飲みやすいよ」
「あ、そっか。楠田さん本職だから詳しいんだね」
「うん。今度、俺の店にもおいでよ。何でも作ってあげる」
「ありがと」
 はにかみながら裕太はそれに口をつける。
「あ、甘くて飲みやすい」
「だろ?」
「楠田さんのは?」
「俺のは普通のソルティドッグ。でも、この店、味がイマイチだね。俺のがうまいよ」
 あっさりと言う楠田に、裕太は素直に尊敬の眼差しを向ける。この容姿で、カウンターに立ち、シェイカーを振っている姿は格好良いだろうな、と単純に思った。
「何か、楠田さんってモテそう」
「ははは、どうしたの? 急に。そうでもないよ。今なんて一人身で寂しいしね」
「え? 嘘。彼女いないの?」
 本気で驚いたように裕太が尋ねると、楠田は苦笑いを浮かべた。
「ホント。ってか、俺、ゲイだから彼女はいたことないんだけどね」
 さらりと言われて、裕太は思わず目を見開いてしまう。初対面の裕太に、そんな重たい告白をして大丈夫なのかと不安げに見上げれば、楠田は優しそうな顔で見詰め返してくるだけだ。
「ユウタは要と付き合ってるんだよね?」
 穏やかな視線を向けたまま、楠田に尋ねられ、裕太は思わず口をつぐんで俯いてしまった。酔っているせいなのか、感情が上手くコントロールできない。不意に、この一週間の蓮川の冷たい態度を思い出し、思わず涙ぐんでしまった。
「・・・付き合ってるわけじゃないよ」
 落ち込んだ声のまま答えると、楠田が裕太の頤に手を掛け、やんわりと顔を上げさせた。
「何か悩みでもある? 俺なら、ちょっとは相談相手になれると思うけど?」
 これ以上は無い、というほど優しい口調で言われて、裕太は思わずホロリとなってしまった。弱っている時に、人に優しくされると、大概の人間は転がされてしまうものだ。
「・・・良く分かんない・・・蓮川は、俺のことセフレだって言ってるから」
「そうなの? でも裕太はそう思ってないわけ?」
「俺は・・・俺は、あんまり遊びとか上手じゃないし。割り切るのも下手だから」
 自分で言いながら、裕太は惨めになってくる。自分だけが本気で蓮川にのめりこんでいて、遊ばれている。それなのに、蓮川を嫌いになれない。馬鹿みたいに、あの真っ直ぐな姿勢の良い背中や、秀麗なストイックな顔や、変に艶っぽい泣きボクロが好きなのだ。

 堪えきれずに、涙が裕太の頬を伝う。
 慌てて拭ったけれど間に合わず、楠田に涙を見られてしまった。
 楠田はひどく真剣な表情で裕太をじっと見詰めている。顎を取られたままその真剣な顔をぼんやりと眺めていると、それが段々と近づいて来て、唇が重なった。
 裕太は呆然としたまま楠田の長い腕に抱きしめられている。



 重なった唇は、塩の味と涙の味が混ざった潮の香りがした。



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